小説 op.4-01《永遠、死、自由 Ⅲ》⑤…まだ誰も見たことのない風景を、見ようよ。
穢死丸の切り落とされた頭部が覚醒したまま地表に転がった。罅割れたアスファルトが血に染まった。声帯を失った穢死丸が、叫んでいた。声はなかった。それは悲鳴だった。失心しそうになりながら失心しきれずに、穢死丸の小さな頭部の中が、いま、無際限に広大な、苦痛と絶叫の音響空間に他ならないことは、誰にも見て取れた。瑞樹が失禁しながら背後で言っていた。「ねぇ、あれ、だれ?」振り向いたわたしに、身をよじってわたしから少しでも遠くに逃れようとしたが、「殺さないでください」呟いた。なんどもその細かい呟きは無数に彼女の唇に連なった。
席を立って泰隆がいなくなった瞬間に、…結婚するの。千秋が言った。「いつ?」
「来年。ん、と。…ね、3月。」言って笑った。道玄坂の映画館の上の喫茶店の中だった。窓越しに並木が幹をさらし、冬、雪が降った白の色彩が都市をうずめていた。わたしは笑い乍ら彼女を見ていた。
あらく息遣い、唾液交じりの血の小さな塊りを、罅割れたコンクリートに吐き捨てて、わたしを振り向いたハナエ=龍は体をこまかく痙攣させていた。彼女の体中の肌が汗ばんでいることに気づいていた。「どうするの?」
「なにを?」わたしは彼女の声に答えた。「誰が?」上目越しに、なじるようなまなざしを向けたハナエ=龍の。…ねぇ。「わたしが死んだら、どうするの?」自分を軽蔑したような笑みを浮かべて、唇の血を舐めた。「ほかに、女、作る?」…知らないよ。答えようとした。…ねぇ、ハナエ=龍が言い、彼女はわたしに答える隙を与えようとはしなかった。「どうするの?」…ねぇ、いつか、「かわいい子かな?」わたしが死んだら、どうする?「綺麗な子?」燃やしちゃう?「どんな子が好き?」…ねぇ、わたしが「おとなしい子?」死んだら、一緒に死んでよ。ハナエ=龍は言って笑った。「だめ。死んでほしくない。」しあわせになってね。わたしは彼女になにか言う自由を与えられないままに、彼女の背中を撫ぜた。汗ばんだそれを。
土砂降りの雨の中で。
「結婚したら、働くよ」泰隆が言った。「自信ないけど」
「何の?」
「ずっと、…」泰隆の声を聞きながら、彼のひざの上で寝込んだ千秋の寝顔を見た。「知恵遅れだったから。16歳くらいまで。…10歳くらいまで、言葉もしゃべれなかった。まともな記憶なんかない。あるけど、自分でもわかる。言葉も何もない人格が捉えたゆがんだ風景。…ゆがんだ?…わかんないな。記憶してるのは、言葉を使ってもう一度捉えなおした、ゆがんだ風景のようにはゆがんでいない風景。…ほんとうに見たのは、それとはまた違うゆがみ方をした風景。…覚えてるけど、記憶してないんだ。」泰隆は大学を出た後も働いていなかった。「…自信がない。ほんとに覚えてるのかな?12歳のとき。あ、これかって思った。」ずっと、飲食店でアルバイトをしていた。「言葉にさわった気がした。本当に。物として。はじめて言葉がわかった。それまで、言葉をしゃべったり、しゃべられるのがいやだった。音声なら言いの。そっちのほうがよくわかる。怒ったときのあーとか、悲しいときのうーとか、楽しいときのはーとか、なんとか、…ね?そっちのほうがわかりやすい。音声が言葉になった瞬間に、それらは急に不可解で意味不明な暗号になる。解き明かさなきゃいけない暗号であることを見せつけながら、その言葉は、誰にもわかることが当たり前だって顔、してる。理解できなかった。言葉そのものも、言葉を話すということも。なぜ、こんなにも明るくてわかりやすい世界を、こんなにも暗くて困難な世界に変えてしまわなければわからないのか、おれにはわからなかった。けど、十二歳、…なんか、明確なきっかけがあったわけじゃないけど、言葉に触れた。あ、そう言うことだったのかって。でも、…」鼻で立てた笑い声が耳に触れる。「わかる?…ずっと、お母さん、って言う言葉を教わることさえ拒否してる、おれの感じ。ずっと、泣いてるんだよ。その言葉の感じが不愉快で仕方なくて。あー、って。あーって言えばいいのに、…って。あー。うーー。うあー。はっ。あーは、ああー。あー…」
「努力してるの」瑞樹がわたしの*器から口を離して言った。
「なんの?」廃墟になったビルの上層階に忍び込んで、傾いた、崩れ掛けの夕日を見た。
「佐藤さんが女の人とできるように」
「どうして」
「だって、みじめでしょう?」わたしは声を立てて笑った。黄昏の灼けた空が、赤から黄色にいたる凄惨なグラデーションを描いて、不意に、取り残されたままの空半面のくらんだ青さに唐突な消滅をみせた、その光に差された彼女の半身の赤らんだ反射にまばたたく。東京市街区は、へし折れかかったビルの無数の廃墟を連ならせて、ただ、静かだった。
「だれが?」わたしだけがたてた笑い声を、瑞樹は耳の奥で聞いていた。上目遣いに私を見上げ、ときに、頬の産毛で*器にふれた。「わたしを強姦しようとして、あのとき、でも、できなかったんですよ。あのひと」…ね?耳元に唇を触れて、彼女の歯がわたしの耳たぶをかるく咬んだ。「ふにゃって。笑っちゃった。あのとき。」髪の毛の匂いがする。「みじめじゃん?…じゃない?」
無数の、彼女の髪の毛の匂いが重く束なった匂いが。「あなた自身が惨めなんじゃないんですか?」
「あんな穢のおじさんに挿*されなかったことが?まさか。あなたは勃つじゃない。わたしで」瑞樹の笑い声を聞く。「あなたの穢いお**ちんは。違うの?」傍らの、床スラグを分断しそう走った罅割れの向こうに穢死丸が、「…わたし、知ってるよ。」砕けたコンクリート壁の残骸の上で燃えていた。冬だった。その火の気がわたしたちを温めた。
千秋が会社を辞めたとき、「…でも。」彼女は言った。「このままじゃだめになっちゃう気がする。」
「何が?」
「自分も。泰隆も」
「なんで?」
「泰隆のせい。…だから、わたしのせい。」見上げた眼差しにわたしを捉えて、「ぜんぶ、わたしのせい。」言った。
太刀を貸して、とハナエ=龍が言ったとき、彼女が何をするのかには気づいていた。彼女は殺しに行くのだった。自分を強姦した男たちを。海岸沿いの静かな廃墟の町で、彼らを探し出すのは容易だった。わたしは彼女を見つめた。眼差しには憎しみさえ感じられなかった。それは彼女が既に下した決断に過ぎなかった。奪うようにしてわたしからたちを奪って、彼女は東のほうに歩いていった。道路の真ん中のアスファルトを割った若い樹木の陰を通り抜けて。彼女が妊娠したかもしれない可能性について考えた。
「何匹殺ったの?」瑞樹が言った。いつだったか。「ねぇ、何匹?」
「何を?」
「あなた自身」
「…穢死丸?」
「何匹?」
「知らない?」
「あなたのパパとママは?」
「パパ?…」
「…ね、…」
「ママ?…」
「ねぇ、どこから生まれたの?穢死丸の」
「なに?」
「頭?」
「しらない」
「右手?」
「わからないよ」
「首?」
「…さぁ」
「おしり?」
「忘れた。」
「何匹生んだ?」
「何を?」
「決まってる」
「穢死丸?」
「…決まってるじゃん」
「知らないよ。ぜんぜん、」
「百匹?」
「覚えてない。」
「千匹?」
「わからない」
「一万?」
「記憶なんか、もう」
「痛すぎて、」
「なくした。ほとんど」
「吐きそう」
「痛い?」
「吐きそう」崩れたコンクリートの瓦礫の山の中から出ていたのは、腰から上の半分だけだった。穢死丸の爆破が崩壊させた低層ビルの、スラグの下敷きになった瑞樹は、何度も失心を繰り返しながら息を吹き返した。瓦礫の外側に血は一滴も出ていなかった。脚から下の内側のほうが、砕け、潰れて、彼女の血に染まっておぼれてさえることを、彼女の真っ青な顔色が教えた。「…我慢しな。」
「する。」
「…ごめん。なにもできない。」
「我慢する。」
「だいじょうぶ?」
「吐いたら死ぬ。」
「…そう」
「だから。でも」
「だいじょうぶ?」
「吐きそう」
「がんばれ」
「ねぇ、…」
「無理?」
「…ね。」死にたくない、と瑞樹が言った。なにか、言葉をかけようとしたわたしが、言葉を思いつく前に、わたしは、瑞樹が死んでいるのに気づいた。あっけなさ過ぎる気がした。穢死丸の右腕が、再生し乍らアスファルトを這っていた。瑞樹の頭がわたしのひざまづいた足に触れる寸前のすれすれに力なく放置されていた。開かれたままの眼は、最早完全に眼差しを失っていた。乱れた髪の毛のアスファルト上の散乱を、踏まないように気をつけて立って、彼女のためだけにせめて涙くらいは流してやりたい気がした。周辺が炎を散乱させ、無数の煙が立っていた。向こうの、巨大なコンクリート片の塊りの下敷きになって、首から上だけ出している穢死丸に近づいた。口を開け、舌を出したまま、途切れ途切れの意識の中で何かを言っていた。声にはなりようがなかった。肺は失われていた。首から下が、再生を繰り返し乍らその都度、その瞬間につぶされているのだった。この、巨大なコンクリート片のどうしようもない重量に。このまま放置したら、と、わたしは思った。どうなるのだろう?このままずっと、ここで、この穢死丸は苦痛を繰り返し続けるのだろうか?…永遠に?
してらばいのい…そんな音声が聞こえて、傍ら、駅のベンチに座った泰隆を見た。「なに?」
「え?」言って、泰隆は微笑んだまま繰り返した。「こんな風に、永遠にしてられたらいいのに」彼の方で眠り込んでいた千秋が寝息を立てていた。しずかな寝息だった。
…家畜みたい。ハナエ=龍が口の中で呟いた。《新東京共同体》の所属民たち。すれ違うたびに微笑んで挨拶をくれた。礼儀正しく去勢されたような笑顔だ、とハナエ=龍は形容した。《せめて、人間らしく。》それが彼らのスローガンだった。
佐藤の妻が隔離されている部屋からの腐敗臭が、もはや、彼の居住家屋のいたるところに漏れ出していた。わたしが略奪してきたスナック菓子を口に入れ乍ら、「何人、死にました?」言った。
「…何が?ですか?」
「これを手に入れるために、何人、殺したんですか?…あなたは。」独り語散るような佐藤の言葉は、わたしに答えを期待してさえいなかったかもしれない。「だれも」笑い乍らわたしが言った。佐藤はその声を聞いた。「安心していいですよ」
「…そう」
「一人も」侵入したデパートの跡地で、腐敗臭にまみれた暗闇の中から飛び出してきた中年の女が左腕を脱臼しただけだった。「未来も何も、見えないんですよね。」佐藤は言った。「…本当に」
「何が?…」
「ぜんぶ、片っ端から、ぜんぶ。綺麗なくらいに」
「…誰が?」
「みんな。自分も、なにも、かも」佐藤はわたしの耳元に口をつけるようにして、「もう、歳だから。わたしは」早口にささやきかけた「未来なんて、」たたみかけるように。「ないんですわたしにはけどそれだけじゃないんですこどもたちとかなんだとかそういう人類全体の未来とかそういうぜんぶ全部がなくなってけっきょく自分だけだったらべつにいいんですもう未来ありません歳ですからけど人類、ねぇ?…もう、本当に、人類なくなって滅びて?いなくなるっていう未来?何もないんですね。そういう何もなさが…何なんですか?」佐藤は最早、声を立てて笑って、それが彼の鼻の先で小さく響いた。「何なんでしょう?」
「悲しいですか?」振り向いていったわたしの言葉に、佐藤を首を振った。「悲しい?」
「…くは、ないですね。悲しくは。」
「さびしい?」微笑みながら、「…しぃ…くも。」コーヒーを淹れようとする右の指先に「くやしい?」傷が「…ぃい…くも、…」あった。「自分がいなくなった先のことなんて、興味ないんです。人類が滅びた先の地球なんて、興味ないんです。でも、自分が死んだ後のことには興味があるんです。例えば、あなたが、どうやって生きていくのか、瑞樹さんが、たとえば、わたしをどんな風に埋葬するのか。あなたや瑞樹さんが泣いてくれるのか?あるいは、わたしを忘れた後、どんな生活をするんだろう?自分がいなくなった先のことなんて興味ないのに、ですよ。…ということは、自分の範疇って、ほんとうに人類っていうことなんですか?」佐藤が肩で笑った。湯が少しこぼれた。「わたしにとって、未来って、いったい、誰のどんな時間のことまでを言うんだろうって」湯気が立つのを見る。「だいたい、言葉で言う人類って何ですか?人類種の総体?会ったこともないのに。」
ふいに、「日本人ってさ、」振り向いた泰隆が言った。…なんであんなに家畜みたいな笑い方するんだろ?わたしは声を立てて笑ったが、「いつでも、どこでも。日本人同士で笑いかけ合うとき。」わたしは幼さを残した彼の横顔を見たが、長く伸ばされたその柔らかい髪の毛が陽に斜めに差されていた。泰隆が就職したのはアルバイトをしていた飲食店だった。「結婚、のびちゃった。」
「なんで?」うーん、と、鼻の奥でだけ呟いた泰隆に、両親?言うと、それもある。泰隆は言った。最初の出産のとき、すごく反対されてたしね。それ、押し切っちゃったし。…でも、もう、逃げないよ。泰隆が言った。逃げられない。…そう、思うようにした。
ハナエ=龍が妊娠したのは彼らのせいだった。雨が降った日に彼女を数人がかりで強姦した彼ら。…ねぇ、見上げて、わたしに言った。「パパになってみる?」
「パパ?」
「パパになったことある?」ないよ、とわたしは言って笑い、わたしがすでに彼女に同意していことは、わたしたち二人とも気付いていた。
千秋が二度目の妊娠を告げたとき、泰隆は二週間音信普通になった。
瑞樹は佐藤に自分を指先一本さえふれさせなかった。あなたは穢いから、と言った。瑞樹がテーブルの上に座り込んで、*を開き、佐藤に自分のそこを見せた。彼はひざまづくように座らせられていた。瑞樹が、指先で開く。佐藤はもはや彼女の虐待には慣れきっていた。表情さえ変えなかった。「見える?」瑞樹が言った。その眼差しが、正面のわたしだけを見ていた。もとカフェだった建物の廃墟の中だった。全面罅割れて崩壊しかかったガラスから罅割れた光が斜めに侵入していた。佐藤は何も言わなかった。瑞樹につかまれた頭がすれすれに接近させられ、質問を繰り返した。「見える?」ずり上げられた黒いパンツが佐藤の禿げ上がった頭に触れていた。
純白の絹地にあざやかな紫の花を斜めに描かせたアオヤイの下から、ハナエ=龍の素肌の刺青の色彩と形態が透けた。逆光の中に、彼女は美しい影を作った。わたしは振り向いて、彼女に北浦たちを呼んでくるように言った。渋谷の陸の上の公園跡地の近くだった。野生の樹木が密集した、その樹木の幹に穢死丸は二本の太刀によって貼り付けられ、撥ねられた首が足元で失心したまま再生しはじめていた。「あいつらに、渡しちゃうの?」
「ほしがってるんだろう?」わたしは言った。「穢死丸を。」
「…切り刻むために。」ハナエ=龍の軽蔑的な音調の発話を背後に聞きながら、彼女の軽蔑の意味を探った。
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