小説 op.4-02《愛する人②》…きみの革命、僕の涙。

この小説では、最初に、恋愛小説らしい、恋愛小説っぽいスジは追わない、と、書いたものの、

それ以外のスジはぐちゃぐちゃな入り乱れています。

右翼青年のクーデターだとか、切腹だとか、進化だとか、ですね。

いつもちゃんと、小説の最後まで頭の中で考えてから書き始めるのですが、

いつも、その通りに書けたこととがありません。

《理沙》の、内面含めたボディ・デザイン、(…タトゥーなど)結構、好みなのですが、

最初からこんな人物だったわけではありません。


ともかく、《愛する》と言うことの意味を、考えようと想った小説です。

それは感情なのか、概念なのか。

なにをすれば、《愛》なのか?


実は、最も難しい経験だと想うんですね。

《愛する》というのは。その、難解さ、悩ましさにおいて。…


2018.05.17 Seno-Lê Ma








最後だよ、お前。


理沙の店に紹介するときにわたしにそう言って、駄目だったらお前、人間やめろ、笑い乍ら言う久雄に、…いや。まじだからな。これ。なんども、声を立てて笑ったのは何故なのか? 華奢な、壊れそうに痩せた身体の、背の高い久雄。体重だけは重い。骨が太いから。サウナでそう言った。俺な、骨、が、さ、やがて、囲っていた女に刺されて、病院にもいかずに井の頭公園に辿り着き、池の水を飲もうとする久雄。そのとき、まだその女とは出会ってはいない。イタリア人の父親と、日本人の母親が産んだ久美子と言う名の女とは。いわゆる《危険ドラッグ》のせいだった。その処方と名前は知らない。日陰物じみた、小作りな、陰湿な顔をした表情の暗いかわいい女。半身不随になった久雄を見舞ったのは彼が舎弟だと呼んだ原田健史だけだった。理沙の店の役つきの若い男だった。二十四、五歳の。ボーイッシュな女のこのようにかわいい男。理沙に群がる男たち。理沙は美しかった。…いやぁ。健史が言った。なんか、穢いでしょ、と。…存在が。理沙ちゃんは。笑って。肩幅でかいし。彼女に親しまれた少数の男たちだけが彼女の秘密を知っていた。なんか、臭そうだしさ、…ね?その性別の。…いろんなところが、さ。隠されていたわけではない。説明が面倒くさいからだ。すべての人間に説明して回らなければならない必然性などなかった。彼らは、にも拘らず、彼女をただ、わたしたちは?…女として求めていたはずだった。身体は事実、女としてわたしたちの視覚を支配したのだから。ときに、想起された錯覚感にとまどうこともいつかは忘れられ、彼らは、ときに体を許されさえし乍ら、わたしにも、理沙は、彼らにも、女の身体を与えた。自身が愛した男たちへのご褒美のようなものとして。わたしたちと自分自身へさえもの軽蔑と哀れみさえ含んだ、だらしなくしなだれかかってくるようなやさしい眼差しのうちに。彼らを喜ばせるためにあげられる彼女の声を、彼らは耳にする。わたしは。その美しい身体に、わたしたちは、その体温にまみれながら。はるかに自分以外にその体をさえ与えたことをなじられ乍ら。何でよ?、と、その、はるかの甲高い早口のソプラノは、なんどもはるかは理沙につめり、彼女は、わたしとの《同性愛》を打ち明けられて、その関係のだらしない継続が、はるかの心に暗く想起されるたびに。

なんでよ、と、なんで? …ね。男なんか、…ねぇ? なんで、他の人なんか抱けるの? …なんで? 理沙が自分のものであるばかりではないと言う現実が、はるかに焦燥を与え、レズのはるかにとっても理沙は錯覚の対象だったに過ぎない。はるかはだれよりも理沙を冒涜していた。理沙に正妻、と、戯れに呼ばれながら、レズビアンに過ぎなかったはるかは。










はるかの愛したのは女の理沙だった。そして、彼女が《おなべ》であることも、はるかは知っていた。理沙にとって、はるかという女への欲望は、何の倒錯性も無い恋愛感情にすぎなかったのだった。わたしははるかを嫉妬しなかった。はるかという女個人に対する、かすかな苛立ちを感じただけだ。その存在への、執拗な。哀れみをしかそそらない、自分が愛玩物に過ぎないことに開き直られた、みじめったらしいその存在。愛して、愛して、とつぶやく。愛さないと、死んじゃうよ。…小さな、少しだけ太ったかわいい女。日陰でかわいく腐ったような女。彼女のような陰惨な女をこそ愛してしまう男がいることは知っている。それはわたしではない。弓削はるな。それは本名だった。理沙の高校のときの一年後輩だった。憧れの先輩だった、とはるかは言った。わたしが知りえない、まだわたしに触れられていなかった彼女に、自分が既に触れていた事実を《みんな憧れててさ》これ見よがしに誇って、あのときが一番綺麗だった、といい、マジで? いまは? 笑い乍ら、その、からかいの声を立てた《だれも近寄れないくらいにさ、でも》理沙に、ひざまづくようにすがって、違うの。違うから。そういうんじゃないから。何が?《すっげぇ優しいからさ》何が違うの? 綺麗じゃん。理沙、やばいもん。《理沙って》なんで? なんでそんなに綺麗でいられんの?…って、いっつもおもうの? ね、やばくない? 絵を描く。きれいくて。綺麗すぎてさ、やばいから。はるなの書いた絵は《覚えてる? 海行ったじゃん。悠美とかと》理沙の部屋に飾られた。二枚だけ。神楽坂の瀟洒な建築。《覚えてる?》白い壁面。なんで? っておもう。いっつも。宇宙の絵。宇宙ってさ、意識体なの。なんでこんなにかわいい人、いきてられんのって。こわいもん。青い色彩の見苦しいグラデーションの中の黄色い光の無数の点在。《覚えてる?》なんか。きれーすぎてこわいもん。宇宙の絵。見上げられた空に、星さえ見えはしないのに。東京において見上げられたそこには。《行ったじゃん、…ね。》地上の光がやわらかい渦になって、大気圏の上方をその黒い色彩を穢そうとするかのように、それらは照射された。《…海。》久雄の連れの二十五歳の一樹が腹を切ったとき、それはその八月の終わりだった。馬鹿な右翼の林一樹。《死ぬぜ、俺。》LINE の通話の向こうで《なんで?》知っていた。彼が《これから。腹、切るわ》もはやわたしの声など聞いてはいないことなど《どこで?》刈り上げられた美しい髪の毛《綺麗に、ぐさってさ》真っ黒い、漆黒の《おまえ、いま、どこ?》一樹のその《見せてやるよ。まじの死に方》なぜ、声を聞かないの? 俺の《まじで?》声を? 耳元で、ずっと《てか、俺自身に見せてやる》鳴っていたこの声を?《なんでだよ》お前は?《俺自身にさ》死。いくつかの。《酔っ払ってんの? お前、》警察から逃走し乍ら、《酔っ払ってんの?》彼らばかりではない。新宿のやくざたちだって一樹を追っていた。未来のある男。無駄死にさせるには惜しい男。なぜ? かれらが自分たちのために無駄死にさせるには有為な男。たとえば抗争の銃弾を打ち込まされるために。誰かを時に本気で射殺させるときには。タクシーを止めて、チップだと言って手持ちの金を全部わたした。投げ捨てるように。それは運転手に深い恐怖感を与えた。一瞬だけ。彼の日常が不意に突破されて仕舞う瞬間がいま、目の前に突きつけられたのかもしれない予感に。なぜかののしるようなドライバーの声をタクシーを出た一樹が背後に聞いたとき、走って、一樹は明治神宮の中に入って行った。時間は無い。ここでやるしかなかった。靖国? …いや、と、他人の墓に興味は無い。皇居? 誰だ? あの老いぼれ。…海辺ならなお良かった。そこまで行ける自信は無かった。すぐ背後に追っ手が迫っているわけではない。彼らはまだどこかで彼を探しているに過ぎない。クーデターは失敗した。誰も殺されなかった。これから彼自身に殺される自分自身以外には。巨大な樹木の連なり。ここには神様はいない。そう誰かが言った。あるいは、神様などいたためしなど無い。祭られた神々。人間ごときに祭られてしまうような、家畜のような神々に神性はない。一樹はあせっていた。彼自身が彼自身に刃物をつきたてるその瞬間の到来が一樹を駆り、焦らせ続けた。皮膚の下に冷や汗さえ感じた。もはや、自死を準備することは彼自身にとって、そのときの到来の遅延をだけ意味していた。遅すぎる、と思った。なぜ、未だなのか? いまではないのか? なぜ、まだ生きているのか? この、穢らしい肉体を抱えて。穢らしい肉体の生命を維持し。肉体以外の何ものも信じたくはなかったにもかかわらず。


肉体。


その無慈悲なまでの存在。生まれるために死ぬのか? 死ぬために生まれるのか? 死。肉体の生以外のすべての可能性をは、既に当然に否定されていながらも? 樹木の間をはいって、堀池の汀に。脱ぎ去られた衣服の下の身体は無駄が無く、美しい。夜の光が、それに鈍い色彩を与えたに違いない。一樹は自分の手が震えているのに気付く。弱者のそれ、卑怯者のそれではない。溢れかえった力と、歓喜のそれ。駆り立てる。もっと早く。今すぐに。いま、それそのもよりも早く。近くへ、いまよりさらに近い、通り過ぎてしまうほどのいまに。夏の大気。それらの温度が彼の身体を汗ばませていた。音は遠くのほうからさえ聞こえては来ない。もはや、聞かれるべき音など無い。胡坐を組んで、息を整え、もっと。もっと早く。呼吸は整えられて、意識は研ぎ澄まされていが、早く。もっと。もはや、蝶の羽音さえもが頭の中に大音響で鳴るに違いない。早く、待て。もっと、いま、待て、近くへ!現在そのものよりも早く、近く、待て。澄み切らされた息の中に、最早聞き取られてはいない音響の巨大な渦巻く塊りが、待て。耳を聾する瞬間にまで高まる瞬間を。時の到来を。みる。最早その眼差しがなにものをも捉えない、透明な、その、聞く。皇国万歳、と叫んだときには短刀はすでに彼の腹に突き立てられていた。筋肉が限界を超えて引き締められて、筋を形成した細胞そのものが過剰な力にわなないていた。血が噴き出しているのは知っていた。肉体は、苦痛そのものだった。痛みは最初の一瞬に過ぎない。神経系のすべては麻痺し、破綻し、焼きつき、それらは最早破棄され、腐った肉塊に過ぎない。純粋な、澄み切って、ひたすらに狂った苦痛だけが、いま、内側からすべてをさいなんだ。残酷、悲惨、絶望そのものが、彼を内側から祝福した。美しい、と呟く隙すらあたえない、絶望的な美、そのものは、認識されていた、既に、死んだ、と。絶対的な強度で。意識のすべてを焼ききりながら。溢れていた。涙が。肉体は破綻していた。極度の痙攣が、刃先をぎざぎざにえぐらせながら、腕は腹を切ってく。張り詰められた筋肉それ自体に阻害されながら。張り詰めた極限の筋肉が、張り詰めた極限の筋肉を断ち切る。その凄まじい困難が、…死。気付かれなかったある瞬間に、彼は既に死でいる。自分の血の夥しい奔流と壊されて溢れた内臓の臭気に顔を突っ込んで。《皇国及琉球解放会》のクーデター未遂に連座した有志十二名のうち、花田英俊、白田貢、川村直人、原田優輝の四名は本懐を遂げた。各警察機関によって拘束された六名、田村惣一、木田悠、内田直哉、加賀健二、真砂雄太、渡辺春人のうち、加賀健二、真砂雄太の二名はその後自殺している。拘留中の吊死。他二名、村田要、渡部翔の所在は不明で、逃亡を続けているのか、自死して果てたのかは定かではない。












…なんか、悲しいんだよね、理沙が言い、わたしに触れようとした唇を、なんか

「悲しいんだよね」そのたどりつくべき

「…なんか、」唇のすれすれに停滞させたまま、

「なにが?」その息がかかったのをわたしの唇が知覚する。あまりの距離の接近が

「なんで?」、視界から正確な形象を奪ったまま、

「悲しい、…じゃん。…ね。」何かを、正確に見出したことなど「なんか、悲しい」あったのだろうか?

理沙の、美しいその「痛い。お前のさ、」、わたしの、この、目は、何かを、正確に?「そばにいると」その、そのままに。

この世界の中に「なんか、」生み出されたこれらの有機物は「痛い」、それら自身に他ならなかったこの世界を?

この世界のさなかで?

何を見たの?

君の目は、その眼差しは、「…何を」見たの?

その目で、なにを「…ねぇ。…ね、見たの?」お前は?

「…空。」触れられないままに「何の?」唇が吐く理沙の「青空」呼吸がただ「どこの?」触れた。わたしの「いつだったけ?…んー、ね…。十二歳くらい?」

唇に、それは触れて「どんな?」わたしは受け入れようとした、「親父に殴られて、…何でだっただろ?」

その感触を。その、それを、「いつの?」追いかけるがそれらは「泣き叫んでたよ。俺。」すでに失われて「どこで?」触れられもしなかった「悔しくって。つらくって?」それらの記憶に

「誰と?」、触れた。

見つめていた「何が? 何が、つらくて?」その眼差しを見つめ「誰の?」それが「何が? …ねぇ、」見つめるのに「泣きじゃくってたよ。」任せたまま。

見た。「今は?」理沙はわたしを見、「見上げて。空。」言葉は聞かれた「なんで?」耳のどかで、すぐ近くの、その「不意に、」不確かな「見上げたら。」記憶を追いかけながら「いつの?」唇が、失われた「綺麗だったかな?

…青かった。

なんか。」呼吸の接触をふたたび「いまも?」探していた。いま「春か? …まだ寒かった。」見つめられながら、その「何が?」瞳孔の震え。「聞いて。もっと。」と、「…ね、」理沙が、「聞いて、

おれに。…ね。もっと。

聞いて。言い尽くさせて。

何もかも、…で、ね。

自分が思ってもいないことも。

ん、知らないことさえも。…壊して。

何もかも。…好きだよ。」言って、理沙は、窓の外に鮮やかな空の色彩が、ほんの数時間前まであったのは知っていた。夜の暗さが襲ってくる前には。記憶され、ふたたび想起されたその色彩の記憶を、理沙は愛した。わたしを? 愛する理沙は、わたしを愛した。わたしが愛した理沙は、愛し、いつ、どこで。どうやって? わたしの指先がその唇に触れようとするのを回避して、小さく声を立てて笑ったまま、何も言わないままに、停滞したままの指先に唇を触れた理沙は、わたしを愛する。《すき?》その眼差しと、その接触のうちに、愛しながら、愛するものはその愛するものを愛する。ふれられた触感の記憶が、皮膚の上に、その離された後にまで持続して、声さえ立てないままに。一樹を始めて紹介した久雄は、有望株、と言って笑った。《すき?》美しい男。甘ったれたような美しさをその顔に曝して、にも拘らず、そのたたずまいは乱れの無い身体の機敏な動きに裏切られつづけた。笑いもしない顔がなぜか、《…俺のこと、》一樹がいま、心地よくわたしを眼差しに捉えていることを暗示した。張り詰めたほどの《すき?》無表情さで。年上の男のくせに、何の年齢的な差異も感じさせなかった。誰に対してもそうだった。沖縄生まれの《なに?》一樹は、大学に通っていた。修士は終わって、博士課程だった。修士論文は《すきってなに?》アウグスティヌスで書いたといっていた。裏切られたよ、《嘘言わないで》といって笑った。理沙には。彼女が《たとえ、》男だということを知ったとき、一樹はすぐに《嘘にまみれたときでも。》それを受け入れた。一瞬の迷いさえなく。理沙に指一本触れようともしなかったが、その感情はなんだったのか。愛といわれるべきそれだったのか、友情に近い共感だったのか。渋谷のクラブで、一樹は言った。錠剤を差し出しながら、革命って興味ある? お前。音響と光。わたしは知っていた。久雄がすでに宣伝して回っていた。派手に。極彩色の派手はでしさで。一樹主宰の右翼団体の実態を。なにを宣伝してまわるわけでもなく、ただただ身体の訓練だけに徹底した彼らの、禁欲的な、久雄いわく《修行活動》を。《すき?》誰もが知っていた過剰な着服が明るみに暴露された木村が、風間に呼び出された久雄の事務所で、久雄たちに《うそいわないで》リンチを食らったときに、「秘蔵っ子」の一樹はソファに座ったまま何も言わなかった。小さく狭い歌舞伎町の事務所は、六人の男たちで、《…さわって》いきぐるしいほどに、木村はひざまづかせられ乍ら、それでも自分の非はかたくなに認めないのだが、次の日、《どこに?》言った。あんなの単なる脅迫じゃん? わたしと顔をあわせた瞬間に、大袈裟に不快感のきわまった表情をさらして。あいつら、まじ《どこがいい?》、訴えてやろうかなって。…だろ? 靴を舐めなければならないほどの目の前に《どこ?》接近した久雄の靴の革の臭いに向かって、木村は、やってないです、いえ。…ません。繰り返し続けたが、《さわって》いじけてんのか? おまえ。言いながら頭を踏みつけた久雄の靴底に、木村は顔を蹴り上げられ、息を詰めてのけぞり乍ら《どこでも、》、チキンだね、次の日理沙は言ったものだった。やっちゃえば良かったのに。木村に。…やれないから。木村は笑う。いや、マジで、《どこがすき?》本職はさすがにやれないからね。俺は。理沙が笑った。わたしも、そしてあの日、《すき?》一樹は退屈そうに携帯をいじっているばかりだった。ソファーにうずもれて、消音されることのない彼のゲームの電子音が事務所の中に響いていた。複数の息遣いと、《どこに、》時に上げられた木村のうめき声とともに。風間は来なかった。あいつ、《さわりたい?》また、ばっくれたん? 久雄の舎弟の矢作が言った。いつものことだった。暴力的な瞬間には、《…ふれて》風間はいつも不在だった。それを彼らに懇願して、彼らに強制し乍らも。「小指折れたんだけど」包帯を巻かれた木村の小指に、《さわって、》理沙は笑い声を立てたが、暴力を、嫌悪しながら彼女はそれを楽しんだ。《いま。》いつも。無関係な見世物として。《さわって》あいつら、みんなぶっ殺してしてやるよ、と木村が言ったのは、《制裁》がおわってわたしが彼を店に連れ帰っているときだったが、理沙に《ふれて》ひざまづくことを強制されて、あのとき、…木村は額をわななかせていた。悲鳴のような、執拗な憎悪に。優輝という源氏名の女は罵り声を立てた。悲鳴のような。理沙はそれをふりむき見た。憎しみ。容赦の無いそれが、そして店の更衣室の中で、確かまだ冬だった気がした。出会ったばかりの頃だった。理沙とは。わたしは。理沙は。一人で立てた四重奏のような優輝の音声の喧騒を、わたしと。優輝の身体が音を立てて崩れる前に、理沙が振り向きざま彼女を殴りつけた瞬間、優輝は失心したような表情を皆にさらしていた。何か言おうとしていたが、すぐさま床に倒れ付して、皆が、優輝を見ていた。床の上の。入れ込んだホストの名前をそのまま取って自分の源氏名にした豊満な女。ポルノじみて極端に身体が豊満な、愛玩動物のような、優輝が理沙の客を取ったと密告したのは愛実だった。本当かどうかもわからないその密告が、理沙にもてあそばれたのは事実だった。ひまつぶしにすぎない。顔を合わせた瞬間に優輝の胸倉はつかまれ、誰にとっても優輝は嘲笑の対象だった。体と引き換えに、数多くの、善良な男たちに貢がれたその女は。いじましさが取り柄の、みじめったらしい見苦しい女。馬鹿で、ずるがしこい。笑い声さえあたりで沸き起こりながらも、理沙の暴力を咎め、制止しようとする声がときに喚声になって、まばらに立った。だれも理沙を本気で咎めるものは無かった。彼女の成績と個性的な容姿は店の中で特権を与えていた。しかめつらの悠華が煙草に火をつけながら、化粧台にすわったままで、…ねぇ、と、その日の帰り際、悠華はわたしに言った。「理沙ちゃんってさ、ちょっと、あたま、おかしいよね」声を立てて笑って。大変だぁ。あんたも、…じゃない?「大変だよね。…潤も。」おあんたも。…ね。かしいよ。あたま。言ったわたしに、悠華は笑い声を立てた。実質、何人の男たちに囲われていたのだろう? 理沙は。とっかえひっかえ、企業の重役や、ベンチャーの社長を彼女の部屋に連れ込み乍ら。不意にでくわした、…彼女。おれの。はるかの挨拶に戸惑いながら、ややあって、笑いかけ、だれもが自分だけの女ではないことなど知っていながら、自分だけの女として愛した。自分がいなければ、駄目になってしまう庇護されるべき女、として。理沙から、その唇から、見下した哄笑が消えうせることはない。

海に行ったときの一樹の拒絶を、理沙が忘れることはなかった。

白浜の海。匂いがした。塩に膿んだ海水の。世界、哄笑されるべき対象のすべて。他人の眼差しへの哄笑を公然とさらしたまま美しい水着姿を見せびらかせながら、ふと親しい共感と共にその身体に、指先だけが失心したように触れようとした理沙のそのほそい指先のなにげなさを身をかわして拒絶したときの、一樹。その身のこなしに理沙さえ見とれた。研ぎ澄まされた猫のような。哄笑、見られるものすべに対してなされるべき、その。声を立てて笑ったあと、何が起こったのかわからないままに、むしろ茫然とした理沙に「触るな。俺に」なんで? その問いかけを待つまでもいなく、一樹がささやくように言う、「女には触れない。女には触れさせない」わたしとあった視線に、なぜか笑い崩れながら、…なに? 一樹は。…ねぇ、なに? 理沙が言う「童貞?」

一樹のまなざしには無条件の親密さがあった。無条件で受け入れたような。理沙を見つめるときには。理沙の心に、その眼差しがふれるたびに動揺が起こるのは知っていた。こまかい、その。

「残念ながら」一樹、この「高校のときに。いまは、後悔してる」男の後悔が、その恋愛経験の破綻の結果したものではないことは、言われるまでも無くわかった。それは、彼が、彼の自覚した哲学が、純粋に美学として拒否したに違いなかった。「死ぬなら、純潔のままが良かった」共感と愛との差異がわたしにはわからなかった。憎しみとの、絶望との、拒否、拒絶、依存、その他、無数の。…感情にまみれた。…穢くね?

そう?

愛とは、感情なのか、…なんで? 或いは概念なのか? …なんでだよ? 愛するという言葉を消費し続けながら。なぜ、三島の「憂国」が薄汚い読後感しか与えないか知ってるか? 一樹はときにわたしにささやく距離感に接近して、それってさ、結局あれが、言う。ね? エロス・タナトスのくだらない話に過ぎないからだよ。にもかかわらず、わたしを愛しはしなかった。一樹は。考えられない? 潤には。…ね? 無数の時間を傍らで過ごし、考えられないかな? なんどもその指先にわたしの皮膚を触れながら、ねぇ、たとえば、エロスでもタナトスでもない、純粋に生き抜かれた死。…ね。むしろより強い共感を理沙だけに与えた一樹は、考えられない? 慾動なんかのなぐさみものじゃない、純粋な死を生き抜くこと。…潤には。にもかかわらず、一樹は理沙をも愛しはしなかった。おれはね。…ね? 女になんか触れないし、女になんか触りたくない。生物だよ。…な? 純粋に。女は。やっぱ。…ね、男っていうのは、…さ。哺乳類が、さ。生殖機構の中で、さ。生まざるを獲なかった、ね? 生殖上の必然に過ぎないけど、な? 結果、偶然的で例外的な恩寵だと思うぜ。…一種の、…ね? 純粋に死を生ききるかも知れない、生自体に対する裏切りの生の、…わかる? 可能性。ね? 生物であるがゆえに、その結果、その生物である必然を裏切った、そんな…。な、わかる? 生み出すことに興味は無い。破壊することに興味がある。わかる? 生産的な破壊じゃない。未来なんか何もない、ただ、美しくしかない破壊だ。…ね? 自決の翌日に発見された一樹の無残な死体には、生前の、張り詰めた美しさなど微塵も無かった。ふれるのをためらわれる、汚物のような、穢れた死体。悲しいほどに、表情を失った理沙の眼差しは、警察署で彼の死体の身元確認をし、わたしたちの眼差しは、悲しいほどに、無根拠に表情を失ってしまった眼差しが、いつもわたしを捉えたのだった。見詰め合うときには、いつも。仮定的に愛と呼んだ感情の束に駆られて。捉えられたはずだった。理沙も。わたしのそれに。おなじような、代わり映えの無い眼差し。表情をなくして、むしろ、言葉をさえなくしてしまった、その。

なにを言いたいのか、なにを想っているのか、自分でさえわからない、その。

表情の残骸。…

わたしの知らない瞬間に、はるかさえも。理沙に曝す。わたしたちは愛し合って、彼女の部屋の中に、抱き合い乍ら。お互いの体温の存在に、お互いの愛の存在を確認しようとさえしながら。愛と呼ばれる、感情だか概念だかわからない、ある凶暴な実体にふれられたときには。沖縄に帰るの? と言った夏の日に、一樹は、…夏休みだろ? 帰らないの? 言った。…帰らないよ。父親は沖縄のリゾートグループの重役だった。正確な役職は知らない。日本の東京に本社があるリゾート会社の沖縄施設の管理者。ときに、出張でプーコック島へ。なんで? 質問に正確には答えないままに、飽きた。もういい。言って、一樹は理沙にお前は? と言ったが、彼だって、彼女が帰るべき実家などないことは知っている。もう、何年も帰ってないな、と、一樹は、東京に来てから、一回? 帰ったよ。言う。叔父が死んだときに。さすがに帰らなきゃならなかった。何で死んだの? 事故。何で? 轢かれた。バスに。一番でかいの。悲惨だったぜ。残ってなかったよ。体。残ってなかったよ。笑って、夏の、昼間の歌舞伎町は美しい。…いや。完全に残ってなきゃいいんだけど。…ね。だれもいない、廃墟のような薄汚いビルの狭間のアスファルトに、残骸だけ残ってる感じ。…体の。夏の光だけ、音も無く降り注いで照らしだす。もう、世界は既に崩壊している。人々は、生き物たちは生きているが、それは、かつて世界が存在したことの記憶をいつくしむように生きている。自分たちが存在したことの記憶さえ含めて。またたき以下のわずかな瞬間の未来に喪失され続けた現在に駆られながら。猫が路上を疾走し、捉えた聴覚の中に開けた視界を走査する。たちどまって、すまされる耳の、尖らされた震え。かすかな、いつ?既に、世界が死んでしまったことだけは知っている。手に痛みがある、やわらかな。かすかな。その手の痛みがゆっくりと全身に広がっていく。わたしはいつ死ぬのだろう? 死にかけているわたしは? わたしはいつ決別し終わるのだろう? いつ? 既に死に絶えた世界の中で? 繰り返される理沙とわたしの音声。無駄に費やされていく時間。何をも生み出さなかった。愛は、常に。生み出すのかも知れない。いつかは。その有機体を。副産物のように仮構して。一つの細胞の受胎は分裂を繰り返し、空間を占有していく。もしも彼女が受胎したなら。彼女はそれを望まなかった。少なくともいまは。彼女は女ではなかったから。そのときには。彼女が受胎したなら、彼女は見出す。彼女の男性の破綻。女性の生誕。それらの反発しあう共存。すでに破綻は体験されていた。彼女に。わたしの愛撫に、彼女がふと声を漏らした瞬間に。気づき、気づかれていた。わたしにも。女性の発したその声に。破綻を撫ぜる。愛する瞬間に常に。わたしたちは愛し合っている。破綻に耳を済ませて。愛する。わたしたちは。愛する人を、愛する。理沙を。きみだけを。愛した。あなただけを。理沙を。…愛してんの。はるかが言い、かすかに、既に発情していたことを恥じらいのうちに隠そうとした、女性的な、惨めなほどの欲情を曝した彼女の、そのあまりにも女性的な欲情の形式。女って、と、その表情はいつも。「穢いだろ?」一樹は言った。女って、なんか。なんかね「なめんなよ」言った理沙は、自分にふれるなと言った海辺の一樹に食ってかかるそぶりを見せて、思い惑った一瞬のうちに、女じゃねぇから、独(ひと)り語散(ごち)て、わたしは彼女が言い足りない表情をしたのに気付いていた。

海辺の夕方にまだ日は堕ちない。

わたしの言いたいのは、理沙がうつむく。…こんなことじゃない。一瞬だけ。あの哄笑がふたたび始まるまでの、その。「だけ。…、まじ。…だけ。












…理沙だけ」





Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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