小説 op.4-02《愛する人①》…きみの革命、僕の涙。
基本的には、恋愛小説です。
複線として、進化がテーマになっています。
自分の身体が進化を刻んだ瞬間に、《彼》はどんな風景を見るのか?
恋愛小説と言っても、そんなにいかにも恋愛小説的な物語が展開するわけではありません。
どちらかというと、愛する人の前で、言葉に詰まる瞬間が、テーマになっています。
時代は、現代です。
2018.05.16 Seno-Lê Ma
愛する人
…うごきが停滞した。
やわらかく、半開きのままに。その唇が、やわらかな、ふと。
なにも語りはじめないそれは、まだ、その、それ、それら?。それはやわらかい。かたちを崩しさえしないその寸前のそれら、言葉が模索された、群れをなした瞬間の。
言葉に崩れされる瞬間が、いま、求められてはいたが、唇はやわらかに。
そのまま、ただ。
黒く。
彼女の皮膚は褐色だった。どこかの南のアジアの島国人間のように。…どこの? 伺うような眼差しが、そしてわたしを見つめた眼差しは何の表情をも獲ないまま、眼差し。
見つめた。眼、その白さを。それが表情をつくる機能などはじめから獲得していないことなど知っていた。ふたたび、その機能不在を確認する。白。その瞳の周辺が純粋に白濁していて、白さというその事態の意味。
白さは色彩の不在ではなくて、それはどうしようもなく力にあふれた色彩の一つに過ぎないかった。色彩による完璧な制圧。もはや何も暗示しない。何も明示せず、それは単なる白の暴力的なまでの実在に過ぎない。
潤み、いつも、泣いていないときにさえ涙に濡れたように潤っていて、見つめる。
わたしはそれを見つめていた。
黒目がかすかに振動しつづけていた。何かの発作のように。ふらつくような振動。かすかな、その。
予想外の機能不全に、ふいに襲われて仕舞ったように。瞳孔はその形態をかすかに、常に変容させながら、それらがわたしを見ているのは知っている。それら、無数の色彩が。黒から、ブラウン、金色にいたるまでの色彩の凄まじいグラデーションの深刻な複雑さが、…それらの複数性。単数の集合として複数なのではなく、もとから複数なのだった。無慈悲なまでに。ひとつの具象のままで。
ただ無機的に、それらは飛び込んできた光を反射させ、かつて、それらは光を受け入れたことなどあったのだろうか?
…知っていた。わたしは。光に対して開口しきったそれら色彩は、光を受け入れ、吸収し続けてた。そんな事は知っている。にもかかわらず、そして、その事実が信じられなかった。どうしても。その内部が光で溢れかえっている現実をなどは。
光の氾濫。
切り開かれたその内部に見るのは有機体の、みじめなやわらかい塊りに過ぎないに違いない。…ぐにゃっ、として、ぐにゃぐにゃの。血さえ充分にはながれてはいない冷たい有機体。その粘液、あるいは神経系。ニューロンの糸。どこへ?、と、わたしは、光は? …思った。どこへ行ってしまったのか? 飲み込まれて、もはや二度と解放されなかった光は、視覚としてのみ解釈され、その、打ち捨てられたそれらの、それ、それら、その、光の存在は? どこへ?
光さえもが素粒子としての実体を持つというのならば? それらは、どこへ。なんだったのか。光とは。かつて光は触れられたのだろうか? 光が触れたすべてのものによって。無残な、そして、無残に、残酷なまでの苛立ちに、無残にも苛まれ、わたしは違う理由で声を立てて笑う。小さく。
彼女は美しい。彼女が聞き耳を立てたのに気づいた。気づかれていた。わたしに。つき刺すような、その気配は。長いまつげがつき刺さるように屹立しその周囲に密集したが、それらのやわらかさなどは知っている。とても、よく。まばたき、それぞれに息づくような、それぞれの。わたしが愛したもの。
…密集。やわらかな。
もはや笑うしかないほどに美しさは湛えられて、その美しさはわたしの夢見た産物だったのか、あるいは、それがその夢をわたしに与えたのか? 強制として。茫然と、魅了されてみせさえしながらわたしは、そして見る。まばたかれるたびに震えるまつげの、そしてわたしは思い出す。忘れることはできなかった。それらの触感をは。たとえば唇が触れたときの、それが皮膚に与えたやわらかさを。夥しく密集し乍らもそれは、その眼差しを隠しさえしない。ふたたび、ふいに、まばたたかれて、その運動は一つの世界の終焉だったような気さえする。まぶたの、音さえ無いまばたきの一つが、いま、そして一つの固有の世界は破壊された。完璧に破壊しつくし、崩壊さしめ、消滅された、その世界の存在にすら、その眼差しは気付かないままだった。一気に充溢した潤いが、いつのまにかそれが涙だということに気付く前に、気付いたときにはそれはあふれ出してしまっていた。その洪水の惨状。
一気に滲んで漏れ出し、溢れてしまっていたもの。
純粋な水分に他ならないそれは、どうしようもなく為すすべのない穢なさを感じさせた。どうして、こんなにも?、と、涙は。こんなにも? 拒絶するように、息を詰めて身を曲げたとき、わたしが彼女を殴りつけたことに気付く。なめらかな髪の毛は長く、それが乱れたのをわたしはその一瞬に見ていた。空中に。空を掻くような、一瞬の停滞。くの字に体はまげられて、息遣い、息は乱れて、彼女は泣いていた。どうした? と彼女が言った声を聞く。どうした?…、
…ね。
…のさ。
…さ。
ねぇ、
…え?。
…潤。
…ね。耳元にささやかれたそれらが、わたしはうずくまって、泣きもしない。もう二度と。それは確信されていた。
ごめん。
その、やわらかいアルトの女声が、それは鼻にかかっていて、少しだけ、…嗅いだ。彼女がわたし額に口付けて、わたしはその体臭を嗅ぐ。体温、そして匂い。大量のあたたかな水分に満たされた有機体の美しい体液がかすかに醗酵しかけたような。わたしを傷つけてしまった彼女の意図されざる過失を、それが過失であることと、それが過失であったこととの正確な理由など、だれにも一度も認識されないままに、なぜ、彼女はわたしにあやまるのだろう? ごめんね、…潤、と、わたしは自分を苛むしかなかった。歯がゆい怒りにさえ駆られて。どうして? 純粋で、透明な。何ものによっても正当化されなどされないそれ。匂いさえない。燃えるような、なにものをも焼き尽くすことなど無かったそれ。愛していた。愛し合って、愛してるよ、と。わたしもそれを言いたかったのだろうか? それを言おうとして、彼女が口籠ってさえいるのには気付いていた。
何度目かに。
もう既に。わたしも。
ずっと前から。わたしたちは。二人が出会う前から。生まれる前からさえ。何度も。むしろ世界が存在する前からさえ。無数の。言葉、わたしにはそれを言うことができなかった。もはや無際限の、痛み? …彼女が死んだとき、それは自殺だったが、彼女は何を殺したのか? 空は青い。そのとき。何を殺し獲たのか? 青さとはこういう色彩のことをいうのだと、そのとき、空は巨大な光の塊りとして、みずから驕りさえしていたのか? わたしたちの頭上に。それが視覚の中に再構成された《現実》に他ならないくせに。
それは青い。空。曝された、白から紫がかった青さにいたるまでのグラデーション。それら、色彩の推移。わたしは息を殺して理沙を見ていた。渋谷の雑踏で。彼女は、立ち尽くしさえして。どうして、悲しかったのだろう? あんなにも。駅前の、さまざまな騒音じみた音響の心地よい音量での連なり。もし死ぬなら、と彼女は言った。温度。いつか、以前に。大気の、どんな? …温度。どんな風がいい? もし死ぬなら。…お前が? どんな風に? なに? …だれが、と、そのわたしの言葉は、ふいに立てられた笑い声といっしょに、振られた彼女の首に否定され、
お前が、だよ。お前が。彼女の声を聞いた。どんな風がいい?
もし、死ぬなら。
壊れちゃいたい?
吹っ飛んじゃいたい?
しずかに消え去りたい?
燃え尽きたい?
どっち? どれ? どう? なに? …ね、お前は? どう? 首を振り、なに? したいの? …お前が。…ん? お前が。自殺? したいの、なに? したいのは。なに? 一瞬で、…ねぇ。燃え尽きたい。…ね? 時間もマイナスするくらいの一瞬で。音も、匂いも、気配も無くて。
理沙は、そのとき、ふいにわたしの触れようとした手を振りほどいた。振りほどかれた、やっとその存在をふたたび意識し獲たようなあっけなさで、その手にのこっていた触感。渋谷の駅前は、いつでもやわやかい戒厳令だった。走り去りはしない。彼女は、やさしい哀れむようなまなざしで。何度も振り返る。親切な警官たちが、何の意味も無いままに警邏して周り、職質を重ねるものの、なにかの犯罪を摘発することも無い。無意味な戒厳令都市。戯れるように。人々が重なり合うようにして行きかう中を、すりぬけて理沙がわたしの腕から逃れていく。戯れるように。走り出すことさえなくて。夏の温度。その末期の。空が青いことなど知っている。見るまでもなく。風は吹き降ろされ続けた。…光。この小さな谷間の盆地に。渋谷。そして翻った、ながい髪の毛の、ながい、空中に乱れるその一瞬の停滞。振り返りながらわたしを確認し、何を? 理沙は、わたしを見た。彼女を見捨てずに、追いかけていたことを、彼女は知った。わたしは、逃げていく理沙を、わたしは追いかける。君を。…冴木理沙、その名前は彼女の名前ではなかった。水商売や風俗の源氏名に過ぎなかった。名前が名前である限りにおいてそれは理沙の名前だった。いつも電車など使わない理沙がめずらしく、渋谷駅の改札に入って、一瞬立ち止まって、眼差しはふらつかされたままに、行き先に迷う理沙のしぐさが、その一瞬の困惑。
理沙が曝した困惑は、彼女に、どこにも行くあてなどなかったことを察知させた。彼女も気付いたに違いなかった。その瞬間に。その行き場所の不在に。一瞬の迷いの後で、新宿行きのホームに駆け上がりかけては止まり、わたしを確認した。振り向いて、…ね、と、見て。
彼女がそれを求めていたのは知っていた。ついてきて。誰を? …見て。わたしを。お前を? …だけを? なにを? お前? ホームへの…だけ? 階段を上がって、彼女は立ち止まり、ふたたび、その、伸ばされ、彼女に触れかかったわたしの腕から、ふたたび、そして指先からさえも逃れ、息をつく。理沙は。何度か、そして、なにをも、理沙は語らない。その表情さえもが。
なにも考えられてなどいないくせに、すべてを知り尽くしてしまったような顔をして。知っていること以外の、何をも知らないくせに。…ね、と。死にたいって、…ね?、本当に思うとき、あんだよ。理沙は言ったものだった。いつ? かつて、いつか、思い出したように、彼女は、そしてなんどかわたしは思い出す。理沙に言われたその、俺、死にたいとき、あるの。それらの音声。なんで? なんか、…さ。一番綺麗なときに、さ。…ね?、死にたい。死にたいんじゃない。無くなりたい。てか、うん。…ん? ややあって、ごめん、嘘。やっぱ、死にたい。本当に、んー。…ね? 死にたい。綺麗に? 一番きれいなときに、綺麗に? てか、と、理沙は打ち消して、そうじゃなくて、…だから、…何? だから、…
「何だよ?」わたしの鼻にかかった笑い声は、彼女にふれたに違いない。その耳元に。頬の、すぐ、近く。
近づく。
呼吸は絡まりあい、重なりあうことなく、ふれあって、ふれては崩れ去りながら。なにも聞かなかったふりをして、完全に逸らされていた視線が、にも拘らず、理沙がわたしを捉えていたのは知っていた。素手で、じかに触れたような、…その。穢くていい。穢いほうがいい。…ん。だってさ、ん…、わたしは聞く。ki-,…きぃ、きっ。た。…ないじゃん。聞く。穢いじゃん。死ぬって。…どうせ。聞く。理沙の声を。
騒音が溢れかえっていた。ホーム付近の雑踏。つらなるささやき声の帝国。日本とよばれたある人間たちの領土の上に生息する人々の、ささやくように高速で連射される音節の群れ。かさなり、電車の、風の、足音の、電子音の、無数の音響の適度な音量のそれらが連なって、耳を聾すことのない巨大な、すきまだらけの音の塊りを形成していた。
響きあっていた。その音の塊りのすべてをなど、聞き取られ獲たことなどあったのか? ただの一度、ただの一瞬でさえも。誰かに、誰か、なにか、どうしようもない残酷さが、わたしを傷つけ、理沙は、響きは、いつも、傷つけてばかりで、傷つけられたのだった、わたしたちは、それらの、確実に、音響のうちに、傷ついていた。わたしたちが。まばたく隙も無く、わたしは見つめ、理沙の姿はわたしに追われた。駆けだそうとした瞬間に、偽って、停滞し、振り向き見、笑った。踏み出された足、その、音音をさえ忍ばした、…走り出しなどしない。立ち止まりなど。静止されることさえなく、一瞬たりとも、静止など。それら、何ものによっても制止されなどしない、野放図な、猫のような歩み。ホームの音響の群れ。やんちゃな。
くじゃっ、
と。音の連なりに視界はずっとさらされて、…音など。そんなものなど。それらが耳にふれる。君を見つめる。向こうから電車が来たときに、何が起こるのか気付いていた気がした。いま、目の前で。匂いは嗅がれた。何かの。通り過ぎた女の、あるいは香水? …咳き込む男、その? 若い、若かった、老いた、ざらついた、人々。無数の。乾いた、それら、饐えて、澄んだ。若干の甘さ。におい? じゃっかん、程度の。電子音は鳴っていた。頭の上で。それらが到着を告げた。笑い声を立てた声。…男。もはや、立ち止まることの無い直進の一瞬、最後に理沙が振り向いて見たのはわたしだった。なぐさめるように。見る。…傷つかないで。堕ちるように線路に身を投げて、…じゃね。砕かれる身体の周辺に四方から立った悲鳴と喚声が、そして急ブレーキ。昼間の叫喚。
きしむ。
…ッ、と。思う。軋む。視界を引きつらせて、わたしは、無関係な人々、彼ら、…彼女らが、見ていた。顔面に痙攣を感じた。見た。ホームの上に、駆け寄り、あるいは、逃げ惑うのを。昼の光の中に。見る。それは彼らの死ではない。彼女らの。だれにも見られなかった空の青さの下に。誰にも。誰も、にもかかわらず、そして自分が死に、自分の身体が引き裂かれてしまったかのように。まるで。わたしは苛まれた。どうしようもない身体的な苦痛に。その、引きずるように追体験され続ける体験されないまま記憶された痛みの想起の連鎖に。引き裂かれる。理沙の身体を、電車は引き裂いてしまっていた。血と肉が外気に直接ふれた、穢れた臭気さえ嗅がれた気がした。事実、焦げた匂いがしいた。何の臭いかわからなかった。肺いっぱいに吸って、確認する勇気は無い。急ブレーキの騒音が空間を裂いて鳴ったのは知っている。駅員が叫んだのも。彼らの一人が疾走したのも。追体験され続ける、それら、残骸にすぎない残像。もはや。逸らされた目が路面のコンクリートとアスファルトの接合面を捉え、そこは鈍い色彩と音響で溢れかえっていた。視界、目にうつるものすべてが、すでに、色彩に溢れかえっていた。なぜ? 理沙はなぜ死んだのか? その理由など知っている。それは理解されたことなど一度もないものの、わたしは既に知っていた。
…すき?
すきだよ。
…まじ?
ごめん。かなり、…まじ。
その、すれすれに寄せられた唇から理沙の吐いた息が額にかかって、わたしの鼻はかすかな口臭を捉えることにさえ成功する。生き物の匂い。覆いかぶさった、長い、美しく束なったの髪の毛のそれぞれの匂いの群れが厚く、鼻を侵してやまない。
顔を上げて、窓越しの陽光に、理沙はその逆光の中に、くらんだ色彩にうずもれるが、目を閉じた。わたしはその頬に頬を触れてみる。整いすぎ、美しすぎて、目を閉じると思い出せない気がしたが、記憶のどこかは確実に引っ掻かれたままに、掻き毟られて。結局のところ、いつでも彼女の形姿は鮮明に思い出せたので、なにかが壊れ、どこかが崩れていたのかも知れない。正確には気づかれないうちに。すべてが、端整な、その精密な顔。女性的な。そのやわらかい体臭。女性的な。あまりにも女性的な身体。何ものも過剰ではない端整さが、彼女に無数の表現の可能性を与えた。ときに処女のように、ときに娼婦のように、ときに母のように。完璧な均整は、それらの表現の自由な可能性をまるごと理沙に譲り渡した。表現されるべき素材としての、むきだしの素の身体。暴力的な美しさによって、女たちを嫉妬の上に降伏させ、男たちをひれ伏させなければ気がすまないその身体は誇られ、駆使され、濫費され、彼女が女だったことはない。
理沙は生まれてからずっと、男だった。ほんの幼い少年期に、発芽しかけの、同性愛的なやわらかい性欲にあおられた眼差しの中に、同い年の少年たちを捉えたほどには。
美しさの均衡のすべてをなじりながら陵辱するように、その肌は不自然に陽に灼けていた。ハーフ? と、女たち、男たち、わたしも、多くの人間たちが彼女に問い、笑い乍ら理沙は首を振り、彼女がついた嘘。
彼女の唇がふれた。
いつか、なんども、ほほに。ふれた瞬間に、いつも、それはすぐに離されて、なんども。初めて会ったとき、理沙は、すべてを見下した上に見下されたもののすべてを見下しぬいたような、屈辱的な眼差しをくれた。すでに彼女には、そこで、最も美しい女としての多くの特権が与えられていた。理沙は十九歳だった。わたしは十八歳になったばかりだった。新宿の区役所通りのキャバクラの店の中だった。真新しい店内。わたしは木村文哉という名の店舗責任者に彼女を紹介されたが、彼は、好色なわなを自分の周囲に張り巡らさないでは一瞬たりとも生きていけない人間であることをことを周囲に知らさないではおけない、露悪的で、意図的に装われた愚鈍な眼差しを曝して、常にわたし達を見た。計算高く。彼の目に映るすべてのものを。四十人近くの不細工ではない女たちと、十数人の美しい、金銭を生み出しうる可能性を予感させずにおかない女たち、そして彼女たちにひざまづき乍ら、彼女たちを酷使したうえに、その予感どおりに実現された金銭を簒奪する十人以下の男たちの集団の中で、木村がある絶対的な王様だと言うことには、すぐに気付いた。男たちはみんな、それが作法であるかのように、木村に従った。奇妙な、どこか去勢された同性愛をさえ感じさせながら。
三十歳前の大作りな男。大柄な、無造作に伐採された樹木をかち割ったような。絶対的に美しくは無いが抜け目の無いことだけは馬鹿でもわかる木村。彼の周囲に群がる、同性の、信者じみた下僕たち。窮屈な店舗組織の密室の中、水商売という閉塞的で出口の無い、とめどない欲望と細かな作法の空間の中で。あいつは所詮、信じられるやつじゃないよ、という軽口と軽蔑と共に彼に盲目的に従う信者たち。口々にさまざまな不平と不満を、その眼差しの範囲の外でだけ口ずさまれ乍ら木村は、ねぇ、と、初めて会ったそのときに、理沙、…さぁ、木村は言った。
なに、…俺?
と、その、理沙の答えは鼻にかかって、やわらかいアルト、…で、ね? …理沙さぁ、わざと下心をこれ見よがしに表現したいかがわしさを湛えて、木村が、この子、拾ってきちゃった。言ったのを聞いた。笑い乍ら…なにそれ? 鼻でだけちいさく笑って、理沙が、なぁに? …ね? なにそれ。
北浦さんの紹介なんだよ。
あー、あの。うざいの。…くさいやつ?
…ひで。でさ、この子さ、育てたげてくんない?
何でだよ? 店のソファーの上に、理沙は胡坐をかいて、なんで、おれなんだよ? 私服で座ったまま、木村の笑い声が立つ。おれは無関係だよ、お前たちとは。…知ってる? と、それを暗示した哄笑じみた笑い声が。渇いた、木村の、その。俺、うざいからやなんだけど。そういうの。木村は理沙の声を聞いた。茜とかいいじゃん。駄目だって。なんで? …てか、食っちゃうから、茜だと、すぐ。木村の笑い声が聞かれた。わたしたちに、いいじゃん。それはそれで、さ。…じゃね? おいしそうじゃん。おれも食っていい? だめだって。だから。…さ。レンジでチンしたらいけそうじゃん? てか、煮込んじゃう? あー、てか。そっちかよ、ばか。「ぼくちん、おすわり。」こっち、と指さした理沙のすぐ傍らにわたしは座って、「ぼくちん、名前は?」潤、と、木村が答えた。その、店のソファーの上。高級ぶった、安物の。店の金も何も、片っ端から着服しながら、企業舎弟の、オーナーの風間優宇弥、という偽名で通していた四十過ぎの小柄なデブに寵愛の限りをいただいていた木村。叶恵(かなえ)という源氏名の女の一人が、背後で木村の名を呼んでいた。如月(きさらぎ)光理(ひかり)という源氏名の女をうしろから抱きしめて、同性愛的な気配を意図的に鼓舞して。自分の身体に、「…ね。」複雑に彼女の身体をからめたまま。「名前は?」理沙の声。
「水沢潤。」…え?、と、不意に甲高く笑って、なにそれ、まじ?「偽名?」…ね? 言った理沙の完璧な笑顔を振り向き見たが、そのとき、わたしは彼女が女だと思い込んでいた。いつだったか、綺麗だね、と言われて、美しく、馬鹿な男たちのあぶく銭をかき集める才能に恵まれた、…綺麗だね、きれーな、顔してる。潤ちゃん。許しがたくわがままで傲慢な女。理沙も。笑って、その笑い声が収まらないうちに、わたしは、綺麗じゃん、お前も。…むしろ。やばいよ。ね?、…と。幻想ってやつ、と言った。
理沙が。
あんたの、ただの、幻想。…あほくさ。綺麗? …どこが? 誰もが、「本名だって。」錯覚する。「本名。なんかさ、まんまホストでしょ。」木村が甲高い声を立てて笑う。木村はいつでもしり上がりに言葉を切る。連なりあう声の、そしてややあって、「かわいいけどね。でも、すぐやめちゃいそう」木村のまくし立てた雑談をいきなり切って理沙がそう言ったとき、「だってさ、」彼女は身をよじるようにしてわたしをみつめ返したまま、「もういいよ、みたいな目、してるよ、この子。」片っ端から、すべて、ぜんぶ、もういいよ、もう、…って。わたしに押しつけられた身体が、その体臭と、…してるよ、もう、いいよ、みたいな。その体温をさえ、そんな、…ね?、目、してるよ。じかに伝えたが「…いい、…もういいから…って」匂いを嗅いだには違いない。わたしは、気付かれないように。彼女に。息をひそめて。彼女の。…うん、と言って、「お前、いい匂いすんね」理沙が言った。十四歳だったのか、わたしは、かすかに笑い声を立てて、十三歳だったのか、鼻腔の発情を無視したまま。わたしは不意に、気付いた。
世界が滅びていたことに。
そのときに。中学生の頃? 確か、おそらくは。確信でも、認識でも、隠喩でもなんでもない。振り向いた、あるいは一瞬まばたかれて、ふたたび見出された、それは決定的な事実として、わたしは世界が既に滅びていたことを知った。あの、滅びきった月の世界と、この目の前の世界に、本質的な相違は何もなかった。それらは、ヴァリエーションの一つに過ぎなかった。壊滅していた、その否定できない事実の。美しい世界。この。美しい、と。そう抽象化して呼ばざるを獲ない、もはやすべての形容詞を拒絶したわたしたちの生存事実。わたしの、わたしの細胞の。光の、樹木の。風、雨の、無機的な地面の。月の海の。干からびた。その無音響の、空間。虚無を切り裂いて開かれた空間を、それをうがつように滑走する鳥。鳩のならされた喉。その眼差しが捉えきった世界。一瞬の疾走のあと立ち止まった猫の研ぎ澄まされた聴覚が、そして、いくつもの、あれらの、これらの眼差しは、見出された無数のこれらの世界と、それらを見出した世界を。生きる。細胞の分裂。無機物の分子崩壊。砕かれた大気の流れ。生産と破壊。融合と分離。世界は既に滅びていた。それを知ったとき、わたしは孤独だった。どうしようもなく。なぜ、生きていられるのか? わたしはその留保なき理由を知った。世界は、すでに滅び去ってしまっていたからだ。わたしたちは生きている。無慈悲なほどに。絶望的なまでの強度で。ねぇ、と、理沙が言うのを、その耳元の声に、わたしは、彼女を、わたしに彼女の部屋で抱きしめながら、彼女は、わたしたちは愛し合って、飢えたように、そのまま、まだ、シャワーさえ浴びていなかった。瞬間で恋に堕ちる。
恋したことが気付かれたときにはすでに。それらを、ふたたび思い出す。記憶の断片として。なんどめかに、窓の外を、三月の終わりに降った大雪が、白く染めていたことをすら、窓越しに「なに考えてる?」なにも。まさか? …なんにも。差込む朝の、えー…「…うそ?」浅い光さえ「何にも?」何にも。まばたくうちにいつか忘れ去られて「なんで?」…だって、と言いよどむままに、「なにも、」白んだ朝日「考えてないの?」…何も。その光線。やわらかに白い、その。…ね? …いい? それが外を埋め尽くした雪の光のせいだということが、…ねぇ、もはや誰にも忘れられたままに「…考えてよ。」なにを?。
体温。
暖かな。肌。女性の、あまりにもやわらかい「何か。…何かを」何を? その肌を、それは体温を伝えた。わたしに。「なんか。例えば」なんかって…、気の狂った男たち「俺のこととか」何? まがい物の生物たち「俺の昨日のこととか」何を? 生きられない、屈辱的な生き物「俺の明日のこととか?」何、考えて、その存在自体がこの美しい調和への「俺の、」…ほしい? 冒涜に他ならない「俺のこととか?」何を? 穢れた生き物「考えてて」考えててって。…それって、わたしは「俺のことだけ」何を? 望んだ。それでも。生きていることを? 本当に? 理沙は片親で育った。父親は「好き? ねぇ。…すき?」何? 生まれたときにはどこかに行っていた。母親、睦美の十八歳のときの「俺の、おっぱい。…ねぇ」すき。…だよ、すき。子供だった。高校は退学され、…ん? 同じように「好き?」すき…ん? …だよ。お前は? 水商売で生きていた。理沙を育てたのは彼女の父親だった。秀雄という名の。彼は「すき。俺も」好き。理沙を溺愛した。睦美にはただ、「好き? 潤、さ、」何? 暴力でだけ答えた。散々、性的な「俺の、唇」くちびる? 奴隷状態に睦美をおいた挙句に、彼女が「唇。俺の」…上の? 他人の子供を妊娠した瞬間に、彼女、…彼の娘は「好き?」…下の? もはや生理的な憎しみの対象以外では「すき?」…好きだよ。なかった。彼にとっては。その女は「まじ?」本当に。穢れてさえいた。「嘘じゃない?」まじで。理沙の母親はどこかに逃げていた。だれもが「すき?」どこが? 居場所は知っていたが、誰も会おうとはしなかった。覚せい剤が「上が好き?」なに? 彼女の脳を中心にした身体を容赦なく崩壊し、連鎖的に、「下?」何の? 彼女の身体は「唇の。」くちびる? 常に危機に瀕していた。廃人だと言われながら、「上? 下?」…下。何度も更生し、何度もふたたび「噛んでよ」なんで? 堕落した。
噛み千切っていいよ。…まじで。
曲を作るのが好きだった。インストの。てか。あー、歌つきの。…ね? 歌詞を書くこと。インターネット上の薬物更生ブログで、「すき?」どこ?「目」いくつかの詩が発表されていた。いくつかの、生きることの「おれの、目」すき。美しさを讃えた、文章。感謝と、惜しみない愛を、惜しみなく、みんなに。LOVE、好きだよって
いいたくて
いえない想い
だきしめて
大切だよって
つたえたくて
つたわんなくて
でも悲しくて
傷つけあっても
せつなくて
せつない想い 加速するだけ
雪が降る日に
また出会えるなら
想い抱えて また
目を閉じて、理沙の「目?」…好きだよ。母親は風俗産業でさまざまな町に出入りした挙句、「何で?」
「何でって?」…なに? ん、
…ね。「どうして?」え?…「好きなの、なんで?」
「好きだよ」そ、…ほら。
ね。…「だから」好きだよ「…てか、だからさ」
「どうして?」なんでも。…は?「、ん。…って」ねぇ、
「なんで?」最初の子供以外はすべて奪胎した。いくつもの、《ホントのエッチ》で睦美は避妊を拒絶していた。プライベートでの性交において、避妊は裏切りに過ぎないと、ときに男性に発作的な暴力を加えながら。殴打。店の男たち、いくつかの客、それらの無数の人間たちが、彼女の《ホントのエッチ》と奪胎の原因になった。リストカットは繰り返された。複数の合法-脱法-危険ドラッグ。覚醒剤をは嫌悪をした。ボランティアで海外に行くのが趣味だった。少なくは無い金銭がばら撒かれた。ベトナム、インドネシア、カンボジア、ミャンマー、フィリピン、さまざまな、それらの《恵まれないかわいそうな》国々。多様な、それらの。わたしはハーフだった。フィリピン人女性と、日本人の男との。やくざに斡旋されてきたフィリピンパブの。美しい、純白の肌がわたしには与えられた。父親は色白だった。いつの間にか引き返せなくなっていた覚醒剤が、理沙の母親の身体を直接蝕んでいく。覚醒剤へのどうしようもない嫌悪が彼女に、彼女自身への嫌悪感を加速させ、睦美が自分を許した男たちへの暴力は加速し、男たちからの暴力は加速する。折檻。制裁。報復。骨折の入院さえ彼女は拒否した。メスと発覚への恐怖。治療されずにゆがんだ骨。倦んだ間接。なんども刈ってしまおうと迷われた美しかった長い髪の毛。にも拘らず、覚醒剤によって、二度、逮捕・拘束され、ややあってふたたび彼女は復帰する。《社会》に。幸福で、痛ましく、美しい、みすぼらしい薬物の世界に。彼女が交通事故で死んだとき、解剖する指先は、比喩ではなくて腐りかけの内臓と、すかすかの、ゆがみ、変形した骨を見いだした。もはや薬物のせいばかりではなかった。十一歳のとき、母親のことを臭いと言った同級生の少女を二人、わたしは殴打して骨折させた。十三歳の時には、母親はわたしにとって軽蔑と憎しみの対象でしかなかった。なんども家出を繰り返した理沙は、もはや祖父のあてどない不安の対象にほかならず、次第に彼の中で、理沙の存在だけが巨大な岩石のように肥大化した。母親とはほとんど顔を合わさなかった。会うことさえ拒絶した。睦美自身の拒絶を、理沙が真似しただけかもしれなかった。わたしは母親を人種として差別した。それらは恥ずべき、調教されるべき人種だった。貧しく、下等な、穢い土人ども。十二歳のとき、理沙は友達に体を与えた。小学生だった。何かを確認したのか、何かを拒絶したのか。あるいは、単純に早熟だったのか。男の子の性欲に目覚めた彼女が自分の身体で、他人を媒介にして女を体験しようとしたのか。本気で? 遊び半分に? すでに、理沙は自分が女ではないことはよく知っていた。事実、女であったことなど一度も無かったから。彼女の性別は自分で公言されていたし、だから誰もが知っていた。おれ、女なんかじゃないからね、まじ。十六歳のとき、高校の授業中に立ち上がって、教室を出た。晴れていた。夏だった。授業のいたたまれない無意味さと退屈さが、その内容以前に許せない実感があった。何かに反抗したのではない。笑うしかないほど、教師も含めて、自分たちが惨めだった。それから、わたしは二度と学校にも親元にも帰らなかった。理沙の最初の家出は7歳のときだった。何をしでかしたのか、もはや誰も記憶しない些細なことだったが、出て行けと叫んだ祖父の言葉に純粋に従ったのだった。単純に。素直に。まるで趣味のように。生きる手立てであるかのように、家出と暴力は常態化し、十四歳のとき、同級の女子生徒に対する深刻な暴行事件をおかし、停学処分になった。女子生徒の無残な顔は医療整形が必要だった。地元の暴力団の北浦久雄とつるんだ。わたしは歌舞伎町で、ホストをした。久雄はわたしの客だった。暴力事件で、店を追い出された。客の女の頭を、シャンパンのボトルで割ったのだった。頭部の出血が、あそこまで派手だということを、何度目かで知った。デブで、食べ方が穢かったからだ。告訴された。地元の進学校に進んだときには、理沙は、うそのように、《普通の》美しい少女になっていた。小学生のときの卒業文集の《将来の夢》欄には、かわいくて、やさしいお嫁さんと書いてある。高校は1年半で自主退学させられた。家出したからだった。楓という名前で、神奈川県の風俗店で働き、発見された彼女は実家に連れ戻された。1ヶ月後には、住所不定のまま埼玉県の風俗店で働いていた。ヒナタという名前だった。十七歳からキャバクラで働くようになって、彼女は冴木理沙になった。歌舞伎町に来たときには、その業界の中で彼女は有名な女だった。彼女が十九歳のとき、わたしたちは出会い、半年後に理沙は自殺した。轢死だった。理沙の、花々に囲まれた埋葬。回収された無残な肉体の断片を覆い尽くし、隠し通す純白のそれら。時間さえ停滞した錯覚のうちに、その美しさ。花々の。音響のなかに、その連なりの中を、わたしはそのまま駅を出て、背後の叫喚。かすかな。向こうに消えて行くざわめき。わざと人の流れとは逆に歩く。何の意味も無いことに気付き乍ら。自分のその歩行が、そして、泣かなければならない気がし、穢い涙を流す気にはなれない。せめて、泣いてやらなければならないはずなのに、一生、涙など流したくは無い。最後だよ、と久雄は言った。あの女の頭ををボトルで割った次の日に。多くの人間が、何かあるたびにわたしに繰り返したそのままに。
最後だよ、もう。
暴力事件が繰り返されるたびに、「脅かさないでよ。北浦さん…」
「ばか。マジよ。…まじ、」最後だよ。わたしはそれらを聞いた。無数の声色で。色彩。声の色彩。それらはわたしに彼らの差異を教えた。そのつど呼び出された記憶のうちに。十三歳のときに柳原と言う教師が言った。最後よ、と、彼女は三十歳を越えた、ただひたすらに丸い顔を晒しつづけた。痴呆じみて温厚なそれは、いま、ひきつって表情をなくし、わたしより小柄で、生徒の誰よりも小柄だった。彼女は。酔いつぶれて見上げたその顔が、あの女はその夜初めて合わせたわたしへの視線に、明らかな発情をさらした瞬間に、そのとき、わたしはボトルが彼女の頭部から血を吹き出させるのを見た。何の衝動も無いままに。女たちの悲鳴と怒号。逃げ出したいほどの悲しさだけがわたしを駆っていた気がした。希美耶(きみや)が殴りつけるようにわたしに飛び掛った。
最後だよ、お前。
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