小説 op.3-02《ブーゲンビリアの花簪(はなかんざし)》…僕の、罪。(全)
まず、説明が必要です。
最初、冒頭部、詩的といえば詩的、意味不明といえば意味不明の言葉が群がります。
それらの中から、やがて、意味を読み取れる文列が不意に生起し初めて、
小説は物語を物語り始めるのですが、
つまり、常に《話者》が正気であるとは限らない、と言うことです。
不意の、狂気。
精神疾患という、非=正気のカテゴリーの中に綺麗に分類されてしまうようなそれではなくて、
不意に落ち込むような狂気。
私たちが、日常的にまみれているもの。
例えば、青空を見上げた瞬間に、不意に泣き出してしまいそうになるような、
…美しい、と、ただ、無意味にそうつぶやいてしまわざるを獲ないような瞬間。
むしろ、私たちの日常は、そうした、ざらっとした《正気とはいえないもの》にまみれているはずです。
また、この小説は、80年代末期に起きた、
いわゆる《女子高生コンクリート詰め殺人事件》の記憶にインスパイアされています。
取材はしていません。故に、直接的な関係はなにもありません。
あくまで、勝手な想像力の産物に過ぎません。
当時、同時代だった私も、この「戦慄的」な事件に「戦慄」しましたが、
その「戦慄」はむしろ、かりに、自分の身近でこの事件が起こった場合、
はたして私自身は加害者にならないですむのか、その確信が獲られなかったことでした。
無軌道で、犯行的な少年でしたし、どちらかと言えば犯罪に身近だった事実もありますが、
そうではなくて、《倫理的な一般人の》わたしたちは、本当にこの事件を、阻止できるだろうか?
わたしには、自分のそのあやふやな《倫理》感の、あやふやさに怯えたのでした。
しつようで、曖昧な怯え。
あの事件の犠牲者の少女は、死体解剖の結果、初期の受胎が確認されたそうです。
もしも、その命が生まれていたなら?
彼はどんな風景を見るのか?
彼が見る風景はどんなものなのか?
そう考えたときに、出来上がったのが、この小説です。
いろいろと、過激な描写もありますが、それが目的ではありません。
あくまで、問題にしているのは、
わたしたちが《倫理的》に生きるとはどういうことなのか、
その可能性と限界を思考しようとしました。
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Seno-Le Ma
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