小説 op.3-02《ブーゲンビリアの花簪(はなかんざし)》③…僕の、罪。
この小説と、つぎの《月の船、星の林に》は、
いわゆる《女子高生コンクリー詰め殺人事件》にインスパイアされています。
直接的な題材であるとはいえませんし、直接的に取材したわけでもないので、
直接的には何の関係もありません。
同時代に起こった、同世代の「戦慄的」事件だったのですが、
私にとって「戦慄的」だったのは、
もしも、あの事件がごくごく身近で起こったとして、
私自身が絶対に加害者にはならない確信を、
その当時、得ることができなかったことでした。
無軌道で、反抗的な、ということは、犯罪に常に身近にいた十代の時期、
私は、私がいつ、その加害者になるかがわからない、
あやふやで執拗な怖さに、怯えたのでした。
それから、私は、倫理的であるということは何かを考え始めたのです。
故に、私の小説は、すべて、結局は倫理を問うものになっています。
この小説は、遺体解剖時、ごく初期の受胎が確認されたというあの少女の、
子どもがもしも生きていら?生まれていたら?
そうしたら、どんな風景を彼は見るのだろう?
そう、想った瞬間に、不意に、できあがって行きました。
2018.05.14 Seno-Lê Ma
バイクが一台通り過ぎて、為すすべもない驚きの眼差しのうちに彼女の肢体を捉えた男の両目は、すぐにバイクと共に遠ざかっていく。瞬間、Lệ Hằng が立てた甲高い嘲るような笑い声をわたしは忘れない。付近の資材置き場の隅に凝固した、不審なコンクリート片から漏れら腐乱臭に気付いたとき、死んだ彼女の体内で、わたしは八ヶ月目の成長段階だったのは、そのすべての髪の毛さえ抜け落ちた(それは、生存時に与えられた恐怖のためだとされた)惨殺死体の悲惨な状態以上に人々は、彼らは単純な恐怖をあえてかみ殺した。かれらは驚嘆させられた。たしかに、普通ではなかった。感じられた恐怖や驚嘆とともにその事実は彼らによって伏せられようとし、ひそめられた声の群れのうちに、Lệ Hằng は、誘い、誘惑するというよりも、わたしから逃げながら、わたしのために裸になって行く彼女が、スパッツを脱いで放り投げたときに、わたしは育った。死ななかったわたしを、少女の母は、不死丸と名づけた。育てられたわたしは、やがては、祖母が最早正気の人間とは言えないことくらいはすぐに気付いた。わたしの生存領域の中で日常的に繰り返される当然の事実として、少女の母親の唐突な発作の悲鳴と、失神と、嘔吐の音声と気配と匂いと視覚のむれは捉えられざるを得ないまま、下着すら脱ぎ捨てようとした瞬間に、見咎めた中年の女が家屋の中から早口に叫ぶのを、逆にののしって笑いながら逃げ去る Lệ Hằng の後をわたしは追う。祖母の夫は沈黙がちなまま、わたしの頭を撫ぜたものだった。わたしは彼らに、あの事件が少女の身体に刻んだ痛みそのものを、おののきの中で想起させ続けながら、わたしは彼女が最後にはぐくんだ奇跡の命に他ならなかった。暴力そのものに過ぎない、幾度もの、もはや特定できない体内射精のどれかが結果した、犯罪の結果に過ぎないにも拘らず、彼らは目を背けながらわたしを愛し、愛の感情の背景に、むき出しの怒りそのものが生起していることくらいは知っていた。だれもが。彼らには許されなかった。許しや忘却などをは。わたしを愛そうとする眼差しこそが、暗い暴力の記憶の忘却を不可能にし、浄化あるいは救済の時の到来を破綻させる。女の罵声を背後に飛び越えて笑い立て、竹林の向こうに走り抜ける。Lệ Hằng は何度も振り向き見ては、立ち止まり、追ってくるわたしを見つめた。褐色の肌は、その内側に向かって、晒されないまま日に灼けなかった白さへのかすかなグラデーションを現した。彼女がその両親の金銭を奪っては、濫費して果てるらしいことを、やがてわたしは知るのだった。Lệ Hằng が弟に加える深刻な、肉体的な暴力。両親に逆らう時の Lệ Hằng のあの、内側から発熱したような眼差し、それらは、やがてそれぞれ別々の時に知ることになるものの、この明らかに清楚な、無慈悲なまでに、悲しみと共にすべてを一瞬で思いつめてしまったような表情のこの少女の眼差しのうちに、すでにわたしは彼女の癒し難い発熱を知っていた。知性とよばれるものを内側から焼き尽くすような。初めて入った小汚いカフェで、コーヒー一杯を注文するのに無数の言葉とジェスチャーを消費しながら、わたしが捉えたその彼女の微笑み続ける眼差しのうちに、既に。穢死丸は、雨が!と叫び、竹林の向こう、工場跡らしい廃墟に出て、晒した肌の上に午前の日差しを浴びたまま、Lệ Hằng はゆっくりと、尻を振って見せながらあるく。何の工場跡だったのか最早定かではない錆びた鉄材の群れと、クラックにまみれ罅割れかけたコンクリート家屋と、トタン屋根の連なり、その錆びの赤茶色が、やがてわたしは彼女の至近距離に近づいたまま、すれすれの距離の中に、彼女はその至近距離にわたしの体臭をかぐ。わたしが彼女の体の匂いを吸い込んでいるのは、Lệ Hằng は既に知っていた。Lệ Hằng の視線は煙突のような尖塔の低い頂の向こうに、逆光の黒ずんだきらめきを捉えたに違いないあの一瞬に、足を止めそうになった彼女を振り向かせてひっぱたき、わたしは Lệ Hằng を壁に叩きつけた。投げつけられた彼女は、何も触れなかったはずの鼻から鼻血を流しながら、荒く息を付き、怯えた Lệ Hằng は上目越しにわたしを見上げた。内股でようやく立っていた、痙攣を晒す彼女の身体を、そしてわたしが立ったままに彼女の初めての男になったとき、あげるべき声さえあげられず、吐かれるべき呼吸さえ吐き獲ずに、尻を突き出さしめられた彼女は恐怖にただ、息をひきつらせていた。わななくように震えながら、自分の尻を抱え上げた男に無抵抗の臀部を差し出して、涙と鼻水と鼻血の混合物で、時にさかさまにまぶたをさえ汚してしまい、いつでも Lệ Hằng が、わたしの下唇を一度かんでからわたしの唇に、吸い付くようなキスをするのは何故だろう? あの日からずっと、わたしのホテルにいりびったっているこの未成年の少女は、両親からふんだくった金でわたしのためにシャツと短パンを買った。彼女好みの、確かに、町で若い男立ちが来ている風の服だった。彼女の好みのサンダル、飲食物、嗜好品、その他、彼女によって思いつかれたさまざまな貢物が気まぐれに用意されるままに、わたしのホテルの部屋は満たされ、天井の扇風機は壊れたままだった。Lệ Hằng の母親がいわゆる継母であることは知っている。その事情は知らない。Hằng の顔と父親のそれとの類似が、明らかに、あの、小太りの、とはいえ極端に豊満で色気づいた身体を抱えた、灼けた地味な顔立ちの母親の顔と並んだときに、それらの連鎖は絶ち切られた。何の感傷さえ残さず見事に。窓越しに、激しい雨期の雨の轟音が立っていたにも拘わらず、わたしは《天使の》春奈のさしだした手首のリスカ痕の群れの一つに舌を這わせてやったのだが、その、優しい愛撫。Lệ Hằng は多くの男たちから、さまざまな金銭やプレゼントを貢がせながら、《壊れ物の》春奈は酒の臭いを彼女が息遣うたびに撒き散らし、だから、わたしは思うのだった、彼女の話を聞いてやるふりをしながら、死んでくれればいいのに、と、やがて Lệ Hằng が殺されてしまったときに、わたしは泣くのだろうか?あの音響の中で、車道に飛び出し、いつかの夜に酔いつぶれさせられた《天使の》春奈は飛び出すその《壊れた》上目遣いの眼差しに、いつ、死んでくれるの? 潤んだ《天使の》春奈の瞳は落ち着きを失って、挙動不審になって、やがて彼女は正気を失っていくのに違いなかった、傷をなめる舌の感触と、彼女を強姦するためだったのか、口説くためだったのか、なんだったのか、そのはっきりしない境界線のままに、陽気な友人たち。彼らに酔いつぶれさせられた Lệ Hằng は、酔いつぶれた衝動のままに、大声を上げて大通りに飛び出して、群れて立つ笑い声、バイクとトラックの群れは急停車した。無数の、一瞬で束なったそれらの音響、その、そのときの急ブレーキが、そして春奈が鼻をすすったとき、鼻の奥で豚の鳴き声がし、《人間ではなくなった》春奈の頬の贅肉が揺れて弾むのを、急停車するトラックから、墜落する無数の鉄骨が、すれすれのトラックの躯体のほうをいまだ笑った顔で指差し続けるままに、それらは Lệ Hằng を押しつぶしたが、見つめた上目づかいの眼差しのうちに、にもかかわらず無抵抗の拘束された無残な被害者のような顔で、挙動不審な黒目の震えのままに、何かを訴え続ける眼差しが、きみは、立ち上がった轟音が鳴り響いて、飛び散ったに違いない Lệ Hằng の肉片も血も骨も、いまだ、重なり合った鉄骨の群れが明確にはあかさないいまま、《腐った》春奈の手首の、ささくれ立ったって残骸化した皮膚の上にも、午後の窓越しの陽光は差す。まるで、なにかに救われたがっているようだ、と不意に思いながら、わたしは《天使の》春奈の手首の傷から唇を一度外して、
どうしたの?
そう言ったのはわたしだった。
まるで、《まだ腐っていなかった》春奈がそう言ったように、わたしには聞こえた。天使のような、その声で、《なんで?》彼女は《何もしないの?》言いながら、堰を切ったように涙声になって、わたしに抱きついて押し倒し、彼女の四肢がわたしの四肢に絡みついていくのに、わたしは気付いていたのだった。泣くのだろうか?その華奢な背中の曲線だけに触れ、彼女の皮膚が、わたしの皮膚に重なったまま、骨と骨がお互いの所在を探り当て、わたしは、声を立てて泣きさえするのだろうか?彼女の体重と体温が、わたしのそれを重く押しつぶしさえし、Lệ Hằng が死んでしまう時には、やがて、その時に、Lệ Hằng の意識は一瞬で消し飛んだに違いない。北村は言ったものだった。《父親がいつも殴ってたよ。お母さんをね、だから、春奈をさ、あれだけ不安定なさ、女にさ、》工場跡地で《させたのもなんとなくわかるけど。折檻とか、》行為が終わったあと、Lệ Hằng は立ったまま股に触れて《虐待みたいなのもあったけど、たいしたことないよ。春奈が大袈裟に言ってるんだよ。だって、あいつ、まだ生きてんじゃん。…汚物処理班だけど、》行為の結果を指先に《あいつ。死んでないじゃん。五体満足じゃん。要するに、たいしたことないんだよ。(お前、妹のこと嫌いなの?)アイロンで背中、》確認したが《焼かれたことあったけど。まだ(あの子、未だに)跡》Lệ Hằng は見つめたまま《残ってない?(うなされてるよ、なんか、)やった?もう、》息を殺して《春奈と。(ときどき。)お前。(…気味悪いんだけど)もう? まだ》わたしの唇に《残ってるんじゃない?(吐いてるし)俺がやるのって、(いっつも、)あいつに》指先で、Lệ Hằng は、指先を《せがまれて(いっつもだよ。)…さ。》濡らしたものを《だから、》なすりつけるように《あいつの体(食ったらすぐ)たいして》口紅を《興味ないから(げーげーげーげー)よく》指先で唇に《知らないんだよ。(食った直後、)好きで》のばずように《やってるわけじゃない。(他人の話なんかさ、)実際(興味ないんだけど)やめて欲しい。(ずっと言うわけ、あいつ)頭おかしいんだよ。(お母さんがずっと)死んだほうがいいんじゃん?(殴られてたの?)トラウマとか何とか(家で?)結局(言ってたよ)自己正当化だから(生きてるのが不思議って)あいつのは(本当は)甘えてるだけでしょ(死にたいけど)ほかの人のは知らないよ。(死んじゃうと)じっさい、くるしかったんじゃん?(何もなくなっちゃうじゃん、わかる?)同情するよ(わかる?)理解するよ(とかずーっと)あいつのは、嘘(言うわけ)でたらめ(何か)じっさい、俺、ふつうじゃん(俺までさ)あいつの頭おかしいの(うつになりそうなんだけど)親のせいだったら(…かわいいからさ)俺だっておかしくないと(許す、的な?)おかしいじゃん?》北村の《…違う?》言うことがいつも半分以上の嘘を含んでいることは知っていた。北村と妹に肉体関係など何もないことは見ればわかった。わたしは気付いていたが、その嘘に関して誰かを処罰する必然性も、誰かを糾弾する必要性も、わたしにはなかった。春奈はむしろ、なにも反論もないまま、北村の傍らで微笑んでいるだけだった。透けそうなほどの《朝から晩までさ、ほんと》肌の白さが、風鈴会館の一階の喫茶店の《うそだらけだよ。気付いたら》中で、暖房の温度に温められすぎて、一部をかすかに《手首切ったりさ》上気させたが、わたしは《死ぬ気もないくせに》何度か彼女の目配せを眼差しのうちに《死ぬ振りすんの。気付いたら》捉えはしたものの、彼女がむしろ、彼女に関するこれらの《切っちゃったって》話に対して以外の何かをわたしに《馬鹿じゃないの?って》暗示しようとしているのは明白だった。彼女を初めて《思うじゃん?》抱いて、すでに何日か経ってはいたが、《…違う?》北村もそれを知っていたのか、気付いていたのか、わたしにはわからなかった。彼女の、飢えたような欲望を背景にした、にも拘らず充足しきった眼差しが、ただ、わたしの気配の全体を捉えているのは知っていた。北村はいつか彼女を殺してしまうかも知れないとさえ思うが、その予兆は、実現されることはない。とはいえ、その予兆が、現実的に既に起こってしまった後の傷痕のように、わたしの眼差しに張り付き続けて、目の前に見えるものを単に見ることを阻害し続けた。春奈は、北村が殺してしまったとしか、わたしには思えなかった。彼女がわたしの前から逃げ去って、何年も姿を現さなかった空白の間のずっと。ふたたび、その残骸を見にしてすらも。わたしは何も見なかった、何も聞かないばかりか、自分が、自分勝手な錯覚と錯乱の中に、自分が吐いたものらしい言葉の群れに苛まれ、それに非議さえ訴えようとしているのを知っていた。《死ぬんだったら、》北村は振り向き見て、その固定された視線のうちに《ほんとに死ねばいいのに。》春奈に言ったが(装われた冷酷さで)、もはや、彼女はそれらの言葉を耳のうちに聞いてさえいなかった。そのとき、愛してる? その眼差しは …ねぇ、言っていたに違いなかった。ただ、愛してる? 彼女が見つめたわたしに、そして、答えのないままに、わたしも。と、彼女はその眼差しのうちに。わざと酔いつぶれた春奈は何日か前に新宿のラブホテルでわたしに抱かれたものの、最初から狙っていたのか、偶然の結果だったのか、誰にもわからないまま、しかし、彼女と連絡を取るのは、いつでも困難だった。無視される着信と返ってこない、返されるべきだった返信が集積する以外にはない。生きているのか、死んでいるのかさえわからない、行方不明の、そしてある日、珍しく自分から掛けてきた電話に出なかったら、出るまで執拗に鳴らされ続けるにも拘らず。メールもそうだった。返されるべき返信が返ってくるまで、執拗にメールは鳴らされつづけたものだった。忙しいの? …どうしたの? だめ? …いま、無理? …忘れたの? …忘れたいの?《ごめん。待って。今、忙しい》…関係なくない? …それ、違わなくない? …無理? …完全に、もう無理なの? …終わった? …終わっちゃったの? 会うと、あれほど行方をくらましていたというのに、昨日会って話したばかりのように、何日も前の最後にあった日の次の日をいきなり継続させた。その自然さに、結局はわたしたちは彼女に従うしかないのだった。北村に対しても同じことだった。その頃彼女に三歳になる子どもが既にいて、その、彼女の両親の元に預けられっぱなしになっていた子どもたちのことで、彼女の《家庭》にいさかいが絶えなかったのを知ったのは、彼女が本当に、完全に連絡を絶ってからだった。北村から聞いた。《あいつ、お前のこと、ほんとに好きだったからさ》父親が誰かは…何それ?…ね、待って。《なんか…》なにも、何も問題なかったのに《なんか、…さ。》春奈以外に誰も《なんか、気にしてたんだよ、ずっと。あいつ、》…いや、知らない。聞いたとしても気にしないわけじゃないけど。おれだって、答えないらしかった《お前にばれたらどうしようとか言うから。絶対、》お前に連絡するって あの子が、ちょっと、普通の子じゃないなんて…ね、知ってるじゃん?おれだって。だから、言ってたけど、…ない? 連絡。《内緒にしてくれって。…悪いなって、なんか、だましてるみたいな? そういう》言ってたよ、謝りたいって わからないわけじゃないけど、そんな事、いまさら言われても、もう、何を謝るのか知らないけど《悪いなっていうのはさ、けど、言えなかったおれも悪いんだけど》なんか、連絡あるかも 何もしてやれないし、もう、何も… ないかも。実家にももう《帰ってこないんだよね、あいつ。何してんのって?》一ヶ月? 帰ってきてなくて おれ、できなかったしさ。実際、何も。…何もかも、子どものこととか《こどもいるのに。育ててやんなきゃいけないわけじゃん?》完全に放棄しちゃって もう遅いよ。そんなこと、ほったらかしだよ《自分で生んどいて何してんの? って。》でもさ、家族じゃん? 一応は、さ …どうでもよかったのに。そう言ったわたしは、どうでもよかったのに、そんなこと。わたしが、涙を おれ、あいつのこと、流しているのには気付いていた。わたしは 守ってやりたかったのに。知った、わたしは自分が泣いていたのを知った。その瞬間に 守ってやりたかったからさ。涙がとめどなく溢れ、息を詰まらせながら、歩きながら泣きじゃくるしかなかったわたしの肩を、北村は抱き、「あいつのこと、好きだった?」北村が言った。わたしはそれに答えるすべも、言葉もなかった。「…ありがと。」北村が言ったその声を、わたしは耳元に聞いた。「あいつのこと、好きになってくれて」思い出す。母の写真を見せられたことはなかった。その写真は後に、インターネットで検索して発見した。犯罪者のようにぼかしの入った写真や、顔そのままの写真、加工されたもの、それらの無数の、基本的には同じ写真のヴァリエーション。その隙間を夥しく埋めたノイズの数々。どこかの水商売の女らしい女の商売用の写真、整形手術直後の顔の傷跡の接写、笑っているどこかの中年男の背景に、富士山が見える。うどん屋で写真を撮っている女の写真。ビデオデッキの古いカタログ写真の画像。事件のことは、母親の弟から(叔父から)聞かされたのだった。事件の通称名だけ教えられ、大体のあらすじが教えられて、気になるなら、と彼は言った、おまえ自身の《調べたかったら、》心の強さに《自分で調べてみな。》心が折れない《ネットで。すぐに》自信、あったら「自分のお母さんの、話だからさ」彼は言い、薫と言う、女のような名前の彼は、しかし、彼がゲイに違いないと見ていたわたしの見立ては何度も裏切られたものだった。年の離れた彼の奥さんとの間に子どもができるたびに。そして、彼がその子どもたちの前で単純に父親でありえているのを見るたびに。あの、男であることを拒否したいような、忌避したいような、そんな彼の気配はなんだったのか? その気配を未だに漂わせながら、やがて、彼が癌で死んで行くしても、そのときにまでもその気配を、わたしは感じる、死のふちの、やせ衰えた彼のまだ若いはずの50代の身体を眺めながら、注意深く、なかったことにされた母の存在が、にも拘らず、片付けられないままの、女子学生のものらしいその部屋はそのまま保存されていて、時代遅れの女物の靴は何足もそのままに下駄箱の中に安置されたが、彼女の存在は、言葉としては、或いは写真としては完全に消し去られていた。忘れ去ろうとしたのか? 記憶し続けようとしたのか? 娘のことを想起するたびに、癲癇のような発作を起こして倒れるか、発作的な過呼吸を起こして失神状態になるか、嘔吐するか、祖母の精神は痛んでいた。わたしはずっと、かわいそうで面倒くさい頭のおかしな老いぼれとして、ただ、彼女を忌避した。何かの瞬間に、何かをしかねない怖さが、彼女にはあった。その何かが何なのかはわからないにしても、わたしは恐怖し、彼女は、おそらく、思い出すのだった、時に、優しい日差しの中に微笑むわたしの表情に、かつて、その娘がその身体に体験したに違いない暴力の、すさまじい苦痛、痛み、逃げ場のない恐怖、おののき、声にならない悲鳴、発されることのなかった絶叫、流される前にその限界を超えてしまったのかもなかった、失われてしまった滂沱の涙。それら、祖母が自分では絶対に見たことも、見ることもできなかった、経験されたこともされ獲ることもない、記憶されなかった、どこにも存在しない、それらの生々しい、消失しないままの記憶の鮮明さの、それらは彼女を内側から壊してしまう。祖母は声を立てながら泡を吹いて、のけぞって頭からたおれたとき、わたしは思ったことがあった、床が立てた派手な音と、棚のものが飛び上って立てる破裂音の向こうに、どうしてもなかなか壊れ切ろうとしない人体の不遜なまでの強固さを。目を背けたくなるほどの。残酷なまでの。小さな子供の目が捉えた、巨大な大人の身体がくず折れる凄まじい衝撃と音響。大人になって見出された、その小さな貧弱な身体と、その貧弱な狂気の薄っぺらさ。壊れ、《腐った豚の》春奈がしゃべりながら舌をかみ、苦痛に顔をゆがめながら、それでもしゃべりやめない春奈は足元からスナック菓子を取り出して、「食べて」言った。胡坐をかいてカーペットに座ったまま「気にしないで食べて」話しがやまない。同じ話をなんども、違う章句で繰り返されて、やまない、波紋をなすような自分勝手な会話は、言葉の群れが、結局は何ものをも形成しないまま、とはいえ、耳元に言葉の破片だけを残して、わたしに記憶されてしまうのだった、いつの間にか、彼女の身の上の聞きたくもない話は。穢死丸は笑いながら、雨を警告し続けていた。しきりに、そして向こうのほうを指されたその指の、向こうに飛び立った鳥たちが、やがて失神してしまったときに、わたしたちは怯えたのだった、雛たちの血の温度さえもが、その悲しいおびえを知って、鳥たちはやがて失神してしまったのだった。ささやき声は、いまやどこに?と、その羽ばたきの消え去ったほうの、空にあったかもしれない決して手渡されはしなかった記憶のうちに、凍りついたわたしにさしだされた、湿気たスナックを、というよりも、彼女の周辺に存在するものを口に入れる気にはなれず、空気さえも、吸い込みのが嫌だった。そして、目を背けたくなかった。存在そのもを消してしまいたかった。直視した。わたしは恐怖した。かつてのハンセン氏病をめぐる、いまや伝説的な忌避の挿話の数々の、その恐怖のリアリティが、わたしにはわかる気がした。(やがて克服されてしまうのだろうか?)振り向いた彼は(かつての天刑病のように、)ひげをそっていたが、いたみを(わたしたちの存在そのものは?)感じない彼は(だれかに、いつか。)耳をそのまま気付かずに剃ってしまう。血まみれの彼は微笑んで言う、ごきげんよう。そんな、伝説的な挿話の群れ。わたしは知っている、今目の前に、わたしはそして恐怖する。どうしようもない生理的な恐怖。一歩よろめいた先に、出会うことになる顔。あるいは、仮面の下の素顔どころか、皮膚を剥いだ下の筋肉と骨格そのもの。かろうじて押さえらているのに過ぎない崩壊寸前の建造、遠く、絶対的な隔たりとして忌避されなければならず、にも拘らず無距離の近さとしてここに既にあった、それ。…魂。なつかしさとして振り返られるのは、それが、未だに姿を現していないからというだけだ。未生のそれらはすでに、皮膚の下に、膨大な骨格と筋肉と神経と、あらゆるそれらを形成し続けてやまないままに、咲き誇られた花々の純白の色彩が、わたしの爪の上に咲き続けていたのを知った。わたしは息を殺して見つめるのだった。やがて消滅した沈黙の、長い不在の間に、それらは記憶されていたのだった、おののきも、震えも、すでにあれら、見知らないものとして、いつか。夕暮れごとに、輝いたほうからふいてきて、あれらはすでに、たたまれたものとして心にかかってさえいた。薫の二人目の子どものうちの幼いほうの一人が、交通事故で死んだのを知ったときに、わたしは見つめざるをえなかった、暗い予兆がただ空間が満たして、何者をも音響を立てることなく、薫はわたしの視界の中で、涙を流すことすら一度もなかったが、彼が泣けるだけ泣いていたのを既に知っていた。単なる普通自動車とはいえ、対比の中で、見上げるほどに巨大な鋼の塊りになったそれがあの小さな身体をひき潰したときに、やがて薫は泣いたのかも知れなかった。わたしたちの眼差しのそとで、彼自身は、とはいえ、わたしは彼の流された涙を見ることはなかったが、けっして見られなかった嗚咽さえも、激しい、過呼吸を起こした身体のような、それの痙攣を記憶していたのだった、わたしは、彼の無言の伏目の上に。それらは記憶されいたかも知れなかった、薫に、けっして彼が知ることのなかった、ある小さな身体が破壊されていくその瞬間の、一瞬の意識がはっきりと、焼け付くほどに最期に獲得したかも知れなかった、痛み、骨が砕かれ、筋肉がつぶされて、引きちぎられた血管の、それらを知りはしないわたしは、確実に予感していた。気配の中に、わたしはそれらの痛みと、純粋なある孕みきれない理不尽な大きさを、こどものいまだ埋葬されない死体の上に、わたしは見出した気がした、広げられたあの口にすでに無理やり押し込まれてしまった、決して口がくわえ込むことなどできない、絶対的に大きい質量の何かの暗いきらめき、感じ取られた予兆のような、それらの気配の中に、彼らが、わたしが、どうしようもない瞬間に一気に制圧されてしまった屈辱感を、わたしが感じたのは何故だったのか? 薫の妻は、ただ、伏目がちに視線を落としただけで、最早、悲しみの言葉さえなく、ただ沈黙していたのは何故だったのか?「全部、ぶっ壊してやるから」北村が言った、あの「俺が取り戻す」美しいだけがとりえの、末端のホストの北村。誰もが使えないと言った馬鹿の北村。まともな会話さえ成立しない。中国人たちから偽造カードを買い取って転売して、副業を立てながら、「歌舞伎町をさ、あいつらから取り返すから」彼は言うのだった、耳元に唇を「むかつくでしょ。俺たちの町じゃん」触れるほどに近付けた挙句に、「あいつらの事務所、ふっ飛ばしてやろうと思って」背後の奥の席の地元のやくざのほうを、自分の胸元に隠して指さしながら「いや。関係ないじゃん。加藤連合とかさ」言った、「マジで」笑いながら、マジ、関係ねぇから。わたしは美しい北村の髪の毛を右側だけかき上げてやり、彼が一度も同性愛者であったことなどなかった。その身体がどうであっても、本質的には女性以外ではありえなかった北村は、結局のところ代わり映えのしない異性愛者だったに過ぎない。ときに、彼の、男性として美しい身体が、彼に男性であることをむしろ強制したとしても、彼自身、自分の身体に惹かれ、それに求められるままに、あまりにも男性的な性格を後天的に獲得して行ったに違いないにしても。彼が、当時の赤坂のチャイニーズマフィアとつるんでいたのは知っていたし、《林》と名乗っていた《宗》は片足が義足だった。朝鮮でなくしたのだとは言ったが本当かどうかは知らない。もはや、二つの国家が崩壊しあう以外には終わらせようのない朝鮮戦争。全てをぶち壊すか、あるいは気付かなかったふりをして休戦し続けるか。丸顔で、よく笑った。赤坂の持ちビルで中華料理屋をやっていて、近くのもう一棟の小さな居住マンションを貸しながら住んでいて、もう若くは無い日本人の内縁の妻が常に寄り添いながら、よどみのない日本語で、「…いまに見といて」思い出したように、再び「いまに、この町、変えるから。」北村は言った。
「完全にさ、おれが、解放してやるからさ」その、このおれが、だよ。鼻にかかった、中音のアルトを聞いた。壊し屋の北村、彼が手を突けた女たちは皆彼によって壊されたのだった。衝動的な暴力を抑えられない彼に、殴られ、蹴り上げられて、骨折さえしながら、彼は悪くないから、と例えばキララという名の風俗嬢は言ったものだった。本名は知らない。彼女を探しに来た風俗店の従業員に向かって、その時、北村は女の部屋の風呂場に隠れて様子を伺っていたが、「わたしが、いけないんだからさ、なんでもないから。罰金いる? はらうから、ごめん、ちょっと、見逃して」包帯だらけの顔で彼女はそう言い、北村は、風呂場で煙草に火をつけた。彼に抱かれた次の日の朝からさえ始まる、彼の被害妄想じみた嫉妬と懐疑と暴力を防ぎうる女など存在せず、滂沱の涙を流しただろうか? 薫は。心のうちに。女たちは常にさらされたものだった。その暴力に。母親が流すべきだったものの、燃えながら墜落してしまった彼自身のある狂気あるいは、それを 彼女にだれも許してはしなかったあの涙をさえ? 滂沱の、魂の単なる真実? 北村の暴力に、彼から逃げることさえなく自分の部屋に囲い込み、むしろ彼を監禁しようとさえして、ときに、彼女たちのわずかな友人たちに助けを求め、無視され、前歯をへし折られて、口らか血交じりにつばを吐き、そして、彼女たちは何度も北村を拘束しようとした。自分の、あるいは、彼の部屋の中に、彼女たち自身、自らを拘束し、あくまで彼に拘束されたふりをして。好き?、と、床の上に寝転がり、壁に足をかけて、後ろ向きにのけぞったわたしのさかさまの視界の中で、Lệ Hằng の裸の尻の向こう、股関節の隙間から青空が見える。新しいタトゥーが増えた。両の尻に何かの花々の咲いた束と、わたしの名前が向かい合わせに二つ刻印され、Lệ Hằng の尻の体温は冷たい。やがて彼女は皮膚のすべてを埋め尽くしてしまうに違いない。わたしの名前の刻印で。そして自分勝手に誓われた永遠の証しに、すでに、日に灼かれた、太陽光の刻印を押されてしまっていたはずの彼女の身体の上に、より黒い色彩は褐色を占領して行ったには違いない、と、いつか、わたしは気付くのだった。男らしい、女に過ぎない北村は、結局のところ、最早自分自身にさえ管理しきれない、張り巡らされた虚構の糸の群れが空間に立てた共鳴音に他ならず、それらの糸の群れ、卑屈な、研ぎ澄まされた、いびつな、ずぼらな、悲しみにみち、侮辱と侮蔑をしか知らず、限りない優しさにうずもれた、敬虔な、単にひ弱なそれらの無数の張り詰められた力のはじかれだした音響の立てた反響の群れそのものが、例えば、彼だったとするなら、わたしはかつて彼に一度たりとも触れたことなどなかったのだった。音が触れ獲ないものだとするならば。彼自身さえ、彼自身が触れたことなどなかったはずの、わたしはときに彼を壁に手を付かせ、指先をその肛門に差し込んだものだった。鼻からだけ息を吐き、ながく、ぶざまな尻を突き出して後ろ向きの北村が、わたしを閉じた眼差しのうちに、ただ、見つめようとしたのに気付いた。このまま、わたしは、彼の腸を破壊してしまうことさえできるのかもしれなかった。指を鉤状に曲げて、引っ掻きさえすれば。抜取った指を北村を鼻に押し付けた。殴られてすぐに、まだ正気づかない北村の一瞬の呆けた顔を、髪をつかんでねじ伏せたまま、わたしは彼に指のにおいを嗅がせた。わたしの客の女を壊した制裁として。或いは暴力的な冗談として。そして単なる個人的な衝動として? やがて目を開けた北村は、何かを乞うように、一瞬だけわたしを見上げ、涙を流すだろうか? 滂沱の涙を、北村が死んでしまったことを知ったなら、春奈は? どこかへ行ってしまった《天使の》春奈は。穢死丸はずっと泣き続けていたのに。背伸びをして、春奈は?、天井の扇風機に手のばした Lệ Hằng の後姿を見る。フリーダ・カーロに似た、その顔は見えない。ほとんど、栄養失調を起こしているように見える身体は、ところどころにいびつな豊満さえ突然現して、その過ちか錯誤にか見えないまるで他人の身体の一部の突然の出現のような、豊かな胸と、冷たい臀部の貧弱なふくらみが、直線と曲線の錯乱した交錯を、ただ、衣服の下に現して、一瞬、耐えられないほどの彼女への性欲が目覚め始めた気がしたが、それらはかたちをなす前に、フリーダ・カーロのような顔。それを、北半球の大陸の南の果てで、炭酸水で薄めて、張り詰めた暗さを消してしまったような顔。いつか女性誌のイベント紹介欄で見たのかもしれない美術展の紹介。誰が持っていたものだったか。誰が持ってきたものだったのか。どの女の部屋に置かれていたものだったのか。記憶の中で、わたしは覚えていた、その美しいとは思えない顔が、自虐的なデフォルメの産物だと思ったら、すぐ横の白黒写真の画家の顔は、その絵の顔にそっくりだった。暖かい日差しがさしていた。とても幸せな日だった気がする。本当かどうか知らない。その瞬間だけは、決して、幸せではないことなどなかったはずだった。記憶の温度がそれを明示する。Lệ Hằng が体をくねらせて、扇風機の羽根に手をのばし、彼女がやがてわたしの乳首に舌を這わせる時に、噛み付くふりをして笑ってしまうにしても、わたしのそれはシャワールームで手を添えられて洗われて、水流を流すその上目遣いを、わたしが抱いたのは少女ではなかった。《少女》というものが、欲望の客体として、ある種の男たちに夢見られた自慰の道具に他ならない架空の存在だとするなら、Lệ Hằng は、いかなる意味においても客体化することなどできないまま、彼女の筋肉の一筋一筋が、いま、それ自身として空間をうがち、空間は占拠されていた。細胞の群れは、過剰なまで、彼女の身体を埋め尽くし、連なって、そのい身体を形成した。振り向いて唾液を飲み込んだ彼女の、笑みもしない眼差しがわたしを捉え、その刺すような眼差しに、わたしはかつて Lệ Hằng を愛したことなどあったのだろうか? あるいは、Lệ Hằng は、わたしを? 何か言おうとして、彼女の知らないわたしと彼女との共通言語を、在りもしない場所に探してみる。見つからないまま、彼女は、にもかかわらず、視線を外すことさえなく、わたしを見つめ続ける笑い顔をさえ忘れたような、無表情な、その、何かを訴える眼差しのうちに、彼女は、わたしを愛しえたことなどあったのだろうか? 愛とは何なのか、セックスのことか、話し合うことなのか、見詰め合うことか、結局のところ何なのか? 何度、愛していると言っただろう、明らかな偽りの言葉として。女たちはそれを知りながら、知らないふりをしたままに、わたしにその無数のケツを振ったのだった、いつも、常に、発情した眼差しのうちに。その言葉の意味さえ知らないままに。その、さまざまな発情のヴァリエーションを羅列させ、手をのばし、わたしは Lệ Hằng に触れようとしたが、Lệ Hằng は何の関心もない無視を、ただ、同じようにわたしは見つめ続け、君は泣くのだろうか? と、Lệ Hằng は?、わたしは思うのだった、わたしが死んだら、と、泣くのだろうか? わたしは。そのときには。結局のところ彼女はあの鉄骨の下に噛み砕かれるにしても、未だにそれを知らないままに、滂沱の涙を流すのだろうか? わたしは何を思うのだろうか? そのとき、Lệ Hằng の最後の時が来るときには、わたしは泣かないのにも拘わらず、そのときが来たときには、泣くだろうか? Lệ Hằng は、わたしが、北村が《林=宗》からもうすぐ爆弾(ダイナマイト?)を入手するのだと聞いたとき、わたしは彼の話には興味がなかった。熱に浮かされたように、地元のやくざから彼の歌舞伎町をとりもどすのだと言っていた。それは、彼の口癖で、趣味のようなものだった。彼をかわいがっていた《林=宗》は彼の話に付き合うだけ付き合ったし、時期が着たら手榴弾でもなんでも可能な限り用意すると言ったらしかった。冗談にしか聞こえず、冗談でしかない。とはいえ、何かのまちがいでその時が来てしまったら、《林=宗》はむしろ淡々と兵器と兵隊を揃えてしまうに違いことは知っていた。彼の赤坂の事務所には、《八紘一宇》の書が、彼の社長席の背後にかけられていた。武等派、皇道派の中国人。《知っていますか?》聞いといて、お願い。彼の内縁の妻が言った。これ、本当に、戦争の真実として、日本人が知ってなきゃいけないことだから、とその日本人はいつも言うのだった、彼が、ときに、彼の何度も繰り返すその話を語り始めた瞬間に、《わたしのお母さんはね、満州で殺されました、…日本人。日本人に、だよ。さいしょはね、》内縁の妻はその義足を撫ぜた《日本兵に強姦されたの。引き上げていくね、》泣きそうな顔で(本当に、)母性的な(泣いていたかも知れなかった。)手つきで《日本兵。逃げてく兵隊よ。そのとき、》まるで、そのときに《お母さんも、ぼくも、》その足は《日本が戦争に負けたなんて知らない。だから》失ってしまったかのように《怖いって思っただけ。お母さん助けて。って。お母さん、あっち行けって。隠れてろって、それで隠れて見てました。お母さん強姦されるの。中国の人だから、悲しいとき、いやなとき、大きい声出してなくからね。忘れられないよ。お母さんの声。わーわーっ、ね。わかるでしょう? わーっ、ね? 兵隊、何にも言わない。日本人おとなしいから。強姦してるのに。おかしいね。日本兵。そのあと。満州の日本人の地主が。お前もわたしを殺すのかって言ったきた。わたし、戦争終わったの知らなかったから。知らないって。何をしていいのかわからないから。「…いいよ。」日本人、怖かったんだよ。「いくらでも、中国から」お母さん、兵隊に、「武器、持ってきます。」強姦されたの、知ってるから。もう、「わたし、好き。」自分たち、みんなと、殺しに来るかも、って。日本人、「ココロザシ、ある、若い人、好きだから、…ね、」信じなかった。「北村さんは、革命家よ(笑って、)」次の日、「武器なら、ね、(ささやく)」朝起きたら、「もう、」お母さんいなかった。「いくらでも、いいよ。」ぼろ家のかまどのところで、「ふっとばすの?」頭割られてた。「革命するの?」日本人、ぼくなんか、「いいよ、…いいね。」目も、あわせない。「洗濯しようよ」見ない。「日本中、洗濯よ」なんにも、よ。「若い人、いま、」知らないって。「駄目ね。ココロザシ、ないから。」日本人、怖いから、日本人、「いいよ。いっしょに、…ね。」みんな逃げた。わたしたちも、日本人、恐いから、「全部、綺麗にしよう。」みんな、にげたよ。言ったよ、わたしもね、「取り戻そうよ。…ね?」そのとき、僕も連れてって!って。「日本のココロ。ホントの、日本の」連れてって!って。》魂を、…ね?《林=宗》は声を立てて笑いながら北村の肩をたたいて、Tシャツと短パンを身につけてさえも、最早 Lệ Hằng の左足と右手の手首までをも埋め尽くした、蝶と花と縦横無尽に這った茎のタトゥーを隠すことはできない。疲れ果てたわたしの身体を、裸のまま彼女はその汗ばみを洗いざらしのホテルの白いタオルで拭き取るものの、熱帯の大気は、四辺に破れのある網戸ごしに入ってきて、光線ごと、空間を満たしてやまない。何日か前にわたしに加えられた暴力のためにかすかに傷痕を留めた、その唇の端の黒ずみにふれるわたしの指先を Lệ Hằng は見やって、やがて、その指を口に咥えて見せるのだが、初めて彼女を見かけたカフェの奥で、不意に立ち上がった彼女をその母は殴打したものだった。泣きそうなほどに顔をゆがめて早口の言葉を投げかける、太った、土偶のような身体の母親は、被害者にしか見えない。Lệ Hằng は何も言わないまま床の上に視線を投げるだけだった。しばらくは母親を見返すこともなく、その向こうの流しの影で弟はおびえていた。赤い小さいプラスティックの椅子に座ったまま、テレビがアメリカのパペットアニメを流していた。たった一人の通訳者が、英語の音声の聞き取れないほどの弱音の上に早口のベトナム語を被せ、それでも追いつけない女声は、画面上の沈黙と効果音の隙間をさえ埋め尽くす。ややあって、Lệ Hằng はふいに笑い声を立てながら、とわたしは思ったが、その音声に振り向いた視線は、そしてわたしは泣きながら母親を両手に突き飛ばした Lệ Hằng を見た。やせた少女。栄養失調を起こしたかのような、あるいは、摂食障害にいたぶられたかのような。いびつな胸の重ったるいふくらみが震え、上下し、彼女の四肢の動きとは絶対に同期しないそれ単独のゆれを空間に演じた。フランス風に深煎りのべトナムコーヒーの漆黒の中で、氷が解けて音を立てたさっきに、目の前に通り過ぎた二人乗りのバイクの後ろの女は彼女たちの子どもを腕に抱いていた。太りすぎた夫婦に挟まれた華奢な少年の横顔。世界のすべてを無意味に軽蔑したような。その、晴れた空の光が、いま、眼の前の主管道路の、ただっぴろいアスファルトとその上の白い砂埃を差して、それらはいよいよ白く見られたのだったが、その少し先の横断歩道の手前の路面が、彼女の最期の場所になることはまだ誰にも知られないまま、悪いのは母親のほうではないということは、すぐに悟られた。いまだに聞きなれないベトナム語の氾濫の中で、事象はすぐに察せられてしまう。何を包み隠せるわけでもなく。彼女たちの音声の、リズムと粘りを持った舌の戯れる音声の上に、わたしは何度か思い出す、一瞬、思いなおした Lệ Hằng がわたしのほうに走ってこようとして、不意にたちずさんで、やがて思い出したように後退した彼女をかわしきれなかったトラックのブレーキ音と、雪崩を打った鉄骨の山の崩壊、その音響を。嘘のように、積み上げられたそれらの見事な瓦解。その時、彼女の体の背中から臀部にかけてさえ、すでにタトゥーは鮮やかな、火炎の上に飛び交う不細工な天使たちの像を刻んでいたのだった。消しようもなく、わたしは一瞬の、思考停止の沈黙のうちに、その、一瞬の静寂。なにも感じられず、何も起こりはしなかった。その瞬間には、やがて復帰した騒音の群れの中に、ようやく目が醒めた気がしたが、何ら眠りの事実もなかったわたしには、その覚醒感はすでに嘘か錯誤として認識されざるを獲なかった。かつて考えられたことも無い、それらの気配の真新しさの上に、わたしの視界を、喚声と、立ち止まり、或いは通り過ぎるバイクと大型車両の騒音が連なって満たし、あらゆる人々がののしるような声を上げていた。それぞれに鳥肌を立てて。彼女のために。いまや、崩壊して、跡形もないに違いない、濃い、まっすぐに通った彼女の眉のために。人々は罵り合ってさえいるように見えた。失われたという事実のために。何が失われたのかさえ何も考慮されないまま。向こうに母親らしい女が、派手なジェスチャーでわめいた声が聞こえた。姿は人ごみの中に見えなかった。彼女は泣き叫んでいるの違いなかった。彼女も、いま、追体験するのだろうか、繰り返される一瞬として、その娘の身体が体験した痛みの一瞬を、ほぼ無限に彼女の神経系に追体験し続け、彼女が上げているのは、どうしようもない悲しみの、深い叫び声には違いなかった。わたしは駆け寄りそうになる身体を(…どこに?)、むしろ、それは何のためだったのか? 物見気分のせいなのか、悲しみが突き動かしたのか。Lệ Hằng の深刻な危機を察知した、既に無効の、乗せ遅れた予感が突き動かしたのか。もはや、誰もどこへも連れて行かない予感。立ちつくしかねて、わたしは息を着いて、他人のように、何歩か歩いて、傍らに止まった、事故のほうを見ているバイクタクシーの男の肩をたたいた。Go、とだけわたしは言い、彼の背後で、疾走してとおりすぎていく風と風景の速度を視界のどこかで感じていたが、とりあえず思いつかれた行き先を彼につげて、彼が何度も聞き取れないその音声の繰り返しを要求するいつものやり取りの間に、やがてわたしは泣くだろうと思った。大声で。彼女のために。ある、その彼女の思い出のためだけに。あの、美しい、(とは、ついには一度も思いはしなかった)少女の思い出のために。(わたしは、)どうしても行き先を聞き取らない男の、その責任は、結局、泣きじゃくりながらまともではない発音を繰り返すことしかできないわたしにこそ、一方的に負われるべきであることには既に気付いていた。何もかもがもう遅すぎた。すべては既に終わっていた気さえした。涙が溢れ出す根拠。どうしようもなくとり逃されてしまった喪失感の中に、解消しようもない、その見出された距離が、隔たりが、それらを生産するのだということに気付いたとき、穢死丸は背中にへばりついて、数を反対に数え続けていた。10からずっと。9から8、8から7、燃え上がった北村。夜の暗さと、照明の色彩の明るさの交錯する狭間を堕ちて言ったに違いない北村の最期を、わたしは見なかった。そのときにも、泣いたに違いないのに。わたしも、今と同じように、タトゥーだらけの Lệ Hằng の身体が受けた破壊と崩壊に対して流したのと同じだけの分量の涙を、いつかは、流したに違いなかった。
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