小説 op.3-01《花々を埋葬する/波紋》②…真っ白く、滅び去って行く世界。

レ・チ・ゴたち、残留日本兵の存在を知ったのは、単純に、《ベトナム戦争》と日本人が呼ぶところの、その戦争を調べていたウィキペディアからだった。その、既存データのコピーとペーストから本質的に成立していて、たまにノイズとして出現する独自調査は、誰かによって批判されては削除されるウェブサイト。既存の誰かのコピーに過ぎないものの、壮大な残骸の群れ。自分が《コピー》であることによってのみ承認され、誰かがいつか書いたにすぎないオリジナルの歴史性を隠蔽した限りにおいて正当とされ、文献を再構築した自らの歴史性そのものの上品な隠蔽によって成立する公正なる言説。知性の公正性ということの、壮大で露悪的なカリカチュア。いずれにしても1940年代、国家として、既存国家の群れによって承認された、既存国家の群れによって、承認されるかされないかはともかくも、やがてベトナムという国名で呼ばれることになるその地表には多くの残留日本人たちがいた。そこはかつての Nguyên グイン朝という帝国が統治していたという記憶を口伝ないし書き言葉の中に残した地表の集合であって、かつ、フランス人たちの統治した仏領インドシナの一部であり、かつ、日本人たちが、フランス人からその統治権を簒奪した地表でもあり、(…結局のところ、)簒奪された(誰に?-フランス人に?日本人に?いずれにせよ、すでに重層化されていた簒奪として)ベトナム人と呼ばれる、キン族を主体とする集合にとっては、失われた彼ら自身の地表だった。第二次大戦中、そこにおいて、日本兵たちは《現地人》、つまりフランスの軍人たちと民間人たち、ベトナム人のゲリラ兵たちと民間人たちと、小競り合い程度の戦闘を時に重ねただけで、黄色い、白くも無ければ褐色ですらない誰かも承認されていない現=宗主国の軍人たちにとって、大日本帝国の敗戦は、戦わずした無血敗戦に過ぎなかった。








彼らの残留にはいくつもの理由が存在する。一つには、帰国すべき祖国は戦勝国によって裁かれる対象であって、帰国は、彼らにとって留保なく処刑をしか意味しない。戦場が生と死をかけた巨大な賭博場だとするなら、祖国は不名誉な死だけが約束された徒刑場に過ぎない。賭博すらもが不可能だ。しかし、彼らは怖気づいていたのではない。残留されるべき場所ベトナムも、あくまでも、彼らに命がけの賭博を強制する場所にすぎない。彼らは敗北した旧=征服者なのだから、旧=被=征服者はその正当な憎しみにおいて彼らを扼殺する決断を下すかも知れない。あるいは彼らを抱擁するかも知れない。そんなことは誰にも分からない。9999人のベトナム人が彼を抱擁しても、たった一人のベトナム人が扼殺を決断してしまえば、結局、彼は死ぬのだ。とはいえ、決定された100%の徒刑場ではない。処刑という名の祖国への殉死を遂げるか、負ければ終わりの賭博に賭けるつづけるか。1945年8月に、そこに生きているということは、常なる決断の強制を意味した。彼らは毎日決断しなければならない。やがて彼らを殺すかも知れない人々が自分に銃口を向ける前に、彼らと運命を共にする友人になってしまうか、あるいは射殺してしまうか?振り向いて彼に微笑むかも知れないが、彼を殺すかもしれないその女を、振り向く前に殺してしまうか、許しを乞うか、逃げ出すか、それとも笑ってごまかすか。常なる賭博。彼らが朝、目覚め、現地人と顔をあわせてコンニチワ、と、あるいはシンチャオと、挨拶するとき、その現地人が彼らを射殺するか、誰かと共謀して集団リンチを食らわせるか、ただ微笑みかけるか、つまらない冗談を言って見せるのか、それともベトナム酒でも奢ってくれるのか。それは命がけの賭博であって、そこに何の保障された日常も無い。例え、彼らが現地の女性に愛され、彼女を抱きしめるときでさえも。彼らは決断し、賭博しなければならない。残留日本兵とは、彼らを殺したかも知れなかった人々との、あるいは、やがて殺すかもしれない人々との不穏な共生を選択した人々、を意味する。ベトミンへの協力・合流という彼個人の決断を伝えたときに、レ・チ・ゴの部下の大半は彼に言った。わたしたちも連れて行って欲しいと。レ・チ・ゴは答えて言う。自分で決断を下せ、と。上官から下された命令としてついて来てはならない。軍隊は基本的に命令の上に発砲する集団であって、兵士個人による自己決断は、本質的に存在しない。個人意志による発砲とは、クーデターあるいはテロ、あるいは単なる犯罪にすぎない。レ・チ・ゴは求める。大日本帝国の軍人ではなく、彼らは、彼ら自身の決断において、その発砲の先を決めなければならない。いずれにしても、彼らの総体は、可能性としていつ発砲するかもしれない銃口の群れに囲まれていた。とはいえ、すべてのベトナム人が敵対的だったわけではない。大日本帝国占領当時、ベトナム人たちが日本軍の登場をある解放軍の登場として捉えていた事実は、随所に痕跡を残す。もっとも、それによって日本帝国の植民地主義を否定することはできない。彼ら日本人の実態がどうだったか以前に、ベトミンであれ何であれ《祖国解放ゲリラ》の多くの首謀者たちは《ドン・ズー運動》で知られるファン・ボイ・チャウの、直接的な、或いは間接的な弟子たちなのであって、彼ら自身の勝手なイメージとして《日本》という国に、最初から解放のイメージがあったことも事実だった。彼らは直接的に日本軍の事績を讃えていたのではない。間接的にファン・ボイ・チャウという彼ら自身の英雄を讃えただけだ。まだ大日本帝国の被占領下の段階で、ベトミンの Guyên Vặn Ngọc グイン・ヴァン・ゴック はレ・チ・ゴに来るべき独立ゲリラ戦への協力を要請している。誰との戦争か?現在の、あるいは来るべきフランス軍との闘争への協力要請であって、まさか日本軍との闘争へのそれではない。太平洋戦争が終わった瞬間に発生した《ベトナム八月革命》のさなかに、多くの日本兵たちは《新しいベトナム人》になる。レ・チ・ゴは Ngọc たちのために火薬を無人化し、フランス軍から押収した大量の兵器をすべて彼らに譲渡する。







レ・チ・ゴたちを《残留日本兵》と呼ぶのは間違いだ。残留していた日本人がベトミン等《ベトナム祖国解放軍》に協力した、のではない。彼はすでに祖国を裏切っていた。彼はすでに国籍さえ失っていた。ある、すべてを捨て去った個人による決断に過ぎない。これは21世紀に入ってからの発言にすぎないが、生き残った《新しいベトナム人》たち自身の口によれば、彼らのそうした決意のもっとも大きい理由は、恋愛関係等ベトナム人たちとの交流の産物および、なにより《ベトナム人》たちの祖国独立にかける情熱に共感したからだ、という。事実、そうだっただろう。軍人は、常に何かを守るために生きる。フランス人が、叛旗をひるがえすベトナム人に対して軍人になったのは、ベトナム人たちから彼らの固有の殖民地領土を守るためであり、正当な植民地支配権を守護するためであって、彼らは、はたして一度でもそれを侵略だと思ったことなどあったのだろうか?なぜ、彼らはベトナムに来たのだろう?侵略された無数の人々は確かに存在したが、侵略した人間など、はたして存在したのだろうか?彼らの闘争が、例えばイギリスの覇権主義に対抗するための、生き残るための必死の防衛に他ならなかったならば?いずれにしても、大日本帝国の敗戦-被占領国化による解体は、むしろ、留保なき《大東亜解放戦線》を形成し、その戦線の傭兵かつ軍事的頭脳に、《新しいベトナム人》たちは、なったのだった。レ・チ・ゴが生きていたのは、そんな場所だった。そして彼がまだ陸軍学校の所属だったとき、彼はフランスにも留学したし、当時の文学、美術、音楽をそこで愛し、そしてより直接的には、軍隊において北一輝という流行の《危険思想家》に影響されていた。北と既存の国体論者の違いは唯一つ、いわゆる国体論者の群れが、既存の政体を正当化するために論を形成したのに反して、それらの論理矛盾を片っ端から批判し、と同時に、すでに皇国はすぐれて真性なる社会主義国家であると明言したことだ。社会主義革命?いや、革命はすでに果たされていたのだ。そもそも国体とは何か?北にとって、国体とは社会主義国家のことをのみ意味する。そして国体=社会主義国家の登場が歴史的必然に他ならない限りにおいて、国体=社会主義国家は何ものによっても正当化されない。正当化するためには、それが非歴史的なものとせざるを獲ないからだ。彼が歴史的存在に他ならない限りにおいて、万世一系の君主によってさえ、それは正当化できない。国体とはなにか?それはいま実現されている現状に過ぎない。では、なぜ、悲惨なのか?腐敗しているからだ。どうすればいいのか?直接武力によって改造すればよい。未来は?未来が歴史的に決めるだろう。知ったことか。古都フェで、レ・チ・ゴたちとベトミンたちの秘密会合の場所として、彼らに住居を貸し与えていたベトナム人姉妹は回想する。レ・チ・ゴが庭の木がつけた花をぼんやりと、飽きもせずに見ているので、花が好きなのかと聞くと、植物はどこからどこまでが個体なんだと思う?と言った。ミツバチによって受精し産卵する以上、ミツバチはその固有の生命機構の一部に取り込まれている。光も、土も、水も。それらなしではこの個体は生存できないばかりか、最初から既に自己の生命機構の中にそれらを取り込んでさえいるので、ならば、それらの総体が一つの生命機構なのだというしかない。もちろん、ミツバチにとってはそんな気もないし、そんなことに協力しているわけではないが。どう思う?この樹木は彼が手に触れたあらゆるものを簒奪さえし、取り込み、その確率論というノイズ(あのミツバチが受精させてくれるかどうか?のみならず、そもそもミツバチがその周囲を飛ぶかどうか?)および、戦闘というノイズ(かの花と、わたしの花のどちらをあのミツバチが選択するか)そのものさえ取り込んだ、この総体に対して、わたしたちは、それは彼固有の生命体であると言わざるを獲ない。それぞれの意志というノイズを組み込み、簒奪し、かつそれらがノイズに過ぎないことを無視した巨大な生命機構。フェンと言う名の姉は、レ・チ・ゴをハンサムで、非常に知的な、けれど、若干禁欲的過ぎる人物だったと、笑って回想した、と、花村省三『ベトナム戦争における残留日本兵の事跡-日本人教官によるクアンガイ陸軍学校を中心に』には、ある。





Cảnh の姿を見た最後は、テレビの画像だった。彼の放火事件からは既に5年以上、…6年以上?たっていた。テレビの画像で見る彼は、明らかに、若い、たくましい、見事に美しい青年になっていた。綺麗に髪の毛は刈られ、醜いひげなど一度たりとも存在したことさえないとばかりに手入れされた顔立ちの、無慈悲なまでに留保なき美青年。その顔は、一瞬、《ぼかし》が連行される彼の顔から外れてしまったその瞬間に、わたしの視界に飛び込んできただけだったが、まだ、色彩を完全に捉えることができたわたしの視線が、それを見間違うはずもなかった。Cảnh は、さまざまな山間部の小さな商業圏を荒らしまわった、時に暴力あるいは殺人さえいとわなかった忌むべき窃盗団の一員として、逮捕・拘束されていたのだった。あわてて Lệ Huệ を呼び、Cảnh の顛末を伝えると、彼女は彼のことなど記憶していなかったようだった。つまり、どもり、語彙を間違い、言いなおし、文法を、時制をしくじりながら、そして何度も発音を修正して説明するわたしの英語を、彼女は顔をしかめ、それは、本当に、聞き取りにくいわたしの音声だけのせいだったのか?何度も Cảnh のことを話すと、やっと、彼女は言った、ああ、鶏泥棒の、と、彼女は思い出し、声を立てて笑い、隣の家の鶏を、何羽盗んだことか。勝手に殺して、毛をむしって食べちゃうんだもの。いつだったか、自分じゃ食べきれなかったからって、蒸した鶏を一羽まるごと持ってきたわよ。

立派な青年になっていた、と、不意に、わたしは言おうとして、それは確かに不謹慎な感想には違いないので独(ひと)り語散(ごち)、かわりに妻の頭をなぜた。結婚して最初の数年は、結局のところ細かな、些細な、けれども、わたしたち自身にとっては、どうにもこうにも解消できない諍いが絶えなかったが、最初の子どもが死児として生まれてから、わたしたちは急速に誰もが認める仲のよい夫婦になった。わたしは、彼女の無意味に広い家の一角で、寿司とうどんの日本料理屋をやったり、無許可の日本語の塾をやったりしていた。中国と言う巨大帝国が存在して、日本と言う国がその対抗概念でありうる限り、この国での日本語需要が収まることは無い。どうしてなの?彼女は言った。わたしたちは貧しく風変わりな夫婦だった。ひょっとしたら一般的なベトナム人夫婦よりもどうして? 貧しいかもしれないわたしたちは。どうして、こんなにかわいいの? 相変わらず、彼らの土地の所有権問題は解消しない。そうだね、わたしは言った、彼女に、裁判、役所への出頭、そうこうしている間に、土地の人間による所有権がもはや無効になってさえいても、売り時を逃してしまったことをののしりながら、彼らは係争を続けていた。かわいい、と、こんなにも。…そう彼女は言って。初めて見たとき、わたしは思わず目を背けてしまったというのに。わたしたちが死ぬのが早いか、土地問題の解決が早いか、それとも、人類が死滅するのが早いか?死児の体を腕に抱いて、かわいすぎるわ、彼女が言って、思いあぐねたような、そして、ややあって、わたしを不意に見上げた彼女の両目から、涙が一気にあふれだすのをわたしは見つめる。パステルカラーの緑色の壁の病院の中で。不思議なものを見た気がする、と、そんな気がしたのをはっきりと意識する直前に、わたしはただ、内側に引き裂かれるような渇ききった悲しみに飲み込まれる。ただ、悲しくて仕方ないのは、何故なのだろう?生きたまま内臓を灼くような。まだ病みあがらない、ふらふら立ちの彼女を、その腕が抱いた奇形の頭の無い死児ごと抱きしめながら、わたしは、悲しい。ただ、悲しい。いま、肉体さえもが。肉体は悲しい、すべての書物は読みつくされた、というマラルメのフレーズを、レ・チ・ゴも留学先で読んだだろうか?密会したレ・チ・ゴを前にして、Guyên Vặn Ngọc は語ったには違いなかった、祖国独立への彼の思いのたけを。二人の共通言語はフランス語だった。思えば、さまざまなところから、さまざまな人々がこの肥沃な、貧しい地表の上に降り立ったのだった。フランス人、日本人、アメリカ人、この地表はかつて中国人と呼ばれた近くの巨大な帝国との抗争の歴史に他ならなかったし、やがて第二次インドシナ戦争のときは、韓国人の軍隊さえやってきて、彼らは彼らの何かを守るためにこの地表の上を荒らしまくった。彼らはその故国での余生を、異国の地で枯葉剤に苦しみながら戦った義士として生きた。Lai đản Hánライ・ダン・ハン と呼ばれた、暴力によって生まれた混血児たちの生誕。ある意味において、ここは、世界の中心ですらあるのではないか?世界史の中心ですら?世界中からやってきた無数の肌色の人々は彼らの歴史の重要な部分を、この地表の上に体験したのだった。レチゴはあの日、Guyên Vặn Ngọc に共感したから、いまだにかろうじて存続していた彼の皇国を裏切ったのだろうか?既に、皇国に彼自身が裏切られていたから、彼は裏切ったのだろうか?もともと、皇国に対する愛も希望も何も持ち合わせてなどいなかったのか?彼は、死後、靖国に英霊として祭られている。皇国の裏切り者たる皇国の英霊。それとも、旧=皇国はその戦争の内面的な正当化のために、裏切り者をさえ英霊にしなければならなかったのだろうか?

Cảnh の姉の Phậm ファム は、確かに美しい少女だった。彼女はいつも学校から帰ったら一番下の弟の Giáp ヤップ を連れて、Lệ Huệ の家の前の、誰かの広大な廟の庭で遊んやっていたものだった。まるで、広場か公園のような庭。Giáp が、Phậm の父親とは違う男が彼女の母に産ませた子どもであることくらいは、誰もが知っていた。生まさせられた、のか、生んだ、のか。いずれにしても彼女が当然のように選んだのは生むことだった。Lệ Huệ は言ったものだった、遊ぶ彼女たちを見ながら、Ma、マー、とわたしを呼び、ねぇ、Ma、魔物或いは神、要するに、日本語で言う神=モノ(ときに、日本人たちはベトナムの神道、と呼びもする概念)を、その音声の類似だけから借用して、戯れにわたしをそう呼びながら、マー、Ma、あなたはいつパパになるの?

明日。明日だよ。

あなたの明日はいつ?あなたの明日はいつ来るの?

明日来るよ、たぶんね、すねたようにいつもわたしを小突いて、ふてくされて見せて、彼女は既に知っていた。豚が空を飛んだら。わたしには、もはや勇気がなかった。サイゴンに雪が降ったら。確率論で言えば、次の子は《まとも》か最低でも《マシ》かもしれない。わたしには勇気がなかった。その、意志の問題以前に、内面的な理由から?わたしのそれは既に機能を失っていた。不安になって、シャワーを浴びながら手淫すれば、それは勃起し、射精したが、彼女の身体の中で、それは、ときに彼女の中に入る以前にさえ力を失い、もちろん、体内に射精することもなかった。いつ、Khi nào ? パパになるの? con trai có こっけいなのはcon trai ?、わたしが手淫を繰り返し続けたことだった。トイレと一体になった、ひろいタイル張りのシャワールームの中で。一人で。かならずしも性欲に駆られたわけではなくて、不安に駆られて?或いは、時に、たしかに、かすかに、はっきりとした性欲に駆られて。Âu アウ と言う名の、Phậm の母親はいつも、週末にはいなくなる。橋を渡った先のHoàng Thị Phú ホアン・ティ・フー の家に行くためだ。そこには、3人目の子どもの家族たちがいる。Âu の主人は、Huỳnh Thị Anh フイン・ティ・アン といって、Âu と結婚した後で、彼女と一緒にクアンガイからダナンに来た。わたしたちの家の横の、住み手をなくして空き家になっていた借家でカフェを営んで、ほそぼそと暮らしていた。誰もが知っている。彼らの奇妙な家庭環境をは。Anh の妻たる Âu は Phú の内縁の妻で、籍は入っていない。Phú は交通事故で妻を亡くし、三人子どもがいたが、一人は母と同じ交通事故で、8歳で死んだ。大型トラックと衝突したのだった。その衝突音、そして喚声と叫喚、バイクを運転していたのは母親自身だった。真ん中の子は奇跡的に助かった。左手に不自由が残った。家族たちは涙に暮れたが、ただでさえ派手なベトナム人たちの葬式を、アメリカから帰ってきた叔父のNghĩa ニア の、死者に対するアメリカ風の暗い葬送流儀は、葬儀をさらに、派手で、涙ぐましいものにした。不可解な怒りとともに花々を涙ながらに投げつけたような葬儀。レ・チ・ゴは日本に妻子もいたが、結局、彼らを省みることはなかった。彼は、彼の家族たちをさえ捨てたのだった。それには、大きな英雄的な決断と、卑怯者の無責任ささえ必要になる。なにかを決断することは、常に、その反面の巨大な責任放棄を意味とする。彼の義理の父は、敗戦の九月に、妻子らすべてを残して独り自決した。責任を取り、責任を放棄する。彼以外のものにとっては為すすべもない、彼以外のものにとっての一方的な断絶。雨上がりの空に一瞬だけ派手に燃え上がった火の手は、すぐに消し止められた。Cảnh たちの、コンクリート造の家屋の中に蓄えられた燃え獲る家財道具など、たかが知れていたからだ。彼らは、飢えはしなかったが、貧しかった。近くのガソリンスタンドで雨の中購入した、二本のペットボトルいっぱいのガソリンをぶちまけて、Cảnh が焼き獲たのは、彼ら自身のわずかな生活手段だったにすぎない。コンクリートはその程度の火力ではびくともしない。当たり前だが、カフェは現金やり取りだったから、衣類や家電製品や仏壇と共にそれら紙幣の大半は燃え、銀行にはほんのわずかな貯蓄しか残ってはいなかった。あまりにもしょぼい火の手と、命の危険を察知させずにおかないすさまじい臭気の、すさまじい黒煙を前に、大家の Lê Vặn Khanh レ・ヴァン・カン が、Anh をののしった早口な怒声の群れが忘れられない。Lệ Huệ は見開かれた凝視する眼差しのうちに、黒目はかすかに震えるだけで何も捉えてはらず、その下で口を押さえていた両手はあふれそうになる声を制止するためだったのか、ただ、黒煙から肺を保護するためだったのか?彼女の病んだ肺腑を。彼女の傍らで Cảnh は、無邪気に泣きじゃくっているだけだった。彼が火をつけたのは誰もが知っていた。みんながテレビを見ているときに入ってきた彼が、部屋中にガソリンをぶちまけて、不意に奪い取った、茫然としているだけの父親が咥えていた煙草を放り投げたのだから。今、目の前で世界が終わったときのように、Cảnh は、どうしようもない恐怖に駆られたように泣きじゃくっていた。逮捕拘束された今もまた、彼は泣くのだろうか?長いながい、世界の終焉の時の中に。白澄んだこの世界の中で。終末への、長い、ながい、猶予期間。人々は、時に喚声を上げながら、わたしをも含めて、何をするでもなく一時、彼らの燃えている家を取り囲んだが、それは喚声交じりの見物でしかない。ある若い小太りの女性がバケツで水をまこうとしたのをきっかけにして、思い出したように消火活動をしようとはするのものの、どうやって消すべきかもわからないわたしたちは、ただ、うろつくだけだった。消防はまだ来ない。Phậm は沈黙したまま一人で立って煙の行方を見やり、確かに、彼女の視線のうちに、町の照明に赤く染め上げられた夜の雲に、溶け合うことなくやがては煙りは消滅していった。





Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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