小説 op.3-01《花々を埋葬する/波紋》①…真っ白く、滅び去って行く世界。
ベトナムに来て、ベトナム戦争について調べていたときに、
旧大日本帝国陸軍の、いわゆる《残留日本兵》が、ベトナム独立戦争~統一戦争に、
かなり深く関係していることを知りました。
クァン・ガイという中部の町に、ベトナムの陸軍学校がありますが、
そこの発足当時の先生はみんな、《残留日本兵》だったらしいのです。
異国、かつ、自分たちが植民地支配していた国で、
その国の独立のために戦う、という考えてみれば奇妙な体験だったはずなのですが、
非常に惹かれた史実でした。
それが、この作品のアイデアの一つです。
もう一つは、日本で起きた凄惨なリンチ事件の記憶なのですが、
この作品には直接関係ありません。
この作品は、中篇連作の第一編です。
作品全体を、仮に《flowers》と呼んでおくと、もっとも近い現在が舞台です。
この後、時間的には遡行して行く形になります。
三連作の中では、もっともおとなしい内容です。
2018.05.11. Seno-Lê Ma
flowers 1. canon
花々を埋葬する/波紋(カノン)
通風孔越しの光は壁の高くから、その朝の光線が白澄んでいて、かすかに雨の降っているのを教えるのだった。
ベッドから起き上がって、立ちずさんだあとに、わたしが庭のほうへ行くと、白濁した色彩の中で、その名前を未だ、わたしに知られてはいない樹木に咲いた花々が、蔦に垂れ下がるように咲き、小さな無数のそれらは白く見えた。樹木の陰の細かな雨の中に、妻は器用に身を曲げるようにして花々を選別していたが、いま、世界のすべてが、白く見える。外気を水の匂いが満たし、白の微細なグラデーションは、さまざまな陰影としてわたしの視界にあふれかえった。何してるの? làm gì ? 君は? em わたしが Làm gì ? 問いかけたのを、やわらかい逆光の中で一度無視して見せて、やがて、再びかけられた làm gì ? その声に …em 振り向き見て、Làm gì ? 彼女の名前は Lê Văn Lệ Huệ、…フェ、と言った。レ・フェ、…Hoa Huệ 百合の花 …Lệ Huệ フェ、白百合の麗姿。レ・フェ。レ・ヴァン・レ・フェ。十歳年下の彼女は、微笑んで振り向き見たまま、なぜ? 彼女の声を tai sao ? わたしは聞く。雨のなかに傘もささないまま、Hoa đã chết rồi. 彼女は肺が悪い。にもかかわらず、Trong mưa rơi こまかい雨の線に触れられる触感を、いま、nhưng không ai làm lễ tang 彼女の身体は全身に感じているには違いない。ときに、màu sách bao trơi 発作を起こしたように咳き込みながら。Đã chét nhưng 気管支炎か何か。không ai làm アレルギーか何か。Lễ tang. 医者が何か言っていたが、たぶん、khi em sẽ chét. 何をやっても直らない。体質的な、…Anh sẽ làm gì ? とはいえ、ねぇ、あなた、それによって 花は死んで Trong mưa rơi 死んでしまうことは、あなた、ない。…ねぇ、あなた、花は死んでしまったのに、誰も埋葬しないのね。彼女は立ち上がって、空の色は雨の中で、彼女が背を伸ばして、色彩をなくしてしまったのに、声を小さく立てて笑うのを、誰も埋葬しないのね。わたしは見る。どうする?わたしが死んだら、あなたは? わたしは、いま、雨の中で? 彼女が微笑んでいるのは知っている。綺麗に灼けた褐色の肌を動かして、さしのばされた両方の手のひらがわたしの頬に触れたとき、急に咳き込んで Lệ Huệ は、わたしが背中を撫ぜてやるままに、体をうずめた。ベトナム中部の町、ダナンという名の、tp. Đà Nẵng かつてフランス人たちはトゥーランと呼んで、その殖民地主義時代のはじめに、彼らが最初に上陸したのはここだった。この都市から殖民地化は始まり、やがては大日本帝国の進駐軍も拠点を作り、その東の島国の皇国が滅びたあとで、すぐ近くにベトミンの陸軍学校もつくられた。かつて、そこの教員たちはみんな残留日本兵たちだった。敗戦した大日本帝国の日本人兵士たちが、もっとも多く残留したのはベトナムだった。原爆投下以降に騒ぎ立った各国の多忙の中で後回しにされたベトナムの、終戦からなし崩しに再構築された白人たちの既存国家による再殖民地化までの一ヶ月の猶予は、ベトナム人にも日本兵たちにも、十分な猶予を与えた。決断のための猶予を。《ベトナム八月革命》はその間隙をついて勃発したのであり、その時すでに日本兵たちは彼らとの共闘を正当化すべき理由をさえ自分たちなりに見出し獲ていた。
日本兵たちは白人たちからのアジア殖民地圏解放闘争の、つまりは、第二次大東亜解放戦争の拠点に選んだのだった。彼らが敗戦によって(それは、ベトナム駐屯兵らがベトナムでは直接戦闘しなかった以上、彼らにとって遠く隔たった向こうのほうでの誰かの敗北に過ぎなかったのだが、)失った祖国は、彼らにとって必ずしも理想的な祖国ではなかったには違いない。北一輝から、フランス語で読まれたマルクスにいたるまでの、検閲と発禁に彩られた無数の野放図な言葉の群れに感染していた彼らの多くにとっては。かつてその名においてまとった軍服の、その祖国はいまや米国主権であって、もはや存在しないかつての祖国の土地に帰還するよりは、いま、自分が踏んでいる誰のものでもない土地の上の、新しい拠点で、新しい自分たちの戦争をしたほうがよかった。もはや祖国は夢の中にしか存在せず、ベトナム人たちに夢見られていた彼らの祖国も未だ存在していない。太平洋戦争と呼ばれることになる彼らの第一次戦闘の実態がどうだったのか、侵略戦争であったのか解放戦争であったのかは、この際問題にはならない。彼らはその兵士ではありながら、それは彼らの戦争ではなかったのだから。大本営が崩壊したいま、彼らは、彼ら自身の大東亜解放戦争を始めたのだった。井川省、この、多数の226事件連座者を出した陸士第47期の卒業生の将校は、いまだ大日本帝国の存立中から地元ベトミンと協定関係にあったらしいので、結局のところ、祖国にして皇国たる東の島国は、ベトナムにおける駐屯軍の《首謀者》たちによって、最初から裏切られてさえいたのかも知れない。すでに皇国は彼らを裏切っていた。それは彼らの望む祖国ではなく、その戦争も彼らの望む戦争ではない。故に、すでに彼らも皇国を裏切っていた。井川の義理の父、下元熊弥(陸軍中将)は、敗戦時、日本で割腹自殺を遂げている。井川はそれを知っていたのか、知らなかったのか。詳らかではない。いかなる意味においても井川には、割腹、殉死の必然は無い。祖国と添い遂げるつもりはさらさら無い。井川、やがて現地人に《新しいベトナム人 Người Việt mời 》と呼ばれたベトナム名レ・チ・ゴにとって、彼が惹かれていたのは《大東亜戦争》であって、《大日本帝国》による国際覇権の獲得などではなかったはずだとは言える。その、すくなくとも1944年後半以降においては。さまざまな人々が、それぞれの必然において同時に行っていた、複数の戦争。わたしの視界の中で、すべては白い。何をしてたの? ふたたび Lệ Huệ に問いながら、彼女の背中をただ、撫ぜる。確かに、しおれた花の埋葬をなど誰もしてやらないままに、それらはただ放置されるのだった。わたしの頬に、その頬を擦り付けて、一度その肌の匂いをかいだあとで、彼女は指先で地面に小さくほった墓穴に、選別された、しおれた花々を埋葬した。自分だってそれらを弔う気もないくせに 悲しとも楽しとも、
浮世を知らぬみどりごの、
いかなればこそ琵琶の手の、
かつて、観光都市ダナンの夜の空は、地上の派手な照明に見事なまでに鮮やかに染まっていて、雲間の暗さ以外の、覆いかぶさった雲の層の うごくかたをば見凝るらむ。
何を笑むなる、みどりごは、
それらのすべてが緋色から朱色への薄いグラデーションを刻み、その色彩の波立ちに他人事のように彩らせたまま、空は、ただ、月を浮かべていたものだった。川べりのわたしたちの住居は広く、築は半世紀以上前だというから、いわゆるベトナム戦争[第二次インドシナ戦争]末期の築には違いない。コンクリート造の古い建築で、三世帯の家族が住んでいたが、琵琶弾く人をみまもりて。
何をか囁くみどりごは、
お決まりの em có「君は寒く、」Lạnh「ないの?」không 資産分割問題で、彼らは長い長い係争中だった。東京オリンピックの前。つまり、このあたりの土地の価格が一気に急騰したピークの時点だったのだから、Không, em 「…いいえ、」không 仕方ないのかも「わたしは、」知れない。ほんの …nhưng anh 十年前までは、「…でも、」町を「あなたは đi vào nhà 家の中に」分断する、「…ね。中に、」日本人にとっては「入り…điなさい」巨大な泥色の川にさえ、たった一本の華奢な橋しか「冷たいわ。」かけられては「冬の con mưa lạnh」いなかった。Cảnh カン という名の少年のことは「雨は、」知っていた。Con mưa mua đong むしろ「冷たいから。」利発で、反抗的というわけでもないくせに、琵琶の音色を聞き澄みて。
浮世を知らぬものさえも、
学校にさえ行かずに、終日彼はふらふら遊んでいるだけだった。だれからも注意を受けないままに。まだ、十二、三歳くらいだった。おそらくは。わたしはベトナム語に不自由だし、彼は、英語すらまだ、まともに話せない。そして浮世の外の声を聞く。
ここに音づれ来し声を、
繊細に、どこまでも繊細に、言葉を介さないがゆえに心のうちを察し続けるしかない優しく希薄な交流は、けれど、具体的な会話をは与えない。とはいえ、かならずしも孤独の縁に落とすこともない。わたしたちはつねに触れあっていた。Cảnh が自分の家に火をつけたとき、その前後の時間、わたしは近所で、友人の Ánh たちと、名前は忘れた。彼の友人の誕生日のパーティをしていた。必ずしも人付き合いがいいわけではない妻は、家でわたしの帰りを待っているはずだった。いづこよりとは問ひもせで。
破れし窓に月満ちて、
Ánh Ngọc 、苗字は忘れた。妻の親族には違いないのだから、Lệ だか、Văn だか、それからお決まりの、Nguyên だか何だかの古い帝国の王様の苗字かがつくのかもしれない。相変わらず空は赤い。残り火のような、ほのかな、赤のグラデーションに、そして庭に出された赤いプラスティックのテーブルに缶ビールを山ほど並べてみせ、声を立てて笑い、向こうに回らない観覧車のライトアップされたきらめきが見えたが、埋火かすかになりゆけり、
こよひ一夜はみどりごに、
飲め、兄貴、飲めよ、Ánh Ngọc が弟と呼ぶ Tiến は(本当に血がつながっているのかどうかは知らない。)派手な笑い声を立てながら言った。叔母は、開けっ放しの家の奥の、カラオケシステムを持ち出してきて、その娘の幼い Yên がまじめくさって何分も選曲に費やした挙句に、やっと音楽を鳴らしはじめた。長い長い伝統的なふしの、本来ゆったりとした曲調であるはずのそれが、アタックのきついハウス調のビートにアレンジされて、
琵琶のまことを語りあかさむ。(※1)
打ち込みのバスドラムが始終耳を打ち、いつ、日本に帰るんだ?もうテトだろう? Ánh Ngọc がベトナム語をわからせようとして、必死に耳元に繰り返し言うのを、わたしは、豚が when pigs 空を飛んだら will fly, 笑って、Khi con Heo bay trên bầu trời. あるいは、or サイゴンに khi tuyết rơi ở Sài Gòn 雪が when 降ったら snow will fall in Saigon. 答え、外国人のへたくそな発音を聞き取ろうとするときの Ánh Ngọc は、一瞬、必ず痴呆じみた目つきでわたしの唇だけを凝視し、口を半開きにしながら聞く。前歯が一本だけ欠けている。不意に笑い声はどこかでたって、それを誘発したのがわたしたちだったかどうかさえわからない。わたしたちは会話が成立したとはいえないままに、乾杯の渦の中に巻き込まれてしまう。やがて交通事故で半身不随になる Tiến の息子も、まだ元気だった。明日も雨だよ、とTiếnが言っているのは知っていたが、不意に土砂降りの雨が降って地面を叩き付けると、人々は身を丸めてひさしの中に寄り添ってみた。戯れにこれみよがしな喚声を立てて。路面に無数の水滴は撥ねて散る。夜の照明は砕き散らされながら反射し、無数の小さな波紋が路面に誰も聞き取らない無数のカノンを作る。ふと見れば、幼い少年の Cảnh はうなだれるようにして向こうの歩道を歩き、濡れながら、いま、雨の中には通り過ぎるバイクすらいない。誰かの妻が立ち上がって、こっちに来い!そう苛立ったように叫んだのは、わたしにもわかった。地味な顔の下の体だけが、肥満すれすれに豊満な女だったが、まだ若い。二十代半ば、なのだろうか。動くたびに、雨の湿気を含んだ香水の匂いがまきたち、さらに重なる誰かの何度目かの声に Cảnh は振り向くと、手を振って、何の屈託もなく笑う。雨に濡れることそれ自体が、いまは当然のことであるかのように。金色の液体が入ったペットボトルを二本左手にぶら下げて。すぐにやんだ雨が、未だに乾きさえしない夜の、十時を回ったあたりに、わたしの住んでいる家の空き地を二つ隔てた隣の Cảnh の家は燃えた。
雨に濡れるままの妻に傘さえさしてやらずに、わたしは彼女の傍らで、ときに声を立てて笑いながらその花々の選別を手伝うが、それは彼女の毎朝の日課だった。しおれた花の塊りが彼女の左手の手のひらの上に纏まっていく。最早白いとはいえない薄穢れた色彩、いつだったか、夜の浅い暗がりで、部屋に舞い込んできた蝶を捕まえたことがあった。いそいで手のひらに包んで、Lệ Huệ を呼ぶ。シャワールームから出てきた彼女は、一度くしゃみをして、暗がりの中にわたしを見上げ、明かり、つけて。Turn on 背後に回った the light 彼女がつけた明かりが、部屋の中を照らしだすが、パステルカラーのペンキが剥げかけた室内が、ただ、みすぼらしく、蝶、sao anh ベトナム語で、何? 彼女の鼻先で không nói tiếng Việt ?、手のひらを開くと、か弱く、空間に飛び立つでもなく指の腹に止まったまま、蝶の触手は動かされた。かすかにきらめく濃い紫地に、ラメがかった黒の縁取りの、朱と黄色の羽根。そのころ Lệ Huệ はわたしによく言った、ベトナムに来て3年もたつのに、何故、tai sao 未だにベトナム語が話せないの?em không nhìn vậy ? 問い詰めるように、ふっと息を吹きかけても、飛び立とうともしないこの蝶に、勉強しないからよ、何故、勉強しないの? 彼女は微笑んでわたしを見つめるばかりで、…興味ないからだよ。なぜ、見ないの?…好きじゃない。ねぇ、…なんで?…ベトナムが?…そうじゃない。ねぇ、なぜ、…好きだよ。見ないの?…じゃ、何で、興味ないの?…話すことに?…なんで?ねぇ、彼女にわたしは、なぜ? 言った。なんで、見ないの? 蝶を。と、おれを見つめてばかりで。蝶、嫌い?
…好き。
好き?じゃあ、なんで?なぜ見ないの?さっきから、目を逸らしてばかりで。
言葉。かならずしも満足に言葉をかわせるわけではなくても、わたしと Lệ Huệ は愛し合っていた。猫と猫が猫の流儀で、その可能な限りに愛し合うように、犬と犬が、時には、犬と猫でさえ、ならば、かならずしも、言葉は必要ではなかった。愛し合うため、あるいは、話し合うためには、言葉は。むしろ、それが、武器として、…戦うための武器として生まれたのだとしたら?むしろ、言葉こそが人間らしい戦闘を可能にしたのだとしたら?人々に、人間らしく戦い、人間らしく殺し、人間らしく破壊することを可能にする為だけに獲得されたのだとしたら?人間種の固有性、そしてその、暴力としての、暴力的なまでの美しさを研ぎ澄ませられるだけ研ぎ澄まさせたのだとしたら?対話が尽きたことなどない。言葉を用いようが用いまいが、あらゆる意味での対話は。対話は何も解決しない。対話の終わりとは常に、暴力的中断による破壊にすぎない。暴力は、そしてそれ以外の暴力によってしか解消されない。脇から介入された不意の第三者による殴打か、それ以上の殺戮か、暴力的破綻によるそれ以上の殺戮の不可能か、あるいは、単に飽きてしまうか。そして、大規模な暴力行為にはかならず言葉による直接的な共謀が必要になる。昔、見たことがあった。歌舞伎町で、ヒンという名の下っ端のやくざは(彼のその愛称以外の名前は知らない)、下っ端の組長に向かって、いきなり発砲したのだった。ながい、不毛な対話のその果ての結果に(もっともその不毛さは、結果的にそう言わざるを獲ないだけで、その過程においては、それらはむしろ色とりどりの鮮やかささえ持っていた。嫌悪、笑い、軽蔑、嘲笑、不意の敬意の表明に、暗示的な沈黙…)。視界の中に、雨はいよいよ、ただ白く、最早雪が降っているようにさえ見える。なぜ、こんなにも?とわたしは、白いのか? 白み、しろずんで、不意に途切れた会話の隙間に落ちたように、唐突に抜き出された銃がその弾丸を発砲し、至近距離の中に、どうしようもなく、白い空間の中に、街路のの樹木がしずかな列を作って、雨の白さの中に打たれていた。誰も殺せなかった銃弾は、翻ってヒンを殺してしまった。壁に食い込んだだけの、無能なヒンの銃弾は。彼らはヒンを殺した。
(※1)北村透谷「弾琴」(透谷全集 第1巻 岩波書店 昭和25年7月)より引用
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