エッセイ:熱帯の町に、雪が降ったら。
4月30日は、いわゆる《サイゴン陥落》の日だった。
1974年生まれ、というわたしが世代論的に言うと、歴史の教科書の最後のページが、この《サイゴン陥落》、つまりベトナム戦争終結だったので、嫌でも知っている。
時系列を書くと、こうなる。
1973年1月23日、当時のいわゆる《北ベトナム》の、特別顧問レ・ドゥク・トと、キッシンジャー大統領補佐官の間で、和平協定案の仮調印がされる。
同年、1月27日、《パリ協定》正式調印。
同年、1月29日、ニクソン大統領はベトナム戦争終結を宣言。
以上で、いわゆる北ベトナム軍と南ベトナム軍の休戦が一応成立する。もちろん、このまま放っておけば、今の北朝鮮と韓国のようになっていた、可能性もないでもない。
この功績によって、上記レ・ドゥク・トとキッシンジャーにはノーベル平和賞が授与される。
しかし、レ・ドゥク・トは、ベトナムにまだ真の平和は訪れていないということを理由に、受賞を拒否する。多くの人々は、そのストイックさに共感した。
とはいえ、これはある意味で正論である。一方的に軍事介入してきたアメリカが、もう戦争やめる、と言っただけで、実質、南ベトナムと北ベトナムの戦争が終わったわけではない。統一されたわけでもない。二つの《国》が、お互いに国家承認しあい、共存共生を誓ったわけでもない。いまだに、南ベトナムとは、実質アメリカの傀儡政権に過ぎないのだ。
あるいは、これはあくまで私見だが、レ・ドゥク・トは、最初から、こんな調印、まともに守るつもりなど無かった、のかもしれない。だったら、もらえるわけがない。
休戦?形だけだよ、と。おれたちは、統一するまで、戦うよ、アメリカに一時、手を引かせたいだけだ、と。
是非はともかく、いずれにせよ、彼らの決断こそが、ベトナムが第二の朝鮮半島にならないですんだ理由である、とも、言えなくもない。
その後、1974年、年頭、北ベトナム側がなし崩し的に戦争を再開する。
同年、ウォーターゲート事件でニクソン失脚。アメリカ側、戦闘再開にほぼ手出しせず。南ベトナム、…《サイゴン政府》は、その後ろ盾に見放されたことになる。
南ベトナム側は、防戦一方。
1975年3月、北ベトナム軍の総攻撃開始。ちなみに、これを《ホー・チ・ミン》作戦、と言う。
同年、4月20日あたりには、南ベトナム首都《サイゴン》を北ベトナムが包囲。
同年、4月30日、南べトナム高官および、残りの米軍兵士、軍高官等の一斉撤退が始まる。
撤退開始の通知を受けた北ベトナム軍は、その完全終了まで待機。撤退終了後、北ベトナム軍、サイゴン突入。
米軍は、海に軍用ヘリや武器を投げ捨てて、海の向こうに帰って行った。
ここに、サイゴン政府は崩壊し、旧都《サイゴン》は、現在の《ホー・チ・ミン》市へと、名前を変えることになる。
この日のことを、アメリカ人は Fall of Saigon と呼び、日本人はその直訳で、《サイゴン陥落》と言い、ベトナム人はもちろん、《南部解放 Giải phòng Miển Nam 》あるいは、《サイゴン解放 Giải phòng Sài Gòn 》と讃える。
南部発音だと、ヤイフォンミェンナム、ヤイフォンサィゴーン…と言う感じの発音。北部だと、ザイフォンミェンナム、ザイフォンサィゴーン、だ。…と想う。
北部言葉は、実は、あまりよく知らない。
南部、中部では、どちらかというと、《南部解放》と呼ぶのが一般的だ。
ベトナムに来た当初、どこに行きたい?そうベトナム人スタッフに問われて、是非、サイゴンに行きたい、と言った。
会社はホー・チ・ミン市にあった。ここが、その《サイゴン》であることを、わたしは、知らなかったのだ。
…ここですよ。
当然だが、スタッフはそう言った。
「ここが?」
「そう。」
「そうか。」
「ええ。」それだけ。ココナッツの街路樹が、風に揺れる。
小学生の頃だ。若い、30代の男の先生が、かなり気合を入れて、《サイゴン陥落》のことを教えてくれた。それもそのはずだ。彼にとっては、ちょうど多感な十代の頃に起きた、記憶にも鮮明な大事件だったのだから。
4月30日、サイゴン政府及び米軍の、撤退のシグナルは、米軍用ラジオ・チャンネルから流れる、ビング・クロスビーの《ホワイト・クリスマス》だったという。
その日、一日中、熱帯の町に、その曲は流れ続けた。
春、4月、熱帯の町、灼熱の《サイゴン》に、雪が降る。
それは、幼いわたしにとって、鮮烈過ぎるイメージだった。この地上のどこか、熱帯雨林の林の向こうに、幻と消えてしまった町、《サイゴン》に、いまもずっと、人知れず雪が降り続けている、そんな映像が、頭の中から離れなかった。
だから、《サイゴン》と言い、《サイゴン陥落》と言えば、わたしにとって、まっさきに想い浮かぶのは、見渡す限り一面の、雪化粧、である。
*
* *
南部の町のカフェに行くと、ハンモックを吊り下げている店が多い。安っぽい、ほこりっぽい店に限って、だ。家族だけで運営されているような、すぐ横の席でその家の子どもが宿題をやっているような、そういう店である。
ホテルの近所にあった、そんな店で、昼下がり、ハンモックに寝転がっていると、いつの間にか寝てしまう。
休日だった。
心地よい。眠りは浅いが、ちょうどよい。日陰の風の中で、うとうとするくらいが、ちょうど気持ちいいのだ。
なんとなく人の気配がして、眼を開けると、覗き込むようにしてわたしを見ている顔があった。女の子だ。十五、六歳なのではないか。うつくしいとも、かわいいともいえない。とはいえ、醜いともいえない。よくもわるくも、個性的な、といってお茶を濁すしかない、そんな、ありふれた顔立ちの少女だった。
この店の女の子であることは知っている。
何度か、顔を合わせたことがあった。カフェは、ホテルのすぐ向かいだったから、わたしは、ほぼ毎日のように、ここに来ていたのだった。
微笑みながら、くるくるした眼差しで、隣のハンモックに腰掛けたまま、かぶさるようにして、わたしを見つめていた。
髪の毛が、わたしの首筋に触れそうになる。
わたしは、微笑むしかない。
彼女が、なにを想っているのか、もちろん、わたしだって感づいていた。
…恋、というもの。
万葉集に、《孤悲》と書いて《恋》と読ませる当て字があるが、それほど想いつめた感じではない。
もっとあけすけで、あ、この子、おれのこと好きなんだな、と、想わず笑い出してしまいそうな、そんな、明るくて、素直な表情だ。
とはいえ、笑ってばかりもいられない。
そこには今、彼女のほかには、父親と母親と、歳のはなれた弟なのだろう、十歳くらいの少年と、そして、何人かの客がいた。もちろん、みんなベトナム人だったが、…どうだろう?
彼女は明らかに未成年なのだし、わたしの立場としては、どうだろう?
周りの人間が、彼女のそのむちゃくちゃな積極性に、なにも言わないのが、不思議だった。
それから、店に行くたびに、彼女の強烈な眼差しを、かならず意識しないではいられなくなった。
スタッフに言ったら、なにをいまさら、という顔をされた。最初に一緒に行きましたよね、あなたをホテルに連れて行ったときに。あの時からですよ。
…そうか、と、つぶやくしかない。気付かなかっただけ、らしい。
「で、どうしたんですか?」
「どうって?」
「恋人にしましたか?」
「…まさか。」
言葉が通じないのだから、身振り手振りのやりとりの中で、わたしのコーヒーを一杯くれ、のジャスチャーが、わたしの妻になってくれ、のジャエスチャーとして解釈されない可能性も、ないわけでもないかもしれない。なら、それは、わたしの責任でもあるのだろうか?
さすがに、誤解を解くなり、彼女に遠まわしに断るなり、なにかしないと、いくらなんでも無責任だ、という気がした。
スタッフはなかなか取り合ってくれなかったが、面倒くさがる彼を無理やり引き連れて、カフェに行った。
わたしはあなたの恋人になることはできません。いつ、日本に帰らなければならないか、わからないのだから、と、婉曲に断るよう、スタッフに頼んだ。
二人は、わたしの目の前で、ニヤニヤしながら、なかなか話し終わらない。ときに、意味ありげな流し目をわたしにくれながら。
やがて、スタッフは声を立てて笑い、わたしに言った。
「無理ですね。彼女、結婚したいと言ってます。」
そこを何とか説得するのがお前の仕事だ、と言ったが、スタッフは肩をすくめ、「いつ恋人になってくれるんだ、と言っていますよ」そう答える。
When pigs will fly… 豚が空を飛んだらね。その言葉をもじって、わたしは彼に言った。
「サイゴンに雪が降ったら。」スタッフは笑う。…いいね、それ。いい。とてもいい、すてきな振り方です。
… When snow will fall in Sai Gon.
そう、ここが、雪に埋もれる日に、わたしたちは恋人同士になれる。美しいイメージだ、と想った。
幻の、《サイゴン》に降る雪の、純白のイメージを想起する。…熱帯の雪。
スタッフに言われて、少女は、声を立てて笑った。わたしを振り向く。そして、これまで以上ににこにこ微笑み、わたしに親指を立てた。
…Good !、あるいは、O.K. ! だろうか?
一瞬、意味がわからなかった。
カフェを出た後、スタッフに言った。
「なんて、言ってた?彼女。」…うーん、と唸って、「たぶんね、彼女、結婚の約束をしてくれた、と想ったみたい。」
「なんで?」
「だって、言ったじゃないですか。サイゴンに雪が降ったら、結婚してあげるって。」…ね?と、スタッフは肩をすくめて、「…だから、それは、結婚の約束をした、ということでもあります…」
この町の、永遠の夏の日差しが直射して、アスファルトの路上をきらきら、きらきら、白くきらめかせる。砂埃が舞い上がり、こまかく光る。熱気を孕んだ風が吹く。…雪。
北海道にも夏があるのだ。この熱帯の町にだって、雪が降る日が、いつか、来るかも知れないではないか。そんな気がした。世界が、終わるまでの長い長い、途方もなく長い、永遠に近い時間の中の、いつか。一日くらいは。
だとしたら、ほぼ、永遠に近い長い時間をかけた約束を、わたしは彼女にしたことになる。
「…そっか。」
わたしは独り語散るようにつぶやき、理解した。彼女が、たしかに、永遠を手にしたことを。
Seno-Lê Ma
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