小説 op.2《サイゴンの雪》⑧…熱帯の町に、雪が降るとき。恋愛小説
Fallin' Snow
ở Sài Gòn
サイゴンの雪
不意の暴力の被害者でもあるかのように、私の体をなぜ、拭き、介抱する。侘びの言葉らしい言葉をさえ、私にかけながら、いっぱいに涙ぐみ、その涙が耐えられずに零れ落ちた瞬間に、
破(phá)
雨が降る寸前の白さが純粋に支配した空があって、見上げれば極端な近さで雲がすぐそこにあるが、それが高山の都市固有の、地球上において特殊な風景だということを、Thành はまだ知らない。路面のコンクリートの上をあざやかな蛇がうねりながら這っていくのを一瞥し、学校に行かなければならないが、行く気にはなれない。そこで、彼は少女たちのさまざまな目線を浴びなければならない。彼は美しい。それを、彼自身だってよく知っているし、誰もがそれを知っている。同じ意図を持った、さまざまな固有のたたずまいと、さまざまなそれ自身の必然性を持った視線に絡娶られるのを、最早、彼は好むことができない。朝の早い時間に、多くの子どもたちが親のバイクの後ろに乗って学校に連れて行かれるのだが、そのまばらな人の群れを目にしながら、この話し声とバイクの無数の騒音の中に、人間種の繁殖力の強さをはっきりと意識する。自分たちの。君は彼らとは違って、自分で、自転車をこいで学校まで行くのだが、すぐに道を逸れて、松の木の茂った道に入って、低い丘の上に行ってみる。針葉樹の葉の群れが緑色に煙る。その辺りに行けば誰も来なくなる。君は知っている。この美しい町にはもういられない。姉はいつか彼らのどちらかか、どちらをもかを殺してしまうかも知れない。姉がそうしないなら、姉がそうされるに違いない、どちらかか、どちらもかに、張り詰めた糸がずっと震えながら張り詰めていて、はじかれるたびに音を立てるが、その音は空間を共鳴させ続け、この響きもろとも、崩れ落ちてしまうに違いない。姉は、あまりにも衝動的で、暴力的にすぎた。半分しか血のつながらない姉は。君は思う、私は逃げ出さなければならないと、君はそれを知っている、私は、もう忘れてしまえ、という父から目を背けながら、あの十四歳のとき、父は言った。次の日の朝、潤一と言う名の、彼は、忘れたほうがいい。君のためにならない。とはいえ、私は知っていた。私の手は血で汚れている。誰の?母の、そして、父の。もちろん、彼女は一切血を体外にもらすことなく死んでしまったのだから、私は彼女の血など一切浴びもしないどころか、触れさえもしなかった。彼女の体内から生れ落ちたとき以外には。それは、信じられないことのように思えた。肌に触れる実感として。彼女を殺して仕舞ったのに、私はその血に触れることさえなかった。あれほど、放出されるその体液に触れたというのに。かつて、その体内の中でも、血どころか、つながってすべてを共有してさえいたと言うのに?あくまでも別々の生命体でありながら。崩れ落ちる前に、と君は思う、逃げ出さなければならない、何のために、守るために、何を?高山の霧雨がいつものように、誰を?いつの間にか、どうして?降っていて、霧なのか雨なのか判断さえ付かないままに、母は彼に同調して言った、彼女の夫に、その通りだと、潤一という名のその男は、お前は、ちょっと、悩んでいただけだから、何も気にすることはないと。いつも、彼女はしずかに支配者のように笑う。久恵という名の、その、溢れかえるほどの、無私の愛だと彼女本人に自覚された感情をこれ見よがしに表情としぐさに表現して。私はそれに目を背けさえし乍ら、君の目の前で、周囲の全体で、まだそれが高山固有の特殊なものなのだということに君に気付かれないままの、あの、すべの色彩の鮮やかさが喪失されてしまった、やわらかい色彩の鮮やかなやさしい氾濫が、それらは繊細な沈黙のうちに存在していたのだが、姉を連れて、高山を降りた降りた地上の遠い太陽の下の、強烈過ぎる光線のもとの色彩が、すべてのものを光にくらませながらむせ返っているのを、すさまじく暴力的な色彩だと思う。あまりにも輝きすぎる反射光は、その色彩を焼き尽くしてしまい乍ら、輝かせ、君を先導する姉に従い、彼女が時に色仕掛けで捕まえるバイクの後ろに乗って、少しづつ、すこしづつ西南に向かう。私が媚を売れば、と、Lyは知っている、かたっぱしから男たちは無防備に、私に従わざるを得ない。私が、と、私は美しい。彼女は知っている。少し頭が悪そうな媚をさえ作れば、誰もが。サイゴンに。そこに行けば何とかなるはずだった。何が与えられ、何が報いられ、何が得られるわけではないが、そこにさえ行けば。君は雑貨屋に入って、老婆に拳を一つ二つくれて、金銭さえ奪いながら、西南に向かう。呼吸が止まりそうな詰められた息を吐きだして立ちくらみを起こしながら倒れるその老婆の髪の毛は染められて異常に黒かった。つやさえなく。美しい姉を何とかしようと、緩慢な進行しかしないバイクに、長距離移動は望めない。無駄口を叩くばかりで、バイクの前に乗った男たちは、結局はつれない姉に、最後には、呆れたような、なじるような顔をして、無害なまま立ち去ってしまうのだが、あの男だけは自分の一人暮らしのアパートメントの前に止めて、姉を連れ込んだものだった。君は姉がどうなるのかは知っているし、騒ぎ立てるべきなのか、どうなのか判断する前に、ややあって、姉は待っていろとしぐさをくれる。強制的なその命令に、とりあえずは従うしかない。不貞腐れた顔をした姉が男をやや先導しながら彼のアパートメントに入って行くとき、もちろん彼女は立ち並んだ同じドアのどれが彼の部屋の中か知らないのだから、一度通り過ぎかけて男に笑ってたしなめられるのを、君は不意に、声を立てて笑って仕舞う。思ったよりも短い時間で、部屋から出てきた姉は、男をそこに残したまま君の手を引くそぶりを見せながら歩き始めるが、角を曲がったとたんにくず折れるように身をまげて泣きじゃくり始めた姉を、君は唯立って見つめていた。君は彼女を、いつものように抱いてやるべきだったかも知れない。あの男の背は高く、刈り上げられた髪の下に中東の人のような堀りの深い顔を持っていた。右腕に刺青を入れて、色のない仏教由来のそのヒップホップ調の図柄は、確かに美しかった。土の路面は乾ききっていて、時にバイクが通り過ぎる。向こうに見事な竹林が茂る。ここで、彼女は抱かれることはないだろう、君に。ベッドに寝転がり、仰向けのまま、これ見よがしに裸体をさらした男に吐き気がするほどの怒りを含んだ一瞥のあと立ち去って、汗ばんだまま、体を洗い流しさえしなかった姉の体に直射日光が刺して、Lilyの身体がさらに汗ばんでいくのを、君は知っている。
君が Ly に手を伸ばそうとする寸前に、姉は立ち上がって、歩き始めるが、Không sao đâu 誰にでもなく口走る no star, where ? 彼女の声を聞く。だいじょうぶよ。熱帯の日差しが、影をさえ強烈に刺している。よく、燃え上がってしまわないものだ、と君は思う、すぐさま、すべてが一気に燃え上がって、燃え尽きてしまいそうなのに。君は思う、同じことの繰り返しに過ぎない、と Ly は思う、君は、それが自分が望んだこととはいえ、逃走のなかで繰り返されるのは同じことのヴァリエーションにすぎない、Lily はいらだつよりはむしろ呆然とさえし乍ら、君は君自身が今、嗚咽交じりの荒い息遣いをしているのを知っているが、もともとは自分が望んだことだった、と思った、Ly は、父親を受け入れた当初には、父親が彼女にしがみついてきて、最初はあやすようなしぐさに過ぎなかったにもかかわらず、やがてそれを受け入れた、或いは受け入れざるを得なかった、或いは受け入れてしまったときに、彼が傷ついていたのは知っていた。彼は彼女が未だ生んだことのない子どものように、君にしがみついてきたのを Ly は知っている。君は、誰が彼をそうさせたのか? 彼をそうさせるまでに、誰が追い詰めたのか? 何ものが彼を傷つけ、彼の傷はいったい何なのか? 君は自分をその中に設定したあと、母親を設定しなおす。あるいは同時に。君は、彼を追い詰めたのは母親だと思う。自分もその中に入らざるを得ないことを知っている。君の弟さえも。あらゆるすべて。思いつく限りの。傷はどこにある? なぜ、傷をなど探す必要がある? 彼女が単に、美ししすぎただけかも知れない。犯罪的なほどに。私は美しい。毎朝、霧の中の野菜園に出掛けていって、すぐにカフェに繰り出し、やがて友人と飲み始めるには違いない彼のどこに、どんな?彼は傷ついている。傷ついた子どものように。彼は何かを失って仕舞ったようにしか、Ly には思えない。夜明け前に弟が、寝る前から行っていた逃走の計画を、君の許可もなく実行し始めたときに、君はその弟を信用しきれないままに、出掛け際、目を覚ましたあの新しい父がドアのところまで駆けてきて、とはいえ、何を言うわけでもなく、唯、立ちつくすようにそこで、表情を喪失した無表情で、二人を見つめていたときに、君は自分が彼を傷つけていたことに気付く。彼は彼女さえふたたび失ってしまう。彼はチキンだ。何もできはしなかった。君はここにはいられないことを知っている。彼は死んでしまうに違いない。わたしを抱いたあの男も、今、彼のアパートメントで、やがて死んでしまうに違いない。傷ついた彼らが生きていられるはずもない。私は、と、Lily は思う、常に加害者だ。触るものすべてを傷つける。空は遠い。今も、嘗ても、常に、私は、高山の上の町にいたときにすら、そんなことはすでに知っていた。高山のてっぺんの町でも、いつでも空は遠い。近くに存在していてさえも。もっと近くへ。接近すれば接近するほど、接近の果てにはやがて、空の境界線をいつかは越えてしまう。暗い宇宙へ。君は彷徨い歩いているわけではない。明確な行き先を設定していないだけだ。君はサイゴン近くの南部の町を歩き、いずれにしても、たどりついたサイゴン近くの南部の町で、今、君は、私の行き先など、思う。ない。姉に出て行けと言われたままに、私は、そして、そのとき、彼を一瞥することさえもなかった。私は。右へ折れるか左に折れるか、それさえ自由なとき、その選択がどれほど困難なことか、君は知っているか?私は知った。今、そして、あの高山の町でも、私は知った。私は知っていた、学校へ行かずに、丘の上を歩き、私は知る、松の林に注ぐ光の美しさを、君は知っているか?君はその見慣れた光線を、しずかに、輝く色彩の鮮やかさそのものを奪われた上に、色彩それ自体のどうしようもない覚醒を充溢させた鮮やかな沈黙を、結局のところ、目にしている色彩に触れることなどできはしないという指先の、当然の絶望を、君はビンジュンの、どこまでも続く平野の道路を歩きながら、Lily は知っている。褐色の白百合は、必ずしもすべてが報われるなどとは思ってはいない。彼も、いつかは日本へ帰って仕舞うには違いない。そのときに、どうなるのかはまだ知らない。私はすべてを失うに違いない。例えば、町を歩いて目にする、雑然とした家屋のベトナム人夫婦のようにはならないだろう。熱帯の光が彼の肌さえも灼いたとしても、彼がそれを望みさえしたとしても、彼は外国人にすぎなかった。最初から、決定的に破綻していて、破綻したものそれぞれが融合することさえなく寄せ集まっているに過ぎないなら、膨大な言葉が今、私の中に渦巻く。何も言い表しさえしないのに。こまやかな雨の中に、何をも語りかけることのないままに、松の葉の揺れるのを見ていたときに、Thành は今、引き裂かれてしまった、彼から、私から、もともとのあの不均衡な身体が一致するはずもなかった。同じ形態でありながら。同じ形姿の染色体に支配されながら、いまやそれは鮮明な乖離になって、何から? 距離だけを実の前に広げるが、Ly から。彼女が別の存在であることなど始めから知っていたことだ、体を触れ合うとき、触れ合った皮膚はそれらが別のものであることだけを自覚する。そして、君が君であったことなど一度もない。君の固有性に、君はついに触れることなどできない。固有性、それは単なる存在の条件に過ぎない。朝日が昇っていっているのを、Thành は知っている。引き裂かれてしまった、それを君は知っている。既に、もう少し前から始まっていた日照は、君の視界の中にありながら君に見出されることさえなく、傷つけたことなど一度もなかった。君は、雪を知っているか? 熱帯の朝日に照らし出されて、傷ついたことなど一度もなかった。雪を、目の前に積もった、すべてを白く染め、色彩を奪いきったそれに指を触れれば、体温ですぐさま解けてしまうそれを、君は、知っているか? 触れた瞬間に、雪の結晶そのものに触れ得はしなかったことに気付きながら、君は、濡れた指先が触れていたのは水滴にすぎない、最早雪ではあり得なかったその、君は、何ものによっても傷付けられない。何ものも、君を傷つけ得なかった。Lì Ly は声を立てて笑った後、私を思いあぐねたように見つめ返し、褐色の白百合、雪のような白百合、褐色の、雪のような、白百合、私は百合[hoa huệ]ではありません、彼女は言った、lily は、私に、そして私は Li Ly の髪の毛に手をのばそうとし、そのまま、Ly と、その姉弟の部屋で目を覚ましたとき、うっとうしいほどの熱気の中に、熱帯の温度の中で私の汗ばんだ身体は彼女の気配を探すが、すれすれの距離にあったはずの Ly の体温は、ややあって、シャワーの音で、不在の彼女の身体の所在地を知る。やるべきことは、とても多い。例えば、笹村の死の後始末をしなければならないだろう。スタッフたちも、本社の人間も、今頃私を探しているに違いない。あの、傷ついた Thành を、もう一度探し出してやらなければならない。彼がそれを望むかどうかは知らない。彼はあの日本人が殺されてしまったことさえまだ知らない。私たちが過ごしたのは別々の夜、そして朝だった。これまでもずっとそうだった。いつでも、そして通風孔の周辺だけを外光が照らし出し、それは強烈な逆光を形作るが、目をくらませることなどできない。それを知ったところで、彼は何の興味も示さないだろう。私は薄暗い、無機質な、色あせたペンキ塗りの壁の、はがれ落ちかけた色彩を、結局のところ、町の周辺をぐるぐるとさ迷い歩いたにすぎない Thành は、いつもは少しはなれたところでしかしない「狩り」を、すぐ近くのそこでしなければならない必要性があった。なぜなら彼は空腹だったからだ。一晩、とまった Lệ Hằng の取り巻きの女のアパートメントから、彼女が未だ深く眠っているままに、地味な顔立ちの下に派手すぎる豊満な身体を剥き出しにしたまま彼女は未だベッドの上で、彼女の金銭の隠し場所がどこか見つけられなかった彼は、ややあって、外に出る。振り向くと、半開きのトタンのドアの向こうで、彼女はまくらのひとつを抱いたまま永遠に目覚めることなどないかのような、深い眠りの中に落ち込み続け、彼女は昨日の夜、彼に何もできなかった。寄り添うように体をくっつけて、あきらかに彼を求めている視線の中に何度も飽きもせず彼を絡娶りながらも、結局、彼に何もすることができなかった。これ見よがしに肌を曝してさえも。二十代半ばの、少なくとも彼にとっては若くはないその女の執拗な視線を不意に思い出しさえしながら、入った雑貨屋で、やさしく微笑んで、その中年女が Thành の扇情的なほどの美しさに、一瞬息を飲んだときに、殴り付けられて意思を喪失させた彼女が、それでも最後に、短い猫のような声を立てたが、奥から出てきた男と目が合う。彼女に覆いかぶさって、釣り札の束を掴んでいる美しい少年を男は見出したが、彼が事態を認識するのにかかった長い間延びした時間を、ついには一瞬、滑稽にさえ思い、飛び掛ってきた男から、Thành は逃げなければならない。身をかわし、外に飛び出し、走るが、あの男がついてきているのは知っている。息を切らして。身体が熱気を帯び、汗ばみさえするのにすら、気付かない。背後の罵声を耳の中に聞く。角を曲がって幹線道路に出るが、不意に Thành は身をそらして、道に飛び出す。彼をかわそうとしたバイクが一台転倒したときに、まるで犬のように、さまざまな罵声と、怒号と、音響が、あの男は一瞬渡りかねて立ち尽くし、振り向いたまま立ち止まった君は、ひざの、短い痛みにそのとき、よろめきながら、まるで野良犬のように生まれ、走り出した Thành を、そのトラックは轢き飛ばす。野良犬のように死んでいく。意識が飛び散って消滅したのは、意識さえできない一瞬に過ぎない。朝近く、姉弟の部屋を出た私たちがその騒ぎのほうへ歩み寄ったとき、Lilyは遠巻きの人だかりの向こうに、倒れた死体の意味を感づいて、私の手を掴む。引き戻そうとする手を振り払うようにして、私はそれに近づくが、人だかりをかいくぐりながら、それが何であるのか、私はすでに気付いていた、目にしたそれは、紛れもなく、醜悪な、あの美しい少年の、血まみれの残骸だったが、半分近くだけ残った頭部に、私がそれに気付いたとき、ようやく、私は目にしている事態を理解し、失神しそうな意識の、明滅する白濁の中に、彼女のほうへ歩き出す。Ly は表情をなくして、私の白百合。私だけを見つめていた。涙すら流しはしない。今、この時に、どうやって? 私は Ly の背を押し、逃げ去るように立ち去る。彼らには、あれが、どこの誰かさえわかりはしない。身元不詳の、識別困難な肉体の残骸に過ぎない。あれは誰だ? 不意に、立ち止まった Ly は言った…người bị chết là ai ?, 私を見るでもなく、誰?その視線に私を、あれは誰なんだ? 捉えながら、死んだのは、誰が? …người bị chết nào ?, …ねぇ、私は知らない、誰なの? 誰が?今、彼女は、どうして? 言う。私が、…sao em không biết vậy ? なぜ? 私が知らないなどと言うことが?
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