小説 op.2《サイゴンの雪》⑨…熱帯の町に、雪が降るとき。恋愛小説
Fallin' Snow
ở Sài Gòn
サイゴンの雪
ようやく泣き止んだ彼女がホテルベッドの上に身を起こし、私は、何の意味を持たせるわけでもなくシャワーを浴びながら、体を洗っていることの意味を探す。その単なる惰性の、何が、崩壊して、何が残ったのか、私にはまだわからない。晴れきった空の窓越しの陽光のほうを向いて、逆光の中、彼女は振り向くが、私はシャワールームを出たまま、立ち尽くすように、彼女の表情を探すものの、光の中に、それは捉えられない。文字通りシルエットとして、向こう、平野の果てまで、青空が唯広がっているのがわかる。空気は乾きと湿気を共存させた気配の中に、彼女が身をずらしてベッドの上にあけた空間に座る私を視線に捉え乍ら、Lyは微笑み、その褐色の皮膚の曲線の上を、光の細かい反射がかたちをくず折れさせ続けながら這う。泣いている私にすがるように、私をひざに抱き乍ら、anh…anh…彼女は、ただ、私を呼んだ。涙が止まらない。かたわらで彼女は、私は涙が止まらなかった。かたわらで、彼女は私に呼びかけ続け、なぜ? そして私はただ泣きじゃくるにまかせ、いつ、と Ly が言った気がした。Anh… 幸せになれますか? Anh… いつ? わたしは anh… わたしたちは。私は理解している。彼女の《言葉》を。Anh… あまりにも、彼女は言っている、残酷すぎる、と、彼女は言っていた。私は知っている。それらの繰り返されるただ一つの音節の反復が、anh… 目を開けると、そのひざの上で見上げられた視界の中に、彼女すら、再び、涙を流していたのに気付いた。「…サイゴンに雪が降ったら。」私は言った。
― …Rồi, 彼女は微笑み、tuyết sẽ rơi ở Sài Gòn , 私の頭を撫ぜながら、あした、と彼女は …ngày mai , その髪の毛が垂れ落ちるにまかせ、言う、わたしはもう知っています、と、彼女は言った、視線に私を捉えたままに em đã biết. そして、振り向き見た Ly の視界に、不意に、晴れ上がった空の青がきらめくのを Ly は一瞥した。彼女は私に口付けた。明日、サイゴンに雪が降ります、と言って、tuyết sẽ rơi ở Sài Gòn rồi. 彼女は、その唇の触感の中に、彼女の息遣いとともに、私は目を閉じる。
サイゴンの雪
目を覚ます。朝が来たことには気付いていた。私は目を覚まし、まどろみ、まどろんだ意識の中で、それが明晰さを取り戻していくのにまかせ、朝、私は目をさましたが、Lì Ly がいない。ベッドの上の、からっぽの空間を撫ぜた後、かすかに体温の痕跡だけ残っている気がしたが、私はややあって身を起こし、シャワールームの中にも、どこにもいない彼女を、私は探さなければならない。どうやって?頭の中でだけ、彼女の名前を呼んでみても、うなだれてベッドにもう一度座り込むしかない私に、記憶を呼び覚まそうとしてやまない、白い、おだやかな光線が部屋の中を満たしているのに気付く。確実に、いつか、何度か経験したことのある、冷たく、ただひたすら白んだ光線が、記憶のあらゆる部分を覚醒させようとするが、何ものを思い出させるわけでもない。意識に、何かの小さな切片が触れようとした瞬間に、私は立ち上がる。カーテンを引きあける。確かに、雪が降っていた。窓の外の熱帯の平野を、向こうの果てにまで、降り積もった雪が埋め尽くし、いまだ降り止まないそれらは、空間のすべてを、光さえをも、冷たい白い色彩の中に埋め尽くす。すべての色彩は、既に失われた。すべては、ただ、白い。探さなければならない。私は、彼女を。この雪の中に、彼女が生まれてから一度も出会ったことのないこの雪の、純白の結晶の膨大な堆積の中に、彼女は凍えているに違いない。褐色の白百合は、つめたい雪の温度の中に、彼女が凍り付いてしまう前に。私は、着の身着のままに、飛び出すと、突き刺すような冷気と、反射光の微かな温度の共存した、醒めた大気が肺の中を撃つ。ふくらはぎ近くにまで積もった雪が足を、踏み出すたびに一瞬抱いたあとに、すぐさま雪は崩壊し、外は交通さえも途絶えて仕舞っていた。誰もが初めて見る雪に、ただ、戸惑うしかない。何をすればいいのかさえわからないままに。立ち尽くし、警備員は信じられない顔をして、除雪という仕事さえ思いつかずに、ただ、何かをののしるしかない。空間は静まり返り、私の息遣いと、果てまでも、白く染め、白く染まり、降り続ける雪は私の肩に触れ続け、その、雪の、抱きしめて離さない接触が、すぐに、とけて、失われてしまう。Lily、褐色だった白百合。立ち尽くすことさえできない。探してやらなければならない。彼女を。探し出して、抱きしめてやらなければ、雪のこの純白の中に、凍える、雪の、彼女の、その、
2017.8.13-.10.01.
Seno-Lê Ma
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