小説 op.2《サイゴンの雪》⑥…熱帯の町に、雪が降るとき。恋愛小説









Fallin' Snow

ở Sài Gòn

サイゴンの雪









「笹村さんは私が殺して仕舞いました。」Lệ Hằng は言った。にもかかわらず私たちは何も知らない。「彼の恋人には、かわいそうなことをしました。」自分が知り得たこと以外をは。「けれど、仕方がありません。私がそれを望みましたから。」感情的な動揺も、いかなる高揚もなく、淡々と、遺族に気を使うような悲しげな目で私を捉え続けたまま、何をもってしても、君を止めることなどできなかったろう、私がその場にいてさえも。「あなたは、それを望みますか?望みませんか?それだけが気がかりです。」彼は言い、触れた瞬間に壊れてしまいそうな繊細な笑みを私に投げるが、不意に、「もし、望みません、と言ったら、あなたはどうしますか?」と言う私に、その笑みを壊すことなく、「もう、して仕舞ったのに、望みません、と、今、言ったら。」Lệ Hằng は私の手を一度握って、「しません。決して、私は、しないでしょう。」少女は傍らで、私と彼の、彼女が一切理解できない音声を聞きながら、背筋を伸ばしたまま、やがて立ち上がって、窓のカーテンを引き開けるが、雨の中の白んだ風景の光が、ただ、やさしく差し込み、人を一人殺してきたばかりには違いないこの美しい人間の横半分に光を与え、半分にあざやかな青い影を与える。夜明け前に部屋に来た彼が、仕事を終えた人のように、シャワールームで汗を流している最中に、空の夜明けは夕暮れのような色彩に満たされた後、白み始め、夜の暗さの断末魔の赤らみが、ただ、内側から発生させた白さに消滅していくのを、私は窓の向こうに感じ、起き上がって服を着た彼女は、不安げに私の顔を覗き込むが、どうしたの?、と。彼女の眼差しは言っていたのだった。どうしたの?シャワールームから出てきた Lệ Hằng は、彼の身体的特徴を、最早隠そうともしない。彼の体を包んだ、上半身のシャツの下から、彼の胸のふくらみは、少女のそれとは比較にならないほど豊かに曲線を描き、パンツに描かれる、腰のくびれから臀部のあざやかなふくらみ、そして、筋肉質な鹿のような両足、これらの身体が、私の目の前で、衣擦れ以外の音も立てずにしなやかに動かされ、彼に、彼が笹村にしたことを話して聞かされる間中、半ば、彼の美しさにいつものように見とれさえしながら、驚きもなければ、悲しみもない。不思議なほどに、彼がそうしたのならそうしたに違いなく、彼がそうするならそうするに違いない。あらゆる感情が、一時、それらの存在を破綻してしまったかのように、私は、唯、自分の中身が、静まり返っているのを知っている。中身が、中が?内側が、どこが?あらゆるところが。雨の轟音以外には。一度もつけられたことのない古い Panasonic のブラウン管テレビの向こうの窓越しの空は、ただ、白く、少女は、まるで、私が彼女の夫であることを主張するように私の横に座り、彼女は背筋を伸ばす。ソファーの上に胡坐をかいたまま、彼女の右手の指先が、左手の指先のつめをなぜる。穏やかな窓越しの光は、褐色の肌に、褐色のままに輝きをあたえ、濃い影を与えた。「彼女はあなたを愛していますね。」Lệ Hằng は言った。「あなたも、彼女を愛しています。」彼女の弟も、と私が口の中で言うのを、笑んだまま諌めるような眼差しを送り、「そうじゃないでしょう?そうじゃないことは、あなただって知ってる。」昼間に、ホテルの掃除係が部屋に入ってくるまで、笹村が死んだことは誰にも知られないままだろう。「Thành はまだ、眠っている。たぶん。Phư フー  の家で」Lan は、何もできないまま、笹村のそばにいるだけだろう。唐突な悲劇が、今、彼女を襲っているのだった。「知っていますか?」Lệ Hằng は言った。あまりにも女性的な上半身の上の、あきらかに女性のそれとは違う、女性的なほどに美しい男性の顔を私に向けて、彼の体は向かいのソファーの上で、深く、くつろがされたまま、「彼女は Đà Lạt で、彼女の父親に強姦されていました。」私は彼の眼差しに捉えられ続けたまま、「彼女の実家はそこにあります。山脈の上の、頂上に作られた都市です。」彼の指先は上を、指差していた。「いつからかは知りません。彼女が身体的にそれができるようになってからでしょうか。できないことは、できませんから。」彼は一度、声を立てて笑い、「彼女の母親だってそれを知っていたはずですが、何も言わなかったようですね。他の女に取られるくらいなら、自分の娘で代替されたほうがよかったのかも知れません。あるいは、自分がするのがいやだったのか、何だったのか。」彼の指先が、ゆっくりとくず折れてその人差し指が親指に触れるのを、私は見る。「人形のように。身じろぎもせずに父親に抱かれていたらしいですね。Thành が言っていました。丸めた毛布のようだった、と。」反対向きに開かれた手のひらが、空中に、静止して、動きを失ったまま「父親が出て行って、二人だけになると、彼は彼女を慰めに抱くのですが、」叫び声すら上げることなく、彼女は叫んでいたに違いない。何を?私にはわかりません。死んだ人形のようだったと、Thành さんは言いました。窓越しの陽光の中の、その華奢な手に、「父親がそうしたように、Thành さんもそうすると、彼女はゆっくりと人間に戻っていくと、Thành さんは言っていました。」いつ?私は目を細め乍ら、さあ、と彼は「彼女の極端なくらいの、異性に対する潔癖症は、そのせいもあるかも知れませんね。」あなたは、殺してしまったんですか?不意に、私が彼の言葉を切ったとき、Lệ Hằng は、一瞬の沈黙の後、ややあって、声を立てて笑う。彼女の両親ですか?「いいえ。会ったことさえありませんから。」少女も、その声に反応して微笑んではみるが、「もし、会ったら?」









「さぁ…」私と彼とを交互に不安そうに見やった。「そのとき、判断できます。倫理的に。」…ね?「彼女たちには、サイゴンで出会いました。二人が実家から逃げ出してきていたのを。長い距離がありますから、いろいろと悪いことをして、このあたりまで来たようですね。」Lệ Hằng は笑った。彼が身をかがめ、その髪の毛が垂れ下がって、一瞬その顔を影でうずめるが、私は不意に、どうしようもない悲しみに襲われる。喉を中心に、神経系の中を冷たいやすりで研ぐような、さまざまな明確な意味を束ならせた解析不能な悲しみが、無言のままに私だけを襲い、「どうしましたか?」少女のため、ではなかった。たぶん、笹村のためなのだろうか。私たち以外の、誰か他人のために。なすすべもなく、無防備な悲しみが体中に点在して、つらなり、反響し、くず折れさせ、かたまったまま少女は私を胸に抱こうとするが、湿度を持ったむせかえるような彼女の体臭の中に、Lệ Hằng は普段着のままに、いつものように警備員に手を振った後、夜、深い時間、或いは、まだ、朝にならない早い時間に、ホテルの廊下は暗く、非常灯以外の照明は消されている。赤、緑、さまざまな光の色彩が、彼の身体を照らしたに違いない。ノックすると、ややあって、Lan が出てくるが、彼と彼女は今まで会ったことはないはずだった。妹よ Em ngữ đi 寝ていなさい、彼は優しく彼女の肩をたたき、当然のように部屋の中に入るのを、Lan はただ、不可解に思いながら眺めると、ベッドルームの中に消えていった彼は、ベッドの上に上がり、まだ眠ったままの、裸の笹村の上に覆いかぶさる。Lan はドアの近くに立ったままそれを見ているが、何が起こっていて、何が起こり得るのか、彼女の認知し得る範囲を超えているそれは、彼は長くはないナイフを出して笹村の首筋に当てた。動脈から声帯をまで一気に傷つけたそれは、彼の目覚めるより早く大量の血を一気に噴出さしめるが、意識のないまま目だけを覚ました笹村の、何をも見てはいない見開かれた目に見つめられるまま振り向くと、壁のすれすれの距離に、Lan は背筋を伸ばして立ち尽くしていた。表情という表情がすべて剥ぎ取られた純粋な無表情を晒して、Lan は、笹村が既に死んでいるのは知っていた。仮に生命機能は未だに保持されていたにしても、既に致命的に破綻したそれらは、文字通り破綻した四肢のもがきの中でのたうつ。空気の漏れたような低い音声の無造作なつらなりとともに。Lan は既に知っている、既に、なすすべもなくそれは破綻した。Lệ Hằng は身を起こしながら女に近づいたが、自分の至近距離の接近にも、その瞬間、何の反応も示しはしない、その女から身をかわして、部屋を出て行く Lệ Hằng を、Lan は彼がいなくなって随分経った後で、それを認識したが、そのとき、Lan は床に座りこみ、意識が、取り戻された意識を意識することを、必死に取り戻そうとする距離感の中に、あまりにも近すぎる至近距離の中で見つめあったあと、少女は、腕に抱きしめ合いもしないままに、私は彼女が自分から服を脱ぎ捨てるのを見る。









雨が上がったばかりの、白ずんだ空が窓の向こうに、混濁した光の束になって、彼女の伸ばした指先が私の唇のかたちをなぞろうとするが、不意に、声を立てて笑う彼女に、どうしたの?私は言った。Anh nói gì ?  彼女は、くぐもったようなあのやわらかいアルトで sao anh nói vậy ? 言い、その音声を私は耳に聞き、「どうしたの?」私は言った。声を立てて小さく笑って、少女は、上目越しに、その目で Đó ý ta nó… 言う。 私のまぶたの どういたぁのぅ 形態を追いかけながら、Đó ỹ tá nó… 彼女は言う。耳を澄ましながら、Đò sĩ ta nò… 私は彼女の唇の動きを見る。思い惑いながら、決して確信されて開かれることのない、あいまいな唇と、あいまいな動きと、そして、自分が裸になったことさえ忘れてしまったように、それ以上の何かを求めるわけでもなく、私の上に覆いかぶさったまま、Đo ý tá nò… 笑みに、顔を崩し、私をのぞきこむみように、「なに、かんがえてる?」その音声を耳に繰り返して、gì ạ, …khó 彼女は笑い、Nà Nhĩ cảnh… 八つものシラブルを、è thể rũ nò… 舌の上に模倣して笑い、Nà Nhĩ cảnh gà è thể rũ nò… 父親が彼女の体の上から離れた後で、ベッドの上に一人残されているのに気付くが、nà nhĩ cang gà é thề rũ núo… 硬直したようになって、そこに仰向けに横たわっていた彼女に弟は近づいてその頭を撫ぜてやったとき、そこに弟がいたことに彼女は気付いた。なにを考えてるの?今、なにを

-Anh nói gì vậy ? 言ってるの? 昏いあらゆる感情が渦になって溶解しあうことなく、とはいえ、しずかに喉の奥にあって目覚め続けているそれは、彼女は自分の頭を弟が撫ぜ続けて居るのを知っている。その、華奢で、女性的な、まるで妹のような弟は、 Anh noai gì vậy… 私は言い、毛づくろいをする猿同士のような愛撫が、あの時、不意に弟は父を模倣するように、彼女に、 ăn nói ghì vây… 彼女は知っている、性欲の結果とはいえないその行為が始まって仕舞えば性欲の渦をまかせ、飲み込ませてしまうには違いなく、結果として同じことにすぎないそれは、ằn noai gì vậy…むしろ、彼女は弟を自分から受け入れさえしながら、感覚し続けるのは、自分の身体の硬直がとけていくのを、弟は唇を、彼の父がそうしていたように押し付け続け、知っている。anh noai gì vậy …彼女が朝、不意に視線のどこかであの新しい父の姿を探してしまったが、高山の冷たい外気に触れたときに、いつも気付かされるのは、自分が特殊な存在であることだった。確かに彼女は特殊であるには違いないと、なぜなら、anh nói gì vậy 「anh nói gì vậy」こんなことは、誰もしていないことを知っているからだ。少なくとも彼女の半径1キロメートルの中に。「なに、いった?Na nĩ ỳ tà… 彼女の視界に、朝早いカフェの中年の女が見せの前を掃き掃除しているのを見留めるが、Nà nhĩ tà… 一瞬、息を潜めながら、彼女の特殊性が解消されえることなどあるのだろうか?彼女は、Nang nhĩ ta… 知っている、既に、そして彼女は、この高山の上の天空都市の空はあまりに雲が近く、曇り空からそそぐ光が、あらゆるものの色彩の過剰を喪失させながら、あざやかなna nì ỳ ta… それ自体の色彩を描き出す。あの、あそこで掃除している痩せた、中年の女のありふれた、すさまじいほどの特殊性に、彼女はその目を疑う。かつて、Nàng nhĩ ta…彼女のような存在など、存在し得たことなどなかった。「Khó quá」困難すぎます。むずかしすぎるわ 彼女の存在は、痛さそのものだ、彼女の視界の中で、có ưa その、目に映るものすべてが痛い。có ủ à …なぜ、そうなのか問うすべすらなくkhò ưa… ただ単に痛いものに対してkho qua… なしうることなど何もないkhó quá… 彼女は、「khó quá」今、ここで、私が死んだらどうしますか?Lệ Hằng は言った。彼女自身が痛みそのものでしかなかったことさえも彼女は、「今、ここで、私が死んだら、どうなりますか?」微笑みながら、私を見つめ、「例えば、あのナイフで、」Lệ Hằng は自分の首先に指を当て、それを暗示し、かつて、私は彼を見つめ、与えられたことなどなかった、奪われたことさえも、何ものも、かつて、何もかも、何ものにも、「死?そう、死さえも、」彼は言い、何ものも、奪われたことも、何ものをも、与えられたことさえも、何によっても、「私たちには無力です。」なかった、何ものによっても、かつて、「私は、誰も殺しはしなかった。」私は Lệ Hằng の脇を通り過ぎ、笹村の部屋に、足をしのばせながら、ドアに鍵はかかっていない。





Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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