小説 op.2《サイゴンの雪》③…熱帯の町に、雪が降るとき。恋愛小説









Fallin' Snow

ở Sài Gòn

サイゴンの雪









「あなたは、…」私は Lệ Hằng に何か言おうとして口ごもり、急ごしらえの祭壇の花々は荒々しいほど無造作に飾り立てられていて、白く、暴力的なまでにただ、白い。「私は日本語で言う、バイセクシャルですが、」Lệ Hằng は言い、その花の純白の真ん中に金色の花弁が静かに立っていて、「それは誰でも知っていますし、」私は、「今までに」細かな粒子が零れ落ちそうなほどにただ、形作った金の集合の「私たちは、今までに、確かに、」その周囲にわずかの小さな虫たちを、「誰かを、」奉仕させながら花々は「隠された意味もなく、誰かを」純白のままに「愛したことが」陽光の中で、「事実として」唯ひたすらな白さそのものとして「あるのでしょうか?」もはや無慈悲なまでに「隠しようもない」その「事実として」白さだけを示す。あなたは、「ありますか?」Lệ Hằng はその微笑を一切崩すことなく、私は、あるともないとも答えあぐね、「私にとっては、他人は、愛する、愛さないかの対象です。性別は、他人の属性に過ぎません。わかりますか?事実として、誰もが知っています。」私は、彼のグラスにビールを注ぎ「じゃあ、私も愛しますか?あなたは?」ええ、彼は言った。あなたがそれを望むなら。









望まなかったら?君はどうするのだろう?ためらいの中で私は沈黙し、彼はすでに知っていたに違いない。私が彼を愛していたことをは。彼はそっと、身を寄せて、一瞬、その唇を私の唇に合わせた。私は目を閉じる隙すらなく、視界のすぐ近くに接近した彼の顔は、その近さと瞬間の短さの中で、焦点のあわない残像となって形を崩し、あわてて私は眼差しのうちに彼の存在を追いかけるが、そのときにはすでに、唇は離れていて、私のすぐ横に彼はいて、そして私に微笑んでいて、もはや急速に記憶になっていく触感の崩壊に唇はあがなうが、それがむしろ、その記憶に化して行く速度を加速させた。もはや完全に失われた触覚の現実は、今、この瞬間に、取り戻され想起された失われた現在でしかなかった。あなたは、と私は、あなたを見ています、と、「あなたの友人 yêu điên が。」言った Lệ Hằng の指先は無数の白い百合の花のオブジェを指さし、あの褐色の少女は花の横で立ったまま、私を見つめていた。「彼女の仕事は今、すべて終わりました。ですから、彼女はもう忙しいのではありません。彼女は、あなたを待っています。」Lệ Hằng、そして彼女は私の横顔をその視界の中に撫ぜて、「行きなさい。」Lệ Hằng は言った。立ち上がった私を追う彼女の眼差しが、私の彼女に近づくほどにしずかに開かれていくその瞳孔の中で、その少女は不意に背を向けて先導するように奥に引き込み、私は彼女を追って歩きながら、ただっ広い炊事場の女たちの集団の群れを通り抜ける。彼女たちがあげた歓声なのか、怒声なのか、何なのか、その連なりを背後にした裏口の草地の、向こうの広大な森林の手前で、放し飼われた牛の中の一匹が彼女を目で追った。生き物の臭気と、草の濡れた臭気と、やや遠くで森林に降りやんだばかりの雨が際立たせた森の香気が、混濁し得ない層になって周囲を包む。森林の手前で彼女は立ち止まり、身を隠すわけでもなく、すれすれに近づいた私の頬を抱いて、私を胸に抱いた。ひざまづいた私は、窒息させてしまおうとするかのように押し付けられたその体躯の中で、彼女の匂いをいっぱいに吸い込み、彼女も、そして私の手がその背中を撫ぜるに任せた。時間は経過し、経過した時間は時間の経過さえ感じさせずに音もなく崩壊していく。その、崩れ去っていく感覚だけを私は実感しながら、少女の視線は私でそのすべてを埋め尽くす。目を開けることさえできない、か細い力で押し付けられた遠さの消失した近さの中に、私は彼女の胸元の乾いた干草のような体臭を嗅ぐ。ややあって唐突に、遠く、背後で立てられた少女を呼ぶ声のいくつかの群れに少女ははっきりとした舌打ちし、走り去っていく彼女を私は目で追うのだが、遅れて炊事場の女たちの喚声と雑多な表情の入り混じった好色な視線を超えて、Lệ Hằng の隣に帰ったとき、Lệ Hằng は、私もそうしますから、今日は、あなたはここに泊まればいい、と言った。私は事実、そうしたのだったし、私は彼に言われるままに、そうしようとする。私は思い出す。ベトナム語を解さない私に、彼女は多くの時間を割いて、私に数少ないベトナム語を教えたものだった。その少女は、そして、それらが必要だったのかどうか私には最早わからない。彼女のまぶたに手を伸ばした。いつかの、まだ夜の浅い薄明かりの中で、朝まではいくらでも時間があることを、彼女も私も知っていた。仰向けに横たわったホテルのベッドの上で、私の裸の体の上に覆いかぶさるように馬乗りになった彼女の皮膚からは、あの、灼かれる干草のような匂いがする。彼女が服を脱ぎ捨てるのに時間はかからない。息を吸い込んで、自分の顔の皮膚に触れそうなほどに近付けられた私の指先の匂いをかいで、これは「これは、」何?「ベトナム語で、」これは、「何?」私の音声を聞く。「mi mắt.」彼女は答え、私の、…Mỹ mạt 小さく息を吐いて、呼吸だけで笑いながら、彼女は沈黙のままに、そうではありません、と、私はその笑い声の意味を知っている、彼女のかすかな身体表現を、…mì mạc 私のすれすれに伸ばされた指が、言語そのものよりも能弁に、触れる寸前の空間の中に滞留し、…mí mât いいえ。違います。…mị mảt 雨期の雨の音は窓の外でやまないまま、…mi mắt 地表を、それは蒸らしているに違いない。水はけの悪い路面に水溜りを作りながら、それらは撥ねて、…mi mắt 彼女も「mi mắt」言った。私は「まぶた」いつ帰ってくる?父は言った。潤一と言う名の。「これは?」彼女の瞳の、何?これは「何?」私を捉え続けるままに、私は彼女を視界に捕らえ続け、「lông mày」その至近距離の混濁した形態と、色彩と、空間の…lóng mai暗さと明るさの共存、 …lonh mày音の残像をなぞって、あてずっぽうに、いたずらに繰り返されるささやきの音声が、彼女の耳を占領しているに違いない。…lôn mãi 寸前の記憶とそれらは重なり合いながら、息を吸い込んで、…lỏn mãi 私の指先は彼女の顔の輪郭を空中になぞって見せるが、 この近さの中で…lông mày 帰ってくるのか? 父は言った 、潤一と言う名の、「…dạ, giỏi.」小柄で、いいわ。若い頃の空手のおかげでいまだに腕は太いままだ。…lông màylông mày」どこへ?「まゆ」眉。帰るって、瞬く。どこへ?「これは?」かすかに「mồm ,…không … môi 」ひらかれた唇の中で、彼女がそうしているように、私は自分の音声に耳を澄まし、時に、私は彼女を殴りさえしたものだった。…mơi すべてを聞き取ろうと、すぐさま消え去っていく音声の、にもかかわらず…mọi その残像だけでも掴もうとするが、ささいな言葉を介さないささやきのもつれた果てに、少女の体は息づき…mươi 私は、既に知っていた、彼女の体温に触れ続けていた。言葉が通じないからではない、ただ、純粋な苛立ちの中で私は時に彼女を殴りさえし、知っていた、今、目の前に彼女が存在していることを…mo ý 耳を済まし、この残像の連なりに、それを聞き取ろうとすることしか、私には最早できなかった。褐色の少女は時に、涙さえしながら私を見上げることしかできなかった。私の暴力に屈したわけではなく、ただ、受け入れて。…muôn y 瞬間に、音声は迷いのない鮮やかさで消滅し…moi 二度と戻りはしないそれらを、…môi môi」どこで?「くちびる」唇。ここで。「一回、」今。「全部、粛清するから」笹村が言った。私が彼女に加えた暴力も、あるいは、繊細な口付けも、唾棄すべきものにすぎなかった。笹村はお冠だったし、何をしても君を傷付けて仕舞うなら。代わり映えしないデータの何かが彼の逆燐に触れたのは事実らしかった。私は知っていた、彼女もおそらくは。それらが何をも報いることなく、何ものにも報われもしないことを。「そうでしょう?水沢さん。どう思う?」事実そうだった。笹村はいつも、しゃくりあげるように話す。なのに、なぜ?「もう二日になる。あなたもね。こっちに来てから。見えてきたでしょう?何か、いろいろとね。忌憚のないところを。」外国人にとっては理解不能だが、ネイティブにとってはどうと言うこともない日本語の群れを聞きながら、こんな日本語を留保なく使う彼が、現地の従業員とコミュニケーションを取れていることが不思議だった。「いつでもお前が帰って来れるように、」父は言った。潤一と言う名の。私は、特に意見もなく、ただうなづいたが、本社で、大東亜共栄圏の生き残りと揶揄されもする笹村は、にもかかわらず、成績優秀な管理者ではあった。「お母さんだって、お前の部屋を」差別主義者で、他人への敬意を根本的に欠き、不愉快で、強引な、と同時に媚び諂いの多い人物。「いつでもお前が使えるように、…な、」…な。笹村が国内においてはそれほどの地位を築けなかったことの意味は、すぐに理解できた「掃除も何も、ちゃんとしてあるんだから」笹村と共同作業するのは、彼と不自由なく言語コミュニケーションが取れる人間にとっては困難だった。「ありがとう。」…って、そう「言っといて」私は知っていた。「お母さんにも、」私は言った。最初に中国に工場を作ったときに、いわば補佐役としてついて来ただけだった笹村は「ありがとうって」驚くほどの実績を上げ、いつの間にか主任になり、いつか、反日の暴動が起こったときですら、笹村の支配下にある工場だけは粛々と業務をこなしていた。インド、タイランド、彼はどこへ行っても、差別主義者の「悪い日本人」とその各国語でののしられながら、無力な羊たちの群れの専制君主だった。二十年近くも、彼は海の向こうで、実績を上げ続けたことになる。本社にとって重要な人物であるには違いなかった。日本に帰って来さえしなければ、彼は優秀な人材なのだ。不愉快なことは何もない。たまに合わせた顔の不愉快ささえ我慢すればいい。そして、それは立派な彼の地位だった。「ところで、あなた、遊んだ?ベトナムで。」振り向いて、唐突な笹村の言葉に返答しあぐねた私に、「まだ?」彼はかまわず「まだでしょう?」まるでそれが新入社員歓迎のしきたりだとでも言いたげに「今晩どう?ちょっと、遠いけど。ホーチミン。行こうよ。」建国の父と呼ばれる人物の名をいただいた都市、現地名 thành phố Hồ Chí Mình、英語名 Ho chi minh city 、ベトナム人たちはサイゴンと呼び、そして日本人はすべからく、ホーチミンと呼ぶ。その都市をホーチミンと人名で読んでいる外国人がいたら、日本人に決まっている。Hiếuヒューが恭しく、そして私に、「大変ですね、シャチョウさんと遊びにいきますか?」と同情の耳打ちをして笑いながら用意したタクシーの運転手に、オン・ゼア・ターン・トゥー・レフト・オン・ネクスト・コーナー・エンド・ゴー・ストレート、と笹村自身にしか理解できない英語らしきもので盛んに道順を指示し乍ら、「外人なんてのは、日本人乗っけたら必ず遠回りするからね、やつらはね。白いのも、黒いのもみんなそうだよ。」時に運転手は綺麗な英語で彼に道順の正当性を説明しようとはするのだが、やがてはうんざりして、いずれにしてもサイゴンの中心部にたどり着く。小ぶりなビルが立ち並んだ狭い路地の入り口に止めて、カードで支払っている間も監視のため自ら運転手の肩越しに顔を突っ込んで指示し、「こっち」笹村が言うその路地には、日本語名のネオンが地味に立ち並んでいる。「ここね、レタントン。カラオケ屋さんいっぱいあるから。」明らかに水商売の店の、その店の中に入ると、社長、と彼が呼んだ日本人の若い男に案内されて個室に入り、アオヤイ[Áo dài]姿のベトナム人女性たちは彼を取り囲む。笹村は明らかに上機嫌で彼の日本焼酎のボトルを瓶のソーダで割った。「この子、エッチなの。いいよ。水沢君、どう?」その、花の刺繍された白地のアウターの、赤いパンツのアオヤイを着た女の頬に唇を寄せて、やがて、わざとらしい嬌声を立てる彼女は、私を振り向く。慣れた扇情的な眼差しをくれた。「チュッてしたら、それだけで燃え上がっちゃうの、ね?」私を指さし、「デップチャイ、デップチャイ、ね、イケメンでしょ、イケメン。」隣の女性が差し出した同じようなソーダ割を口にするが、私の口にはどうしても合わない。サッポロにしますか?アサヒにしますか?彼女は驚くほどなまりのない日本語で言って、私に微笑みかけた。









「この子、妬いてんだよ、水沢君」笹村が、隣の青いアオヤイの女の頭をなぜながら言った。「前来た時、ほかの子お持ち帰りしちゃったから」と反対側の白地のアオヤイの女を指して、その女の頭を撫ぜようとした笹村の手をこれ見よがしに青の女ははたいた。笹村に軽く平手打ちをする。青の女がその手を払って、笹村の頭を撫ぜる。今度は、白地の、いずれにしても、台本でもあるかのように慣れた彼女たちの媚態は、まるで日本のこの種の女たちの容赦ないカリカチュアのようだった。日本語以外の言語は聞かれない。あんなに難しい言語を習得したのだから、少なくとも、彼女たちの言語能力は驚くほど高いに違いない。シンデップ、と笹村は青の女に言い、その女は「xin đẹp nhé」彼の発音を修正し、彼は何度もその言葉を繰り返すが、彼女はなかなか彼の発音を許さない。世界に冠たる、礼儀と精神文化の国、世界の人々から尊敬されているサムライと禅と先端技術の大国だと自称される日本の、90%以上の、西鶴さえ読めずサムライにも坊さんにももともと縁もゆかりもない一般的な日本人の一人が、今、その、日本人以外なら誰でもすでに知っている唾棄すべき実体を晒しながらお楽しみなのには違いなく、どこの国の日本人街に行っても、こんなものであるには違いない。時間は浪費されるにまかされ、ややあって、酔いを醒ますからと言って外に出た私は、あの、白地のアオヤイの女が路面の隅に身をかがめて吐いているのを見つけた。確かに、彼女は席を立ったまま、帰ってこないままだったことを思い出したが、水のような吐寫物は街路樹を汚し、間歇的に彼女の上半身だけを痙攣させていた。そんなに飲んではいけません、と言った私に彼女は、いいえ、と言ったが、不意に、言いあぐねて、明らかに頭の中で日本語の教科書を手繰りながら、ややあって、楽しいですから、と言ったが、やがて私はその彼女の言葉が必ずしも嘘ではなかったことを知るにはしても、むしろ彼女がその不自由な外国語会話の狭間に消し去ったはずの彼女の本当の声を聞きだそうとして、言いあぐね、かつて、母の存在は、私にとって暴力以外の何ものでもなかった。春絵と言う名の。うずくまった彼女はつばを吐いて口に残った吐寫物を排除しきろうとするが、父と母との間に発生した関係上の亀裂がそのまま暴力的なほどの愛情となって、一人息子の私の上に注がれたのだ、と私は解釈していた。彼女が上目越しに微かに荒く息遣うのを私は見ているが、必ずしも彼女が私を見ているわけではないことも察しつつ、彼女は知らなかった。母は、私を窒息しそうになるほど抱きしめてしまうか、文字通り身体的な暴力で私を平手打ち、折檻するか、それ以外をは。私は嘔吐し続ける彼女の背中を軽く叩きながら、「無理はしないほうがいいです」と、そう言うものの、物心ついてから十八歳まで親元にいる間ずっと継続した絶え間ない暴力と、性交と、愛情の、さまざまな感情の共存の中で私は生息し、息を潜め、彼女は確かに、私にとって、最早母と呼ばれるべき存在ではなかった。暴力としての突き刺さった亀裂以外ではなかったが、私は彼女を愛した。彼女を時に折檻する父を、むしろより多く憎んだ限りにおいて。私は見ていた。父と母があげる怒号と、振り下ろされる拳、たたきつけられる皿、突っかかって行く豊満な母の身体、興奮状態で搾り出される涙と上気した頭部の赤らみ、白目の充血と体温、彼女のアオヤイの下の体が薄く汗ばんでいるのは知っている。そのあからさまに女性性をたたえた息づく身体が。彼女は一度喉を鳴らし、もう一度つばを吐き、にも拘らず、今、あの二人は美しい老夫婦にすぎない。父の建築会社の倒産が、綺麗に二人の関係のすべてを清算して仕舞った。今、貧しい生活の中で二人は寄り添って生活し、時間は、他人が気まずいほどにやさしく流れ、父が脳梗塞で半身不随になって以降は、老いた親密な、《つがい》の小鳥のおだやかな気配の中にすべてが進行する。まるで、あらゆる事象が、その時間を彼らに与えるためだけに流れてきたものであったかのように。それはひとつの長い物語の終着点だった、と私は解釈していた。私の存在もひとつの構成要素に過ぎないのであって、むしろ、始めから私は彼らの傍らにはいなかった。なぜ、彼女が私を抱いたのか、その理由さえもがいまや捉えられない。愛していたからだと言うしかなく、彼女にそれが必要だったに他ならず、私にとっても、そうでなければならなかったのかもしれない。私は私に聞いてみるしかないが、問い尋ねられるべき私は既にここにはいない。誰かにためになど生きられない。自分のためにしか生きられない。例え誰かのために命を捧げたときでさえも。「もう大丈夫です。」ありがとうございます、と彼女は言い、ありがとごじゃいます 見上げられた視線の中に、私を捉えたまま微笑むが、かつて、世界が誰のためのものでもなかったことを、君は知っているか? 少女は一度長く息を吐いて見せ、長い間、アジアでもどこでも多くの人間がそれを繰り返し言ってきた、にも拘らず、これは何?彼女は一度まばたいて、世界がかつて誰かのためのものであったことなど一度もない。これは?君は私の頭を子どもにするようにして撫ぜ、それは、あまりにも残酷すぎるから、私たちは言うのだ、私の首筋の匂いを嗅ぐ動物的なしぐさを、むしろ、美しいと。


これは、何?


私の指先がすれすれの距離でみずからの頬のラインをなぞって見せるにまかせ、彼女は、そして、Cái má という彼女の答えを耳にし乍ら、…Cái ma 微光の中に彼女の体を見つめようとするが、ただ、…Cái mả むしろその体温とかすかに触れるわずかな部分の触感だけが明らかに知覚されるばかりで、…Cái Mà 私は知っている…Cái mâ 彼女は今私の体の上で生きていて、体はくの字に曲がったまま彼女が…Cái Mậ 私を見つめている。耳を澄まして…Cái mạ私の声を聞き乍ら …Cái máCái má」頬。まだ老いさらばえてはいなかった若い父が酒の酔いにまかせてしばしば加え続けた母に対する暴力は、これは? ともあれ、戯れのように、何? 私の手が彼女の額にのばされて触れそうになる寸前に静止するのを、子どもが駄々をこねるようなそれ。彼女は感じたが、苦し紛れに振り払われた手のようなそれ。彼自身にも制御できずに。にもかかわらずまとわりつく様なそれ。…Cái Trán それを暴力と呼び得るのかどうかさえわからない。すこしだけ身を起こした私は彼女の唇のすれすれに自分の唇を近付けるのだが、いずれにしても…Cái trang 過去が暴力でありうることはあり得ない。彼女は首を振って耳を澄ます、私は知っている…Cái Thanh 今、彼女は私を見つめていた。過去に対してそれが暴力であったと規定することは…Cái Thành それ自体過去に対する暴力に過ぎない。少女の呼吸を私の顔の下半分の皮膚が感じているが、暴力は…Cái trăng 常に現在に於いてしか存在しないために…Cái chang 記録することさえできなかった。記憶することも、私は…Cái tràng 知っている、私は …Cái Trán Cái Tránひたい。過去に傷ついた私は泣き叫ぶとき過去を暴力として正に破壊した。彼女の息が私の唇にかかるのを、熱帯の日差しの中で日差しを避けるように、開け放たれた路面沿いの住居の土間に寝転んで、若くはない女が髪を砥いでいる。アスファルト舗装された幹線道路を小道に逸れて、土の細いわけではない道路の脇の住居が作った影の下を歩くと、さらに細い土の道が現れて、微かに隆起している土地の形そのままにそれは緩やかな斜面を作って、私はあの褐色の少女の家に行く。









小さな個室の連なった平屋のアパートメント。Lệ Hằng の取り巻きのSEが支払っている姉弟のための住居。このとき、笹村はすでに Lệ Hằng によって殺されて仕舞った直後だったし、私にはやるべきことが多くあった。とても多くのことが。私は日本に報告しなければならないし、警察が私を呼んでいることもスタッフがLineで教えてくれていた。処理すべき多くの残務に押しつぶされそうになっていたわけではない。まだ手をつけてさえいなかった。逃げ出したかったわけでもない。ただ、いたたまれなかっただけだ。逃避という意識すらないままに、正午近くの日差しが照りつけ、私は知っている。私の体は汗ばんでいる。私は知っている、路地の角手前の細い小路を曲がった小路に並んだ住居の群れの中の平屋のアパートメントの向かって右の棟の突き当たりから2番目の部屋に彼女は住んでいる。Lệ Hằng が教えてくれた。私は知っている、そのとなりに彼女の友人の女性の叔父夫婦が住んでいる。彼女の両親はダラット[Đà Lạt]にまだ住んでいる。私は知っている、そして、その部屋に彼女はいなかった。在宅のすべての住戸のドアが開け放たれているため、身を潜めることもできないままに、一斉に人々の視線は注がれたが、彼女の部屋には、あの韓国風の金髪の少年がいて、私は知っていた、彼は彼女の弟だった。Lệ Hằng はそう言った。少女が Sister と、何の血のつながりもない友達を私に紹介したこともあったので、日本語で言う弟なのかどうか私は判断しかねたが、チャオ chào、と言った私に Thành タン という名のこの少年は一度顔を上げたまま、少しだけ驚いたような顔つきはすぐに消え去った。微かな憎しみと、微かな軽蔑、微かな、それらいくつかの感情の束も混交させた表情が鮮やかに、ただ、私を見つめることしかできない。Thành は知っている、この男はベトナム語が、私は知っている、話せない。この少年は、話せない、Thành は、英語も日本語も、知っている、お互いに。会話することはほぼ不可能にすぎない。知っていた。できるのは、希薄な親密さをこめた、希薄な微笑で無意味な目配せをしあうか、或いは完全に無視するかどちらかに過ぎないが、いま、私たちにはそのどちらをもすることができなかった。私は微笑を作って、彼を見つめる。薄暗く、狭い室内だった。十畳たらずのロフトの部屋で、壁にはくすんだパステルカラーの緑のペンキが塗られていた。キングサイズのベッドが部屋のほとんどを占領し、ロフトの上は衣類や荷物が可能な限りぶち込んであって、その下は壁の向こうにシャワールームとトイレとキッチンを兼ねる、三畳少しの空間があるが、ドアのようなものはない。入り口の上の小さな通風孔の列から日差しが入り、ドア越しの逆光の中に私をしばらく見つめるが、ややあって、Thành は視線を逸らし、私は壁にもたれかる。

…ここに、いたの?









不意に、まるで庭先の鶏の首をちょっとひねったようなた易さで、笹村を殺してしまった Lệ Hằng を、少し、滑稽にすら思う。軽蔑感や、侮蔑の一切ない、単純な滑稽さ。よくも、簡単に、あんなことができたものだった。何の屈託もなく。Lệ Hằng のすることはいつも、どこか、滑稽だった。例えば、彼のためらいのない刃が自分に向けられたときですら、私は彼のそれを滑稽に思うのだろうか?瞬き、Thành は小さな韓国製の小さな携帯電話でメールを打ちつづけていた。会話するより早く返信され、昨日、笹村も思ったのだろうか?話すよりも早く返答され、笹村も、滑稽だと。キーのデジタル音だけが細かくリズムを刻む。自分に向けられた Lệ Hằng の刃の向こうで。私は息をつき、私には理解できないベトナム語の音声を含めたあらゆる生活音の微かな音響が、壁の向こうの空間を満たし続けていたことに気付きながら、私が少年のとなりに腰掛けたとき、忌否するように少年は立ち上がった。一瞬だけ私に一瞥をくれた後、NIKE のジャンパーを床から拾い上げながら駆け出す。ふたたび逃げ去る彼を、とめることはできない。日差し避けに彼がいつも着る冬のような厚着は、しかし、彼らの多くの肌はあからさまに日に灼かれ、見事な褐色に染まりこんでいる。小柄な、韓国人のシンガーのような金髪の、Thành の肌は白い。まるで一度も直射日光を浴びたことさえないかのように。私は不安になる。彼が、この熱帯の正午近くの日差しの下で生きていけるということが最早信じられない。彼は溶けてしまうに違いない。彼の姉の、見事なまでの灼けた小麦色とは違って、彼の肌は悲しいほどに白い。純白の、あるスタッフが言ったものだった、笹村に罵声を浴びたばかりの彼女の肩を叩いて、「気にするなよ」大丈夫?言った瞬間に、Linh リン というその二十代の女は、上目遣いに泣きはらした目のまま、「いつ日本に帰りますか?」どうして?「あなたがいないと」みじゅさわさんはいないと「みんながさびしいです。」みんなはさびいしいですから。そうだね、と私は、そして、Thành たちの部屋に取り残されたまま、そのとき、私は言った、サイゴンに雪が降ったらね。彼女を待つのだろうか?ここで。あの少女を、このまま、あるいは Thành か、何事もなかったように二人が、いずれにせよ誰かが帰ってくるのを?ここに。Linh はいぶかしげに、ここで。「サイゴンに雪は降りません」知ってるよ、と私は言い、あるいは、いつまで? When pigs will fly. 意味を察した Linh はややあって声を立てて笑った。サイゴンには雪は降りませんよ。開けっ放しのドアの向こうから、六十歳近くの女が顔をのぞかせて早口に何かを言った。咎めるように。豊かではないベトナム人しか生活していない彼らのアパートメントの中に私がいることは、彼らにとって、考えられないことだった。声を立てて笑い、私は手を振った。気にするなよ。放っておいてくれ。お願いだから。鍵を持っていない私は、ここを立ち去ることもできない。レタントンの青いアオヤイの女は Lan ラン という名前だった。いつかの朝、私たちが契約している工場近くのホテルのロビーですれ違ったとき、彼女は清楚なスーツ姿で、私に一度日本風の会釈をして微笑んだが、声をかけていいものかどうか憚る私に、「お元気ですか?」言った。元気です、あなたは?私も元気です。「ありがとう」ホテルの真っ白い壁の高い天井近くを、白に近い黄土色のつがいらしい蜥蜴が付かず離れず、戯れるように距離を測りながら這っていく。笹村の惨殺死体の発見を彼女はどんな思いで知ったのか、このときの私には知る由もなかったが、カラオケ屋での彼女の痴態が嘘のように、笹村さんに会いに来たんですか? Lan は不意に沈黙し、私の顔を唯、黙って見つめた。背の低い、華奢な彼女は作り物めいた綺麗さを持っているものの、どこか、単純に美しい女とは言いがたかった。メイクのせいかもしれないし、単に、彼女が疲れきっていただけかも知れない。ホテルの警備員が遠くで煙草を吸いながら私たちに一瞥をくれるが、つまらなそうに、ややあって、煙草を投げ捨てただけだった。Lan が何か言いかけたとき、駆け込むような足音とともに階段を駆け下りてきた笹村は「ああ、上がって、上がって」Lan に性急な手招きをくれた。「水沢さん、今日、私、午前中、遅れる。ね、今日、暇だから、水沢さんも、ゆっくりして」現地のスタッフが話すような片言の日本語を私に投げると、あと、壊れてるみたい、エレベーター、今日。Lan の所有権を主張するように腰を抱いてエレベーターの中に消えていく。悪びれもせずに彼女は一度私を振り向いて会釈をし、私はベッドの上に寝転がる。姉と弟の体臭が微かに染み付いていて、私の知っているそれらと、私の良くは知らない何かの混濁した匂いの低い滞留の中に、少女はもうここには帰って来ないのかも知れない。弟も。少女はホテルで私を待っているに違いない。不意に出て行った私を。なら、どうすればいいのだろう、ドアの向こうに、覗き込んでいた女の顔はもういない。あの不安げな微笑は。彼女が連れていた子どもも。南部の子どもの外見は例外なく愛くるしい。奇跡的なほどに。薄暗い陽光の中、奥の水場からの微かに澱んだ匂いがする。間違っても環境のよい住居とはいえない。もっとも、一般的な賃貸住居であるには違いない。工場の一人暮らしのスタッフの住居もたいてい、こんなものだった。ベトナムの法律で、外国人が現地の女性を婚姻以前の段階で部屋に連れ込んだり連れ込まれたりした場合、強制的に国外退去させられるというのを知ったのは、もっと後のことだった。初めて少女がホテルに泊まりに来たとき、警備員にいくらかのベトナム紙幣を握らせているのを見て、その正確な意味を解せないまま、にも拘らず、その行為の意味を聞きただす共通言語を持たない私と彼女は、だから、私は微かな疑問を沈黙と希薄な微笑みの中にそれら握りつぶすしかない。あたりさわりのない孤独感さえ感じながら。あの日、Cảnh の結婚式のパーティが夜の浅い時間に終わった後で、Lệ Hằng に誘われるままに彼とその取り巻きたちとの二次会に遅くまで付き合う。Lệ Hằng は Cảnh の家族たちと盛んに会話しながら私を3階の奥の半分を占めた仏間に案内して、今日はここに寝るといいです、私に言ったが、疲れ果てたあの少女は先に寝ていた。同じ年頃のもう一人の少女と、背中合わせにマットレスの上に横たわりながら、そして取り巻きの何人かと、Thành はなだれ込むように部屋に入り込んで、勝手にマットレスを床に敷き、雑魚寝に眠り始めるが、Thành は相変わらず私とは一切口を利かないまま、視線すら合わさない。「私は忙しいので、夜中に、帰ってきます」耳のすれすれに発された Lệ Hằng の声を背後で聞き、私は耳と首筋に彼の息のかかるにまかせたまま、薄暗がりの中で、Thành がまだ眠ってはいないことをは知っていた。誰もが、美しい無法者の Lệ Hằng には従うしかない。しずかな、6,7人の人間の寝息が立ち、Lệ Hằng はまだ帰ってこない。今日は帰ってこないのかも知れない。少女の寝息が私の傍らで低く聞こえ続けていたが、私はまだ眠くはない。昼間から長時間にわたって飲みすぎたには違いなく、過剰なアルコールが体の中で執拗に眠りを阻害してやまないまま、不意に、少女の手のひらが私の胸にふれ、顔を向けると、彼女は微笑むでもなく、ただ、私を見つめていた。





Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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