小説 op.2《サイゴンの雪》①…熱帯の町に、雪が降るとき。恋愛小説
ベトナム戦争の記憶を背景にして、言葉の通じない二人の恋愛を描こうとしたものです。
恋愛小説というよりは、ある種の思考小説の類になったかもしれません。
いずれにしても、《愛する》という動詞の意味を、考えようとした試みの端緒、ではあります。
同性愛、両性具有、暴力の問題も含みます。
わたしにとって、それらは《愛する》ことを考えるとき、どうしても切り離せないのです。
2018.05.06 Seno-Lê Ma
Falling Snow
Ở Sài Gòn
サイゴンの雪
序
… không ? と、現地の人間の声の断片とすれ違いざまにタンソニャット国際空港のロビーを出た瞬間、熱帯の分厚い熱気が喉に流れ込み、息を呑む。バイク、会話、タクシー、バス、あらゆる騒音が渦を巻いた。皮膚は熱帯の日光をあびて、初めて味わうその触感に戸惑いを隠さないまま、私は立ちずさんで周囲を見回すが、向こうに、高い椰子の木の街路樹が小さな日陰を点在させる。息をついた瞬間に、出迎えに来ているらしい現地の人間たちの群れのすぐ横の、インド人らしいあの、西ヨーロッパの人間とアジアの人間を掛け合わせたような顔が二つそろって私の顔を見上げた。日に灼けた彼女たちは立ち並んだ柱の影、地べたに座り込んだまま身動きさえしない。至る所で喚声が立つ。飛行機の中の極端な冷房が冷やしきって仕舞った体の細胞の一つ一つが、急激に大気の熱気に溶解していく。絶えずその感覚があった。ここがベトナム南部のホーチミン市[T.P.Hồ Chí Mình]だということは知っていた。これから少し離れたビンジュン[T.P.Bính Dương]市の工場にタクシーか何かで向かわなければならないことも。いずれにしても私は露天のカフェに行ってコーヒーを頼むが、メニューの、coffee の文字に併記された cà phề というアルファベットに、この国では母国語をアルファベットで表記することを知った。いわゆる旧フランス領インドシナには違いないのだから、まさか、中国人が彼らにアルファベットを教えたわけではないだろう。結局のところ何もできなかった大日本帝国も。昔の「サイゴン政府」のアメリカ人が教えたのなら、まさかそれを cà phề とは教えない。バイク・タクシーならもっと安いらしい。タクシーの半額くらいだと言っていたね、と、日本を発つ前に木之下真澄が言っていたが、どうやって?どこにそんなものがあるのかさえ私にはわからない。今、時間ならいくらでもあった。今日は到着すればいいだけだった。工場に一度顔を出しさえすれば、あとは何をしようが知ったことではない。アメリカ産の戦争映画以外に何の接点もなかったこの国を、今や、多くの日本人が訪れていることを知っている。工場用地、個人事業主の海外進出、企業の海外展開、あるいは観光。それなりの夢や希望に属する感情の何かとともにここに来るには違いないが、私が下請けから個人としては大金に当たる部類の金額の「融資」を受けていることが詳細なエクセルデータとともに社内メールで流されたときに、その、インターネット・カフェか何かのパソコンで作った当座の yahoo mail のアドレスを見ながら木之下は言った。どっちにしても日本には、いられないよ。当分はね。私にはその犯人のめぼしはついていた。佐竹文也という三年くらい後輩に当たる同僚が、私にことごとくその企画案をつぶされて、私を目の敵にしているらしい事は知っていたし、山崎帆華という開発部の女にとっては私は自虐的な嫌悪感さえ感じさせる人間だったはずだった。その、豊満なのか太っているのか、その狭間にゆれる身体にショートカットの無根拠に堀の深い顔立ちをすえつけた三十女にとっては。何で、と、そういうことが言えるの?彼女は言って、いつからそういう人になった?昔からだよ。私の声を、どっちにしたって、もう無理だから。私たちは聞く。ごめん。…は?LINEの着信を無視しつづけると、無数に missed call の告知が液晶画面に浮かび、入れ替わりに、無数のメッセージの断片が、そして、それらのなじった、媚びた、謝罪した、断罪した無数のフォントは、いずれにしても、既読しないままの line に百個くらい未開封のまま埋まっているはずだった。ほかにも探しさえすれば、私の知らないところで誰かが私を排斥したがっていたかもしれない。早い話が、めぼしなど何もついてはいないのだが、豚はいつか、肌寄せ合った無数の豚どものどれかを排斥するというだけの話にすぎない。急速に今、滅び行こうとしている、そしてそこに属する誰もがそれを知っていながらそれを無視してさえいる、《アジア最高の先進国》の、世界に冠たる乳製飲料メーカーの中の、牛とは縁もゆかりもない腐った豚ども。隣の人間はアイスコーヒーを飲んでいた。私は何も考えずに頼んだホットコーヒーを苦々しく思い乍ら、鼻と唇に絡んで消えていく湯気の先で舌と口蓋が感じる温度にたじろぎさえして、こんな熱気の中でこんなコーヒーを頼むのは中国人と馬鹿な日本人だけに決まっている。em vẫn còn まだ、yêu anh không ? 想ってる? いずれにしても、俺のこと。バイクだらけの車道をタクシーは、二人乗りや、家族三、四人人乗りのバイクの群れに迂回されながら滑走し、クラクションが四方で立って、…ねぇ? em ở đâu ? どこに、上がる土ぼこりの向こうに、いるの? 日差しの乱反射の中に静かに粗末な低層家屋の群れが建ち並ぶが、Em yêu anh không ? 私は思い出す。愛してる? 記憶の中に、…ねぇ、そして、存在する複数の記憶らしき塊の向こうに、anh cũng vậy. …俺も。一時間近く走った先に突然現れた、いびつなアミューズメントパークのような近代的な建物が、その乳製品メーカーと、その企業が提携という名の実質買収をした現地企業との並列工場だったが、その広大な敷地には、もちろん遊び得る施設などあるわけではなかった。人間のために生産されたはずがない、いわば搾取され簒奪された母乳の膨大なガロンが非加熱処理されパック詰めされるか、醗酵処理されるかする工場。タクシーのドライバーにおつり紙幣からいくらか渡したチップをなじるような甲高い声で返されたあとで、日本人の姿を見留めた警備員がブースで立ち上がって、愛したのは、その時、何かが欲しかった 彼は からじゃない。日差しの直射の中で 今もなお、顔色を伺って 今でさえも。見せたものだった。知ってる? 受付ブースはただそこにあるというだけで誰もいない。近代的な建物の中は、タンソニャット国際空港に比べても明らかに質が高い。相当数の現地の労働者がたまに視察する島国の外国人に相当数の罵声を浴びせられながら無理やり作らされたには違いない。日本風の整然としたクオリティが目の前に曝される。巨大な壁掛けの液晶パネルが消音されたままコマーシャルフィルムを流し続けるが、誰も見ていないばかりか誰もいないので、なぜそんなものがそこにあって、そんな風に作動しつつけているのか意味がわからない。私の荷物は最小限しかなかった。大きくはない手持ちのバッグの中にパソコンと当座の着替えがあるばかりで、ロビーのソファの上に置き、座って、とりあえず時間をつぶすが、スマホを出したはいいものの、WiFi 番号もわからなければ現地の SIM カードを挿入されたわけでもないそれは、せいぜいゲームか音楽プレーヤーでしかない。SIM カードくらい空港の外の売り子から買っておくべきたったと思う。とりたてて撮りたいものもない以上、それはカメラですらなく、画面上では午後2時半を少し回っていたが、時差というものの存在に気付き、今この瞬間、それは時計の用をさえなしていない。壁際の鉢植えの樹木は、背丈ほどあって、ただ、美しい。無数につけた小さな白い花々がか細く咲き誇ってみせるだけだった。不意に甲高い笑い声が立つと、向こうから二人の女が現れたが、私を見つけて、素足にビジネススーツを着ている彼女たちは一瞬凍りついたように立ち止まった後、口早に笑い転げて会話しながら、駆け寄って来た一人が私に何語をしゃべればいいのか思案する隙もなく、こんにちは、と、「水沢さんですか?」その肌が日に灼けて みじゅさわさんぃえぇすか? 鮮やかな褐色を晒す。それが日本語だというのはすぐにわかった。「日本から来ましたか?」…ええ。にふぉんくらすぃますぃたか? わたしは言った。日本から来た、水沢ですが、笹村さんは?「はい。こちらです。…どうぞ」彼女は眼鏡越しに、あからさまに潤んだ瞳を見せて微笑んだまま、誘うように私から目をそらす。髪の長い、褐色の彼女は私を先導した。小声で、同僚の、東アジアの人間に比べれば極端に小柄な、まだ少女のようにさえ見える幼顔の女と盛んに話しながら。彼女たちが私を見るあの目つきを私はよく知っていた。日本でも、どこでもいい。それは、私に話しかけるとき、女たちが必ず晒す顔つきだった。その表現が露骨に過ぎるかやや隠されているかの違いに過ぎない。私は知っている。いずれにしても、私は美しい。男性を恋愛対象にするものなら誰でもその神経を掻き毟られるほどには。大学のとき、飲み会で会った国文科の派手な顔立ちの地味な女が、必死に媚を作れるだけ作って、さらにそれを必死に隠せるだけ隠そうとしながら、…ねぇ、見ないで。…ね? 言った。「源氏」のレポート書いてると、いっつも思い出しちゃうから、やめてぇっておもうのほんとうに。自虐的なフラストレーションを抱えるだけ抱えた犬のように。女たちの生理に訴えかけずにはおかない匂うほどの美しさの下で、私は飽きていた。何に?子供を生産するための有機体装置の、その必然的な反応に?本来、生命体の原型を起動させるための因子を投入するためだけに存在している装置として?この、巨大な有機体の複製システムの中で?生産体制の中で発生した同性愛者という名のバグたちをも含めて。小柄なほうの女に何度も振り向いて覗き見されるにまかせ、私は彼女たちの後についてオフィス棟の3階の会議室らしい空間の中に座った。「少々お待ちください」ちょ、とま、てくじゃざい 媚びた笑顔で口から息を思い切り吸い込んだ後、その女は立ち去って行き、乾いた体臭が匂った。ややあって、ドアを開けた笹村貴之は転がるように入ってきた。日本で一度見たときそのままのしゃくりあげるような歩き方で、「ああすいませんすみません水沢さんですね、お疲れでしょう。まあ、まあ、ね。…で。もうしわけありませんです、ええ、」名刺を取り出そうとするのを制して、一度、お会いしたことがあります。日本で。たしか、「ああ、会議の?全体の、ほら、丸の内の、いや、あれは新宿のほうで?まあ、ね、昨年のね」ええ。「そうでしたか。すいません、あのときは、ほら、こっちから。会議だって言うから、帰らなくちゃいけないんだけど、ね、遠いですから、言ってもね、こっちから羽田っても遠いんですが、そこからほら、電車だモノレールだね、」そうですね。大変でしたでしょう?「まあ、いいんです、まあ、ね、仕事ですからね、で、水沢さん anh ,…sao bầu tròi hôm này tối ? なぜ、私は 空が暗いの? 笹村と話した後で 今日の空は。工場を視察するわけでもなく、ホテルに行って、それは少し離れたところに、vì là Lệ Hằng rơi xuống 月の涙が 外人用らしいそれだったが 零(こぼ)れたから 私は、今、知っている。私には記憶があって、私は知っていた、私が Lệ Hằng レ・ハン と初めて会ったとき、そのころにはベトナムに来て二週間近くがたっていたが、生活に慣れ始めたと同時に、雨期の到来にはまだ少し間があるにもかかわらず、現地に対するおそろしいほどの誤解と錯誤の渦の中で、いわば、不意に 錯乱した視覚と聴覚の中で生きていたに過ぎないのだが、降り始めた雨の中で、彼は、その意味に於いて私は何かを記憶しているとは言いがたい。もっとも、今でさえも。今でさえ、何を認識し得ているというのか?明らかに、認識は錯乱の中の記憶に過ぎなかったはずで、空が起こした洪水のような雨の中で、であるなら私は何も知っていないばかりか、錯乱あるいは記憶の錯乱の中にたたずんでいたに過ぎないにもかかわらず、私は知っている、Lệ Hằng , あのとき君は、降りしきる雨の中で、私に微笑みかけたものだった。
…Mưa rồi. 」と、誰かが言って、工場の隣の日系商業施設で、私はエントランスのバイク置き場を振り向き見たが、曇り始めていた空から、それがまだ日を完全に包み込んでさえいないのに、土砂降りの雨は一気にたたきつけ、その騒音が最強音で空間を満たす。これは雨期の雨ですか?私の質問に、同行の Nam ナム という名の男性が言った「いいえ、違います。」という言葉を聴くでもなく聞く。いーえ、背の高い、…ちがいまつ、Nam の、普通の「ふちゅのあめでつ」雨です。声。外から、不意に流れ込んできた大量の人々の群れの中に、私が Nam とはぐれるのに時間はかからない。何度見返しても彼はどこかへ行って仕舞った後なので、私は取り残された格好だったが、Nam も私を探しているには違いない。体を濡らしたベトナム人の群れの、ざわめいた発音の断片を通り抜けて私は外に出るが、大気中を湿度で満たしきったまま雨は一度やみ、今だに曇った暗い空の下、むせ返った芝の匂いが皮膚に、ややあって、私は広大な駐輪場を突っ切って幹線道路に出た。何を求めるわけでもないが、あの、濡れて、蒸れた人ごみの外に出る必要が私にはあった。時にいまだに波紋を立てる水溜りをところどころに作った、濡れたアスファルトを突っ切って、向こうの細い市場の通りに入ると、人々が膨大な量のシラブルを使って不意の雨をののしり、笑い声はたち続け、私を見るとその声の断片がつぎつぎに一度断たれて、ものめずらしそうに彼らの眼差しは外国人の姿を追ってみる。こんなところに外国人が来るものではない。彼らにとってのこの違和感は私にはついにわからない。私にとっては、ここはすべて外国人の土地であって、どこに行っても違和感しかない。露天のカフェの前ではカフェを飲む代わりに若い男性の一群がトランプのプライベートな賭博に興じていて、無数のタバコと、音声と、笑い声が消費され続けていた。見上げれば粗い低層家屋の、うち捨てられた廃屋のようなすさんだコンクリート壁のはがれかかった色彩の上に、空はその暗さをいや増して、誰にでも、もう一度あの土砂降りの雨がやってくるに違いないことは知れていた。「どうしましたか?」不意にその声が、群れたベトナム人たちの音声の一群を背景化して仕舞いながら、耳にささやかれた気がした。「雨は降っています。」振り返って見れば、「こっちに入ったほうがいいです。」賭博者たちはその声に、いっせいに従うように手を止めて私を無言で見つめ、その奥には一人の男が立っていた。男だとはわかったが、とはいえ、彼が男である必然はあまり感じられない。美しい人だった。小柄なほうだが、壊れそうなくらいに端整で、美しいにもかかわらず、目を閉じてしまえば彼がどんな顔をしていたのかさえ思い出せない。たとえば、片っ端から同じ顔をしている韓国の若い女たちが、結局のところそうなろうとしてあらゆる手段を使って努めながらも、現実に存在する自らの骨格や皮膚に屈し、個性という名の屈辱でお茶を逃がして逃避していく、あの、夢見られた美しさの原型そのものをそこに実現させて仕舞ったら、こうなるのかもしれない。美しすぎるその顔は何の煽情性もなく、忘れ去られるしかない。彼の息遣う音さえ聞こえる。賭博者たちは身動きすらせず、私を見つめたまま、そして、彼は、だからといって私を手招きするわけでもなく、ただ、微笑んでいた。
一気に、予兆すらなく空間は土砂降りの雨に満たされた。息さえできないほどに激しく打ちつける生暖かい水滴が、私の体のみならず、そこに存在したすべてを片っ端から濡らしきって、轟音の中で彼はむしろ当然のように雨に濡れながら私に近寄ると、「どうぞ、こちらに」言った。美しい発音だった。賭博者たちは怒号のような声を発して、その美しい音声を雨などに濡らさしめるのが彼ら自身の屈辱であるとでもいいたげな切迫感の中に、必死に彼に傘さそうとする。清潔とは言いがたい彼らのシャツを脱いで。にもかかわらず、鮮やかな匂いを持った膨大な雨の無色の水滴が彼を濡らし、私も体の芯まで濡れて仕舞ったに違いない。彼は男たちを笑って制し、私の手をとって、そして、私たちはカフェの「ひさし」の中に入るが、頃合いを知って、雨はすぐにやんでいく。雲が切れ、熱帯の日差しが回復し、しだいに、剥きだしの土のままの目の前の路面の端々に出来上がった水溜りをきらめかせ、確かに、今、目の前で、少なくとも目の前の世界は細かく輝いてさえいた。「どうして、あんなに、雨に濡れたんですか?」彼が笑いながら言ったが、それに答えるすべはなく、「日本語が、お上手ですね」私は言った。彼は微笑むばかりで何も言わない。東アジアの人間のようには見えない。大陸の東南アジア風らしくはあるが、そうとばかりは言えないので、どこかとどこかのハーフなのかもしれない。あるいは、インドネシアのどこか小さな島には、こんな顔があり得るのかもしれない。賭博者たちは、何事もなかったように賭博の歓声を上げ続け、「失礼ですが、お名前は?」と彼は、古風な問いかけを私にしたのだが、その古風な問いかけが、このあたりの日本語の教科書に一般的な定型句として出てくる、誰でも知っているフレーズであることを知ったのは、数年後のことにすぎない。「潤です。水沢潤。日本語がお上手ですね。誰に習ったんですか?」流暢に話される言語が、必ずしもその宿主の知性と一致するわけではない。「いいえ、まだまだです。友人に教わりました。」私は知っている。彼は礼儀正しい日本語を話すが、それは彼が知っている日本語の定型がそうだというだけで、「…いいえ、とても、」むしろ彼は野蛮な知性の持ち主だったことを。「お上手ですよ。」たとえばねずみを狩る猫のような、「うれしいです。ありがとう。」その、ありがとう、という唐突な省略形が、ある種滑稽に、不意に出会った猫同士のようにお互いにうかがわれる距離の中で、突然ハグされたような感覚を私に与えた。いずれにしても彼は美しく微笑み、大陸の人間には珍しく肩まで伸ばされた髪の毛が、そして、すぐ近くに猫背で小さく小刻みな笑い声を立て続けている一人の賭博者の爪は、奇妙なほどに変形している。負傷によるものか、感染症なのか、「名前は、」内臓疾患の産物なのかは「何ですか?」知らない。私の問いに、彼はややあって、答えた。「…Lệ Hằng レ・ハン 少なくとも、多くの人たちは私をそう呼びます。」降り止んだ空が急速に晴れ上がり、もはや雨天の名残は濡れた路面以外にはない。不意に「みじゅさわさん」と声をかけられ、水沢さん!それは、はぐれたままだった Nam だったが。まったく、探しましたよ、一体どこにいたんですか?私に駆け寄ると同時に、「どこですたか?」困り果てたような顔のまま「すがましすた」当然のように日本風に Lệ Hằng に頭を下げて見せたが、tìm thấy rồi 多くの時間を 見付けました Lệ Hằngは沈黙に費やした。言葉など発することそれ自体が何か、退屈な、停滞した、どうしようもない時間の浪費に過ぎないとでも言いたげに、退屈極まりない沈黙に時間を濫費させながら anh tìm thấy rồi 私は 見付けましたよ 知っている、彼が、自身が言うには Lệ Hằng はフランス人とベトナム人の混血の女の息子が、韓国人と日本人の混血の男、おそらくは在日本朝鮮人か半島の残留日本人と現地人のハーフかが1960年代後半にベトナム人に産ませた彼の母親の間に生ませた子供には違いないが、もちろん、どこかに記憶違いのひとつや二つはあるかもしれないほど、 … Cái gì ? 日本から 何? 来ましたか?ええ。いつ?一週間前です、ほんの、… Cái gì ? 何を? クアラルンプール経由で、ああ、そこなら、…là gì ? 半年前まで 何? 私もいました。美しい、 anh nói gì ? 多くの 何、時間を費やしながら、その 言ってるの? 沈黙と饒舌を…ねぇ? 共存させた時の中で、結局君は君自身を晒さなかったと言っていい、たった一度さえも mãi mãi あるいは ずっと、ずっと、私が見逃し続けたのか、君が逃げ去り続けたのか、交差する異国言語のただなかで、仮に母国語が使われるときでさえも、聞き逃されて仕舞っただけなのか …chết rồi… 日本にも 何てこと… 行ったことがあります、と Lệ Hằng が言ったのは、何度目にか、一緒にビールを飲んでいたときのことだった、あの Hảo ハオ という名の老人の誕生日に vĩnh viễn 彼は 永遠を 急ごしらえの庭先の宴会席で、Lệ Hằng はアルミの背の高い椅子を私に引いてくれながら、...biển 私は それは、海 彼のするままに任せ、mà rời đi cũng vơi mặt trời まばゆく、太陽と共に 向こうに陽光が 立ち去った、切れた雲から 海です。地上にしずかに日差しは差し込んでいたが、私は、瞬間、目をしばたたかせながら、Lệ Hằng に言った。彼は何歳ですか?「もう、九十歳以上です。」
0コメント