小説《■陵王》③ 魂は革命し、墜落し、そして覚醒する。
蘭陵王
そして、私はいつものように、毎日職場の図書館に通って、郷土史の編集をしたのだった。それは《歴史を知る。それは》市立図書館の開館五十周年記念の出版事業《ひるがえってわたしたちの現在を知ること》だった。私は《でもあります。》知っている。1960年代にデニム産業《先人たちの歩みを知り》が盛んになる。地元の有力企業の一つが、それは《先人たちの知恵を現在に》大手と呼ばれる繊維会社の《活かす、その中から》下請け企業にすぎなかったが、デニム生地生産に《未来の可能性が広がっていく。》特化するより他に生き残りうるすべを持たなかったに過ぎない。とはいえ、《わたしたちは市立図書館》それは成功し、いまだにアパレル系の人間《開設五十周年の今年、》にとっては、国産デニムの生産地として《先人たちの歩みの集大成として》記憶されている土地になりおおせた。1970年代の後半には《ここに郷土史の》染料等の公害問題が顕在化して、当該産業が下火になった、のではなくて、排水設備等ライフラインの充実が図られ始める。1980年代の前半から、すべての道路を引っ剥がして、下水設備の整備が始まる。それはすべての住居が配水管によってつながれることを意味する。と同時に、もはや土の道路は存在しなくなり、アスファルトか、コンクリートが路面と言う路面を多い尽くすのだが、これには、地元のPTA等の反対意見のほうが強かった。《「児童の健全育成と『土の地面』の保護について」》土の道路を守るべきである、と。90年外の前半期が、この町の消費のピークだったかも知れない。いうまでもなく、第二次ベビーブーマーによる消費の拡大による。さまざまな商業施設が、市街地郊外に設置され、とともに、市街地の所在自体が移動していく。一つの商業施設の設置は、地図の斬新を意味する。90年代の後半から、学校の維持の問題がゆっくりともちあがり、ゼロ年代に一気に顕在化するが、いまのところ、それに対する施政は何もない。不思議に、財政が逼迫することもない。予算を必要とする問題もとりあえずは何もないだけに過ぎない。および、ふるさと納税の、わずかな恩恵に。不在の、いわば、架空市民の税金が、その町の予算の30%をまかなった。もちろん、人口は減少していき、外国人留学生が増える。私が子どもだった頃、中国人さえ見たことがなかった町のコンビニに、今ではミャンマー人の留学生が働いている。いくつかの市町村が合併を繰り返し、地図はその名前と境界線の更新に忙しい。私は知っている、自殺するか、殺されるか、いずれにしても一度に四人もの人間が死んでしまったあの事件は、私たちの小さな町では大きな事件だった。かりに、その町の外側では、戒厳令下の中、もはや何の興味も示され獲ない、地方の小さな事件に過ぎなかったにしても。いたるところでそれがうわさになっているには違いないが、私の耳には聞こえてこない。耳をふさいでいるわけではないが、図書館の中にいて、図書館の仕事さえしていれば、ある程度遮断できるのも事実だった。この、慎み深い田舎町では、地元の知性の殿堂たる小さな古ぼけた図書館では、スキャンダラスな話など誰もがつつしみ、話を避けるのがマナーだ。むしろ、上原さん、大丈夫でしたか?と、六十代の女性の館長に、明けた初日に聞かれただけだ。この上ない、上品なやさしさをもって。
妻は言っている、とんでもないうわさになっていると、彼女は言い、さまざまな尾ひれがついているようだった。それは私の耳には聞こえない。それで、何か、わかったん?と妻は、「町中大騒ぎよ。ほんとに。」彼女は大学時代のサークルの後輩だった。ジャズサークルだった。彼女の声はいつも鼻にかかっている。知美と同じように。そして私は知美のことが好きではなかった。「町中大騒ぎよ。ほんまに。」嘘をつく気もなく、善良さの産物として、嘘を撒き散らす。悪意もないままに、致命的に人を傷つけてやまない不埒な善人。井口俊夫の父が神社で首をつって自殺したのも、「町中大騒ぎで。ほんとよ。」思えば、土地売買でもめていた井口親子の仲裁に入った知美のせいだとも言えた。あなたの少しのわがままが、今、あんなに仲がよかった家族をばらばらにしています。涙声で、「町中大騒ぎじゃが、ほんとに。」彼女は言った、と井口は言った。まるで、救いようのない回帰不能点をすでに突破して仕舞っていたかのように。もちろん、それがすべてではないかもしれない。いずれにしても、何も、わからない。何も、わかってはいない。三人の人間がほぼ同時に刺殺されたことには間違いがない。ほぼ同時に、一人の人間が首を吊ったことにも間違いがない。戒厳令下では、必ずしも外出制限がかかっているわけではないが、誰もが無用の外出は控えようとする。加害者らしい人間は、混乱しきっていて、埒が明かない。子どもたちはすべて生き残っていた。凶器となった包丁は、殺されたほうの指紋はいたるところについていたが、殺したほうの指紋はどこにもついていない。彰久は手袋はしていなかった。何かの布ごしにつかんでいたのかもしれない。何の?よく砥がれた刺身包丁で、それは一片の錆さえなく、彰久の父の趣味は釣りだった。目の細い、沖縄出身のボクサーのような、丸っこい顔の彼は、彰久とは似ても似つかない。小学校のときの、少年ソフトボールチームのコーチだった。毎週末、くわえ煙草でノックしていた。いまなら、犯罪者扱いだ。板金屋の跡取りだったが、その仕事の実質を、私はよく知らない。ミレニアム期以降における地方の板金零細工場(こうば)の経済的原理など私には想像もつかない。飢えて死んではいないのだから、仕事は何かしらあったのだ。「殺ったのは彰久じゃないよ」雅巳は言った。一週間近くたっていた。それは雅巳の店の中だった。窓越しの戒厳令下の国に、人通りはほとんどない。私にとっては、それは気乗りのしない話だった。「お前はどう想う?彰久が殺したって?」彰久だけじゃない、私は喉の奥だけで言った。おれも、あいつのお姉ちゃんを殺した。たぶん、彼女は「あいつじゃないよ」まだ生きていたのだから。俺が「殺したのが彰久じゃなったら、」私は言った、誰じゃ?「知らん」雅巳は声を立てて笑うが、それは私には不愉快なだけだ。「けど、久しぶりに同窓会で、こう、肌を触れ合った感じで、俺にはわかる。」何を?「今のあいつには殺せない。誰も。絶対に」
「なぜ?」
「誰かに危害加えたとしても、最後まで行けない。途中でやめるか、続けられなくなるか。例えば、一人殺すのに何秒かかる?三十秒かかったとして、けど、今のあいつは十秒ももたんよ。途中で飽きちゃう。それを三人も?めった刺しじゃったんじゃろ?あいつなら、一回振り上げて、振り下ろすのが、精一杯じゃと思う。」なんで、お前がそんなことわかる?「いい加減なことなら言わない。」何も知らないだろ?「なんとなく、としか言えんけど、これは、確信なんじゃ。根拠はないけどの、確実に、そうじゃ」とはいえ、事実死体はあったには違いなく、少なくとも彼の両親は、誰が殺ったんじゃ?と言う私に、ややあって、「潤かもな」と雅巳は言い、かすかな鼻笑いの音さえ立てるのを、私は雅巳の胸倉をつかんだ。「待て」殴られるより早く「やめとけ」と雅巳は言い、雅巳は私の手の甲を軽く叩き乍ら言った。「殴り合ったら、まだ、お前には負けんよ」雅巳が、いやいやをするように首を振る。そんな表情を現実にしているわけではなかったが、私は、今、雅巳が私を見下し、見下しきった上に見下しぬいているのを感じた。お前はいつも部外者だった。彼は、息が出来ないかのように、いつでも、自分だけは無関係な顔をして。頭を振るばかりだった。「もう、やめよう。この話は」
私の声には、教え諭すような雰囲気があった。それが「埒が明かん。」私自身にさえ不愉快だった。雅巳は人を殴ったことも、殴られたこともなかったはずだった。6歳や7歳の頃のこと知らない。首を解かれた雅巳が言った。「隆志と会ったんか?あれから」雅巳は妙に、そんな気を起こさせることが出来ない人間だった。「いや。警察署にだって、呼び出されるのは別々じゃ」雅巳の周辺には、いつも、しらけた希薄な気配が漂っていた。彼の周囲は常に退屈なのだ。「会わせたくないんじゃろ。口裏合わせるかもしれんから」あのころも「何の?」今も、「…知らんが」いつ?あの頃とは、「会ってやればええのに」いつなのか?「お前は?」あの頃とは?「俺?」雅巳はうなづき、「神辺の飲み屋で見つけた。」いつ?「二、三日前。消防団の集まりみたいじゃったけど。あいつ、一人で何にもしゃべらんで、座わっとった。周りの子らがかわいそうじゃった。あいつ、団長じゃろ?みんな、気を遣うて。かわいそうなほど。もちろん、何か話しかけたわけじゃないし、わからんで。そう見えただけなんかもしれん」ややあって、お前は?という雅巳の声を聞き流し、ふいに、雅巳は思いつめたような顔をして、言った。「みんなが、俺について、何を言うとるか、知ってるよ。だれも俺に向かっては何も言わんけどな。ネットの上でままごとばかりやっとると。けど、今にわかるよ。俺の、というか、俺たちの、」あわてて訂正し「俺たちの国家は仮想国家じゃない。お遊びでもない。現実にここに存在するし」ガラスのドア越しに、まだ午前の陽光がしずかに差込み「最終的に既存国家のすべてを無効化するまで、俺たちは、やる。」私はショップに陳列された小物の上の、陽光の複雑な反射光の点在を見る。「今はまだ二重国籍のままじゃけどな、どっかの国に《ネオ・リュウキュウ》を国家として認めさせたら、すぐに国籍は抜く。ビザが発行されさえすればいい。そこに入国する。そこで、仕事をするよ。どうせ、ほとんど、ウェブ店舗なんじゃ。拠点が変わるだけじゃ。いずれにしても、国土のない国家を成立させる」「どうやって?」「見とってくれ。もうちょっと、待っといてくれ」もうすでに「何を?」引き金は引かれてしまっていた。雅巳は引き出しの中に煙草を探したが、あいにく煙草は切れていた。「そのうち、すべての国家から国土境界線は消える。それらは土地の個人所有権の問題に過ぎない。或いは企業の。《ネオ・リュウキュウ》だけじゃない。もう、他に三つもある。同じ、非領土国家が。それらの国家が片っ端から既存国家から国民を引き抜いていく。既存国家は結果的に形骸化し、むしろ架空の存在に堕す。ここは日本国だ、国民は?さあ、まだ一万人くらいは残っていたかも知れないね、ってね。」「無茶言うな。」私は意図的に笑い声を立てて、「たとえば、単純に水道局ってどうなる?」中学のとき、雅巳が耳打ちした「ファンドとして独立させる。税金で省庁のサービスを買ってるよな、」潤って奈々恵とやっちゃったって「今。それと、どこが違う?全部そう。軍隊も、な、」うそじゃ。ありえん「ファンドとして独立させる。」いや、ほんと「そんな軍隊が戦争なんかするか?」おれ、見たもん「武器の管理するだけじゃ。殺しあうのは、」一緒に帰っとるし「現実に戦争したい奴らの有志どうしがすればええ。何の不都合がある?」ないない「正直言って、」私は雅巳を振り向き見、そのときの雅巳はじっと、私を覗き込むようにして見つめているばかりだった。さめた、しずかな、そのくせ留めようのない興奮が、雅巳の声を震わせていたのだが、そのかすかな震えに、私は何にも言わなかった人間のような無表情さで私を見つめる雅巳を見つめ返す。自分の表情はわからない。たぶん、眉間にしわくらい寄せているのではないか?「どうしても、行くところまで行かないと、おさまらん。もう、始めてしもうたしの。非領土国家が地表を追いつくす。地表は単なる地表に過ぎないが、それらは非領土国家にあまねく支配されていることを知っている」うそつきの「知っている?」ほらふきの「そう、ただ、知っている。」雅巳。ややあってわたしは、彰久は今何をしているのか?「いつ、そんなこと、思いついたんなら。」警官に拘束され、連行される彰久の後姿に、明らかに何らかの精神障害を抱えていることが見て取れたのは、私の気のせいだっただろうか?「イスラミック・ステイト。IS。ISIS。イスラム国…。あれのモスクが、陥落した日。」彰久は、明らかにこちら側にはいなかった。「テレビやネットで見乍ら、思いついた。…俺は、ね」少なくとも私の隣には。この、「他のやつらのことは知らないけど。」どうしようもない「ネットで、言ってたよ、現地の人間が」距離。いきなり、彼の視界は、同時的な数人の人間の死に「外人ばっかりになってから、あの国は変わったって。」さらされた。「むしろ最初は偉大で革命的な国家だったってね。そう」言うんだ、彼らは、そう「言っていた。とはいえ、あれを実態国家として成立させたのは、むしろ外人たちだ。じゃあ、国家って何だ?国家の実態は国籍ですらない。宗教?いったい何人のリアルなイスラム教徒たちがいた?人種、言語、そんなものは言うまでもなく、国家の根拠としては無効だ。結局は戦争と貨幣と領土と税金でしかない。けど、戦争なんて不可能だろ?いま。国家は戦争できない。できるとしたら自衛か制裁だけだ。名目上はね。そんなものは国家と国家の戦争じゃない。国家は戦争を失った。敗者を隷属させ占領し解体するところの破壊行為としての戦争を、だよ。貨幣は仮想通貨で代用すればいい。領土は国家の見せ掛けの根拠にすぎない。いくつの紛争地帯がある?領土の画定されない国家がいくつある?日本だってそうだろう?竹島は日本なのか?韓国なのか?その韓国と北朝鮮は本当に領土確定された国家なのか?税金はファンド投資として再構築する。じゃあ、何が否定されなかった?軍隊だけだ。領土さえなくして、軍隊は存在しうる。」かもしれない。領土があるから「なぜ、こんなこと、始めたんだ?」軍隊が存在するんじゃなくて、ほんとは「わからないの?まだ?」軍隊が存在するから「いや、頭の中で考えるのと、」領土が存在するんじゃないかって「現実化するのとは違うだろ?なぜ、」おれは思うとる「現実化したの?たとえば、論文書くので満足しなかったの?」書いたよ。西和輝さんの「お前、今着てる服好きか?」論文。でも、飽きたんだよ「答えになってない」書くことには。「地震あったろ。東北の。原発の。津波の」雅巳は、答えるのに飽き飽きしたかのように、椅子にもたれかかって、「あのとき、俺もボランティアに参加したんだよ」…知ってる。「見たよ、お前のフェイスブックで。インスタも」画像と《海が、こんなに》「人間として重要な行為だし、」《悲しく見えるなんて。》せつせつとした「ショップの営業としても重要なんだよ《海を見るのが、》慈善事業ってな。《こんなに》とんでもない」キャプションの《怖いなんて。》「現場だった。戦争があった」文章「わけでもないのに。向こうの果てまで瓦礫。廃墟の群れ。泣いたよ。現地の人間と会って話すたびに。本気で。心から。俺は、人生観もなにも、根っこから変わると思った。変わらざるを得なかった。いろんな人が言ったろう?3.11以降、考え方、変わったって。あのとき。けど、そうじゃなかった。俺は。何も変わらなかった。新しいメモリは増えた。けど、古いメモリは書き換えられなかった。口では言った。心の中ででも言った。変わったって。けど、嘘だ。嘘じゃないかも知れない。ただ、本当じゃない」
「時間だ」時計も見ずに、私は言った。話の腰を折りたかったわけではない。雅巳は、半ば茫然とした表情をさらして椅子に深くもたれたまま、「行こう。彰久が待ってる。」待っているはずなどなかった。誰も。まだ面会の許可すら取ってはいなかったのだから。警察署に行くと、雅巳は一瞬身構えたが、あっけなく面会の許可は取れる。もはや彰久の口から聞きだせることなど何もなく、彼は単なる保護対象に過ぎないのかも知れなかった。同行する警官に連れられて、私と雅巳は市民病院の窓口をくぐる。極端にこざっぱりとした空間に、かすかに消毒液のにおいが停滞している。警官が「失礼じゃけぇど、いつからなんじゃろうか?池内さんがあんなふうになられたんは」と、おそらくは私より十歳近くは年上の、その短髪の警官は言った。「何か、問題があるんですか?」彼はこめかみを叩いて、「かなり進行しとられる若年性アルツハイマーにかかられとるようですな。亡くなられたご両親もね、よく介護施設に行かれずに、自宅で面倒みとられとったもんじゃな、言うて」
「そういえば、池内君のお父さんのお葬式はどうなさったんですか?」私は言い、あれから一週間、図書館の仕事もしなければならなかったし、警察の事情聴取にも行かなければならなかった。私は多忙で、その事件の最も近くにいたが、もっとも事件から離れ、隔たっていた。その後、何がどうなったのか、まるで、何も知らなかったことに気付く。「ご両親はね、お父さんの弟さんがいらっしゃるでしょう(私は知らなかった。でも、)。その人がね、(なぜあなたは)連れて行かれましたね。(すべてを)この三日の日にお通夜じゃった(当然のことのように)んじゃないん?お嫁さんのほうはね、姪御さんに(話すのでしょう?)当たられる方が手続きしに来られて、引き取って行かれたけども。あの方だけ、違う形じゃったから、いろいろと聞いて行かれたらしいけど、」今、「何をですか?」警官は一瞬口ごもっていて、彼は極端に人のいい人間には違いなかった。嘘がつけないのだ。「自殺じゃなくて、殺されたんじゃないかな、言われて。あちらのご家族はね、お嫁さんのほうが犯人じゃと思われておられるようで。介護とかにね、子どもの将来とか、まだ小さいお子さんじゃったから、思いつめて、あんなことして、それで自分も、ね。それじゃあんまりじゃからと。信じたくない、信じられん、と。誰かに殺されたんじゃと姪御さんは疑っとられましたね。知っとられたんじゃないんかな。ご主人さんのご病気のことを、お嫁さんのご家族さんは」廊下は「その可能性はあるんですか?」広い。「さあ。調査中じゃから」いまさらあわてて口を濁した。警官はエレベーターの中で、大柄な痩せた看護婦に軽く会釈し乍ら、「ただ、考えられんね。遺書には、ご主人さんの看護に疲れたと、そればっかり書いてあったんよ。身につまされますな。うちも、親父がね。まぁ、大変なもんです。お姉さんのご遺体にだけ、争った形跡があってね。そうとう逃げ回られたみたいじゃな。」病院ですから、と看護婦は振り向きざまに言い、「ご遠慮いただけますか」警官は一瞬声を立てて笑った。彼女は、確かに正しい。「ほんまですね」警官は照れたように笑う。彰久は、身柄を拘束さえされていなかった。一応の特殊病棟らしい小さな個室で、つい昨日盲腸の手術でもしたかのような顔をしていた。部屋は日当たりがよかった。窓は開け放たれ、これ見よがしに清潔な空間のなかに、こざっぱりとした格好で、ベッドの真ん中に胡坐をかいて座っている。私たちを見留めると、久しぶりじゃのう、他意もなく笑った。つられて笑いかけたが、あんな事件の真ん中にいた人物が、どうしてこんなにも他愛もなく自然に笑っていられるのか訝られ、彰久は、もう何年も前から、ここにこうして住んでいるかのようだった。私たちの後ろから、あの奥さんでも入ってきそうだった。バッグの中に、新しい着替えを詰め込んで、コンビニ袋でも片手に。まだ若かった。彰久が三十歳で結婚したとき、彼女は十九歳だったはずだ。そんな話を聞いた。名前は忘れた。必ずしも美しいとは言えないが、すっきりした、整った顔立ちではあった。目をつぶると、そのかたちを思い出せないほどには。朝から晩まで、半狂乱の彰久がわめき散らし乍ら、拘束服にがんじがらめになってもがき続けているのを望んでいたわけではないが、あまりにも意外なたたずまいだった。私は何を望んでいたのか?破滅?それはすでに一週間前に終わっていた。それは、もはやここには存在し獲ないのかもしれなかった。「元気じゃったか?」私は言い、たしかにあの日以来会っていなかった。私は何を言えばいいのか、戸惑っていた。口ごもったまま警官を一瞥したが、彼はただ、物静かに、生まれたばかりの他人の子どもを見るような無責任なやさしい眼差しに彰久を捉えているばかりだった。私と雅巳をさえ。「上原くんじゃろう?あの日は、すまんことでした。」彰久が言った。「上原には、本当に、迷惑かけたね。」彰久はベッドの上で、そのままの姿勢で頭を下げて見せ、「なんでもないよ」私は言うのだった。「幼馴染じゃからな。気にせんでええよ。」私が彼に何をしてやったというのか、「あれから、元気じゃったか?」自分の言葉に戸惑い、このどうしようもない違和感と同時に、正にあるべき会話があるべき形でなされている気の抜けた充実感がどうしても拭えない。おれたちは、こんな風に、ずっと会話して、こんな風に生きているべきだった、と、この、かたっぱしから整った清潔な空間の中で、と、私は、私たちは今、清潔で、完璧に整っていた。不意に、泣き出してしまいそうな気さえする。「元気じゃったとも。おかげさまで。お前は?」私が言うのを、彰久が細めた目の中で聞く。聞き取りづらいのかも知れない。「見ての通りじゃが。わしも、もう歳とってね、もう、駄目じゃが。」聞こえる?「何を言うとるん?」俺の声、「あんなことがあって、わしにも、ようくわかった」聞こえてる?彰久は、今、しずかに微笑み乍ら言っていたのだった。確かに、急速に彼に襲い掛かっている老いを、私は見ていた。まだ、四肢は、華奢ながら、たくましいままだった。衰えのない身体を、急激に老いが、しらけた気配とともに支配していく。この空間がそうさせるのかも、そう見させるのかも知れない。実際には、何度見ても、単なる手の行き届いた清潔な病室であるに過ぎない。「わしは、もう口をださんから、好きにしたらいい」醒めた緊張感が、空間に音を立てるように響いて、雅巳は何も言わないまま、彰久を見つめた。私は、一瞬で状況を理解できたが、それを雅巳に確認させるように、私は彰久と会話した。「そう。で、何と言うておられた?」雅巳を振り向きもせずに「あいつは何も言いわせんが。まだ、若いから。」
「そうか、しかし、心配じゃな」
「心配せんでもいいんじゃ、とわしは思う。わしも若い頃はそうじゃったからね。」
「そういえば、何歳になられたん?」
「もう、二十歳じゃが。お前のところは?」小さく声を立てて笑い、私は「まだ十二じゃが」
「まだ子どもじゃのう。一番、手のかかる頃じゃないか。」
どうしようもない居心地の良さの中で、私は、彰久の子どもが一番上でさえ、まだ十二歳にしかなり得ないことを知っていた。その子は二年前に交通事故で死んでいた。軽トラが自転車ごと轢ねたのだ。首の骨が折れていたという。即死には違いなかった。私は、彰久と、彼の二十歳になるという息子についての会話を重ね乍ら、もう一人子どもがいるはずだった、十歳くらいだろうか、彼、或いは、彼女はどこにいるのか?私は彰久にアドバイスをする、彼の二十歳の子どもの扱い方について。記憶として記憶された彼のぼんやりとした、しかし執拗な願望が、今、彼を支配する。願望なのか、複数の記憶の錯綜した混合なのか。いずれにしても、私は、私の目の前で、私の知らない、知らなかった現実が展開されているのを、見ていた。一気に、彼と彼の現実をぶち壊し打てしまいたい破壊的な欲望を何とか抑えながら、とはいえ、彼の現実をまるごと認めてしまいたい衝動にさえ駆られる。それらは私の中で並存し、私はしずかに彰久の手を叩き乍ら、彼の声に耳を澄まし続ける。私の声と、彼の声との連なりがもはや苦痛でしかなくなったとき、私は不意に自分の近況を一方的に語って聞かせ、私が怖かったのは、彼があくまでも純粋に知性的だったことに他ならなかった。彼は明らかに壊れていた、そして、彼の知性は明晰で、何の澱みもなく、すべてを明晰に処理していた。今、ナイフが目の前に突きつけられていたのを、私は感じた。それは比喩だが、もはや比喩ではない。私はいたたまれない。それは、恐怖そのものだった。あまりにも、単純な、怖さ。君は知っているか?無数の、それらのナイフが私を今、刺し貫いているに違いない。彼は知っていた。ちゃんと、彼がその手で家族を殺してしまったことを。にもかかわらず、なぜ君は今、どうして、例えば罪悪感に苛まれながら、毎日手ばかり洗ってみせるくらいのことが出来ないのだろう?悔恨の涙の中で錯乱した叫び声をあげたり、もう一人の自分とか『何とか神』とかが命じたの何だのとわめき散らしたり出来ないのだろうか?君の頭の中は、どうすれば再起動できるのだろう?君のバグった頭の中は?それとも、ハードディスクを丸ごと交換してやろうか?君の口の中に、CDRか中古のフリッピー・ディスクでもぶち込めば、君の頭の中のヴィルスは駆逐できるのだろうか?ファミコンのソフトでも?恐ろしいほどに明晰なきみの知性は?振り向き見ると、雅巳は目を両手で押さえ、声を殺しながら嗚咽を漏らしていた。泣いているのだった。それは、私には理解できなかった。本当のことを言え、と敏明は言った、あの時、そして、彼のそんな姿を私は初めて見た。それは私を安心させた。確かに、このとき、この状況なら、今正に、雅巳はあんなふうに泣きじゃくってしまうのが普通だった。私が安心し乍ら見ていたのは、こんな風景だった。今、私は知っている。生き残ったほうの、彰久の十歳の十歳の子どもはあの時、自分の部屋のベッドの下にうずくまって、震えることさえなく、身を固めて息をひそめていた。一人だけ生き残ったことを、彼は知っていた。彼は自分の存在を帰し去っていた。警察が発見したのすら、一晩開けたあとだった。早朝の現場検証の終わりかけに、のこのこ自分で部屋から出てきたところを保護されたのだった。見ず知らずの何人もの大人たちの、自宅への乱入に、不安に震えながら?おそらくは。何が、彼をそうさせたのか?言葉の群れが塗りたくり、言葉の群れに塗りたくられる。すでに言葉は塗りたくられていた。誰に?誰が?何を?私は彼に手をのばす。触れようとして。触れようとする彼が、彰久であることに気付く。何ものにもついに傷つけられることもなかったまま、私は今、生きている。彰久さえも。彼の子どもを、その名前を、私は忘れて仕舞った。会ったことがあるかどうかさえ思い出せない。自分の子どもと同じ小学校に通っていることは知っていた。身柄を確保されたとき、彰久の子どもは虐待された猫のように、暴力的なおびえた目で、彼らを見つめ、これは妻から聞いた伝聞情報に過ぎない。
私が彰久の手を叩き乍ら見上げると、人のいい警官も看護婦も、今にも泣き出しそうな顔をしていた。みんなが、一様に泣きそうな顔をしている。その意味が私にはわからない。彰久は今犠牲者だった。彰久は自分の教育論を語っている。私はそれを聞くが、耳を貸してはいない。お前が殺したに違いない。私も泣きそうな顔をしているのに気付く。あの、姉でさえも。お前がその手で。いや、私はすでに泣いていた。涙を、隠しようもなく流していたのだから。激しく、呼吸をさえ乱し乍ら。十年以上も会わなかった。彰久など、私の知らない人間だった。今、始めて会うのと同じことだ。私は地域史の編纂をする。どこに存在する土地の歴史なのか?まるで私の知らない他人の土地の歴史のようにしか見えない。そんなものを、どうやって編纂すればいいのだろう?それはた易いことだった。私は毎日、資料を打ちなおし、エクセルに入力した。それは、私の重大な過失だったことには気付いていた。ごくごく単純に、ワードのほうがよかった。情報を並べ替え、編集するなら、エクセルのほうが結果的には楽な気がしたのだった。信じ難いミスだった。福山の保護施設管理下のもと、叔母の家におかれている彰久の子どもは、一人で生きていかなければならない。彰久は既に存在しない。目の前の、そして私は彰久の言葉にうなづいてやりながら、彼は一人で生きていかなければ成らない。何年も前からそうだったのかも知れない。彰久の症状が、一日二日のものだとは思えない。彼は、どこで、どうやって生きていたのか。ひとりで。あの家族の中に、毎日出入りし乍ら。彰久は近い記憶から忘れていくのだから、彰久に最も近いところにあるあの事件など、もはや消滅していたに違いなかった。彰久はすでに、あの事件にとって無関係な部外者に他ならなかった。彼はそれに、ついに、手を触れることさえできなかった。自分で殺しておきながら?すでに、それはむしろ外部の私たちの手の内にあって、今、私たちを泣かしめさえしているのだった。あるいは、彰久があの記憶を呼び覚まして仕舞ったとしたら、彼はどうするのか?この明晰な知性は、いかにそれを処理するのだろう?あるいは、彼の知っている事件の中で、彼は誰かを殺したのだろうか?彼は再び警察に電話するだろうか?自分が殺したことを知ったなら。あの、液晶画面に罅の入ったスマホで。殺したことを知っているなら、彼は殺そうとはしないのだろうか?加害者を、例えば、愛すべき家族の命を守るためにも。あるいは、報復のためにであっても。じゃあ、と、私は、ややあって、そのとき、立ち上がり乍ら言った。子どもは全部、見たんかな?あんなふうに、家族みんなが…、言い澱んだ私に、それを打ち消すように妻は言ったものだった。知らんらしいよ、何にも。それがねぇ、それだけが、不幸中の幸いじゃねって、みんな、言ってるよ。物音がするからいうて、部屋から出てみたらね、あんなことになってて、あわてて布団のなかにもぐったらしいんよ。妻は言い、独(ひと)り語散(ごち)る、…かわいそうにね。「ぼく、知らない」て言うんよ。いい子じゃったのに。そう言う。まるで、死んでしまった子どものようだ。妻は誰かに語って聞かせていた。聞いているのは、私だった。行くよ、私は言った。じゃあ、元気で。それは彰久だった。彰久が、私に別れを告げたのは知っていた。病院を出ると、その駐車場はこれほど人気のない町にもかかわらず、ほぼ満車状態だった。百台近くの車が止まっている。それは奇妙な光景にさえ見えた。
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