小説《■陵王》② 魂は革命し、墜落し、そして覚醒する。









陵王









美しい男だった。無表情と言うわけではないが、何を考えているのかわからず、どんな言葉をかければいいのか思いつかない、彼の美しい顔の左半分は、年月の経過など感じさせないあのころのままの美しさを維持し、そしてその右半分は失われていた。まるで顔というものを鑢(やすり)でかけてならしたように、それは人間の顔の模造品の原型をすら思わせ、要するに、失われていた。壊れた、という動詞が、ただ、頭の中に連想させれ、それらは小さく木魂し続け、しかし、壊れてはいない。顔として成立する以前の顔の原型のように、そこにはりついているばかりなのだから。潤ちゃんじゃねぇか、と彰久が呟くようにいうのを、中山も、敏明も耳にしたはずだ。誰かが彼の肩をたたき、席に迎え入れるべきものだろうが、誰もがタイミングを失って、あの奈々恵でさえもただ、彼を見つめるだけだった。確かに、彼は彼女の初恋の相手だった。私たちの視線を避けるように潤は席に着きながら、「ごめん、遅れちゃったね。場所がわからなかったんだ。」突きつけられていた銃口がはずされでもしたかのように、一瞬で、無言の拘束を解かれた雑談の音声が沸き立つ。声の群れの解放されたつらなりの中に、知美が身を乗り出すようにして、どうしたん?そう問いかけたときに、潤は、「何?顔?」微笑み乍ら、彼は言葉を継いでいく。「何てことないよ、ちょっとした事故、と言うか、…」胸元まで上げた手のひらをはじくように開いて見せ、「Bomb ! 」、と、なにそれ?。戦争にでも行っとったん?「いや、そうじゃないけど、」潤は言葉を止めて、…ところでさ。木村幸恵は鼻を一度すすり上げる。見回す。「誰か、とりあえずビールでもついでくれない?」周囲で笑い声が立ち、《…じゃ、》かけつけ手酌で《じゃぁさ、ね。》乾杯なしじゃあさ、《じゃあ、…》飲めないよな、《じゃあさ》「再会を《…ね?》祝して」乾杯が終わると、むしろ、矢継ぎ早に潤の方が片っ端から近況を聞いていくので、それはむしろ彼が彼自身の近況を尋ねられる機会を封じ込めようとしているとしか思えない。誰もが、高校を卒業して以来、彼とは会っていないはずだった。東京の大学に行った。東京の、と言う以外に形容しようもない、東京と言うローカルのローカル大学に過ぎなかった。確かその六年くらいあとには、彼の父親の建築会社は倒産していた。実家は抵当に流れて、あれから今に至るまで放置されっぱなしのはずだし、その両親も今、どこにいるのか私は知らない。彼のフェイスブックは、まるで記事がなく、開設されてあるというだけに過ぎなかったが、そのくせ、メッセージを送ったらすぐに返答が来た、と知美が《じゅん様?久しぶり》言っていた《同窓会あるんじゃけど》誰もが《今回は来れたりするんかなぁ?》潤が来るなどとは思っていなかったので、思い出話に出てきはしても、みんな、彼の存在を忘れて仕舞っていた。不意に彰久が潤の手を一瞬強く握ったあと放し、潤は途中で言葉をとめた。彰久が彼の手を軽く三回叩き声を立てて笑った。潤は目を細め、彰久に微笑みかけた。それはわずかな一瞬だった。懐かしい笑顔だった。潤はいつも、気配を感じて振り向いたら、そこに微笑んでいる人がいたことに気付いたような、そんな笑い方をした。元気だった?潤は私を振り向き見て、その整ったほうの顔で微笑みながら「ずいぶん長い間、会わなかったね」私は言った。やわらかい、潤の少し鼻にかかった声は私の記憶を呼び覚まそうとする。その声は正に記憶されたままの声だったが、やわらかい、潤の少し鼻にかかった声は私の記憶を呼び覚まそうとするが、ほとんど毎日顔を合わせた膨大な記憶のどれをも鮮明に思い出さしめ得ずに、そして、潤の少し鼻にかかった声は私の記憶を呼び覚まそうとするが、ただ、存在する記憶の塊りに指先だけ触れて沈黙する。









潤の少し鼻にかかった「もう何年?」二十年かな、私は言い、「ブラウン管のテレビは液晶になって、家電話は携帯になって今スマホだな。そんなもんか」彰久は飲みすぎているようだった。無意味に声を立てて笑い、ややあって、沈黙した。池内彰久も地元を離れなかったグループの一人だったが、この十年ほど、連絡も絶えていた。たぶん、SNSがなければ、二度と連絡をかわすことなどなかったかもしれない。あまりにも近くにいながら、長い年月のあとで私たちは再会したのだ。彰久には、あからさまな加齢が、残酷で、見苦しいほどに刻まれていた。酒を飲みすぎた彼は、その挙動の調子を少しくずしていて、彰久は今、私にとって奇矯で珍奇な何かに過ぎない。彼が十代の頃、私は彼を愛していた。それはある種の同性愛に近い感情だったと私は思う。彼は、その行動原理のすべてが確率論に過ぎない少年だった。今にして思えば、思春期の何らかの精神疾患の産物であったかも知れない。彼は不可解な変動係数にかけられて、唐突に誰かしらに牙を剥き、教師にも、年長者にも、同級生にも、年下にも、無差別に降りかかる彼の刹那的な暴力は、私たちに常に持て余されていた。あんな奴少年院でも入れればええんじゃ、とあるとき不意に思いついたように言った中山に、私もふくめて、その場の誰も何の口ごたえもできなかった記憶があった。彼の暴力性のその刹那性と、彼の若すぎる年齢によって、あのころ、彼は目をそむけたくなるほどに美しかった。高校は一年半で退学した。下級生の数十人に集団リンチを食らったのだが、結果的に、どちらが加害者なのかわからない結果になって仕舞った。処罰されたのは彰久のほうだった。泣きじゃくりながら、彰久を制裁する下級生たち。バイクに引きずられたあと、高校の前の路面に投げ捨てられていた彼の気絶した姿を覚えている。知美が伺うように「どこにいたん?」それはあきらかに潤に言ったものだったが、彰久が「俺はずっと、ここにいた」と言ったのが聞こえた。振り返った彰久が知美を見つけて、「外国」潤は答えた。「ベトナム。ベトナムと、ラオスの国境近くの。山間部のね。」潤は微笑んで、私を見ていた。「ベトナムだけじゃなくって、…東南アジアのほうって、豊かになり始めたけど、やっぱり格差がすごくてね。貧しいところは、やっぱりすごく貧しい。とはいえ、美しいところだよ。少なくとも、自然はね。山が、でっかい山脈が、連なってね、どこまでも。」今、何やってるん?隙を突いて尋ねた私に潤は声を立てて笑うと、一度目を伏せ、「話が長くなるよ。で、俺、話の長い奴、嫌いなの。だから、また今度ね。」地元に、というよりも、日本に帰って来たこと自体が十年ぶりだった。方言などあきらかに忘れていた。日本語さえ呼び覚まされた記憶に過ぎなかったに違いない。あきらかに意識してしゃべられている日本語だった。潤はかつても美しい少年だった。女性的な印象を与えるが、実際にはあからさまに非女性的な無骨さによって構成された曲線のそれらは、いまや、その半分をこそいだかのように失ってしまってるせいで、むしろ、美しさに独特の洗練さえ与えているように見えた。対比の中でより自覚された美しさを。何か、凄惨な印象を与えるほどに。無言で微笑み続ける彼の顔を見つめ、変わったな、私はそう言いかけたものの、「と言うたらええんか、変わらんと言うたらええんか、わからんけど」それは、潤は言う、何も言っていないのと同じだ、微笑んだまま、「…お互いにね」彼は言い、「乾杯しよう」こっちにはどのくらいいるの?知美が舌をかみ乍ら言った。もたげかかったグラスをそのままに、しばらく知美を見ていたが、「とりあえず、母の実家に行く。そのあとは…、特に予定はない。こっちにいる限りは、こっちにいるとしか言いようがない」知美は伏目がちに、潤はその瞬間私に視線を投げて、「いろいろ問題のある同窓会じゃったけど、」二日後、北浦隆志は言った。それは彼の経営する病院のすぐ裏手の自宅だった。かつての井原市の山の手、今は、大きなショッピングモールが、国道の向こうにできたためにさびれきった、旧山の手と言うべきそこは、ほとんど人通りもない。地方にいると、人口減の現実がよくわかる。隆志は栓を抜いたビールを差し出し乍ら、「…そう思わん?」妻方の両親から継いだ病院の経営者なのだから、それなりに隆志は潤ってはいるはずだった。むしろ質素にまとまった隆志の居住空間は、だが、よく見れば質のよいらしい家具や小物で構成されていることにた易く気付くので、隆志の、あるいはその妻の趣味を感じさせずにはおかない。高級品は見ればなんとなくわかるものだ、と、私は妙に


陵王乱序

関心して仕舞うのだが、いずれにせよ、居心地のよい居住空間ではあった。つけっぱなしのテレビの前の、彼の二人の、性別がはっきりしないほど幼い子どもに何度も視線を投げかけ乍ら、隆志は、そして私は言う「何が?問題って何が?会計が?」隆志は声を立てて笑い、「確かに。考えてみい、みんなから四千円集めたのに何で三千円足りんのじゃ。」肩をすくめてみせるしかない。それはええとして、と隆志は、まず第一にの、潤ちゃんが来たろうが。「来たね。」あいつぁ、ハンセン病で。知っとるか?「何?」…それって、と、「らい病?」私が答えるのを、それは、差別用語じゃけどの「ほんとか?顔は、確かに、変になっとったけど」記憶をたどり乍ら、私が「初期なんか?」じゃあ、ないじゃろうな。あんなにまでなっとりゃあ、そうとう、悪い。私にそれは信じられず、「でも、腐ってくるんじゃろうが。らい言うたら」腐りゃあせん。らい自体じゃあ。神経をやられるからの、痛みがなくなるから。何かの傷が化膿して、衛生環境悪くて、そのまま放置しとれば、何か別の感染症でそんな風になることもあるかも知れん。診たことないから、俺はよく知らん。けど、そりゃあ、らい自体の症状じゃない。「あんなもんなんか、らいって」そうとう悪くなってるよ、あれは、と隆志は言うが、再び、私の視界の中に思い出される潤の顔の映像が「うつるんじゃないんか?らいは。大丈夫なんか?」うつる。けど、たいしたことない。ひ弱な菌じゃから。めったにない。子どもや死にかけの爺さん婆さんじゃったらわからんけど。それに、一回投薬したら、ほとんどの菌が死んでしまうから、ある意味、風邪よりも簡単な病気ではある。やられてしもうた患部の処理は別にして。昔は違うどな。もちろんじゃ、薬なんかなかったんじゃから、大変な病気じゃったはずじゃ「じゃあ、あいつ、もう治っとるんか?」昔、ピアノを習っていた私のピアノを、潤はよく聞いてくれた。治っとりゃせん。隆志が言葉を切り、それは姉が腱鞘炎になった後、「治らんのか?」私の為だけのものになったピアノだった。…いや。と、隆志が言うのを聞く、治しとらんだけじゃ、たぶん、潤は自分では弾こうともしないくせに「レプラも生き物じゃから、突然変異くらいはするじゃろう、耐性くらいは身に付けるじゃろう」それどころか、一切指さえ触れようともしないで「…たぶん。じゃから、薬の効かない固体くらいあるんかもしれん、地球上のどこかには」弾いてみろ、と言った。潤はいつも私の家に来ると、そのアップライトピアノを指さし、「ベトナムにはないということなんか?その治療薬が」そんなことはなかろう。国境なき医師団とかで、中東のほうにも行ったけど、あんなところでも、何にもないけど、思ってたよりは結構ある。今どきはな「けど」と、隆志は言った。









「ほんとのことを言うと、ほんとのところはわからんよ。診察しとらんから。」むかし、というか、一年も前じゃないんじゃけど、隆志は笑って、私の置かれたままのグラスに乾杯し、言った。「飛行機に乗ってて。コソボ紛争のとき。覚えとるか?飛行機でたぶん、喘息かなんかの発作なんかな。お医者さんいませんかって言うんじゃ。けど、俺は無視したね。病院の医療機器に囲まれてない状態の医者なんて、医者でもなんでもない。何にもわからんし、何にもできん。本当に。真由美(それは彼の妻の名前だったが、)があんた、何とかしたげ、言うたけど、無理じゃ、と。何も出来ん、と。」いずれにしても、じゃ、日本でも二年に一人くらいは感染しとるんじゃないかな?俺のは教科書で習った知識と言うだけじゃから、実は、何もわからん。ただ、不思議なんは、なんで、潤は、と、隆志が「何で潤は何の治療もせずに放置しとるんか、とうことじゃ。」不意に、髪をかきあげ、私は、奇妙な眼舞いのような感覚に襲われたが、死にたい?それは、飲みすぎただけかもしれない「死にたい、とか?」私は言う。冷えた感覚が喉の奥にあった。あり得る。隆志は答え、確かに、潤が何を考え始めても不思議ではない。けど…、と、隆志の声を、まるでお前は彼の死を望んでさえいるようだ。私は「らい自体では、基本的には死ねない。」聞く。他の感染症を併発しない限り。死ぬとしても、長い時間がかかる。らいで死んだのか、それ以外で死んだのか、判断も出来ないほど、長い時間が。私はそれらの言葉を聞き流す。彼の死を私自身がどこかでねがってさえいる感覚に襲われ、打ち消すように、「本当に?」ビールを飲み干すが、「あと、彰久ね。」立ち上がって、振り向きざまに隆志が、彼は両手に新しい冷えたビール瓶を持っている。「ありゃ、アルツハイマーか認知症で。」その後の、警察所管の専門医による詳細な診断で、彰久の若年性アルツハイマーが証明されるにしても、私にも思うところがあった。少なくとも何らかの精神疾患をは抱えている雰囲気が確かにあって、記憶を手繰るまでもなく、一瞬の、冷たい氷で背筋を撫ぜられたような感覚とともに、なにか、いたたまれない気がする。隆志の家からすぐ近くの、旧市街地の端の山際の彰久の実家を訪ねたとき、「彰久に会ってくるか?」それは私が言い出したのだった。今?これから?









いやか?

ややあって、隆志は言った「ええよ。けど」全く人の気配のない薄暗い夜の空間を「何も出来ないよ、おれは」歩き、「専門じゃない」あらゆる夜の光源が、ほのかに空間と事物とを照らし出す。専門じゃない領域に関しては、ほんとに、わしら、色彩が、素人なんじゃ。暗さの中に埋没し乍ら空間に鮮明にうがたれ、鍵もかけられていない玄関から入ったときの、湿度をはらんだ臭気を、少なくとも私は忘れることができないのだった。今も。居間の向こうとこっちで、彰久の両親たちが死んでいた。彰久の両親らしい老人たちの明らかな死体が四肢を奇妙なあり得なさで折りまげて、血にまみれて倒れていた。激しく、何度も刺されたように見えた。大量に流れている血がこんなにも匂うことを、私は初めて知った。隆志もそうに違いない。彼の嗅ぐ血の匂いは、手術室の中の、あくまで新鮮な生きた血の匂いだったに過ぎない。私たちはむしろ、何も言わなかった。目線をさえ合わせず、引き戸を開けば見えてくる階段の半ばに、彰久はうずくまってスマホをいじるばかりで、私たちを振り向こうともしない。彼が、わたしと隆志に気付いていることは知っている。彰久は、LINEに、子どもの運動会の写真をアップしていたが、《先生方、役員の同級生たち、ご苦労さんでした。やっぱり、運動会はもりあがるのう!》そのキャプションを読んだのは、何日かあとのことだった。とっさに、隆志が彰久の襟首をつかんで投げ倒し、彰久は階段を転げ落ちていく。蛙のように四肢を開き、ばたつかせて。私は、そして隆志が、喉に鈍い音を鳴らしたのを聞いた。隆志は彰久に馬乗りになって、後ろから彼を殴りかかっている隆志を私は見ていた。彰久の左腕は自分で後ろでにねじ上げられたまま静止し、その無抵抗さの無意味さに、私は思わず目を逸らした。何を考えていたわけでもない。私は黙っていた。何もできないわけではなかったが、何をすればいいのかわからなかった。むしろ、それを探した。何をする気さえなく。彼らの周辺をうろつき、見上げた階段の上には彰久の、久しぶりに見かける姉の惨殺死体があって、その先の個室の開けっ放しのドアの向こうには、彰久の妻が首をつっていた。ドアは、薄いベニア板を二枚貼り付けたものだ。むかし、よく使われていた安価な素材だった。父の施工する内装にはいつもこれが使われていたものだった。何が起こっているのか、判断が出来ていないのは確かだった。他の何らかの事象を探して、私はドアというドアを片っ端から開けていく。何を探しているわけでもなく。









隆志は一方的に彰久を殴っていた。他には何の死体も発見できない。子どもたちはどこへ行った?私は訝るが、ここにはなく、ここにはいない。最早、他に何もないことに気付いたときに、私が感じた奇妙な落胆は、そして私は自分が息を切らしていることに気付く。彰久が鼻から息を長く吹いて、血交じりの鼻水を床になすった。隆志は廊下の壁にもたれかかって、胡坐をかいたまま動かない。隆志が、まるで被害者のように見えた。うなだれ、もはや、体に力さえ入らない。頭を抱え、彼は、そして私は、隆志は今、すべてを失ってしまったのだと気付いた。何を?隆志が、誰の?床に転がっていた携帯電話に手を誰のすべてを?すべての何を?彰久は床に転がっていた携帯電話を取り、自分で警察に電話した。はっきりした口調で、家族がみんな死にました。すぐ来てください。それは何度となく私たちが耳にしてきた、あの若干甲高い声だったが、自分の氏名とアドレスのあと、奥さんを殺してしまいました、と彰久は言った。私はそれを聞き、足元の、彰久の姉の体躯が、まだ息づいていることには気付いていた。かすかな呼吸音があった。彼女は一度くぐもった咳のような音声をその肺の中で立て、なぜ、私は声を立てようとしなかったのか?すぐ近くに医者がいて、彼女の親族さえいるというのに?私はそれを黙殺しようとした。彼女はもう助かりようもないのだった。右の親指の指先さえ折れて、逆方向を向いているのが、痛い。その名前は忘れた。思い出そうともしなかった。漢字三文字で下は子だった。子どもは三人いたはずだ。子どもたちは今、別れた旦那の実家のほうに行っていたに違いない。彰久も三人兄弟だった。私は身を屈めたまま、専門学校のとき彼女は妊娠して、結婚して、私は彼女の口をふさいだ。看護学校だった。数年で離婚し、帰ってきた。彼女は死んでいるのだ。ある意味で、既に。もう助からないのだから。彰久が言っていた、看護学校じゃ、お互いにお互いの血を採血して、採血の練習をするらしいで。採った血と注射器は、もちろん特殊汚物として処理されるんじゃ。彼女が旦那と会ったのは看護学校だったのだから、もちろん、おたがいに、そうしあったに違いない。時に見つめあい乍ら、戯れるようにしてさえ、彼女は死んだ。さびいしいんよ、彼女は言った。一度採った血は、水洗トイレに流して、捨ててしまうんよ。あ、これは、ヒミツで。彼女は死んでいた。誰にも言っちゃいけんで。彼女は言った。怒られるから。冷え切った氷のような体温が私の皮膚と筋肉とのあいだをすべり、その下の体内が沸騰したように熱い。身をかがめて、私は自分の震える手を自分の震える手で押さえながら、潤は私にピアノを弾けと言った。触れようともしないまま、何でこんな音が出るん?弦を木がコンコン叩いとるだけなんじゃろ?香気がする。この美しい少年の体からは、塗りたてのニスに色気を混ぜたような、耐え難い香気が、福山にバスで行ったとき、それは私たちが中学生のときだったが、バスの中で、私はすぐ後ろの席にの潤をふりむいて覗き込み、私は思い出す、話しかけ、彼の隣に座っていた若い女性は明らかに性的な興奮状態にいて、それを押し留めていた。いつものことだった。思い出す。潤に魅了されない女性など存在しなかった。いつも、彼女は、いま、許しがたい暴力にさらされている被害者ででもあるかのような顔つきをして、むしろ無関係な私のほうに非難する目つきを見せた。私は小さく声を立てて笑い、潤は一度目を伏せた。潤は私たちの要求には既に気付いていた。おもむろにその女性を見つめ、のばされた指先は彼女の髪の毛に触れた。一瞬、体を震わせたあと、声を押し殺しながら、そして悲惨な状況の被害者であることを訴え、何かを懇願する眼差しを彼女は潤にむけ、彼女は何かを訴えていた。かすかな発汗が彼女の身体を薄く包んでいるのは知っていた。あなたは私を救わなければならない。薄く開かれた唇から彼女の呼吸の音が聞こえていた。彼女にできることは何もなかった。彼女は、はっきりしすぎたメイクで、田舎風の美人だった。





Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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