小説 op.1《蘭陵王》② Lan Lăng Vương 仮面の美少年は、涙する。
以下は、短編小説《蘭陵王》の第二章のファーストピリオドです。
ところで、子どもの頃、ヒロシマで生まれて初めてフィンセント・ファン・ゴッホの絵絵を見たとき、わたしはびっくりしました。
真っ白い建物の庭に日差しがあたって、樹木の緑が茂って、猫が一瞬たちどまった、という有名な絵ですが、
画集で見ていた印象とは全然違って、ひたすら静謐とした絵でした。
よくぞここまで、と想ってしまうほど、キャンパスに根を張ったような絵の具がしっかりと芽生えながら、
まるで森の樹木が決して何も語りかけたりしないように、何も語りかけようとしない、
ただただ健康的で、生気に満ち、美しく、静謐とした絵。
その後、いろんな美術館で見たファン・ゴッホの作品はどれもそうで、
写真には入りきらない絵を描いた人だったんだな、と思いました。
《画家の絵》のモティーフは、そんなファン・ゴッホ体験がベースになっています。
2018.04.28. Seno-Lê Ma. Đà Nẵng,Vieeejy Nảm.
陵王乱序
日差しが直接私の肌を灼く。灼かれるままに、そして川沿いの Thô トー の家にたどり着いたとき、既に葬儀用の祭壇作りに男たちは追われていた。都市部のベトナムではめずらしい、広い敷地に二棟の平屋と一棟の三階建ての家屋を並べた古い、コンクリート造の家屋は、周囲のまばらな木立の中で、人々のまばらな喚声が時に上がるがままに任せる。何人か私たちを振り向き見たには違いないが、Quần は誰に挨拶をするわけでもなく、敷地をまっすぐ横切って、朝の光を全てのものが浴び乍ら薄い影が作られた。白い細かな煌きの点在するままに、Quần はみすぼらしいほどに小さな Thô の居宅のドアを開けた。南京錠をあけるために、鍵を探して、自分の大量にぶら下がった鍵束に小さく舌打ちをし乍ら。前にも何度か訪ねたことがある。何の用があったというわけでもなかった。小さな、古ぼけた過剰に装飾された木製のテーブルと椅子が、狭い部屋の半分近くを占領し、しかし、何かが置いてあるというわけではない。ベッドには蚊帳が掛けられ、風に白く揺らめきながら、すぐそこに置かれた古い扇風機は、いまだ動くのかどうかさえ定かではない。壁に、発音記号つきのアルファベットを筆で書いた書画が一帖掛けてあるだけだ。沈んだ淡い緑で色彩は統一され、服はハンガーに掛けられたまま剥き出しで吊るしてある。二日酔いにまでは至らないものの、昨日の夜飲みすぎたアルコールが私の胃を重くする。親しい友人たち。愛すべき、その、Bính ビン はベトナム語以外しゃべれもせず、Nam ナム は独学の英語をしゃべる。ロシア語こそ堪能だが、私の知っているロシア語はチャイコフスキーとスワン・レイクと罪と罰くらいものもだ。それらと、正確ではない私の英語と、辞書5ページ分くらいのベトナム語は交錯し、形成される希薄で親密な交友関係の中で、いくつものビール瓶が空になり、浪費され、夜遅く帰ってきた私を見咎めた妻は、甲高くののしり乍ら、口早なベトナム語の向こうで、もはや英語を話すことさえ忘れた彼女の額にキスをくれるが、彼女の額はしわがよるほどしかめられていて、その眉を見やったまま私は寝室に入る。声を立てて笑って、何度も投げキッスをしてみせて、いずれにしても、愛されているに違いなく、愛しているにも違いない。Quần は壁に手を触れ、顔をすれすれに近付けたまま何かを探す。初めて会ったとき Thô は、それは私の妻の父の紹介だったが、海辺の海鮮飲み屋でランチを兼ねたビールを飲み乍ら、義父はいつも彼が目上の人間にする癖で、 Thô に身をすりよせるようにして私のことをしゃべりたてていた。Thô の体はわたしよりも、義父よりも大きい。完全な白髪が脇だけ短く刈られ、横に撫で付けられたトップが海風に乱される。私は、吊るされたまま一部に埃さえ積もらせた Thô の洗いざらしの服に手を触れ、Quần はベッドの下を覗き込んだ。Where you came from ? さっきから、Are you Japanese ? 何度も義父から繰り返し聞かされているのにもかかわらず、Thô は疑問文を並べる、それがまるで礼儀であるかのように、私は善良そうな笑みを浮かべ続け乍ら、頷く私に、Good, そう言って、Thô は私の手を諭すように叩く。
聞き取ることが困難なその英語に耳を凝らし、私は Thô の手に触れる。かさねあわされた手を、ややあって、彼は言った、何も気にするな、と。Thô の指先はグラスのふちを撫ぜ乍ら、彼は、1945年のことは、と、「いいか?」 Thô は言う、もはや、私の記憶として彼の言葉そのものは失われ、彼は言う、私たちは何も気にしてはいないのだ、と、この、聞き取られた意味としてしか記憶されなかったこれらの断片に、,,,phút、...lan、...sẽ、ようやく聞き取られたその言葉、フランセに対しても 、...âm、...mẹ、...lý、...cảm アメリカンに対してもだ、と Thô は言い、người phát なれた口調で、そして彼は、người mỹ まるで彼本人がベトナム人そのものであるかのように言う彼を người nhật ふと、滑稽にすら感じ、私たちは người việt すべて許した、私たちは người ai すべて忘れた、と彼は言い、...ai 私の記憶として、私たちは彼の言う言葉に耳を澄ませ乍ら、記憶された意味として痕跡だけを残して既に失われた Thô の言葉の群れは、Thô の手を握り、Cám ơn... と私は彼に言う。 Ai là ai ? ありがとう、私は言って、彼の手をとったのだった。囃し立てるように、義父が歓声を上げ、私は何度も彼らの背中を撫ぜて、囃し立てる義父が私の肩を叩くがままに、我々は、過ぎない、許された、彼らによって、存在であるに、と、私は義父の乾杯の声に、我々は彼らによって許された存在であるに過ぎない。Mộ, hai, ba, という掛け声とともに、それは、1、2、3、という意味に他ならなかったが、声を立てて笑う義父の過ぎなかった、日本を、親日国と、国である、呼ばれる、それらの、許した、結局のところ、私は注がれたビールを、結局のところ親日国と呼ばれるそれらの国は日本を許した国であるに過ぎない。飲み干した後、美しい歴史の和解、にもかかわらず、彼らは許したに過ぎない、と、私たちは乾杯し、歴史に手を触れることなどできはしないその限りにおいて何ものも歴史を許すことなどできず歴史は決して何ものとも和解などしはしない。義父は持ち上げたグラスの底を指し、飲みなさい、と言うその甲高い声に押されて、私は一気に飲み干し、君は知っているか?Thô、私は酔った振りをする。 ông Thô、君は、笑顔を作り乍ら私は、知っているか?歴史と和解しうる人間など存在しない。なぜなら、それはここに存在しないから。過ぎ去ったそれは何ものにも許されることなく、何ものをも許さない。緑色の壁によりかかったまま、私は Quần の背中を見つめた。海の水のように。Quần は立ち上がり自分の指先のにおいを嗅いだ。海に手を突っ込み、それは手を濡らし乍ら、窓越しの陽光に瞬き、Quần は、今まさにそれに手を触れていながらも、私たちは、それを手に掴むことなどできない。壁を一度叩き、顔を曇らせたまま Quần は、海の水のように。Nước ...目の前に存在した海を của かつて掴みえたものは Biển いない。いつでも、常に、そして私を振り向き見た Quần は、Đi と言った。
Đi,... Ông Thô cho chúng tôi. あの老人は待っています。Đi ! 行きましょう、と、私たちにはThô の居場所などわかっている。真ん中の一番大きな平屋の正面に開かれた広い仏間に安置されているに違いない。日差しが3本並んだココナッツの葉を照らし、幹に刻まれたその陰が、それらがやわやかな風に揺れていたあの日の午後、私は海の写真を添えて Face book に記事をアップする。「ベトナムで老人たちが言う。1945年のことは忘れなさい、と。/わたしたちのように。/わたしたちは忘れてしまった、/アメリカのことも、フランスのことも。/ある種の人々はいう、/かつて占領されていた多くの国が親日国だ、と。/わたしたちは、忘れてはならない。わたしたちが、彼らに許された存在に過ぎないのだということを。」絵にかいたような、良識派。インターネットの無力で卑屈なマジョリティ向きの。誰が? 感傷的な文章がいくつものいいねを拾い、私は知っている、海辺の風に乱れた髪を整え、Thô はそして、彼は死んでいた。十数人の無意味な親族の人だかりを抜けて、まだ棺さえ用意されないまま、その一族の巨大な仏壇の前、布団の上に彼の遺体は横たわり、少し離れたところで壁にもたれたしわくちゃの老婆が間歇的に足をじたばたさせて泣きじゃくる。彼女の発作のたびに誰かが駆け寄り、言葉は掛けられ、それは Thô の妻だ。私は知っていた、少しだけ Thô より年下のはずの、そして Quần と目が合った瞬間に彼女は思い出したようにふたたび泣きじゃくり、四肢が暴れた。仏壇に置かれた i-Pod から流しっぱなしにされている読経は空間の低いところを支配し続け、Thô は名士ではなく、金持ちでもなく、政府の人間でもない、唯の老人に過ぎなかったが、多くの人間が彼に一目置いた。彼と話すとき、それは多くの人々に、かしこまってお伺いを立てることを意味した。上目遣いに媚び諂い乍ら、仮に、彼が太陽は東から昇るといったくだらないの言葉の羅列をしかその口から吐くことがなかったとしても。 何人もの人間たちが葬儀の準備に追われ、静かな、とは言えない声の群れの中で何かが設置されれば撤去され、不機嫌な喚声の中に再び設置されれば、いずれにしても撤去される。Quần が口早に祭壇作りに口を出す。せっかちで、気の強い Quần がいつの間にか指揮官のようなものになっていて、誰もが大声で彼の指示に文句を付けながら、祭壇は何度目かに組み上げられていく。ほとんどの人間を私は知っていて、私はほとんどの人間に知られていた。彼らの葬儀の流儀をなんら知らない私にできることは何もなく、誰にも拒絶されなければ、誰かに受け入れられているわけでもない、お互いにどうしようもなく霞んでいく、この希薄な無数の人間たちの気配の中で、私もふくめて、そして庭は静かに朝の光を浴びている。Ho!と喉にかかった甲高い声がして、振り向き見ると、それは Hồ ホー だった。
Hồ は私に手を振り、笑いかけて、私も笑いかけた笑顔を、そして私だけ無理やり元に戻した。今、私が笑っていいのかどうか、私は知らない。彼らは笑いたければ笑った。死体の目の前だったとしても。とはいえ、外国人が仮に彼らと同じようにした場合、彼らの目にそれがどう映るのかをはわたしは知らない。 Hồ は美しい少年、あるいは青年だった。少年と言う言葉も青年と言う言葉も、いずれも適切さを失効する十代半ばの彼は、確かに私自身もかつては確実にそうだったのだが、表現されきらないあいまいなあの年齢の気配をあからさまに体中で濫費していた。彼は、彼がいつもそうであるように、泣き乍ら笑っているような表情で遠くから私に手を振り、光に当たった白ずんだ庭の真ん中近くで、無造作に灼けた肌とサイドだけ刈り上げられた髪の毛の前髪の額にたれかかるのを木漏れ日はしずかに照らし出した。地の顔立ちが表情豊かなであるために、逆に、何を考えているのか察しづらい。こぼれるような笑顔はすぐに、そして Hồ はココナッツの木の上を逆光の中、狩人の眼差しで見上げた。ここには Thô の家族の3世帯が住んでいる。Hồ は Thô の短命で亡くなった孫の一人っ子だった。一人しか作ら、あるいは、れなかったというよりは、もう一人生まれる前に、彼らのほうが死んでしまった。Hô がまだ三歳か四歳か、十年以上前に彼らは交通事故で未生の一人もろとも二人とも死んだ。親が死んだとしても、そして誰かが引き取ったというわけでもなくここにいさえすれば誰かしらが Hồ を育て、いずれにしても Hồ は育つことができる。小学校ぐらいは出たのだろうか、今は何もしていない。いつもどこかにいて、誰かが彼に何かを与える。美しい Hồ はいつも多くの友人たちに囲まれ、取り巻きに囲まれた彼を町で見つけることはよくあったが、Hồ が自分で金を払っているのを見たことがない。友人とは従者であって、従者は彼のために自らの多くををささげなければならない。どんなときであっても。一度、川沿いの道路に止めた数台の彼らのバイクの前で、Hồ が一人をひざまづかせ、その額を足蹴りにしているのを見たことがあった。Hồ より年上の、二十歳を少し超えているらしい彼は、にもかかわらず、世界が終わったような顔をし乍ら、Hồ に早口に何かを乞うのをやめない。Hồ は何も言わずに見下ろすだけで、取り巻きたちは彼を、許しえない禁忌に触れた穢れたものを見る目つきで捕らえて、隷属した眼差しのうちに Hồ に同意し続けた。無言で、あるいは意図的に怒りを含まされた言葉の群れとともに、それは、カルトのリンチを見るような、凄惨な印象すら与えた。この、集団の中で一番小柄な少年、正確に言えば、少年と言う言葉と青年と言う言葉の危うくすれ違い得たあいまいな距離感の中に生息した存在は、相変わらず泣きながら微笑んだような顔を少しも変えることなく、ひざまづいた従者の言葉を聞いてやったが、安らかな、とは言い難い顔を晒して、Thô の遺体は横たわっていた。何かに驚いた瞬間に、唐突に何かを思い出したような、そんな表情を硬直させたまま、口を「う」と「い」の形のあいの子のようにわずかにひらいて、彼はまだ目を開けたままだった。解けないままの死後硬直のために誰も閉じてやれないに違いない。触れる気にはならなかった。死者の目は何を見るわけでもなく、ただ、開き、あの画家に会いに行ったとき、それは Nam と二人で彼の家まで行ったのだったが、あれは、一年前の夏の手前、日本なら桜の花も散りきって緑色の頑強な大木になっているころには違いなかった。偶然、画家の住所を知った私は大した興味があるわけでもないままに、Nam のバイクの後ろに乗ったのだが、ダナン市のはずれ、夏やいだ日差しの照る車道を切って、それほど遠くないところに画家は、彼の甥に当たるらしい家族たちの家に住んでいた。
0コメント