青空に、薔薇 ...for Jeanne Hébuterne;流波 rūpa -178
以下、一部に暴力的あるいは露骨な描写を含みます。ご了承の上、お読みすすめください。
また、たとえ作品を構成する文章として暴力的・破壊的な表現があったとしても、そのような行為を容認ましてや称揚する意図など一切ないことを、ここにお断りしておきます。またもしそうした一部表現によってわずかにでも傷つけてしまったなら、お詫び申し下げる以外にありません。ただ、ここで試みるのはあくまでもそうした行為、事象のあり得べき可能性自体を破壊しようとするものです。
ふと、清雪はTwitterからその26日が、例の二二六事件から80年目だということを知った。朝から晴れ切った日だった。雪は、雨さえも降るべくなかった。清雪は道玄坂に藤を残して、円山町に行った。ノア道玄坂から交番を過ぎ、裏渋谷通りに入る。北に、踏切を渡って、神泉駅を通りすぎたクリーニング屋のはすむかい、半地下の居酒屋の入口のわきの階段を、あがってすぐの部屋をノックした。汪黃鸎の、あるいはいまだ生存しているかもしれないそこ。空いてるよ、と。ハオ・ラン。その声がひびき終わって、ふとうすい臭気の空気をすいこむ。土、あるいは、どこかにひそむ雨水。または、錆の?どこかにあるはずの、ダクトの振りかけるそれかもしれない。はたして、老婆は医療用ベッドに横たわっていた。正面、ハオ・ランは老婆をかくしかけた位置に、ただ立っている。懐疑も、不安も、微笑さえない。そのまま素直に清雪を見ているだけだった。汪黃鸎とふたりだけでいるときの、ハオ・ランのまなざしを清雪は、そこにふと思う。まばたく。「これで、いいの?」ささやく。ハオ・ラン。手に掴んだなにがあるわけでもなく、ゆびがどこかを差すわけでもない。近づきながら、清雪はやがて汪黃鸎の脇に、寝かされた刀袋を見た。見ようによって、それはおおぶりな笛にも想える。とまれ、尺八よりは短いだろう。錦の袋。偽装。白雪の、だれの仕事かは知らない。うまいな、と、清雪は喉に独り語散た。「確認して」
「ハオは、見た?」
「見たよ。一応…どこだっけ?和歌山か?…なんか、あっちのほうの、刀鍛冶につくらせたらしい…見せびらかしてたよ」
「どう?」
「刀は、刀。…かよわい壬生くんの、お腹くらいすぐに、かっさばけるよ」笑った。清雪は、その声もなく。…なら、と。「いいよ」間が、あるとも言えなかった須臾の沈黙がそこにきざしかけたときに、…莫迦だね。笑う。ハオ・ラン。清雪の右の頸すじのごく、至近。「莫迦だよ」
「ぼく?」
「だれ?」そして、ハオ・ランを返り見た清雪は、その日はじめて見たハオ・ランの、表情らしい表情ということに「わらっちゃうのは、」気づく。「更に刀の発注、あれ、腹切り用のやつひとつって。そう云ったらしい」
「で、よく作ったね。鍛冶も」
「本気にしないでしょ?だれも」…言えてる。その、舌の奥にささやかれただけの声を、ハオ・ランの耳は聞くすべもない。「さっき、うえで…ほら。ここ、むかしから外人おおかったじゃない?ちょうど、いま、うえ、外人さんらしくて」
「なに?」
「やることやってた。…朝だぜ。まだ。たぶん、日本人。女は。…だって、声。派手で、で、日本語だから。あえぎ声、…ね?」笑う清雪からハオ・ランはそのまま目線をながし、ふと、老婆の頭部をしずめた枕にその、あわい「…最近、」綺羅を見た。「増えたね。外人。…嫌?」と、ひとりここで自分を待っていたハオ・ランを気遣った清雪に、「…ぼくもだぜ」ささやく。ハオ・ランは「ある意味、」あえて「ね?」清雪をは返り見ない。「でも、さ。むかしからこの国…というか、むしろ外人たち。渡来人とか?そういうやつらがのさばって作った国でしょ?なにをいまさら、とも、言う」
「さすがに、詳しいからね。死なないだけあって」
「無意味。記憶のキャパ人なみ、…あくまでホモサピエンス科ジャパニーズ属のマルチーズ程度だから、さ。…忘れるよ」
「むかし話に渡来人はでてこないでしょ?普通」
「もっと増えるよ。これから。外人たち。彼等が、やがてこの終わりかけの国を見捨てるまでは、ね?…そしたらまた、外国で破れあぶれたやつら…たとえばロヒンギャとか?ミャンマーから輸入されるじゃない?大昔といっしょで、さ。で、千年たったら我が国の文化、…と、ね?」
「なに?」
「死ぬだけ?」
「傷つけない。おれは。べつに、…」
「燃やしたら?」
「燃やす?…って、」
「あそこ。いっそのこと。…というか、」
「若干、無理でしょ」
「いま、」
「どうやって?」
「思い出した」
「なに?」
「いま、」
「…空襲?」
「じゃない。あのときは、満州にいたから。この婆さまと、ね。…もっと、ほら。斑鳩。あそこ。むかし、うまれつき頭おかしかった皇太子がいた。幽閉されて、ね。…ま、宮中に軟禁、と。のちに、祟るっていうんで、神様みたいになったけど、ね。そいつの息子が不幸にして利発だった。すさまじく。もとから血のつながりもなかったけどね。女、連れ去られて、やられちゃって、その時の子だから。天皇殺しの、いまで謂う、あれ。実行犯に。…へんなこと、画策するからだよ。親父が。…ともかく、その息子、その一族、皆殺しにされるまえに山に火を放った…生駒山。籠ってたから。そこに。迷惑。ほんと。いい迷惑だよ。意志の統一なんか、なにもなかったと思うよ。彼等に。あげく、死にきれずに寺に戻って、そこで死んだ。燃える生駒山を見ながら、ぼく、…そのときその火が、そういう火だって知らなかったけど、ぼくは必死だった。かなり離れた林のなかで、ぼくはぼくがぼくの右足を切りおとしたその右足を、さ、必死になって喰っちゃおうとしてた。増殖したくなかったから。いやだったから。どうしても、なぜか赦せなかった。でも、無理じゃない?切り落としたばっかのフレッシュな肉だぜ。…無理。泥まみれになって、逃げた。這いずり回って、で、燃える山を見た。とおくに、山肌に煙と炎をまきあげてく、あの、生駒山。くやしかった。あの火の中に、いさえすれば、って。結果的に、上宮王家さえ飲み込みもしなかった無能な炎、…とおい、炎。祈った。おもわず、とおく、ぼくは」謂く、
甲殻虫…と
そんな、いくえも
纏った自嘲を
きみは、猶も
やさしく、昏い
ひかりは、せめて
きみの頭部に
ふれて、ななめに
謂く、
やさしく、昏い
ぼくたちの
聞いた。老いさらばえた
まだ、だよ
ひかりは、せめて
ほら、やや下
女。その喉
死なない。彼女は
やさしく、せつない
ななめに
息。かすれ、しかも
まだ、なんだ
虹彩は、やがて
やさしく、せつない
虹彩は、やがて
ぼくに、突然に
笑んで、そこに
謂く、
やさしく、せつない
やめてよ。いま
見つめた。その
まだ、だよ
虹彩は、やがて
ぼくは、ここで
少女。その
死なない。きみは
ぼくに、突然に
息をしている
眸。ゆれ、しかも
永遠、に
笑んで、そこに
甲殻虫…と
そんな、いくえも
纏った嗜虐を
きみは、猶も
決行の日。その、夙夜というべき早朝に清雪は夢を見た。敦子。まちがいなく、敦子。清雪はふと、肉体に対する精神の優位を、ふいに思った。肉眼は、それを敦子とは見止めないに違いない。自傷のせいで、傷だらけの顔面はもはや骨格にさえ、名残りをとどめなかった。剃り切った比丘尼。片腕。ちぎられたか、切り落とされたかした残骸は残存しない。その、板張りの床に。あるいはかさねられた自傷に、摩耗するように消滅していったのか。そう、清雪はいぶかった。腐っていた。その、残存の肩は。…だめよ、と。そしてそこに、敦子は自嘲した。「どうしても、カミソリ、咬んじゃうの」…だれ?と。思う。あなたがその目に見つめているのは。もっとも、すでにそこに誰がいて、なにをしているのかは清雪はのこらず知ってる。例の、由比ガ浜の寺だった。訪ねた雅雪は追われていた。殺したからだ。彼が口に咥えたままの蘭。その花を。いまにも茎を喰いちぎりそうなあやうさに、そこに雅雪は気付かない。…咬んじゃう?そう雅雪がつぶやいとき、清雪はだから、その蘭をこそ思った。違う。すぐに、わかる。清雪の目が、敦子のひざ元、床に転がれされたぬれたカミソリを見ていたから。唾液。うえからバケツにぶちまけたに似た、…くわっ。「くわえちゃう。…わたっ」くわっ「わたし、どうしても、くわっ」と。敦子。その、声だけにはすさまじいくらいに、邪気はなにもない。右腕さえ、もはや傷だらけだった。聞いた。「忘れようたって、さ」
「なに?…おれ」
「…だって、ひょっとしたら、」
「鼻の孔が、」
「唯一愛した、」
「傷むん」
「男よ」…おれは?と。のけぞりながら雅雪が喉の、うすばかげろうの密集した卵の寄生をさらした。謂く、
いまさら?
もう。夢は
見られるべき、その
時をぼくには
謂く、
見られるべき、その
いいよ。いま
あげる。忘れて
見出しつづけて
時をぼくには
いまも、猶もいま
忘れて、あげ
猶も、いま。いまも
必然をぼくには
ささやきかけて
あげる。忘れて
いいよ。いま
見られるべき、その
謂く、
必然をぼくには
見られるべき、その
もう、夢は
いまさら?
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