アラン・ダグラス・D、裸婦 ...for Allan Douglas Davidson;流波 rūpa -131 蝶。そして蝶たち





以下、一部に暴力的あるいは露骨な描写を含みます。ご了承の上、お読みすすめください。

また、たとえ作品を構成する文章として暴力的・破壊的な表現があったとしても、そのような行為を容認ましてや称揚する意図など一切ないことを、ここにお断りしておきます。またもしそうした一部表現によってわずかにでも傷つけてしまったなら、お詫び申し下げる以外にありません。ただ、ここで試みるのはあくまでもそうした行為、事象のあり得べき可能性自体を破壊しようとするものです。





謂く、

   蝶。蝶たちは

   そして蝶たち

   ふるえる色ら

   微細なものたち


   返り見た

   ふとあなたが

   ほほ笑んでいた

   その須臾

謂く、

   蝶。蝶たちは

      いい?ふれて、い

    夢を見た

     なに?これは

   そして蝶たち

      ほら、あいまいな

    ふと、砂

     見えもしないのに

   ふるえる色ら

      そのまぶた

    砂を飛ぶ

     見てた、色

   微細なものたち


   蝶。蝶たちは

   そして蝶たち

   ゆらめく色ら

   あざやかなものたち


   ななめにかすめた

   色の震動が

   捉え得なかった

   そんな須臾

謂く、

   蝶。蝶たちは

      いい?ふれて、い

    夢を見た

     なに?これは

   そして蝶たち

      ほら、難解な

    ふと、海

     知りもしないのに

   ゆらめく色ら

      ん?みぎの頬

    海を飛ぶ

     知ってた、色

   あざやかなものたち


   ほほ笑めますか?

   いま、たしかに

   わたしのために

   あなたのために

謂く、

   ほほ笑めますか?

      見てていい?

    蝶たち、夢を

     ほら、いまは

   いま、たしかに

      しかも、いたましい

    月の海

     見蕩れて。わたしに

   わたしのために

      そのまつげ

    しら砂に飛ぶ

     せめて、いま

   あなたのために

レ・ハンが咥えた。もちろん、それは戯れだった。行為がもっとも真摯になるときにこそ、なぜかそこにレ・ハンはあざけりじみた戯れをほのめかす。しかも、本人のほんとうがどうであるのか、雅雪にはついに知れない。レ・ハンの髪の毛は、ブーゲンビリアのしろい花弁を咬んでいた。レ・ハンが気づいている気配はない。

からみあって、やがてもつれあって、たわむれと真摯がかさなりあううちに、レ・ハンがひとりだけ終わった。だから、雅雪はゆびさきに、御影石の床に飛んだレ・ハンを見た。仰向けに、頸だけをかたむけて。頸筋にも匂った。レ・ハンが。

身を起こし、余韻もなにも必要ないレ・ハンは勝手に台所に水を飲みに行った。仏間からそこまで、いつでも扉をあけられていたランと雅雪の寝室を通る。そこで、平日の日中、いつでも暇をつぶしていたタオは、それとなく素肌を羞じない男を見たにちがいない。じぶんを返り見もしない男。

一族のものたち。あるいは実父カンに知られているのかどうか雅雪は知らない。タオの暇つぶし。そしてときに白昼の破廉恥を目撃していた事実。満たされて、帰ってきたレ・ハンは雅雪の肌、さっきまでの情熱の気配の、名残りの現存さえ気づかずささやく。「描いてる?」

「絵?」

柱の一本に靠れて座り込み、レ・ハンは

「描いてるよ」

「なに?」海を、とは、あえて、…やがて笑った。雅雪は答えなかった。レ・ハンは答えの有無さえ気にしていない。「ランは?」不在にいまさら気付いたふうに、レ・ハンが「…仕事か。…だよね?」勝手に独り語散る。

「日曜日、いるよね?」

「ラン?」

「休み?」

「…だね。会いたいの?」

「べつに、…いや、会いたいな。ひさしぶりに…ちょっと、三人で出かけよう」だからいつもの例に、レ・ハンはひとりで休日のプランを思案した。



その午後、雅雪はもうタオもレ・ハンも帰った夕方、ひとり夢を見た。女がささやきはじめた。そんなものあるはずもない、ランの家の仏間の壁に、だれかがいたずら書きしたらしいセザンヌの水浴のどれかの、女。ずさんな口蓋。…駄目だよ。

馬鹿げている、と。雅雪はそう思うしかない。よくできた模写は原画の稚拙をあますところなく移した。だから顔らしい顔もない色彩に、発され得ることばなどあり得るはずがない。まともな口すらなく、どうやって?…ふりむいちゃ、だめだよ。女は云った。見捨てちゃ、もっとだめだよ。…オルフェ?思う。セザンヌが描いた絵なら、女は白人だっただろう。たんに油彩の殴り書きにすぎない描線がそれでも猶も白人なら、オルフェウスの神話くらい夢にほのめかすかもしれない。あざけりに、雅雪はじぶんのくちびるのゆがみを知る。…じゃ、と、「ランが燃えあがっちゃうとでも?」

知らないね。

その瞬間、人気のなかった背後に、肉と髪が燃え上る生きた臭気を嗅いだ。叫んだ。激昂の雅雪はののしっていた。…なにやってんだよ、と。「ほら。…」急に冷淡になって、そこに女は云った、「言わんこっちゃない」まばたきするランを、すでに見ていた。だからその須臾、醒めながら見られた夢はすでに醒められた。滅び。ランは動じない。雅雪は思った。見蕩れて、…と。ランは、そこにじぶんが見つめられ、見蕩れられたと思っているに違いないと。そして思った。たしかに、と。たしかにじぶんは見蕩れていた。そこに、そのランに。ふと、ランはのけぞった。頸のむこうに、鎖骨をくすぐった髪を払った。雅雪のうえ、腹ばいのラン。



日曜日に、ランはレ・ハンが庭にバイクをとめるまで彼に約束があることを知らないままだった。だから朝の流れそのまま、肌をさらして仏間に横たわっていた。レ・ハンは陽気だった。媚びを撒き、口笛を鳴らした。正気づいてから、ランは肌を羞じるべく思った。もう遅かった。だからそのまま、そこに片肘をついていた。レ・ハンは無難な男だった。裸の女は、いちいちその身を案じるべき必要もない。

レ・ハンが、バイクを降りないまま声を張る、雅雪はいるかと。ランに、壁の向こうから名を呼ばれて初めて、雅雪は例の約束を思い出した。台所で、雅雪は水を飲んでいた。雅雪が持ってきた服を、仏間で着始めるひとり。そしてひとりの手持無沙汰。そこはかとないふたりの破廉恥を、レ・ハンは邪気もなくあざけた。

雅雪は気にしない。ランは、云い忘れの言い訳をはじめる雅雪にこれみよがしにむずかってみせた。大量の媚びのみ撒き散らされた。べつにどうでもよかった。ランには。家で雅雪といっしょにすごすか、出先でいっしょにすごすかの違いにすぎない。レ・ハンとの約束をいまのいままで忘れさせていた自分を、ランはレ・ハンに矜持した。言葉も流し目もないままに。ランが、雅雪のうしろにもったいつけて尻を乗せるのをレ・ハンは待つ。バイクを空ぶかしする。ふと雅雪が尋ねた。「どこ、行くの?」

「忘れた?」笑った瞬間、たしかになにも告げていなかったことに思いあたった。レ・ハンはひとりで笑んだ。知っている。じぶんの不用意な笑みは、雅雪にもランにも謎かけのように想われただろうと。

「絵、すきでしょ」

話はじめながら、もうレ・ハンはじぶんの話に飽きていた。「嫌いじゃないよ」流暢な日本語。だから容赦ない異国語のひびき。ランはひとり居場所のない笑みをさらすしかない。かならずしも不快とは想わない。外国人が、どこ国人とも定かでない男と、たったひとつの共通言語で話している、それだけにすぎない。

「話したじゃない。…まえ」

いっきに話をはしょりはじめたレ・ハンに、思い出す。たしかにレ・ハンはかつて話した。もういつとも思い出せない以前に、天才少女だが少年だかの話を。いまさら拒否しようが、または興味を示そうとも、ここまで来て仕舞えばレ・ハンがなにをするか答えは一つしかない。どうやってでも彼の望みの場所までつれて行くだろう。雅雪は詮索をやめた。



山をひとつ越えれば、そこは旧都フエに出る。フエの端にラン・コーという観光地がある。入江がある。もちろんビーチがある。だから当然、リゾート・ホテルがある。いまだパンデミックの気配もなかったそのころ、湾岸道路は白人たちと中国人たちを散乱させた。ダナン市のようには、韓国人は幅を利かせない。

もっとも、その日のラン・コーの海は、山を抜ける間中、足のしたはるかむこうに綺羅めくのが見えただけにすぎない。山を下れば牛と豚を貨物車両が運ぼうとする。食用の、詰め込まれた家禽たちがうめく。いかにも荒れたアスファルトは、なにがどうというわけでもないすさんだ昏さをほのめかす。以前、ランの親族と来た時も、だれかが云った。ここらへんは貧しいおれたちがくるところ、と。そしてわらった。金持ちはあっちのほうに行くんだと、指した向こうには遠く、ビーチ沿いのリゾートホテルが見える。昏い気配をそのまますぎてゆくと、ただっぴろい視野がひらける。入江。そこが、一応は観光客用の海鮮飲食店のたちならぶスポットだった。入江に足を出して、海に突き出した店舗を構える。

入江はどうしようもなくしずかだった。そして妙に昏い。杙が浅瀬の遠みに打ち込まれていて、見ようによってはピエト・モンドリアンの一時期の十字の絵を連想させなくもない。波はただ、さざめく程度の綺羅を散乱させる。水は汚れている。淵にはペットボトルと発砲スチロールとスナック菓子の袋が打ち寄せられている。澱む泡だちとともにゆらぐ。

レ・ハンは素通りした。そしてより錆びれた一角にまがって、もう潮の臭気さえほのめかされなくなると、樹木に囲まれたふるい一軒の庭に入ろうとした。その須臾、雅雪は夢を見た。

いわゆる明晰夢というもの。意識は醒めて、それがたしかに夢をあることを知っている。だからまちがいなく自分で思うままに操作できるにちがいない。それが世界そのものに、どうしようもいもろさとあやうさをのみ感じさせた。

雅雪はただ、慎重でいるしかなかった。

夢に、花が撒き散らされていたから。床のうえに、と。雅雪はそう思った。ほんとうかどうか確信はない。あるいは土を剝き出した粗野な地表だったかもしれない。どこまでも、花まみれに花。花々にかくされきった床が拡がる。だから空がひろがる。空はうすむらさきの色彩をさらす。おもわずあざ笑ってしまいそうになった。押し留めた。笑い声が漏れた瞬間、空はすでに知られた青いそれに変色してしまうに違いなかった。ここでも、滅ぼすの?

雅雪は歎いた。おれたちは、ここでも滅ぼす?無法ものとして。留保なき破壊者として。空のうすむらさきをさえも。あの入江のように。眼の前にけものの開いた口蓋の匂いがしていた。そして、その温度。肌にふれないまま、しかし鮮明なそれ。湿気。うるおい?だから、口蓋をぬらしつづけていたもの。…唾液?吼えた、と。

そう思った須臾には、けものは消えていた。まなざしはいちども見なかった。だからけものを。一瞬たりとも存在しはしなかった。少年が笑っていた。もう、ずっとまなざしは、そこに見ていた。ややはなれた心地よい前方、足のない少年を。

触手?そうとでもいうべきだろうか?たとえば子供が落書きに人を描いて、めんどうくさくて触手じみた線でだけ手を表現してみた、そんな。適当な垂れてゆれるもの。無数。しかしそれがあくまで手だと、その場所に無言で自己主張する。すくなくとも雅雪の眼にはそう見えていた。もちろんそれが腸であったとして構いはしない。顔には眼があった。針でゆで卵をちいさくふかく抉ったに似た、そんな空虚な孔。ふたつ。口はまるい。あまりにもなまなましい。生き生きと、生き物の口蓋。その事実をさらしていた。

わなないた。

まばたいた。

雅雪が、ひとり。——会いたかった。…と、たしかに少年はささやいた。もはや、耳もとに押し付けられたくちびるが発したにも想えた。あまりにも至近、むしろじかに。

口蓋は不穏だった。わななきつづけ、おなじわななきを、無言の数秒にさえわななかせつづけていた。だったら、肛門からとでも?声は、肛門に声?屁?ふと、ことさらに下卑てほくそ笑んだとき、少年のずぶとい喉がふくれた。陥没した。孔をひらいた。…肛門。いびつなほどに糖質を感じさせた卑猥な芳香を放った。——信じない、よな?

ささやく。

——いつも、お前を見てた。

だれ?

片目をとじて雅雪は云った。その言葉。執拗なまでに脅迫的だったそれ。そのことば。二音が喉をふるわせかかる前にはもう、知っていた。…雅文、と。

——知ってる。

少年は、直接は答えようとしない。だから

——お前が、

はぐらかし?…違う。たぶん

——いや、わかってんだ…おれも

時空が、しかも

——嫌われたから。お前に、

かさなりあいきれないだけ。その事実の

——違う。でも、

繊細でノーブルな表現。なに…

——愛されては、なかったよね?

なにしてるの?雅雪がつぶやきかけたとき、背後に泣き声が立った。みじかく。悲鳴だった。まるで、悲鳴。悲鳴?女声とも男声ともない、しかも、あまりにも明晰な、

——かたちなんか…

少年はささやく。

——執着してるんじゃないよ。ただ、…

だから、あなた、そこで

——こころは、いつも、お前に

なにしてるの?

——寄り添いたがってる。…から、

あなた、いま

——って、これを、

やばいよ、もう、

——執着っていうんだよな?

少年は、邪気もない声に笑った。とけはじめていた。少年は。事実、ずっとそうだった。たしかに溶解はそのかろうじて維持されていたかたちを浸蝕するように全身にひろがり、もう隙もなくひろがり、だらしなくひろがりきって、もはやつつみこみ、しかも少年はそこに存在していた。

——うれしい。

ささやく。

——あえて、うれしい。

雅雪は、思わず笑った。あまりにもその声が真摯で生真面目だったから。



夢はほんとうに、秒にも満たない須臾だったにちがいない。醒めた雅雪は、まなざしにいっさいの断絶を見なかった。あくまでも、雅雪は庭にバイクをスマートに留めかけただけだった。庭に、老婆…と。そう呼んで然るべき年齢とは知れるものの、老いというには精悍すぎる若々しさをさらした単純な女が、ざるに小エビを散らしていた。だから、干しているのだろう。もはや、見るだけで雅雪にも味さえ知覚させる。保存のありふれた流儀。味もよくなるんだよ。…すくなくともアジアの海辺で人間がしでかすことはたかが知れている。老婆は陽気だった。レ・ハンはひとり歓迎されていた。たしかに、レ・ハンはそこであまりにも見事に好ましい男だった。もうなんどか足を運んでいるらしいレ・ハンの我が家顔のななめうしろ、当然、雅雪さえ霞む。ランなどいない。老婆がはじめて背後のデップ・チャイ、…ハンサム・ボーイを見止めたのは、レ・ハンが雅雪を紹介しはじめた須臾にすぎなかった。老婆は忙しい。だから三人を庭で見送る。

「そういえば、忘れてた…」

勝手に家屋に入り込みながら、だから庇に翳るレ・ハンが「今日、来るって。それ」言い訳した。「みんなに云うの。…だから、なじられた。でも」笑う。「気にしないで。みんな、いい人たち」

レ・ハンがいきなりなのはいまに始まった事ではない。訪問された家屋の人々さえ慣れている。だから、唐突な友人の到来を素直に声をあげて歓迎する。時間差の歓呼。声。声。老婆の亭主だろう老人。これは傷みがはなはだしい。立ち上がることさえ難渋する。しかしことさらに、稀薄ながらも笑む。孫。女の子。十五、六歳か。素直にはにかむ。リビングの机で、ノートと教科書を拡げていた。少女が無理をした大声を張ると、奧から、だからその母親?雅雪よりも十歳以上は年上の肥えた女が、腰をゆらしながらあらわれ雅雪は夢を見た。

雨が降ってる。そとで。だから、そのまなざしにとっては背後で。これから雅雪はそとに行く。もう帰ってこない。口惜しさはない。名残り惜しさも。憎しみさえも。知っている。すべて雅雪は、知っている。家屋。この家屋。知っている。床にうなだれた葉子が倒れるようにすわり、なぜか腕をひたすらふるわせている。柱。知っている。葉子のかたむく頭のうえ。十歳?八歳?落書き。視野にはいれない。その葉子も。落書きも。あえて。見ずとも、そこに存在していることは知っていたから。だから知っている。宮島の家。階段を、上がった。そこに消えた雅文を追って。頃合いを見て。

雅文が階段をあがったのを、背後の物音に知ったのだった。その足音。その衣擦れ。ひきずるような?しかし、どこか軽みのあるひびき。

雨を見ていたから。玄関の戸を開こうとして、須臾、ななめ前の右、サッシュのガラスを流れる雨。だからそとは雨。そもそも、雨のひびきは鳴りつづけている。ブーゲンビリア。ふと、思った。しろいブーゲンビリアが、ここにもあるにちがいない。あるはずがない。ここには、ここは、宮島の階段だから。迷わず雅雪は階段を蹴った。駆けた。息をすった。二階、雅文の部屋をのぞいた。見なかった。いなかった。どこ?おれの?雅雪はそこに舌打ちした。じぶんの部屋に入ろうとする須臾、咲いてるにちがいない。なにが?ブーゲンビリアが。これみよがしなほどに、しろく、と、雅文。思った。いまじゃない。ここじゃない。しろい色葉の散華にはまだはやい。たしかに、まなざしのそこには自分で足首をしばった雅文がぶら下がっていた。あくまでも、うしろむき。体液、そしてその臭気。微動だにしない。見た。手首さえ後ろ手に縛ろうとした。頸を突っ込む時に、その不可能に気づいた。愚かだった。あわてて、引きちぎるように外した、と。そんな挙動がすけて見えた。もはやその最後の衣擦れと、焦りの汗の滲んだ匂いとを感じさせ、右手首。引きちぎられた雅雪のしろいシャツが、ぶら下がっている。片手のみほどけて。右手首をしっかり括ってから、左を?垂れた、しろ。知った。雅雪は、なぜかれがここを選んだのか。あるいは、雅雪への執着かもしれないものの、とは言え、たぶん海。窓は丁寧に開かれていた。そして雨に靄を散らす海がしろく、ただしろく、そこににぶい綺羅を散らした。



リビングを抜けると、清潔で、しかもここちよいあかるめの翳りに満たされた部屋に出る。それがアトリエらしい。画家はいなかった。描かれた油彩画が無造作に立てかけてあった。しかも無数に。イーゼルには描きかけのカンバス。一面のしろ。もっとも、しろはしろにちがいなくとも、まなざしはしろとは見止めない。複雑に撒き散らされた下塗りの赤、黄、青、紫、それら色彩をまだらにすかす、あくまでもはやしろでさえありえない、そんなしろ。

壁にかけられた、あるいは立てかけられた絵の群れは、いわゆる抽象画、…どこをどう見ても具象ではない。まなざしが見た風景をそっと暗示する隙もない。ひたすら純粋なそれ。さまざまなあわさの、だから水墨画か書じみた荒れた表情のある線が、縦横ななめに走る。速度。さまざまな速度の散乱。ふとさ。さまざまな、そしてほそさ。さまざまな、しかも、かすれ。さまざまな。たしかに、見て須臾に、これがなにものかであることは愚昧を極めたまなざしにさえ分かる。耳元に怒鳴りつける、そんな明快がある。ただ、あまりもの孤絶だった。こころにふれない。ふれようとしない。近づこうとする気さえない。

無理だよ、と。だからまなざしに絶望だけを、ふと、すすめる。

たしかに、…と。雅雪は、「…どう?」背後、ささやいたレ・ハンの声は、はからずも無視せざるを得なかった。雅雪は、しかし見蕩れているわけではいことも知っている。さらされているのは思いもしなかった排除と阻害の憂き目にすぎず、だからなぜ?思う。たとえば降りしきる雨の絵ではないのか。たとえば海にふりそそぐ雨の厖大な極微の靄だちではないのか。あるいは腹をひき裂かれた女。あるいは母子像。たとえば顔のない母子像とか?ゆがんだ体躯の母子像?とろけはじめたそれ?血まみれの女。裸婦。加虐の少年にほくそ笑まれる凄惨な裸婦。それとも少年は滂沱の涙をながしているのか。顔さえもないのか。燃え上っているのか。爛れているのか。いずれにせよ、違うだろうと、——雅文だろう?雅雪は思った。これを描いた少年っていうのは、雅文なんだろう?

ふと、背後にレ・ハンの声を聞いた気がした。あわてて返り見、…なに?

「好き?」ささやく。レ・ハンは。ただ好ましく笑んで。「…と、思った。好きになるって。…だって、」

「なんで?」

「見せてもらったじゃない。雅雪の絵。あの、やたら難しいやつ」ひとり笑った。レ・ハンはあかるい。「難しい奴は、難しいのが好きだよ」…あれ、と。そしてレ・ハンは指をさした。

あかるい部屋。翳りはあくまでやさしく、しかしようするにあかるい部屋のなかから、あからさまなあかるさの氾濫へ。外。比較対象でさえないひかり。その強度。サッシュは明けはなたれていた。だからそのまま裏庭が見えた。輝き。輝かしさ。翳りさえあかるく、樹木。数本。目立っていたのは白い樹木。…ブーゲンビリア。見なくとも、雅雪に知れた。その葉翳りに、ひとりの男がうなだれていた。ずぶとい体躯。三十?四十?

醒めているとも眠っているともしれない。生きているのは確実だった。死んではいない。たとえその身がなんら微動をもさらさなくとも。つちに、大股をひろげてすわっていた。あたまは腹までおれていた。顔は見えない。巨体。肥えた、栄養を過剰に余らせた巨体。ふと、手づから貪るさまを想像させた。しかし、違和感があった。

「あれ?」

「なに?」

「どれ?」

「あれ?」

「なに?」…と。レ・ハンはいきなり慌てはじめた雅雪を諫めた。そして、やがてひとり笑んだ。「あれだよ。描いたの」雅雪は思う。レ・ハンは天才少年だったか、天才少女だかと云ったのではなかったか。あれが、しかし少年と呼ばれ得る範疇であるものか。もう、老いさらばえかけてさえいるではないか。もちろん雅雪は至近に顔を見たのではない。うなだれた脱力の猫背がより助長した印象にすぎないかもしれない。すくなくとも三十近くには見える男は、間違っても天才少年と名ざされるべき冴えた幼さは微塵も感じさせない。夢を見た。

雅雪はブーゲンビリアの樹木に立っている。不可解だった。その、いまだかつて見たことのない樹木が、しかもすでにその名を知られていた事実。それぞれにはあくまでも細い幹。からまり、からまるうちにまるでひとつの図太い幹を、まなざしに錯視させる。葉が茂る。花はしろい。匂いたっておもえるほどにしろい。しかし芳香はない。しろが、みどりのそこここに散乱し、むしろみどりを支配して見える。ブーゲンビリア。その葉翳りに少年が突っ立っていた。少年には、もちろん顔がある。それは、下塗りをほどこしただけの顔の油彩を、しかも手のひらでなすったように、フォルムそのものの実在感がない。かたちも色彩もただ無慚なまでに明晰さがない。…なんで?雅雪はふとつぶやいた。少年が、転生した雅文に違い無いことは、確信どころか自明の事実として知られていたから。「なんで、こんなところに、」と、…生き延びてるの?言い切る隙を、少年は与えない。

「謝っておきたかった」

なに?

「お前に…まだ、だったよね?」

なにを?

「心残りだった。一度も、おまえに、…あやまらなかった。…ただ、事実説明をしただけ、それで」

なんの?

「意味なんかない。いまさら、お前になにを云ったところで、だから無意味。分かってる。でも、」

いまさら?

「おれの勝手。自己満足。でも、」

なぜ?

「…ごめん」と。ささやきはじめるにちがいないくちびるの気配に、気づいたときにはすでにその頸を絞めていた。締めあげられながら、くちびるはしかもひらきかけた。足りないのだと思った。もっと致命的な破壊が必要だった。眼を潰そうとした。ゆびがふれた。その表面の、たしかなうるおいをも指の腹はなすり、もう、すさまじいほどにあざやかなうるみ。懐疑?

つぶす?

しょせん、なすられた出来損ないのかたちを?

つぶす?——不可能。そう思ったとき、ふたつのおやゆびはあきらかな肉をあきらかにつぶした触感を感じた。雅雪は怯えた。



そのまま庭に、足を踏み出したレ・ハンに従った。素足につちの触感があった。それ以上に、直射したひかりの。もはや赤裸々な熱気。雅雪は、その触感さえ忘れた。ちかづくたび、さっきの印象は濃くなる。老いさらばえている。若さはもとからなにもなかった気さえする。たぶん、幼さからいきなり老いにふれたのではないか。ブーゲンビリアの花を踏んだ。もはやすぐそば、うなだれた男がいた。懐疑。まだ消えない。消えないままもう雅雪は知っている。間違いない。雅文だった。声をかけるべきだった。まどう。…なんと?

お父さん、と?レ・ハンが膝をついた。そして顔をあげさせた。拳に、顎を押して。その目線のややうえ、そんなあいまいなあたりで、レ・ハンは声をかけた。テュエッ…と。そう聞こえた。知っている。雪。そういう意味の、ベトナム語。

女?

思う。男にもつけられることがあるのだろうか?日本にもアケミという男もいればナギサという男もいる。しかし、この国はもっと保守的なはずだ。あり得ないとは言えないものの。名前から察すれば女でなければおかしい。清潔なTシャツを着ている。おなじく清潔なショーツパンツ。そして肌はじぶんよりも、ランよりも、タオなどくらぶべくもなく黒い。まなざしは、あくまでもこれは男だと主張する。レ・ハンの呼び声に、画家は反応を示さない。ささやいた。レ・ハンは、画家に向けた顔をそのままに、たしかに、雅雪に。「このひと、変わってる。最初は、なぜかしらないけど、いきなり口にえんぴつ咥えて、描きはじめたらしいよ。三歳とか、四歳とか。壁とかに。前の家。もう、建て直した。だから、残ってない。ひょっとしてって、…知り合いに絵描きさんがいるんだって。そのひとのところ行って、絵の…なに?筆?やった、と。そうしたら、最初はちゃんとしたもの描いてた」

「具象?」

「じゃない。花とか。果物とか。樹とか。で、十歳くらい?こんなふうになった。駄目になっちゃったかなって。ほら、いるじゃない?ちっちゃいころ天才、大きくなったらただの人、みたいな。で、仕方ないかって思ってたら、その画家が来た時に、いや、これ、価値あるぞ、と。これ、売れるぞ、と。…で、」

そこから先は、もう雅雪は聞いていなかった。

唐突に、ようやくレ・ハンの声に気付いた、と?そうとでも想わなければつじつまのあわない突然、画家は顔をあげた。その拍子、ブーゲンビリアの幹に後頭部をぶつけた。枝が、そして葉が、だから色葉にかくれた花もゆれた。ほんとうのしろい花も。雅雪は見た。茫然とした顔を見ると思っていた。画家の眼は、その瞳孔はしっかりとした強度を持っていた。そして、ややああって、横にすべった。そこに雅雪がいた。雅雪を、その琥珀いろの虹彩は見た。…お父さん、と。

雅雪は思わずつぶやきかけ、ぃんばるぃっ…

と、でも?はじめて聞く、発声法。違いはなに?舌が?頬のかたち?喉の詰めかた?ひらきかた?そもそもの、声帯のあつかい自体?なにがどうという明確さはきざさない。その雅文に、初めて聞く発声をひびかす。あくまでもまなざしは知性をきざす。たしかに知性が、普通の、なんら異質性もない知性がここにとんばっるぃぁらっ。と、でも?雅文が、しかし、じぶんにかたりかけていることは慥かだった。思った。たぶん、老いさらばえてはいても二十五、六。数えれば、雅文が滅びておなじだけの年数がたっていたはずだ。なにも、矛盾はないぃてぅひぃいはぁっ…と、でも?雅文はささやきつづけた。もはや目じりはほほ笑みをさえ浮かべかけたがランは?身じろぎもせずに、だから雅文を見つめつづけていたまま雅雪はおののき、ランはどこに?振り返ればそこにランがいるのだろうか?いるかも知れない。いないかもしれない。いなかったら、どこに?ためらいがあった。もはや戦慄にちかい。頸はただ静止した。日射しに汗がひとつぶ流れた。思った。背後、ランは、もう屠殺されたにちがいない。彼女たちに。あの老婆。肥えた女。少女。まちがいない。四肢は引き裂かれた。内臓さえ生で。貪られた。咬みちぎられた。頸が。皮膚は剝がれた。あるいは燃え上っていた。あの口ども。あの飢えと渇きを満たすために。丸焼き。そうにちがい。口から肛門。突き刺して燃やせ。すべて遅いと、もう、すべて、なぜ?なぜ、ラン。なぜ悲鳴さえ蝶?









Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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