アラン・ダグラス・D、裸婦 ...for Allan Douglas Davidson;流波 rūpa -126 //なに?それは、なに?/ん?そこに/さっきまでずっと/きざしていたもの//05
以下、一部に暴力的あるいは露骨な描写を含みます。ご了承の上、お読みすすめください。
また、たとえ作品を構成する文章として暴力的・破壊的な表現があったとしても、そのような行為を容認ましてや称揚する意図など一切ないことを、ここにお断りしておきます。またもしそうした一部表現によってわずかにでも傷つけてしまったなら、お詫び申し下げる以外にありません。ただ、ここで試みるのはあくまでもそうした行為、事象のあり得べき可能性自体を破壊しようとするものです。
やがて弟が帰ってきた。バイクの音がした。衣擦れと足音。表の庭から入れば自然、ランの寝室のまえのほうを通る。わかる。弟は酔っている。なにもめずらしいことではない。三十過ぎの、四十過ぎの、五十過ぎの一族の男たちとなんらかわらない。中学を出てから、ほとんど一族の男たち以外との交流はなかった。同世代が学校に忙しければ、自然、そんなむかしの男たちとのかかわりばかりが増える。経験もなにもなく、弟ハイは老いさらばえた男たちに似通ってしまった。事実、可愛がられた。じぶんの息子たちよりはるかに、ハイのほうが付き合いやすかった。それに、しょせんは他人の息子にすぎない。ペットが仕上がった。
そのとき、まず、ランはとりたててなにもしなかった。放置したつもりもなかった。いずれにせよ、なにかしなければならないことは明らかだった。やがて、身を起こした。
考えがあったわけではない。ふたつめのリビングを抜けた。猫が背後を通り抜けた。ながめに、鳴いた。…やあ、元気だった?…と?三時間ぶりだね。思った。いま、ままるでわたしに話しかけたように聞こえた、その、それ。そう?ほんとうに?わたしの可聴領域を越えたそこに鳴っていたとおい友人に挨拶をおくったのではなくて?…わたしのことなど、眼中にもなかったのではなくて?
ドアはあいている。そのままふつうに身をすべるこませることができる。それどころかふたりの人間さえ。ランは、思い直して、故意にドアを蹴っ飛ばした。わなないた。ドア板が。べニア。わななかせるために蹴った。だからことさらにわなないた。ランは、ふいにびっくりした。
びっくりしていたのは弟のほうだった。だが、彼はまさかそうだとは想っていなかった。ランが足元に立ってさえ、姉がなにか誤って躓いたものと思い込みかかっていた。舌打ちした。ハイは。いかにもめんどうくさうに。
ランが、ベッドにひざをかけ、そして昇り上がろうとするのを見ながら、ようやくまなざしは不穏に惑いはじめた。あえて、なにも謂わなかった。だから、その目線は横に流れかけた。ランは、ベッドの上に立っていた。弟を見おろした。
抗うかと思った。
せめてそうであるべきだった。ランが、足のうらで弟の顔面を踏んだときに。弟は須臾、腕を引き攣らせた。おどろき?すぐに脱力した。降伏した。刺戟することをおそれて?
ランは、喉の奥にだけ、その弟をあざけた。片足に踏んだまま、片膝をついた。じぶんの体臭が気になった。そうとう、もう汗がにじんでいたにちがいない。わたしはいま、洗わない外飼いの犬のように臭いにちがいない。その顎をひっぱたいた。弟はおおげさに、みじかく両足をふるわせた。
なにをしてるの?
ランはささやく。あくまでも、その耳の奧のほうでだけ。
あなたは、いったいなにを?
笑った。
十九歳にもなって、なにを?
ひとり、喉のおくのほうにだけ。顔をふんだまま、無理やり頸を絞めた。二の腕が傷んだ。あえいだ。弟ハイは、抵抗もしないままに。筋肉を張らせた、しかも脂肪に肥大化したハイの巨体は失禁してしまいそうだった。足の裏に口がわなないていた。喉がえづいていた。くるしんでいた。弟は無力だった。無力な女をさらに水で希釈したかのようにも。ランに興奮はない。自虐的な恍惚に、あるいは、恍惚に似た自虐に?ふれかけている自分をただ、見つめていた。踏んでいた足をはずした。眼を開きつづけていたかに思った。すぐさまに怯えた家畜の見ひらいた眼が、ランを見つめそうになったから。
見られたくなかった。あるいは見たくなかった。見られている事実を。ないし須臾にでも見られたという事実を。うしろを向いた。馬乗りになった。尻が顔を踏んだ。四つん這いになった。ハイのショートパンツをずらした。繁茂はじぶんのよりも荒い。かくれかかったやわらかなそれにふれることはためらわれた。だからひっぱたいた。その瞬間、気づいた。ひっぱたくことと、ふれることにたいした違いなどないと。あらたな発見に想えた。弟のそれは素直だった。折檻に対してさえも。股の下の方で、われを忘れた顔がただ惑い、ただ恐怖していることは知ってる。見ずともわかる。腹のしたで、空気がもうぜんぶ、弟の怯えに染まり切っていた。息をひそめた。いきものの莫迦づらを見たと思った。男は家畜に過ぎない。尊厳などない。たぶん女にもない。ひょっとしたら、男よりぶざまかも知れない。男が肉の家畜なら、女などさらに月をもくわえた家畜にすぎない。
それを、おもいきり指で撥ねた。根おれしそうにもむこうに倒れ、すぐ撥ね返る。笑う。もう一度する。しかも、もういちど。さらに。あきずに。もっと。上で、そして後ろ向きのまま、ランははじめて知った。仰向けに身を固くしたままに弟も知った。そのあいだじゅう、のけぞったランの腕は弟の眼をふさぎつづけていた。後ろ手に、無理やりな姿勢だった。じぶんでひとり動かなければならないランは、だから体中のすじにも傷みを知った。夕方、ランはキッチンの横に開かれたシャワールームで、執拗に体内を洗浄しつづけた。指はただかなぐった。
十四歳のタオの腰はみごとだった。太ももは鹿だった。ふくらはぎは犬だった。けものの高貴を香気ごとまぜあわせたキメラだった。ランはそう見た。もちろん気づいていた。一族の男たちが、よくふとった尻だけを見て下卑た賛美をあたえることには。ビールと口臭の匂いとともに。また一族の女たちが、けものの要素を歎いていることにも。たぶん、纏足はかつての中国だけの特異な惡癖ではない。
タオは執拗に耳打ちした。いつ?と。もう、十二歳の暮れには約束していた。こどもができたら二番目にしてやる、と。そのかわり、あなた、家事くらいぜんぶやりなさいよ。それ以外、なにもできはしないのだから。タオに焦りはない。しょせん、まだ十四歳だから。欲求不満ならある。いつでも。だから、唐突な家出がはじまる。しかも、実父カンはタオの決断をあたりまえだが、憎んでいる。
あてつけのようにタオはいなくなる。また、事実あてつけにすぎなくもある。謂って十代前半の箱庭の失踪にすぎない。クアン・ナムにさえ遠出しない。町中に散らばる親族のだれかしらが見つける。だから、連れ戻される。連れ戻されたタオは、たった半日の憔悴のあとは、いつでもけろっとしたものだった。
一族の男たちはだから、どうせタオがどこかでもう知っているものだと思っている。ランは、そして女たちならだれでも知っている。まだなのだと。しょせん、大それたことはなにもしていないのだ。タオに問いただすまでもない。
タオに未来の夫がいることはすでに、いつか周知の事実となっていた。男に言いよられるたび、タオは素直にその事実を謂ってしまうから。あえて一族の女たちは口を出さない。ランにだけは。ランは利発だった。むかしからそうだった。考えがおしはかれないほどに。だからそれはそうなのだ。放っておくしかないのだ。
旧正月、祖父の家を尋ねたときに、十四歳のタオが耳打ちした。
夫が、見たの。
なに?
わたしの、胸。
雅雪の前に、これみよがしに腰をおって、彼が求めたベトナム・コーヒーを出してやったときに。夫が、そっと胸もとの肌を盗み見たと。故意にはすにそらした横顔に、羞恥と満足があった。その耳たぶに咬みついてやろうかと思った。
背後の階段に足音がした。御影石をふむ、はだしのそれ。ややしめった音。やがて、すぐうしろに衣擦れがした。弟ハイであることには気づいていた。もう彼はダナンを出ていた。一族の遠戚の経営するらしいニャ・チャンの観光会社の運転手だった。仕事を紹介した一族の男フイが、無理やり連れて行ったようなものだった。ダナンから出ることを、弟ハイは当初拒否し、歎き、恐れ、苦悩した。まるで火星にでも流されるかにも。バスで八時間もかかった。もはやカイパー・ベルトより遠いかもしれない。彗星が綺麗だろう。フイが拒絶を赦さなかった。年齢を指摘した。そして無理やり連れ出した。お前の将来のためだと念を押す。更に、ビールを勧める。うなづくまで赦さない。事実、フイはもう遠戚に約束していたのだった。優秀な人材を送ってやると。だから弟ハイに選択の自由などもとからない。
旧正月明けの数日の帰省にも、ランの家には基本、立ち寄らない。例外は、元日の日づけをまたいだ深夜の、あるいは毎日の昼間の法要だけだ。旧正月には、死者たちが浄土から帰省する。だから迎えなければならない。食事を大量に用意する。先祖にささげるためだ。線香をささげる。ひれ伏す。そして、いただく。三日間、掃除などしてはいけない。死者に出て行けというにひとしい。だから、鼠たちも蜥蜴たちも自然、喜ぶ。喜びに満ちる。
弟の歩みが背後、至近、ふと迷ったのに気づいた。須臾にも満たない。そしてことさらにけたたましくサンダルを蹴散らしながら履いた。ランのかたわらを素通りした。まだ、と。欲しがっている…ランはいまさらにいまいましく思った。じぶんから年齢を逆さんした。タオがランの聞き落とした笑い話に、だからひとりで笑った。
ダナンで就職した会社から帰って来て、そしてリビングに談笑する男を見たはじめに、ランはそれが雅雪と関係のある男だということを直感に知った。なにがどうという問題ではない。赤裸々に、なにも打ち明けないまなざしの交錯の狎れも、じぶんの理解できない外国語のひびきも、なにもかもすべて完全に耳うちしていた。知ってるよ、と。知って知り合ってるんだよ。うつくしい男だった。雅雪があくまで冴えた、棘のある美しさなら、男のそれはまるい、ただただたおやかなうつくしさだった。そのくせ、女性的な気配などいっさいない。むしろ、女性性にかたむきやすいのは雅雪のほうだった。
レ・ハンと、そう紹介された。おとこはひたすら故意の邪気ある笑みの上品を構築するのに慣れている。華麗に思えたくらいだった。にもかかわらず、こころにそのまま沁み込むほど、レ・ハンはしたしみやすい。まるで流れる味のない水か、そこに存在してさえいないかのように。そして、信じきれない異物感だけは血なまぐさいほどに漲った。
レ・ハンが流暢なベトナム語で、…それはかくしようのないサイゴン訛りだったが、話しかけたので、ランは…ベトナム人なの?
地球のどこかでうまれた。そしてレ・ハンは上手に、魅力的にわらった。
いつからともいえない。たとえば、十九歳のころからハイはある夢を見た。その夢に、なまぐさい花が無数に散っている。それは四方を埋めている。だからハイは花に身を埋めている。突き出ている、ただ頸からうえだけに、それよりしたの隠された真実は明かされようがない。もうどうしようもない気がする。これほどまでに埋めつくしながら、それでもなまぐさい花々はずっと降り落ちつづけているのだから。
口臭、と。ハイは思った。だれかの口臭にちがいないと。花々。これらのこのなまぐささは。だれの口臭かはおもいつかない。見あげれば、たぶん巨大な口がひらいているに違いない。気づかなかったことにしているより他ない。おそろしい。しかし、たいしたことはない。
考えて見ればいい。どうせはるかうえ、手もとどかない高みにあるに決まっている。よし、伸ばせが舌がふれてしまうほどの至近であったとして、飲み込むためにはすすりあげるしかないのだ。しかも、これら厖大な花弁とともに。重量ある骨肉よりたやすい花弁の厖大に、さきに噎せ返るに決まっている。だから、しょせん不可能なのだ。それでも、おそろしい。
おそろしいのはむしろ、花にうまってさらされないそこ、頸からしたがどうなっているのかということだ。事実、すでにもう匂いも漏れずに腐敗しはじめている気がする。腐っているにちがいない。花のせいで匂わないのか、腐りすぎて腐臭さえたたないのか。そもそも顔ですらあやしい。さっきからいちども見なかった。花々はこまかな綺羅めきを散らしながら、鏡面じみた綺羅の須臾は、須臾にも顔をは映さない…十九歳のハイがはじめてランを知った夜、彼はひとり家を出た。十時に帰ってきた。ランはリビングにいた。前を素通りした。これみよがしにそっぽを向いた。故意に口笛をさえ吹いていた。いつもの弟の帰宅時間に、弟はいつものように酒の匂いがした。ランは憐れんだ。それから、タオがかゆくなくなったかどうかは知らない。二週間たった。夜、寝室に気配がした。酒の匂いがした。ランはまどろみから醒めた。暗がりに、それがだれなのか、見ずとも分かった。
ベッドのかたわらにすわっている巨体が、むこうを向いたまま左手をだけのばしていた。女の体をまさぐった。度胸がなかった。指にも手のひらにも。巨体の顎がつきだされていた。これみよがしにそっぽを向いているのだ。おれじゃないよ。おれ、知らないよ。ごまかしの六、七歳の少年のように。
巨大な翳りは、ランがもう目を覚ましていることに気付いているのだった。ふいに、吹きならされはじめた口笛が、羞恥の存在を教えた。ランは放置した。どうしようもない疲労があった。明けてから、ひとりシャワールームで、もうしそうならもう手遅れとはおもいながら、指先はかきなぐる執拗にじれていた。
ランは夢を見た。
見ていると、間接をすべて曲げた手のひらがかすかに、かすかにだけふるえ、ふるえつづけていた。思った。もうすぐ、もう、かすかではいられなくなるのだろうと。予想を裏切って、唐突に爪がすべて割れた。割れて、しかも歯もないくせにそれぞれの言語でランに訴えかけはじめた。懇願だった。
せつないほどに、それらはもうランにすがっていた。その真摯の赤裸々。ランはそれらを傷みなくすべて叩き潰す手段を思案した。しょせんじぶんの爪にすぎない。ゆびに内緒で、わたしにも内緒で爪を屠殺するすべとは、いったいどんなものか?
その日、雅雪はひとり出かけていた。雅雪は絵を描きはじめたから。油彩だった。その肌は灼けた。外で描くから。のちに人物画ばかり描きはじめるようになるまえに——決まって、それはランだった。ランは躊躇もなく、たとえばブーゲンビリアの白い葉翳りのしたに肌をさらした。ひさしぶりに油彩絵具をいじりはじめたばかりのころ、最初はランのいないブーゲンビリアだった。つぎに、暇がさえあれば外に行くようになり、…苦労して、ランのスクーターにイーゼルとカンバスをのせて。海に行っていることは知っていた。持って帰るカンバスはいつでも海らしき色がぬられていたから。
ランは褒めた。夫が描くなら、やさしい妻は褒めるしかない。海とも定められない色彩の塊りが、それでも海として理解されて仕舞うことをランはときにひとり笑った。雅雪は、じぶんが描いている絵がランの理解の範囲外だということは知っている。だから、いつかそれとなく教えた。パソコンから画像を引っぱり出してきて、こんな風に描くのだと。ジュアン・ブリス。そう呼んだ。その画家の角ばった絵画を。ランにでもわかる。それが画家の名前で、どうせ白人で、どうせピカソのともだちの画家だと。いまや古典的な技法で、なにもあたらしいものじゃないと、言い訳じみて教える雅雪にランは笑んだ。ランにはわからない。どれにもLE JOURNALと書いてある絵と、飛び散った海の絵と、いったいどこにどういう類似があるのか。わからないことは問題ではなくて、わからなければならない切迫もない。綺麗、と、そうランがつぶやいたときに、どっち?
雅雪が笑った。ジュアン・ブリスの絵のほうか、それとも部屋の隅に置かれたカンバスのそれか。ランにとってはどちらでもよい。
毎朝、雅雪は夜明けをすこしすぎて砂浜を一時間ばかり走る。雅雪にしかわからないタイミングでそれは、時に二時間になる。だから、油彩とランニングのせいで、雅雪はいよいよ日射しに染まる。ランよりもあざやかな褐色をさらす。庭でふたりは破廉恥だから。庭で唐突な、聞き慣れないバイクの音がして、それがレ・ハンだったときにふいに、ランは雅雪の体臭を嗅いだ。唐突な想起のうちに。
見慣れないランの、例外的に想えるありふれた笑顔。その自然をレ・ハンはひとり怪しんだ。雅雪は出かけている。そうランは云った。ランは引き止めはしない。迎え入れもしない。そのレ・ハン。どこへ?
海へ。
それ以上答える気もないらしいランを、レ・ハンは放置した。そのまま帰ってしまおうと思った。だが、ふと、どのような結果を迎えるものか見てみようという気になる。なにがどうなるというあてもない。待つともいわずに、だからまるで自分の家のようにあがりこむレ・ハンを、ランは赦しもしない。拒絶もしない。放置されるまま、レ・ハンはふたつめのリビングに座った。ふと、椅子は雅雪の不在をそこにあばいた。そこが、いつものレ・ハンの位置だった。雅雪のとなりだった。レ・ハンに用はなかった。レ・ハンも、じぶんに用があるとは想えなかった。
リビングの入り口で立ち止まって、すわるレ・ハンの組んだ、おおげさな膝を見た後、ランは庭に帰った。日射しのなかにも、ランにはもちろんなんの用もない。じぶんがここのなにものにも歓迎されていなかったと知る。拒絶まではされなくも。思わずほくそ笑む。さっきからここに時間をつぶしていたではないか。なぜいまさら居場所はうしなわれなければならないのだろう?
声に笑いだしそうになって、息を吸い込んだ。須臾、思いついた。あどけない、事実あどけなくこそ想われた思いつきだった。つまり、もしうまれた子供が、彼が大好きなレ・ハンにそっくりだったら、その彼は、どうするのだろう?
だから、あどけないままランは情熱に笑いかけた。声を立てて笑い、そしていぶかる。あの男はしかし、女を抱いたりもするのだろうか?レ・ハンは見、と見こう見した須臾のあと、笑った。ただ、素直に、邪気のかけらもなく。笑うしかなかったから。あるいは、雅雪の調教を垣間見るように思った。ふいに、壁の向こうから素肌をさらして、しかもじぶんをいじりながらあらわれたランに。こういうのが雅雪は好きなのだろうか。すくなくとも女には。これが?興奮してしまう?…そうなの?ランの顔はいっさい媚びない。煽情もない。ただただ真面目くさっていた。眉に真摯な皴がよりかけていた。レ・ハンはそそられる。結果を見てみようか、と。だったら、乗ってやらいでもない。
レ・ハンの陽気な声を、ふと頸をのけぞらせながらランは聞いた。
結婚式の準備は思ったより煩雑だった。外国人との結婚は困難だった。ことさらの事務所手つづきはもはや嫌惡さえ超越した。ランはだれにも頼らなかった。じぶんと雅雪だけで処理したかった。自然、ランがひとりで立ち回ることになった。結婚式の日が近づいてきて、ランが、じぶんの結婚を弟ハイにも伝えなければなければならないことは自明だった。ニャ・チャンから、すくなくとも数日の休暇を取ってかけつけなければあらないのだから。繁忙と煩雑が、あとまわしにさせた。
ウェディング・ドレスの試着に連れて行ったタオが、ほくそ笑むように笑った。ひと目しろいランを見たときに。なぜタオがそんな笑みをしかもことさらにさらしたのか、ランにはわからなかった。あかるい笑みではなかった。問いただしたとして、タオが真実を告白するとは想えない。例外的にタオが、ありえない素直を発揮したところで、うまく説明できないかもしれない。莫迦だから。ランは、だからタオに笑み返すだけだった。こぼれそうな、あかる笑みを。
綺麗でしょう?やや遅れて、ランがそうささやいたとき、タオは迷わず頷いた。そして声を立てて笑った。タオの、その知性のない笑い顔をランは見た。見て捨てた。姿見にうつったじぶんの姿。ランはいままでの自分を後悔していた。しろいドレスは、残酷なまでのランの褐色を、ただひたすらにきわだてていた。色彩として、白と褐色は恋人のはずだった。しかし、結婚の相手ではないと?もはやドレスの色彩に追放されかかっているものを、無理やり不法占拠しているかにも見えた。容赦なく、ランはドレスに目立っていた。
雅雪と占い師のところに行った。彼女はカードを見ながら確約した。幸福な結婚になると。雅雪に、占い師は見蕩れた。いまさらランの年齢を聞いた。答えたランに大変だよ、と。真顔で忠告した。なぜ?四人、生まれるから。そう云った。
もう、ほんとうに弟に連絡しなければならない時期になった。あと一週間をすぎていた。夕方、落ち着いたらさすがにそのタイミングで連絡をいれようと…だから、ハイが飲みはじめる前に。朝、そう思って、そしてすっかり忘れていた夕方、弟をニャ・チャンに送った男フイが、めずらしくランの電話番号を鳴らした。ハイの自殺を告げる電話だった。
もっとも、それを自殺と認識したのはラン以外にはいない。警察はそれを泥酔したうえでの事故と処理した。そうする以外になかった。謂く、その日は仕事終わりのいつものパーティだった。弟ハイはニャ・チャンで、それがまるで義務ででもあるかのように、だれかしらを捕まえては毎日飲み会をしていたから。最初から最後までいるのはかならず弟だった。そこに、なにかの矜持でもあったかのように。
その日は海辺の海鮮飲み屋で飲んでいた。人はたいして集まらなかった。ほんの四、五人のパーティだった。ハイがふと席を立った時には、もうふたりしか残っていなかった。トイレでも行くのだろうと、海辺の道路の方へ歩いて行くハイを、彼らは見ていた。トイレとは逆の方向とは言え、ここらの酔客に、とくに年配によくある惡癖、樹木の根元にでもひっかけに行ったのだろうと。
ひとりがあくびした。すでに赤裸々な、退屈さは隠しきれなくなっていた。眼が醒めた。いきなり右手で巨大な衝突音と摩擦音が響いたから。だから、衝突事故。急ブレーキ。駄目。もう、間に合わない。見ずともわかる。終わり。
まさかハイとは想わなかった。須臾、ハイの存在などきれいに忘れられていた。物見に駆け寄る人々に追随する彼らが見たのは、車道をやや捩れてふさいだライバル会社の大型バスと、路上にののしる運転手だった。客は、バスのなかで怯えていた。または窓から顔を突き出していた。とまれ、興奮している。すこしはなれた路面、もうひとつの人だかりを押しのけると、そこにはあお向けた男がいた。出血はなかった。眼と口蓋があきらかに死んでいた。時空をことならせていた。ふとそこにだけ異時空が漏れ出てしまったかにも、…死。他人の赤裸々な死。動く気配などない。時間が流れる気配もない。服を見た。はじめてそれがハイだと知れた。知れたあとに顔を見た。ハイ以外のだれでもなかった。
電話で、親族の男フイはさんざん歎いた。ひとり弟ハイが惡いような言い方をした。ランは気づいた。彼は、そこにかたくなに想っている。これで結婚式が流れると。…と。
確信どころか、もはや周知の事実として。あたりまえすぎて、もうはっきり言い表す必要さえしないくらいにあたりまえのこととして。延期。ランはふいにせせら笑いかけて仕舞う。…まさか。弟がひとり死んだくらいで延期などさせない。悲しみよりも、怒りが先行した。どこまで無能な男なのか。
雅雪は気にも留めない。そのころのランに、親族から、遠戚から連絡が入ることはよくあった。式が近づくほど頻繁になった。雅雪はアジアの発展途上の国家の、いまだ活発な親族のつながりをひとり見ていた。届いた招待状に、親族たちは噓か本当かミンの
一家と本人に確かめずにはいられなかった。あの血まみれの少女が、しかも外国人と結婚するらしい。まさか。その日の、だから血なまぐさい長引く電話にも雅雪はその故国が、すでにうしなって久しくなりはじめたもののいきいきとした活動を見た。そのランからは、死も血も喪失も忿怒も匂わない。
電話が終わって、長電話を大げさにわびた。甘えた。そして雅雪に、むしろいきりたった彼をなだめるために見せて、ことさら甘く媚びかけた須臾、思った。ランは。知らなければならないだろうと。すくなくとも、その実父くらいは、いま。ふと迷いをさらしたランの頭を、雅雪は撫ぜた。
なに?
ごめんなさい。ランは、そして電話そのものよりもながい言い訳をして、ひたいにキスをくれた。やがて、ひとり祖父ミンの家に行った。女たちがいた。いつものこと。見ればわかる。いつものような女たち。まだ知らない。家の前に酒宴をはる男たち。彼らも。その一群から、タオの実父を手招きした。女たちは口々にささやきかけた。あら、…邪気のない笑み。…どこ?…ひとり?…彼は?
ちょっと、実父に用があるの。だから、…
じゃ、寂しがってるんじゃないの?…ほんと?…寂しいよ…どうしたのよ…ひとりじゃ、寂…じれてる?
たぶん、ね。
知った。ランは。いま、じぶんは彼女たちのまなざしのなかで、じゅうぶん以上に幸福だと。そして、たしかにそれは事実だと。すぐに実父は立ち上がらない。頃合いを見て、ランに近づく。いつものこと。いつもどおりの、いつものこと。タオは何気なく、祖父ミンのちかくで老いた彼の食事を手伝っていた。右手が惡い。一か月で、この時には全快した。女たちが立ち去るのを待つ必要はない。どうせ、知らせないわけにはいかないのだから。ランは云った。弟が死んだと。むしろ、女たちのほうを向いたまま。実父は…え?問い返しかけて、ふと、言葉をうしなった。その沈黙の間が、ランにはなぜか赦せなかった。赦せないというじぶんのふいの糾弾の不当など、すでに知っていた。女たちが問い正した。自殺したのよ。思わずそう口走る。その時だった。ランが、弟の死が自殺だったと確信したのは。女たちがさらに聞きただす。すでにランはひとり、慟哭に噎せていた。
ハイの体臭を、なんど肌に知ったか知れない。あるいは口臭も。爪の匂いも。回数がかさなるたび、ハイはより柔順なランの家畜になった。そのくせ、だれかがまわりにいれば、ハイはじぶんに特権があるかの傲慢をさらした。挙動のはしばしに。主張される所有権をほのめかし、しかもあざけるように。
ランはあやぶんだ。自分から話しはじめてもおかしくはなかった。また、ほかにも、記念になにか画像を残しでもしていたら?そして酔いつぶれて誇りさえしたら?
ときに家に弟ハイを呼びに来る馴染みたちを、まなざしは厭うた。雅雪をつれて、帰郷した最初にも弟はいない。結局いちども顔をあわせなかった。忌避したのではない。たまたま、ハイに声を掛けなかっただけだ。ニャ・チャンは遠かった。いちいち呼び戻せと?結婚したいのだと、祖父に雅雪に挨拶をしてもらった。もちろん、祖父ミンはすでにランに承諾している。雅雪のかたわらに、ランは故意にいなかった。奪い去って仕舞う男は、ひとりで永遠の略奪を告げるべきだった。孤独に、真摯に。
壁一枚むこうのキッチンで女たちとの雑談に耽った。かたわらにいない雅雪の、不在の時間に恍惚を知った。タオのまなざしは最初から恋を隠さなかった。ほくそ笑むような、陰湿的ないろ。そしてせつなさをひとり咬んだ、曖昧な陰湿。ぬれてむれた陰湿のさまざまなヴァリエーション。タオに、ランは勝利していたじぶんを確認した。
ハイが自殺して猶、ランは延期を赦さなかった。雅雪には死自体、告げない。祖父ミンの家に安置された遺体が、そして葬儀の祭壇が見ぬ弟のそれであることは、だから知られない。雅雪はランの弟が死んでいるという事実を知らないまま過ごしつづけた。延期されなかった結婚式は、親族たちにより悲痛な色彩をも見せた。これ見よがしなランの幸福の色。じぶんたちの糾弾の想い。母親殺し未遂の少女。利発な独裁者。女らしい女のしあわせ。噓ではない祝福の想い。矛盾しあいながら矛盾は、ついに意識されなかった。ふつうではない結婚式だった。結婚生活がふつうに終わらないことこそ、想えばふつうなのかもしれない。
しろい花々が祭壇を埋めた。
結婚式の二日後に、弟ハイは埋葬された。埋葬に、それが親族のものとだけ知って立ち会う雅雪の、結婚のときとは別のうつくしさに女たちは見蕩れた。恥ずかしげなく、そして褒めた。ランのかたわら、タオは誇った。
二十五歳のランは、なんども深夜の寝室に巨大なかげりを見た。二週間に一度くらいの周期だった。それが彼の周期なのだと知った。明けた朝にも、昼にも弟は、これ見よがしに柔順だった。飼い犬の媚びを眼をさらす弟にランは倦んだ。サイゴンか、ハノイでの経理の募集を物色した。サイゴンに、また近隣のビン・ジュンに日本の百貨店がオープンするらしいことは知っていた。また、生産拠点として、そのビン・ジュンに大量の日本資本が誘致されていることも。百貨店のモールのテナントたる、飲食店の経理募集があった。ダディを思った。ランは、そこに応募した。
転職が決まって、家を出るときも、ランはハイに伝えなかった。数日前に、巨大な翳りはひたいに、息を大きく吐きかけたばかりだった。数日は、翳りにランは用がなかった。夜の飛行機だった。かくしたわけではなくて、荷造りもなにも、弟には見られなかった。ランは、ひとりサイゴンに行った。
アドヴァイザーだ、と。そう日本人が男を紹介したときに、ランは確信した。この男こそが、わたしの夫になるに違いないと。まだ髪がながかった。ゆたかな、肩にかかる黒髪を、男はうざったげに掻きあげた。…きればいいのに。言葉もなく、ランは笑んだ。サイゴンに出てからも、弟ハイと連絡が途絶えていたわけではない。ランはなにも拒絶したわけではなかったから。すくなくとも、ニャ・チャンに拉致されるまでの期間、弟ハイはランに金の無心をしなければ生きていけない。一年以上がたって、そして無心が途絶えて、それも何か月かたって、無心がないことさえ意識されないまま、いま、ニャ・チャンだよ。弟が、酔いつぶれた声に深夜、連絡を入れた。
雅雪のホテルの部屋だった。かたわら、雅雪はランの腹部をいじった。ホテルのスタッフ、警備、だれもがランに協力的だった。外国人が、結婚の事実もなく現地人と同棲をはじめたら国外退去になる。最初にランは一枚ばかり渡して廻った。一枚の種類はそれぞれだった。
弟がニャ・チャンで働いていることに、ランは気づいていなかった。Zaloでもフェイス・ブックでも、たしかに最近の投稿はつねにバスに乗っていた。場所はニャ・チャンだった。弟はいまだに十代の女の子のような顔に自撮りする。頭がわるそうな澄まし顔で。莫迦の愚かをだけ確認して済んだ。
就職に気づかなかった自分こそ愚かだったと、自嘲した。
話は酔いつぶれた挙句の愚痴だった。もうすぐ結婚するかもしれないことをふと伝えた。なんの意図があったわけでもない。口にすべっただけだった。姉の告白に、弟は動揺しない。相槌をうった。それだけだった。流されそうになるその軽さを、ランは傷んだ。むりやり引き戻そうとした。あくまで重要で、地球よりも重かるべきだった。…あなたはどう?まだ女のひとりもできないの?
弟ハイは答えた。結婚できないよ。
どうして?
姉貴とあんなことしたのに?
ハイは惡びれなかった。まるで他人の過失をかるく軽蔑したように、…無理だろ?そうつぶやいた。話は会社の惡口に戻った。確信していた。もうすぐやめてしまうだろう。そんな男だ。ランはひとり、嘆息した。
雅雪に見せる。
だから、その裸身を。
描くから。
雅雪が、あの難解で、しょせん平面をむりやりねじくったような裸体画を。
もはや、それがじぶんを映したものだという痕跡さえとどめない気がするものの、雅雪に描かれるのは嫌ではない。
陶酔がある。
描かれるという以前に、単純に見つめられるということに。
肌を目が見る。
見つめるまなざしに陶酔はない。
見つめられてさらす陶酔に、だからかならずしも性的な匂いがないことは知っている。
それでも猶、にもかかわらずのうるおいは、ならばどう理解すればいいのだろう。
ランにはわからない。
ブーゲンビリアの木漏れ日に、ランは無理のある姿勢で振り返る。
腰に、首筋にかすかな傷みがある。
静止。
あくまでも。
ときにかすかにゆれはしても、静止。
いやされる須臾もない以上、いよいよふくらんでゆくしかない傷みがうずく。
うるいがじれる。
終わらせたくもない。
雅雪が、結局なにを目的として描き始めたのか、ランはしらない。
しかし、知っている。
たぶん、本人さえもわかってはいないだろうことは。
そして、口惜しさ。
どうせ描かれるなら、もっと綺麗なじぶんだったらよかった。
もっと、綺麗だったころ、たとえば出逢ったばかりの、サイゴンの日射しのしたのわたしを描くべきだった。
あるいはだれにも、ゆびさきさえふれられていなかった頃。
もしくは、一週間だけ顔をあわせたダディが見た、あの輝く異星の美少女を。
雅雪がふと、顔を上げた。
見上げた。
空を。
須臾だけ、ななめに。
眉をしかめたまま雅雪は笑んだ。
そして、…休憩しようよ。
ささやく。
何語?
忘れた。
聞き取りもしなかった。
ランは赦した。
そして大げさに疲れたじぶんの、じぶんひとりだけ疲れている事実を、ことさらに表現する。
ながい、吐息。
のけぞらせた頸に。
腰をさする手つきに。
かたむけた頸に。
肩に。
肌の湿気に。
しずかな眉にも。
雅雪のためだけの媚びをふくませた。
しろい色葉がしろく落ちた。
眼の前に。
鼻のさきに。
胸のさき、ひざ、そして足もとに。
どうするの?
思う。
ランは、そこに。
邪気もなく。かならずしも、かなしみも苦痛も、だから苦悩もなく、ランは。じぶんが狂ったら、…と。足もとに散ったブーゲンビリア。稀有なしろい色葉。それらさえもひろいあつめてむさぼるようになったとしたら、あなたはどうするだろう?捨てて仕舞う?放置?あるいは、まだあなたが知らないあてがわれの新妻に、任せ切ってしまうだろうか?切り刻むだろうか?じぶんが、ハンをそうしたように。情熱を咬んだ、しかも冴えて醒めきったまなざしのなかで。
いずれにせよ発狂するにちがいなかった。もうすぐだった。あしたかもしれなかった。いま、つぎの色葉のおちた瞬間かもしれなかった。こころにふと擬態した。花を喰う母を。花を踏んだ。
足元。
ブーゲンビリア。
しろい、それ。
雅雪は仏間の翳りにすわりこんでいる。最初ランが恥ずかしがったので、ランを描く時はいつも、自分も肌をさらす。いまや、ただのたわむれじみる。事実、たわむれにすぎない。だからたわむれに四つん這いで這って、そしてランは舌先に雅雪にあまえた。花を喰う。やがて、花を、だからふと咥えたそれに、もうどうしようもないくらいにやわらかに、舌。ふくむ。つつむ。ころがす。もてあそぶ。その歯茎がふと、雅雪ににぶい声をあげさせた。謂く、
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