アラン・ダグラス・D、裸婦 ...for Allan Douglas Davidson;流波 rūpa -125 //なに?それは、なに?/ん?そこに/さっきまでずっと/きざしていたもの//04
以下、一部に暴力的あるいは露骨な描写を含みます。ご了承の上、お読みすすめください。
また、たとえ作品を構成する文章として暴力的・破壊的な表現があったとしても、そのような行為を容認ましてや称揚する意図など一切ないことを、ここにお断りしておきます。またもしそうした一部表現によってわずかにでも傷つけてしまったなら、お詫び申し下げる以外にありません。ただ、ここで試みるのはあくまでもそうした行為、事象のあり得べき可能性自体を破壊しようとするものです。
タオの肉体に、ランは過度の早熟を見た。もっとも、じぶんを基準にした場合にすぎない。差し伸べた手。やや、ふくらみが見て取れた腰、そこから尻にすべらしてランは、さぐりを入れた。短いおどろきをさらし、振り向いたタオに、ランはじぶんがしていることの意味を悟った。
タオは、表情を消していた。ランを見ていた。背丈はもう、かわりはしなかった。ふと、ランのほうが羞恥をきざした。なぐさめのある笑みを、いきなり大人びてタオはさらした。ランは、わざと音をたて、尻をひっぱたく。タオはなにも反応をしめさなかった。
サイゴンから雅雪をつれて帰って来て、一週間たらず滞在し、もう明日返るという頃には、十二歳のタオはもうランにじぶんの気持ちを告げていた。
ランは、かるく諫めるに留めた。また執拗になりかけたタオに、故意に嫉妬するふりを。いずれにせよ勝利者はタオではなかった。しかし苦しむべきはタオでこそあった。ランの知った事ではない。
その日、祖父の家にあそびに来たすぐさまに、タオはランにすがった。ひとつ聞きたいことがる、と。だれも来ない仏間に連れこむと、タオは耳打ちした、つまりは体毛の処理はどうするべきか。日本流はどうなっているのか。あなたなら、どうせもう知っているだろう?そこにふときざした侮蔑に、ランはおなじく軽蔑のある笑みを投げた。教えてほしいの?
知らない。そんなもの、ランは。ランの、彼との行為にまだそんなぶしつけに戯れる余裕などなかった。恐怖と、恐怖と見まがう自虐と、しかもそとにはいっさい漏れ出ない閉じ切った歓喜と情熱が、抱かれるあいだじゅうランを咬みちぎるばかりだった。ランは、ハンに剝かれてからいちども手入れをしたことがない。なかば、それは強制だった。きまぐれなハンのきまぐれに、ときに弟の見ているまえでさえ、確認は入った。おなじ屈辱的な姿勢で。ランにそれは虐待だった。ハンにそれは慈しみと警戒だった。むすめの自傷を留めるため。いつかその翳りの繁茂にふれることは、禁忌として深く前提されていた。ランの視野のすべてに。ぜんぶ、きれいにしなさいよ。ランはそういった。
タオは了解した。
タオはランの、いつわりのない笑みを見ていた。
タオは、手入れすることをやめた。…わかってるよ。タオはそう了解したのだった。先進国と呼ばれた異国の習俗のあまりの原始性を、タオは放尿のときどきにあざけた。
ランはダナンの経済大学を出てから地元の会社に就職した。二十五歳になった。会社勤めになれば、自然見染められる機会は減る。だから、あるいはランは平和だった。弟は十九歳になった。中学までしか行かなかった。もっとも経済的な余裕もなかった。あの男、ランの実父が、血もつながらない他人の息子の養育費など出すはずもなかった。また世話になりたくもなかった。自身の進学に、実父にはじめて連絡を取ったのも苦渋の選択にすぎなかった。一族の女たちのようにだけは、なりたくなかった。ようやく経済発展をとげはじめた国の女たちには、あたらしい生き方があるはずだった。
弟は未来に興味がなかった。定職にもつかなかった。あそび歩いた。大したものではない。一族の誰かとカフェに行く。一族のだれかの家で暇をつぶす。一族のだれかのおごりで酒を呑む。それが毎日のすべてだった。不足はなかった。十八歳になったとき、免許を取ると言いだした。しかも大型だった。理由を聞いた。おれもそろそろ働かないといけないだろう?それだけではないことはすぐに知れた。直感的に。噓をついた時の癖があったわけではない。かくされた理由の、それが何かまでは知れなかった。大型バスの運転手をやると言った。実際、観光都市として再開発がすすめられている最中だった。理としてランに不服はあるべくもなかった。いつものように金はすべてランが出してやった。やがて免許は所得した。しかし、それだけだった。長時間運転にたえられるほど弟はたくましくなかった。飽きた彼は、遠戚の経営する観光会社を二か月たらずでやめた。
ランが二十五歳で、弟ハイが十九歳なら、タオは八歳だった。前ぶれなら、あった。いつか祖父の家に顔を出した時、タオが邪気もなく言った。ハイは、かゆいよ、と。それは慎重な耳うちだった。目ざといランは気づいた。無邪気なのではない。彼女はなにか知っていて、それを隠していることをいま、あかしたのだと。
その意味を、その日はそれ以上さぐりようがなかった。かたわらには弟ハイもいたから。数か月過ぎた。真夏だった。日中のひかりはただひたすらに容赦なかった。その日、日曜日、多忙な祖父の家からランをあずかった。ランが市場へ行って帰ってくるまでのあいだ、弟にタオの面倒をみるように云った。弟ハイがちゃんと役割をはたすとは想えない。ほうったらかすか、どこかへ行ってしまうか。ランは、タオに知能障害のきざしを感じていた。手のかかる子だった。その実父は茶化した。おまえにくらべればみんな知能障害だろう?おれとおなじように、と。
タオはだれよりも話しはじめるのが遅かった。喉が人もどきの声を放ちはじめたとして、言語以前の歓声と嬌声にすぎなかった。一日じゅう葉が路上に舞ってさえはしゃいだ。まともに言語をはなせはじめたのはほんの数年前、六歳になるかならないかだった。はなしはじめれば、逆にタオは寡黙な少女になった。実父カンの煙草を、火のついたままひたいにおしつけたとして、タオなら黙って見つめていただけかもしれない。
ランは市場にまっすぐ行かなかった。そもそも取り立てて用があるわけではなかった。祖父の家は、亡き祖母の命日の法要の準備でいそがしい。豪奢な料理をつくる。そして三階の仏間にそなえる。そして、昼時になれば、つどった周辺の一族みんなでそれをいただく。もちろん、ランたちも頃合いで参加する。ランの役割りは、ただ足手まといでうっとうしいだけのタオを繁忙からひきはなし、管理することにすぎない。だから、昼食の準備が必要なわけでもないその日、市場に行って買うべきものはなにもない。手ぶらでは帰りづらいランは、とりあえず海に行った。
九時を回っていた。
いまさら市場で食品を物色するとしても、もう時間としては遅い。海ですこしだけ時間をつぶすべき時間ではない。まして、海水浴には遅すぎる。しろ肌が尊いここでは、現地の人間たちが繰り出すのはせいぜい七時までにすぎない。朝のひかりが力を持ちはじめれば、人間たちはもう撤退するべき時間だった。いま、日射しは正午にかわらない。
ダディは云った。
英語で。…ここの日射しは激しい、と。肌を真っ赤に変色させて。東北の人間たちには、あまりにも苛酷な日射しだということを、そのときにランはまなざしに知った。砂浜にも歩道にも、白人たちは好んで海辺に肌をさらした。だから真っ赤に傷めながら。湾岸道路のココナッツの樹木の翳りに、バイクを止めた。道路は、そして海岸線は急速に整備されていく。ダディたちが見たのは、もっと荒れた素の海だった。海岸は綺麗になった。海と砂じたいは汚れた。海は綺羅めいていた。
ふと、しろいガードレールに手をふれかけたとき、ランはあわててその手を引いた。苛烈な日射しはもう充分あたため切っている。目玉焼きくらいなら作れるのではないか。ひとりランは頬をゆるめた。どうしようもない倦怠のなか、ランはそれなりに時間を潰したと思った。たいした時間を消費できたわけではなくも。
市場でチェを買った。甘味に飢えていたわけではない。それ以外おもいつかなかったのだった。ふたりぶんか、三人ぶんか須臾、迷った。弟がチェを好まないことは知っている。なぜ?甘いから。そのくせショコラなら大量に消費した。アイスクリームも。ふたりぶんにすれば、いちばんその日曜日の朝は順調にすぎていくだろう。たとえ家にいたとして、弟に差しだせばごねるに決まっている。ごねればランはしかりつけるに決まっている。どこかに出かけて行ってしまっていたとしたなら、文字通りあまりがひとつ生じる。ランはみっつ買った。庭にバイクをとめた。
ひとの気配はなかった。ハンの妹たちなら、もうここを捨てて行った。娘のひとりが結婚した男が建てた家に引っ越したのだった。ほかのふたりの娘は結婚して家を出ていた。宏大な庭は一匹の雌猫のものだった。そしてユエン。樹木たち。草。その他。ブーゲンビリアの白い花めいた色葉の翳りを、ランはくぐった。猫が、仏間でランを迎えた。…それ、なんだい?
あなたのものじゃないのよ。
別に。…そんなもの、最初から興味ない。猫はあくびをしかけ、唐突に腹の毛の手入れをはじめた。ふたつめのリビングに行った。だれもいなかった。その先にシャワールーム付きのマスター・ベッドルームがある。もと、母親たちがつかっていた。いまは弟が占拠した。生まれてからずっと、そこに寝ていた。だから、ハンのとなりのベッドで。しだいに翳りを濃くする女の不穏のかたわらで。ときにランにその文句を口走りながら。亜熱帯のここらに、もとからかならずしも戸を締め切るという倫理はうすい。エアコンをかけた場合は除く。トイレットさえも締め切られはしない。だから不穏さなどなにもない、なかば開かれたドアをくぐった。まず、下半身が見えた。窓ぎわのベッドに、弟の。ドアが上半身をかくした。はんぶんだけ、窓の外をみているタオが見えた。ベッドのうえ、弟のかたわらで。とりあえず、弟はランの言いつけを守ったのだ。家に留まりつづけていたのだから。ベッドで面倒を見ていたのだから。いま、ひとり疲れきって眠り込んでしまったにしても。部屋の淡い翳り、ランが完全に入って仕舞えば、あお向けた弟ハイをかくすものはなにもない。ランは匂いを嗅いでみた。鼻孔は、なにも。とまれ、なにがされていたのか、そしてなぜ疲れてしまったのか、眼にあきらかだった。あられもなかった。ちいさな、やわらかくなったそれをランは見つめた。タオが身をよじっていた。もうランを見ていた。じぶんの過失を見つかった、と。そんな、追い詰められた自虐的な顔をして。ひとめ、見た。すぐに逸らした。あなた、わかるの?くちびるに指を立てて、そしていつなにを言いだしはじめるかも知れないタオを諫めた。タオはくちびるを開きかけてさえいなかった。ランが手招きした。タオはしたがった。ランの、タオへの嘲笑のあるまなざしを恐れた。
ランは苦悩した。
タオを連れ出して、仏間のほうで小一時間あそんでやった。なにをされて、あるいはされなくて、なにを見て、なにを見せられて、なにを見なくて見せられなかったのか。ランは問いただす気にもならなかった。稀薄なたわむれと、稀薄な雑談に、しかし一応は時間は流れる。海辺のひとりよりは素直に。まだいくぶんかはやすぎるものの、十時をすぎたころランは、タオを祖父の家に連れて行った。やがて十一時、昼間の親族の酒宴がはじまりかけたころに弟はやってきた。一族のなかでだれよりはしゃぎ、だれよりしゃべり、だれより声がおおきい弟は、だれより缶ビールをあけていく。空き缶はここの様式として、その足元に転がる。紙くずと鷄の骨も。犬が落とされたそれらを物色する。ちょうど背後に弟ハイが笑って、そして笑いのけぞった瞬間、後頭部にふれたその背中をランは、ふと疎む。男の頸の付け根のあたり。髪に、みじかい髪の末端の触感。
ランの、いよいよ洗練されてゆくほほ笑みはいつもとかわらない。女たちは思う。この子がもうすこし莫迦で、愛嬌があって、そして肌がしろかったらどれほどだろう。女たちはランの、じぶんの可能性をことさらに傷つけずにはいられない愚かしさを憐れむ。もちろん、とは言えついには知った事ではない。じぶんのうんだ娘ではない。じぶんの息子の妻になる可能性もない。
だから女たちは上質な微笑に、そして上質なうわさばなしに、あるいは骨ごとちぎられた蒸し鷄の胸のきれはしをつかんで、ゆびにちぎって、口に入れる。しゃぶる。軟骨を、そしてそぐ。へばりついた肉を。脂を。咀嚼する。咬む。ランはひとり、そこに咬んでいた。嫌惡。背後の陽気な男。気づかれなかったと思っているのだろうか?憎惡。いまいましい。うとましい。きたならしい。そして憐れみ。同情。悲嘆。それら、さまざまな感情がさまざまになまあたたく、しかも赤裸々に自虐だけをランの上質なくちびるにつくった。鷄の脂とコラーゲンがぬらす。
酒宴の、食事が終われば人々は散りはじめた。いつものように。だからランも帰ろうとした。いつもとちがって、皿洗いは手伝わなくていいと謂われていた。めんどくさいののめんどうみてくれたからね、と。笑った。こころに、ただ、まともに話もせずに不機嫌そうにだまっているだけのタオが?弟はもうすこしいると云った。まだ男たちの半分が飲んでいるから。酒気を帯びた息。白目。肌の細部。ランは、ひとりで帰った。
ベッドで昼寝しようと思った。だから横たわった。とおく、仏間の方から吹き込んでくるらしい風が、開かれたままのドアをゆらした。窓は開かれていた。だが、そこには風の気配がない。だから見つめられた窓の木戸はむこうにひらかれたままゆらぎもしない。禿げたブルーのペンキ。日射しの直射と斜めの翳りに、複雑な色彩をさらしていた。窓には台所の前のほそ長い庭に立つ、赤いブーゲンビリアの樹木の幹だけが見えた。花も色葉も、そのものは見えない。ときにひかりにさされたむらさきいろの、透き通った色葉が散る。流れる。ゆれる。色彩。綺羅めき。須臾の。ふと、ランはじぶんにふれてみた。ふれただけだった。もっと嫌惡があるものと思った。つめたかった。ただ、やわらかな骨格と肉の、そして荒れたひと肌の触感があった。ふれるだけ。それ以上はない。しなかったのではない。できなかったのでも。ただ、そうだっただけだ。疲れていた。いつか、まどろんだ。夢を見た。
爛れ孔という莫迦がいた。女だった。もじどおり、体中爛れていた。しかも無能だった。だからだれも相手にしなかった。見向きもしなかった。十二歳くらいまでは。
四歳の時には父親が死んだ。殺されたと聞いた。父親も莫迦だった。となりの町で起った戦争で、ひと儲けしようとした。山を越えて木陰に様子を伺った。矢が眼を貫いた。その時は死ななかった。よく喰うのとしぶといのが取り柄だった。家にまで帰り着いた。赤い虫が這っているものと見まがわれながら。土間に寝転がって手づかみに、血まみれで貪ったあげく十二日無駄にのたうち回って死んだ。河に流した。魚が喜んだ。栄養がすこぶる豊富だったから。
爛れ孔はそれから芋ばかり喰った。
八歳の時には母親が死んだ。河に落ちたのだった。洗濯か、男を探しにか行っていた。泳げなかった。そう、ひとびとは解釈した。溺れたなら、泳げなかったということだろうから。誰も助けなかった。あれは自殺だろうと想われたから。爛れ孔に輪をかけて母親も莫迦で無能だったから。十二日みなもに溺れながら、ようやく沈んだ。ひとびとは悲惨のようやくの終焉に安堵した。屍は上がってこなかった。だからたぶん、魚が喰ったのだろうと解釈された。そうに違いなかったから。
爛れ孔はそれから芋も喰えなくなった。
ひとびとは憐れんだ。川べりに住み着いた爛れ孔が、河に捨て流された家畜の屠殺皮をひろっては、涙ながらに腐れ肉をそいで喰らっていたから。爛れ孔の爛れはより膿んだ。
十二歳のときに、爛れ孔は子供を生んだ。肉の塊りじみた醜い子だった。女たちは父親探しをはじめた。生んだからには父親くらいいるべきだろうから。亭主に聞いた。お前かと。亭主は答えた。おれじゃないよ。本当か?あたりまえだろう。おれだけじゃないから。おれだって決められるわけがない。女も亭主も笑うしかなかった。女は息子に聞いた。お前かと。息子は答えた。おれじゃないよ。本当か?あたりまえだろう。おれだけじゃないから。おれだって決められるわけがない。女も亭主も笑うしかなかった。女たちは集まった。どの女たちも同じことを言った。つまりそういう事だった。女たちは爛れ孔を折檻した。
そのうちに、殴られるたびに爛れ孔の罪が晴れていくのだという気がした。考えた。理の当然に想われた。話し合った。いたずらに話し合いは紛糾したが、理の当然は理の当然だった。折檻は功徳になった。爛れ孔のための毎日ひとりいち殴打づつの功徳に、爛れ孔はより爛れた。
爛れ孔の子は爛れ足と呼ばれた。爛れ孔の子だったから。そして爛れていたから。十二歳まで知能がなかった。眼も口も耳もない肉の化け物が、知能などないのは理の当然だったから。十二歳の爛れ足は唐突に叡智にふれた。眼が明いていた。とっくに明いていたのだった。よく見た。耳が明いていた。とっくに明いていたのだった。よく聞いた。口が明いていた。とっくに明いていたのだった。まぼろし鳥の美声をひびきかせた。爛れ足という至上の叡智の至高の美少年の存在は、だれにも知れた。知れて山も河も越えた。爛れ足は羞じた。母なる爛れ孔は見世物に堕していたから。
爛れ孔をもはや折檻功徳に布施してやるものさえいなかった。笑いものでさえなかった。現世惡穢のなれの果ての恐怖を教えた。爛れ孔には眼がなかった。耳がなかった。鼻もなかった。口もなかった。右腕もなかった。左腕もなかった。右足もなかった。左足もなかった。陰部もなかった。内臓もなかった。血さえも残っていなかった。それでも死なずに生きる貪欲の化けものを見世物に、大僧正は説いた。現世惡穢に染まり染まって成れの果ての地獄道こそ、これぞ。お前たち、如何にも早う悔いて正道に戻るがいいと。
爛れ足は村を捨てた。爛れ孔を羞じたから。じぶんが爛れ孔の孔から生まれたことを、知らないものはそこにだれもいなかったから。爛れ足はうつくしい足で天竺に向かった。行く先々でひとびとは聖者の施しを知った。爛れ足はその叡智に、ひととひとびとを救って飽きなかったから。
歩いて歩き、歩きつづけて荒れた道に、曠野に出た。荒れた道の果てだったから、そこはたしかに荒れた曠野だった。返り見た。どこまでも荒れた曠野しかなかった。右を見た。どこまでも荒れた曠野しかなかった。左を見た。どこまでも荒れた曠野しかなかった。また前を見た。どこまでも荒れた曠野しかなかった。爛れ足は苦悩した。枯れたふたつの樹木があった。その真ん中を抜けかかった時、声がした。どこへ行くのさ、と。
聖者は施すべき時を知る。穢れた餓鬼惡鬼のささやくと知って。だから爛れ足は柔和に笑んで答えた。天竺へ。
声が笑った。お前は莫迦さ、と。
答える。なぜ?
声が答える。莫迦は莫迦さ。だってこここそ天竺だもの。
爛れ足は絶望した。
来た道もすでに見失った。行く道もすでに見失った。左右さえ見失い、いまや上下さえあやしかった。見渡せば曠野。見上げて見下ろしてもただおなじ荒れたすさみのみさらしていたから。空も地もなにもあったものではない。
爛れ足はけものになった。けものになれば地くらいわかる。足の蹴るのは空ではないから。けものはたしかに鳥ではないから。足の掻くのは海ではないから。けものはたしかに魚ではないから。けものであれば飢えて容赦ないのが理の当然だった。けものは飢えて飢えた。九百九十九を越え、千のおなじかたちのけものを殺した。裂いて喰った。九百九十九を越え、千のちがうかたちのけものを殺した。裂いて喰った。九百九十九を越え、千のよりおおきいけものを殺した。裂いて喰った。九百九十九を越え、千のよりちいさいのけものを殺した。裂いて喰った。九百九十九を越え、千のより肥えたのけものを殺した。裂いて喰った。九百九十九を越え、千のより瘠せたけものを殺した。裂いて喰った。九百九十九を越え、千の空のけものを殺した。裂いて喰った。九百九十九を越え、千の海のけものを殺した。裂いて喰った。九百九十九を越え、千の河のけものを殺した。裂いて喰った。九百九十八を越え、九百九十九の莫迦のけものを殺そうとした。裂いて喰うとした。やめろ、と。
背後にまだ生き残った莫迦のけものが叫んだ。それはお前の母親じゃないないか。しかし、遅かった。もう牙が肉の塊りを咀嚼していたから。よって、けものは九百九十九の莫迦のけものを殺した。裂いて喰った。滂沱の涙を流した。返り見て、生き残りの莫迦に言った。おれを殺してくれ。じぶんでじぶんは喰いきれないから。どうしてもこの口に、口だけは喰いきれないから。生き残りの莫迦は憐れんだ。大悲大慈。これぞ功徳とけものを殺した。裂いて喰った。ひさしぶりの満腹を、莫迦のけものは喜んだ。
九千九百九十九殺しのけものは黄泉に落ちた。殺されたから。裂かれ喰われたから。黄泉の奧につづく道の真ん中に、乞食がいた。眼と鼻と耳と指と肌がなかった。どこへ行く?乞食が言った。九千九百九十九殺しのけものは答えた。黄泉へ行く。乞食が尋ねる。黄泉のどこへ行く。九千九百九十九殺しのけものは答えた。地獄の底だよ。乞食が笑う。なんで行くんだね、そんなところに。熱くて痛くて大変だよ、あれは。九千九百九十九殺しのけものは答えた。現世惡穢のつぐないに。じぶんの血でおれの血と肉を洗って、それでもうすこし綺麗なところに行くためさ。乞食が歎いた。やっぱり莫迦は莫迦だよ。九千九百九十九殺しのけものは尋ねた。どうして莫迦さ?乞食は言った。お前の行くところは浄土だよ。綺麗で綺麗に綺麗なところさ。九千九百九十九殺しのけものはあやしんだ。なぜ?乞食は答えた。お前如きぶんの惡穢の禊ぎも、功徳重ねも、とっくにお前が喰うまえの、爛れ菩薩がすましてしまった。莫迦のお前があと九万九千九百九十九と一と一でも殺そうが殺すまいが、九億九千九百九十九万九千九百九十九の転生のさきまでとっくにお前が行くのは綺麗なところさ。九千九百九十九殺しのけものはおののいた。悪鬼がだますと。恐れた。だから問うた。お前はだれだ?眼と鼻と耳と指と肌のない乞食は笑った。莫迦どもの謂う、いわゆる閻魔さ。せせら笑う閻魔の恥知らずの笑い声の下、九千九百九十九殺しのけものは失神していた。ただ、傷みだけが燃えあがっていたから。
ときに爛れ孔を釈迦が呼んだ。だから釈迦のとなりに行った。釈迦が、爛れ孔のためだけに笑んだのを見た。釈迦の仏陀の口が云った。爛れ菩薩、お前は右眼を右眼なしにくれてやったね?お前は左眼を左眼なしにくれてやったね?そうしてこうして、血の一滴までぜんぶ、くれてやったね?見世物にさえなりながら、お前に恐怖するものたちの、せめてもの幸福だけ願っていたね。じぶんのためには、
爛れ足の幸福をせめて願っていたね。お前の知るのは一語で足りた。幸あれかし、と。それ以外の言葉はもはや忘れた。お前はこれからどうするね?わたしのそばにこのままいるかね?天人たちと憩うかね?それとも極楽世界にでも生まれ変わって迦陵頻迦と歌ってみるかね?
爛れ孔は云った。もういちど、娑婆の世界の汚穢の底に生まれさせてくださいな。そこでもういちど、幸あれかしと願うから。そして誰かに殺されて、裂かれて喰われてここに来たなら、もう九百九十九回娑婆の世界の汚穢の底に生まれさせてくださいな。そこでもういちど、幸あれかしと願うから。それぞれに誰かに殺されて、裂かれて喰われてここに来たら、もう九百九十九回と、永遠に娑婆の世界の汚穢の底に生まれさせてくださいな。そこで永遠に、幸あれかしと願いつづけるから。いますぐ生まれ変わらせてくださいな。
すがる爛れ孔を、仏陀は赦した。爛れ菩薩は、だから無限に、ふたたび落ちた。それぞれ無限の爛れ孔が、それぞれ無限の娑婆の汚穢のいちばんのそこにいちばん穢く生まれた永遠の須臾に、釈迦は弥勒を呼んだ。弥勒は笑んだ。釈迦も笑んだ。そういうことだそうだよ。どちらともなくそう仏陀の口に云った。そういうことなら、ここもわたしもお前もなにも、なにもいらないというものじゃないかね?どちらともそう云い、仏陀の頬は笑んだ。
その日、娑婆世界の空にも雪が、花のように降った。めざといものは察した。怯え、おののき、悲しみ、憎み、叫んだ。見ろ!いま、仏たちが滅びた!未来の仏も今の仏も過去の仏もことごとく滅びた!仏の国土も仏の世界もすべて滅びた!いま、雪が降る…花のように、雪が降る…と。
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