アラン・ダグラス・D、裸婦 ...for Allan Douglas Davidson;流波 rūpa -124 //なに?それは、なに?/ん?そこに/さっきまでずっと/きざしていたもの//03





以下、一部に暴力的あるいは露骨な描写を含みます。ご了承の上、お読みすすめください。

また、たとえ作品を構成する文章として暴力的・破壊的な表現があったとしても、そのような行為を容認ましてや称揚する意図など一切ないことを、ここにお断りしておきます。またもしそうした一部表現によってわずかにでも傷つけてしまったなら、お詫び申し下げる以外にありません。ただ、ここで試みるのはあくまでもそうした行為、事象のあり得べき可能性自体を破壊しようとするものです。





タオはかならずしも不幸ではなかった。不幸という自覚を持ったことはいなから。報われないという自覚なら、または不当という認識ならあった。雅雪を連れてきたラン。想いあがった彼女が、十一歳のタオにはっきりとそれを教えこんだから。

最初は逆光だった。返り見たそのさき、人ふたりか三人ぶんの翳り。かたむき。それらのむこう。タオは見た。十一歳のまざさしは、出会いがしらからすでに奪われた。捕らわれた。夫のすがたに見蕩れた。おなじ眼に見た。おなじ眼に目舞った。過失だった。なぜ、ランが。あるべきではなかった。ラン。あくまですべて錯誤していた。

不幸ではなかった。たしかにタオの身の上は複雑だった。とまれ父親が別の女と暮らしはじめる事例などいくらもある。離婚しようが堕胎しようが自殺しようが妄想的な白人たちならいざ知らず、形骸化したブッディズムを愛する国民の知ったことではない。戒律とは、満月の日の菜食日に卵で希求をしのぐことだ。卵は生まれていないから屠殺ではない。もし屠殺なら女は一生涯に一体どれだけの屠殺を月に捧げて来たのか。

またその別の女がほんの一年程度で別の男と出て行ったとして、それも知った事ではない。最初から好きなではなかった。しかも、好かれてもいなかった。不幸にして兎と同居をよぎなくされた猫がいたとして、ある日の野犬の襲来は悲劇だろうか?たかが穢い頸が庭先に転がるだけだ。

また実父がどうしようもない能なしだったとしても知った事ではない。定職もない。三十代の頃に数年で放棄した塗装業の経験の、あくまで手すさびにときになけなしの金額で知り合いの家のペンキ塗りくらいはやってやる。いつでも暇なことを知っている知り合いが乞うから。だれも退屈かつ煩雑なペンキ塗りなどじぶんではやりたがらない。能なしだろうがなんだろうが、いつでもへらへらしている陽気な男のかたわらで、タオにできるのはせせら笑う以外にはない。からっぽだろうがなんだろうが、笑うときひとは猶も不幸であり得るだろうか?

またじぶんがかならずしも誰からも愛されはしていなくとも知った事ではない。タオはうつくしかった。だれもがひと眼に、その容赦ないうつくしさを見止めた。認めるしかなかった。見止めたまなざしがさらす下等をも。すぐさまに、まなざしは恐れた。狂暴だったから。うつくしすぎるタオは、無知なるままの加害者だったから。タオのまなざしはすさまじく昏い。実父カンにあわせて笑んでみせた適当にさえも、まなざしはまさにめざましいほどに昏い。だれかの葬儀に行ったとき、高慢なわかい僧侶が云った。暴力的な眼をしている、と。かたわらの祖父ミンに遠慮なくそう云い、めざとい叡智を見せびらかす気でタオに耳打ちした。くれぐれもおとなしくするように、と。お前はひとを傷つけないではいられない顔をしているからね。もちろん、かたわらの祖父にも聞き取られるべきしかるべき音量で。

祖父は僧侶を畏怖した。すでに僧侶の思いつきのひらめきは祖父ミンに、はるかなむかしからの憂慮になった。ミンはタオをあやぶんだ。

うつくしいタオはひと眼をどこにでも惹きつけた。似た年頃の少年たちの経験のない眼など焦燥させてたやすかった。ついに尊重されなかった。ここで女は、女たちにさえ、いわゆるたおやかな、可憐なそれが好まれる。莫迦でもよい。利巧すぎ活発すぎる女など、ベッドでも台所でも持て余す以外ないではないか。いわば纏足靴になど入りようもないけものの足を持っているかの、そんな狂暴なまなざしのタオ、そしてひと眼を故意に軽蔑したかに錯覚させた、褐色の素直に灼けた肌さえ、ひとびとをとおざけた。まして少年の、勝手に蹂躙を知った焦燥の焦げついたさきには、嫌惡しか残らない。肌の褐色が、そもそもひと眼を気にする女らしさへの羞恥のせいだったにはしても。

しかもタオは不穏だった。声を立てて笑った時、いきなりまなざしから、だから顔貌全体からふいに狂暴は消えた。見事だった。一気に、なにもなかった。知性の存在さえ感じさせなかった。まるでただの莫迦ものの莫迦顔だった。矛盾を、ひとびとは感じた。しかも、程度の莫迦は可愛いが、強烈な莫迦は恐ろしい。だからいつでもタオはあやうく、そして危険で、容赦なく不穏な異端にすぎなかった。

ランだけはタオを尊重した。たとえランが最初から、いっさいの共感、わずかな憐憫さえも実には感じていなかったとしても。別の星から、お前は来たんだよ、と。そう人望のある老いた僧侶は云った。祖母の法要のときだった。まだ、ほんの十歳足らずだった。あまりにも利発だった。けなげだった。清楚だった。華奢だった。なにより透けるほどにしろかった。あの母親もうつくしい女だった。しかしハンだけのせいではあり得ない。やがて花を喰い散らしはじめる女を、あえてたとえれば靄のなかに咲いたしろい花とでも?あやふやな、あいまいな端麗。むしろランは眼の前にさらけだされ、ふれるすれすれに突き出された刃先の鋭利に似た。いたましいほどに澄んでいた。傷み散るほど冴えていた。おそれなど感じさせなかった。おそれるべくもなかった。とても大人になれるとは想えなかったから。やせぎすの美少女に、だからあくまでも凡庸に、あやうい将来を憐れむ施しをくれてやりながら老師はささやく、——お前は、特別な人間なんだよ、と。恥ずかしいくらいの神秘だった。恥知らずなくらいの絶賛だった。須臾、一族は嘲笑じみた歓喜を見せた。ランは、周囲だけのふいの喧噪に、だから老師を崇拝した。

ランが私淑したのは、別のわかわかしい比丘尼だった。歩いて行けるちかくの寺院にいた。比丘尼にいくつかのスートラの概要を教わった。そして、禪那の瞑想を手ほどきされた。それでもランは月並みな少女だった。ときに地獄をおそれた。矛盾する、輪廻転生をも恐れて飽きなかった。間違っても蠅にも蛆にもうまれかわりたくはなかったから。あなたはなにに生まれ変わりたいの?比丘尼は問うた。そっと、ランに笑んで。いつでもじょうずに、やさしく比丘尼は笑った。笑みの上質に慣れていた。須臾のまよいのあと、ランは答えた。極楽に行きたいです。だったら、と。そして比丘尼は謎をかけた。いちばん綺麗なところに生まれ変わりたいなら、地獄の底を望みなさい。だれよりもただしく生きて、どこよりも綺麗な場所に生まれ変われる権利を得たなら、それを迷いなく拒否しなさい。ふかいふかい地獄のそこに生まれ変わって、その身を引き裂かれながら苦しむ愚かなひとびとを導きなさい。忌むべき魔物たちさえ導きなさい。魔王さえ憐れみなさい。そしてなんども、何十回、何百回、何千回、もう無限にいたるまでも穢れたつちのうえにこそ生まれかわりつづけなさい。ランは懊悩した。そして、おなじく、謎めいた矛盾の、矛盾ゆえに咬みつく情熱にひとり恋した。ランは永劫の地獄転生を、嫌惡しながらこころに誓った。

うとまれる異端者タオほどランが愛すべき存在はいなかった。親族にも、それ以外にも。繊細に排斥されたタオは敏感だった。さかしかった。ランの、明言のない強制にしたがって、タオはランになついた。慕った。無難な選択だった。ランのかたわらにはいつもタオがいた。もしも十一歳のタオの夫がランの夫でなければ、タオは思いをだれにもうちあけられなかったにちがいない。苛立ちのなかにただ、やつれてゆくしかなかったかもしれない。ランがじぶんを、それでもむやみに拒絶しえないだろうことには、タオにはすでに確信されていた。ランはじぶんが家畜のように順わねばならない、しかしじぶんのたんなる家畜にすぎない。



早熟なランの、しかし肉体は奥手だった。ようやく十四歳もすぎかけて、ふと、腰に張りと胸に不用意な、肉の溶けるに似たたるみをきざした。きざしがあらわれれば、一気に肉体は目覚めた。噓のように、華奢な肉体は豊満に張り出した。

憎んだ。

ランに、女の肉体の遅すぎた獲得は、またはその過剰のせいで羞恥いがいのなにものでもなかった。調整されないわかい肉体は、だから鎖骨からうえに好き放題に利発な冴えた美少女の清冽を誇りながら、したには熟れかかった女の芳醇をでたらめに見せつけ、淫蕩をほのめかし、しかも放置した。ランは無理やり肉体を隠した。隠しきれはしない腰に、あるいはランは骨を削る夢を見た。胸元の息苦しい拘束の暴力に、たとえばのろまな弟ハイを苛立ちのまま怒鳴りつけたとき、ホックを弾き飛ばさせるラン。彼女をを、六歳下の弟は指さして笑った。無邪気こそ凄惨な邪気だとランは知った。肉体が女性化していけばいくほどに、姿見にうつるじぶんのすがたはたしかにじぶんが地上のいきものだということをおもいださせる。他の惑星から来たなどと謂う妄想にたわむれさせた老師は、この肉体を見たらなんと謂うだろう。そう思った。かつて桃源郷の天女だったとでも?天人五衰。いつか比丘尼に教えられた神話を思い出す。ブッダの現世転生は、それは地獄への失墜だったのだろうか。獲得された肉体は、容赦なくランを地上に拘束しはじめる。拘束され始めた自覚とともに、たしかに失われたじぶん自身が稀有な浮遊のうちにいた記憶が、現実にまなざしにひろがる。稀有をうしなえばうしなうほどに、もちろん少年たちの色づいたまなざしはランを囲んだ。

最初は十四歳のときだった。それから何人もに、ランは声をかけられた。それぞれの情熱をそれぞれにさらしていた。そして常におなじ情熱のヴァリエーションにすぎなかった。ランの拒絶は、回数ごとに上質になって行った。

かれになら応えてもいいと、そう思った男も十代のうちにはふたりいた。正確にはひとりと、もうひとりいた。ひとりはもとから、ラン自身が焦がれていた。もうひとりはそう想ったときにはすでに可能性を失っていた。犠牲者じみた上目遣い。そしてなかば故意に下卑た色。複雑を極めた羞恥の眼のあたたかみに、ランは須臾、同情した。拒絶した。同情の須臾故に、ことさらに残酷に。むしろかれのために。断わった時、夜、ひとりになったら泣きじゃくってしまうだろうと思った。泣かなかった。ただひたすらに眠れなかった。ただ、じぶんの過失を見た。見つけては傷んだ。すべて過失なら、受け入れるべきだったのではないか。恋をせめて、擬態して。そして母親の破綻のかたわら、だれにもあまやかさるしかない無邪気な弟は、ランのまなざしにはただ凡庸で鈍重な日々をかさねた。かれの母親であるかのようなランは、やさしい嘆息だけをかさねた。



十歳のタオが、憤る実父カンからランによるその母親殺しの未遂を聞いたとき、昏い目の少女はただ異国の神話を聞いたかに思った。ハンと、そう実父が名ざした女に、すくなくともタオの記憶のなかでは会ったことがない。顔なら見たことがある。祖父が保管していた写真。いかにもずぶとそうな女がいた。ふとい腕に抱かれた乳児が泣きそうな顔をしていた。かたわらに笑み、のぞきこむ見知らぬ男はただひたすらにうつくしかった。乳児はランだと祖父ミンが笑った。おまえの写真も見たいか?と。だから乳児がランなら、そのずぶとそうな女が殺されかけた母親だったにちがいなかった。しかし、そんな一度きりの顔など、記憶に残るすべもない。

もちろんランのことなら良く知っている。母親にまともに抱かれた記憶のないタオにとって、肉体に於く女らしい女のあたたかさとやわらかさと匂いといえばただ、ランの絹ごしのそれを意味した。そのしたしいランのおなじじたしい肉体が、ほんとうとも想えない異国の苛烈な神話をかつて具現していたという事実に、…父とは、決して噓をつかないものだから。錯乱を感じた。赤裸々に、その純朴なタオは。

実父カンは、その日の夕方、ひさしぶりに顔を出したランに諫められたばかりだった。もとより利発だった。はっきりしたもの言いだった。そしていつでも理にかなっていた。ランは、だから一族の相談を一身にあつめた。もっとも大半は聞き流す以外にない愚痴にすぎない。ただし今度の事件は度が過ぎていた。無き祖母の持ち物だった、すこし離れた別の土地の一部を勝手に売ろうとしてしまったのだから。土地価は上昇をつづけていた。かつての田舎町は、観光都市としていよいよ整備されはじめていた。人をあつめはじめていた。だから集めた人の実数以上の資本家たちも、すでにあつまっていた。

あえて冷静に諫めるランは、実父カンの眼には不遜な軽蔑をさらす冷淡な女にしか見えなかった。不埒だった。莫迦でもわかる。一族の代理としていま眼の前にその小娘が大人ぶっているということは。まわり中が敵だった。四面楚歌どころか、激昂のカンにはせせら笑いの幻聴のみひびく。しかもとおまきに、彼に慰めのまなざしが送られていた。実父カンは憤る以外にない。いつか、まなざしは女帝じみて君臨するわかい小娘の暴力を見ていた。いまや暴虐の女王にカンたち一族は蹂躙されていた。犠牲者だった。そう見えた。騙されているのだ。小娘に。ケツと胸をたるませるしか能がない。真実を見ろよ。いまにおれたち、とんでもないことをされるぞ。

まじわりようのない平行を、ふたりがそれぞれの温度差を以てゆらいだあと、ランが帰ったときにはもう八時ちかくになっていた。家の前にはすでにいつもの慣例の、一族の男たちの夜の酒宴が始まっていた。疲れ切り、おなじくにいまだ高揚のさめないカンを、一族のだれもかれもがいたわった。ビールを勧めた。勧められるまでもなかった。娘タオにつまみを用意させた。

実父カンは糾弾していた。あの清楚で可憐だったハンがあんなにも無慚に壊れてしまったのは、あの親子のせいではないか。ひとりはあの男だ。娘ひとりうませてどっかへ行っちまったろ?もうひとりはその娘だ。あの傲慢破廉恥娘だよ。ふたりがかりでハンを蹂躙したんだ。苦悩させたんだ。虐待したんだ。ついに壊した。知ってるだろう?いまやいつでも花を喰う。喰って吐く、吐くか下痢する。もう、人間でさえない。残骸でさえない。廃棄物よりひどい。お前らだって見ただろう?

相槌に笑い、男のひとりが云った、いまや、ランのせいで顔も体も見る影もないと。

実父カンが謂った、だって信じられるか?実の、しかも母親を馬乗りになって刺し殺そうとするなんて。

また、他のだれかが云った、おれは見たんだ。あの、泣きじゃくる弟のほうがうちに飛び込んで来たから。言ってたよ、弟のほうは。お母さんが殺されたって。姉貴が百回も殺しちゃったって。あわてて行ったら、どうだったとおもう?言ったよな?前にも。天井まで飛び散った血の真っ赤ななかに、ぐったりして身動きもしないハンの上に、ひとりランが座ってた。腹に、だよ。尻をおいて、だよ。あいつが顔をあげておれを見たとき、どうだったとおもう?

笑ったんだろ?

ほほ笑んでたんだよ。しかも、…

手をふったんだろ?

そうだよ。信じられるか?

九歳ぐらいからだっただろうか?タオは蝶を愛した。それはひと眼を避けた個人的なたのしみだった。蝶が飛んでいる。蝶はうつくしいが、その実、心などない。タオはいつか、そう気づいた。ゆびをふるわせても、微笑みかけても、唾をはきかけてさえも、なんの反応もしめさないではないか。近づかせるすべはない。自分から近づくか、蝶の無知が近づくのを待つしかない。そして、めざとくふたつの手のひらにつつむ。手のひらのなかにあざやかな混乱がある。羽根が、ときにさらさらとふれる。しかも、あくまで断片的に。知っている。つまもうとしてひらけば、そのまま蝶は飛び去ってしまう。しっかりゆびにつかむためには、そのままふくらみをつぶせばいい。やさしくふんわりした手のひらのそれを、立ち直りようもなくおしつぶしさえすれば。

最初は殺して仕舞う意図はなかった。たまたま手のひらに捉まれられてしまったときに、あくまでも咄嗟に思いつかれた行為だったにすぎない。皮膚に、おしつぶされる小さな肉体の、奇妙なきたならしが散った。そしてなにより、羽根の繊維の触感などより執拗な、あざやかに鱗粉が汚す実感がきざした。

タオはまばたいた。

須臾、われを忘れた。

快感はなかった。なにも。嫌惡だけがあった。容赦なかった。たしかに。そして恍惚があった。なにより神秘があった。なにがどう神秘なのかはわからない。ただ、機会さえあればタオは蝶をつぶした。ランがうつくしい外国人を、夫だと言って連れ帰る頃には、しだいに回数は減らされ、やがて途絶えた。まるで飽きられたように。



タンという名の、もう会社勤めをしていた三十近い男に誘われたときに、十八歳のランは余裕がなかった。いつものように、エレガントに男を拒絶するほどの。タンは無能だった。のろまだった。しかも、自分の有能と有益を自明と認識している滑稽があった。祖父の家に飲みに来る、だからだれかの連れの友達かなにかだった。自信に満ちたタンは受け入れられるものと思っていた。だから、訪ねてきたランに家の前にひろげた酒席で声をかけたのだった。一群にやおら立ち上がり、色男ぶるタンの散らす歓声に、とりまいた数人が顔をあげた。そのうちのわずかが笑った。そしてはやした。タンはこれみよがしに懇願した。ことさらに甘ったれて。

額のわきに、不快ではないほのかな薄毛がきざしていた。咄嗟に、ランはそれをからかった。嘲笑に、唇をゆがめて。タンは一気に、凍り付いた。奈落に落ちた。青ざめた。ランははじめて見事に深刻な絶望に落ちた他人を見た気がした。タンはようやくまばたいた。無言だった。もとの椅子に座り込んで、そしてそれから更に、なにも謂わなかった。

ランは他人も傷つき絶望し得るのだということをふいに、学んだ。言い訳の余地ならある。経験から、もう二度とわたしの事を想わないように、思い切り辛辣に拒絶するほうが、と。…でも、結果的にはそれこそがやさしさだって想わない?また、ふと、それ以上に自虐的な喜びにふれた。ランはふたつの理由を得た。それから、いよいよランは残酷に淫した。誘惑あるいは懇願のそれぞれの真摯のたびに、それぞれの一番深い地獄におとしてやることに。

大学で、だからしだいに誰もが特殊なまなざしに自分を捉え始めていることに、気づいた。ランは片方で陶酔した。満足だった。片方で自虐した。あくまでもじぶんこそが犠牲者にすぎなかった。なにか禁忌じみた、だから穢れものじみた、ついには危険なけだものでも見る目のかくされた集合のなかで、ふいに身を際立たせ、それでも言い寄ってくる何人かの男たち。結局は叩き潰されて辛酸をしかも骨まで舐めることになるにはちがいなくとも、ランは思った。見せてあげましょうか?あの花を喰いちぎる女の狂態を、と。頭を引っ掴んで、そして顔をむりやり花喰う顔面におしつけて、そっとやさしく耳うちしてやりたい。あなたたちの気取った顔の肌の誠意のしたに、ね?生き生きいぶいているのは、ね?しょせんこんなものよ、と。いつからか、下着は拘束をやめた。腰の骨を削る夢をは見ながらも、ランは肉体を赦した。誇示することは、ついにできなかったにしても。

ランはたしかに記憶している。しかし想起しようと思ったことは一度もない。ふとしたさまざまな須臾に蘇生する記憶のうちに、たとえばサイゴンで雅雪のくちびるがそっと、緊張しきった首筋にふれたときにさえも、…ふたりめ、と。ランは、…そして、ひとりめ。だから、はじめて。たぶん、かならず、唯一。そんな途切れ途切れの思いのこちらに、鮮烈に黄泉返っていたもの。記憶。なぜ?十二歳のランは振り返る。ふいに背後にハンの声がしたから。

なに?

単純なことばは、しかし喉を鳴らさない。それはたしかにベトナム語だった。聞き取れなかった。理由はわからない。ランは、そのころにはまだ同居していたハンの妹が、いちはやくつくっていた十歳もうえの娘の背中、バイクにまたがろうとしていた。学校までおくってくれるべき父親はすでになかった。母親はもはや急激に翳りはじめていた。夜の波が、月の力に曳かれるように。

返り見たそこに、ハンはブーゲンビリアの翳りのしたにいた。たしかに、ハンが呼びかけた相手はランだったはずだった。妹たちとはもう、口もきかなくなっていた。そしてふと、返り見られたその須臾に、じぶんこそランに呼びかけられたかにはっとした。醒めた。醒めて落ちたまなざしがランにふれた。眼を逸らしかけた。ランは。逸らし切れなかった。見ていた。だから、いきなり脱力したハンがブーゲンビリアにもたれかかるのを。それは基本的には華奢な幹にすぎない。数本が無造作にからみあうっているというだけで。もはや葉ゞは無造作にゆれた。枝らもゆれた。翳りもゆれた。花も、…葉。あくまでも色づいたにすぎないしろい変色の葉のむれたちも、さわぐ。背後に喚き声がした。癇にふれた従姉だった。バイクは急発進した。肥満した胴体にあわててすがりつきながら、ランは無理やり見つづけていた。もう、絶望があきらかなハンの唐突で悲惨な無表情を。

あるいはおさないタオをはじめて腕に抱いたときにもふいに黄泉返った。記憶。手を振り上げたハン。逆光。見上げるまなざし。頸に苦しみ。だからランは、つちのうえに手をついて折檻を受けようとしていた。なぜ?その記憶はない。のちに、だからその折檻がもはやうすれかけの記憶にすぎなくなったころに聞いた。一族の大人たちから、ハンは弟をうんでから、いままでになくランにつらくあたりはじめたものだったと。衆目の前でも気にせず罵倒した。叱咤した。ときに、あるいは頻繁に手をあげた、とも。明確な記憶はあくまでもない。だから、ランの六歳とか?七歳とか?

逆光のなか、ハンの汗ばんだ体臭が匂っているのがわかっていた。匂いの具体的な記憶はない。だから、空白をさらしたままにそこに、鼻に実に匂い立つ。恐怖はなかった。すこしも。なぜかはしらない。すでに赦していた。その手が振り降すべき暴力を。眼。血走った興奮などなにもない。眼。むしろ、冴えた、冷淡なしずけさ。それ。まるですべて冷静な計算のうちに進行されているかのように。まばたく。

ランは。

まなざしのそと。前方に、ハンの妹たちの屈託のない笑い声がひびいていた。耳うちされたかのように、突然、至近に聞こえた。ささやき声ならすでに聞こえている。聞こえていることを知っている。妹の娘たち。十歳うえのそれ。六歳うえのそれ。それから、聞こえてはいないが、たぶん三歳年上のそれ。彼女たち。その声。ささやきあう。降り下ろされる。殴打の痛みの記憶は飛んでいる。あるいは、はじめて男の頬をひっぱたいたときに、——すがるのだった。たぶん、大学生のころ、残酷に拒絶した凄惨な断ち去り際、ふと思い直してたちどまり、踵を返したランはそっと鼻さきにくちびるをよせた。故意に息をふきかけながらささやく。…あなたみたいなちびの色くろ、好きになる女なんていないから。かぎりなくやさしい微笑を、しかもつくって。最後に息をふきかけてやった瞬間、男はのけぞりながら、しかし息を思い切り吸い込んでいた。いとしさの芳香が、猶もただようとでも?云った、豚のお尻、好き?立ち去りかけながらランは思わずひとり笑う。拒絶された男にくらべても、小柄なランはひとまわり小柄だった。そのランはすでに、褐色に肌がいろづくのを厭うどころか受け入れて、外光にさらしてためらいがなかった。だからもうもとのしろさを完全にうしなっていた。男よりも黒かった。褐色の肌はほそく見える。しろ肌は女の豊満をただ強調する。いろぐろちびの女に、いろぐろちびとののしられる男ほど滑稽なものはなく想われた。ふいに、邪気が晴れた。手首がつかまれた。ねじりあげられた。悲鳴をあげる隙もなかった。暴力の匂いもなかった。たとえ、傷みは鮮烈でこそあっても。ただ追い詰められた切実だけが、匂い。鼻孔に臭い。すでに、おとこの頬はひっぱたかれていた。指が側頭の頭蓋と耳の軟骨に傷んだ。なぜ?ハンがささやく。すこし頭のうえのほう。しかもやや、ななめ。片方の頬にだけ、あたたかみ。やわらかい、しかし、やわらくはない。骨。傷みのある、吼えるような強度。だから、ランは、——なぜ?教えて。男が眼の前で茫然としていた。ひざまづいて、ハンのひざに顔を預けている。ふたつめのリビング。木製のなが椅子。木目。翳り。そして白濁。もう、あなただって女でしょう?まばたかない。そこに、ランは。怖がる必要など、もうなにもないでしょう?ハンは、いつもならランの仕事だった洗濯に、その日稀れにじぶの手を汚したのだった。まだ家屋に洗濯機はなかった。もう十四歳のランの下着が手にふれた時、下半身のそれに女らしい汚れを見た。そう思った。不審があった。見直した。月のそれではなかった。皮膚を傷つけた、こまかな切り傷や擦り傷が点々とにじませたそれ以外では、なかった。須臾、停滞。すぐさまの惰性に、下着はもみあらわれた。しかし手首がためらっていた。洗いものは中断された。朝だった。まだ寝起きの汗もながさないランは、弟とハンのための朝昼兼用の食事をつくっていた。迷いなく味見する手首をつかんだ。火もとめさせず、リビングに連れ出した。ことさらに笑んだ。しかも、命じた。ただ興奮のない醒めた声に、すわりなさい、と。長椅子に座ったランにハンは頸を振った。そうじゃない。命じられるまま、ランは股をひろげるしかなかった。しかも、かかとを椅子のうえにのせて。ベッドルームのほうで弟の声がした。いま、起きたのだった。むずがっていた。朝を呪っていた。いつものことだった。羞恥があった。すべてに。恐れもあった。ことごとくに。ランのまなざしのなかだけに。下着を脱げと命じられた。ランは拒絶した。ことばもなく。振った。頸を、…むしろ顎を。かすかに上目に。ハンは赦さなかった。もう一度命じた。顎さえ振り得なかった。だから沈黙した。喉が発熱した。血管が熱を咬んだ。ハンの手のひらが側頭部を殴打した。ようやくしたがった、いかにも犠牲者づらをするランに、ハンは舌打ちをくれた。ひろげさせた股の、翳りを繁茂させるべきあやういそこは、こまかな傷にだけ塗れていた。手入れすることはともかくも、なぜ、それほどまでに傷だらけにしなければならないのか。思うに妹の二番目の娘が連れこんだ夫の、ひげ剃り用のカミソリを無断で借用したに違いない。産毛さえなかった。傷が無数に線を引いた。ハンは恐怖した。狂っていく娘が、眼の前にいる気がした。ハンはそこに、ランをなぐさめてやるしかなかった。ランに嫌惡があったわけではない。下腹部に繁ってゆく翳りに。ただ違和感があった。自分が他人に寄生されていくかの不穏だけを感じた。暇さえあれば剃った。ハンはすでに手入れなどしなくなっていた。女でなくなりかけるどころか、もう母親でなくなりかけていた。しかも人間でさえさなくなりはじめていた。体毛などもう知った事ではなかった。剃るたびに、奇妙なよろこびがあった。ランの隠されたよろこびは、傷みをもあたえた。なぜか、いつでも皮膚にちかづくたびに、カミソリの指は引き攣りつづけたから。あやうい浅い傷が散乱せずにはおかなかった。血のにじみ。下着の生地におしかくす以外、ランは対応をおもいつかなかった。

またはたとえばタオの実父の葬儀においてさえも、ランは唐突に黄泉返らせる。…血。ただ、あまりにも新鮮なそれの、あざやかな匂い。——さびた鉄。そのとき、意識はあった。たしかに。忘却したことなど一度もなかった。たしかに。ただ、思い出せなかっただけなのだ。いちども。…と。ランはそう思う。ハンを刺した時の記憶は、…あの風景。いまだすこしも色褪せていない。しかし、思い出せない。思い出せないが、たしかにすべて知っている。だからランは、飛び散る血のつぶの風景に、いつでも苦悩を咬む。ハンはもう、ランの十歳の時にはたぶん、惡食をはじめていた。なぜなら、ブッディズムの祭壇を荘厳した花々は、かすかな衰弱を見せるよりもはやくなくなってしまっていたから。顕在化し、周知の惡癖になったのはランが十二歳のときだった。それがなにをしていたときだったかは記憶してない。弟が背後から、耳うちした。洗濯でもしていたのだろうか?ハンはしだいに動きを緩慢にし、集中力をはなはだしく欠くようになっていた。妄想は、まだ、顕在化していない。返り見、見上げたまなざしに困った顔の弟がいた。漏らしたの?そう云った。頸は振られた。どうしたの?…お母さん、食べてる。…案じた。ハンをではない。昼日中にいきなりうわごとを口走り始めた弟を。なぜ食事がそんなに不穏なのか?ハンに、助けを求めたかった。どこ?云った。弟に。六歳の彼はしかし、しぶしぶ姉を先導した。もたつき、更にわざともたついて見せながら。ただただ腑に落ちない顔の弟に、ランは聞こえるように舌打ちした。洗剤のぬめりと匂いが、手にまだあった。庭に出た。ハンの妹たちは別棟の窓から伺っていた。だから、一応は身を隠していた。もっとも、顔をさらす木戸はすべて開かれたままになってはいても。ひざまづて、ハンは尻を振っていた。タイ・サーラの樹木の前だった。母を呼びかけることが、このときにはためらわれた。あきらかに、たしかにハンだけがひとり、あかるい葉翳りのしたで不穏だった。もはや不吉にさえ見えた。近づいた。ハンは手をしたに脱力したまま、前足あげの四足動物じみた中腰に、蔦にひらいた花に喰らいついていた。

見た。

しっかり見た。

たしかに見た。

さらに見た。

眼をそらす須臾もなく、もう一度見た。見ないで、と。ランは声もなく懇願した。窓から物見の妹たち家族に。そっちを見る事さえできあいで、見ないで。…なぜ?なぜ、見てはいけないの?ランはじぶんに問いかける。だからその日も菊の花を買って、そして丁寧に荘厳し、その荘厳をなんどもたしかめて調える、それらの挙動のあいだじゅう、どうせハンが喰いあらしてしまうことくらい、意識していた。意識しないまでも、知っていた。たしかにそうだった。なにもかもいまさらだった。だから、ランにとってさえ理解の範囲を越えていた。それどころか推測の範囲をさえ。いちど出て行って、物音と気配にもういちどかえってきて、しかしもう知っていたのだ。どうせ、ハンにちがいないと。ハンの咀嚼がはじまったのだと。もうすぐ嘔吐か、下痢がはじまるのだと。だから、いつものように。そして思った。ふと気がついたかのように、思った。はじめてものの見かたがわかったかのように、だからはじめて認識し得たかのように、思った。ただ、花殺し、と。冴えていた。意識は、まなざしは、体温も普通。ゆびさきにも、まぶたにも爪にもなににも混乱はない。昏迷はない。混濁もしない。さわやかなくらに、ただ、澄み切った。思った。ここまで殺して殺し殺しまくった花殺しの、しかも花喰いのハンは地獄に墜ちるにちがいなかった。地獄で壊されてしまうのだった。引き裂かれてしまうのだった。引きちぎられてしまうのだった。悲惨だった。回避できないにしても、せめて軽減、あるいはせめてせめても遅延くらいはさせてやるべきだった。ランは、もはやハンの保護者だった。地獄での極彩色の破壊を避けるために、だったら今世で破壊されてしまえばよいではないか。地獄にさえ肉片のみかろうじて辿り着く、そんな完璧な破壊。ランは、ひとり悟った。その論理展開の詳細はランにも推測できない。しずかに、ランは台所へ行った。そして一度肉切り包丁を取った。ふさわしいのがそれでないことには、指が柄にふれるまえに気づいていた。あらためてか弱い果物ナイフを取った。ブッディズムの祭壇の前で、ランはいっさい手を上げなかった。ゆび肌にふれさえもしなかった。ただ、刺し、刺し降ろし、刺し切るナイフの刃だけに、接触を赦した。うつぶせに倒れた。ハンは。のけぞりかかった。ハンは。押しつぶした。踏みつけた。そして刺した。あらがわなかった。ハンは。ただ茫然と、——恍惚と?していた。傷みにむせたのか、ふと、仰向けにひっくり返った。ランは転びそうになった。派手に尻もちをつく。ハンが息を吐く。塊りのような息を吐く。眼を剝く。馬乗りにランはハンを刺しつづけた。知った。気付いていた。バイクで戻ってきた従姉のどれかが、声をうしなって止めたバイクをひっくり返した。別棟に走った。叔父は彼女が、…だれ?呼びつけたにちがいない。だれかが来るのを待った。いくら彼らの到着が遅れたとして、ハンは殺されはしない。ランは知っている。ハンは絶対に殺さない。地獄落ちから救うためには、今世で永遠に半殺しのまま生かし続けるいがいにはないではないか。だから、肉切りは捨てられたのだ。そうじゃない?ちがう?



だから、血。

血だけ。

飛び散っていいのは、血。

血と、すこしの肉片。

それだけ。

あなたは死なない。

だれも死なない。

だから、わたしも死なない。

地獄が、いま、燃え上る。ふと、われに返ると眼の前に泣きじゃくるタオがいた。たしかに、ランは憔悴のタオをなぐさめていたのだった。言わないながらもだれもが思っていた。ランをふくめて。実父を殺したのは、確実にタオだと。カンは癌で死んだ。もちろん、煙草もすえば酒も飲んだ。しかも毎日だった。食生活もなにもひたすらなでたらめだった。カンの実母は癌で死んでいた。その弟もそうだった。最低限の生活管理はすくなくともするべきだった。検診さえ受けたことがない。おれはいま癌じゃないから大丈夫だ、と。だから、いずれいせよいつか発癌するにちがいなかった。それが理かもしれない。しかしいま彼の細胞を一気に癌化させたのはまちがいなく繰り返されつづけるタオの家出だった。それ以外かんがえられなかった。タオは父親を殺した。…なぐさめるランを、そしてほんの数日であきらかにやつれたタオを、ひとびとは見ていただろうか?その、似たような濃い褐色の肌に、母親殺しが父親殺しをいま、なぐさめる、と。

しゃくりあげるタオは、ただ素直に犠牲者の顔をさらしていた。犠牲者のふるえにふるえていた。犠牲者のすすりなきに泣いてい

た。気づいたときにはもう、ランはタオをひっぱたいていた。周囲、まなざしが一気に集中した。意識する暇もない須臾、狡猾に、ランはタオを抱きしめていた。腕に硬く、そして右のてのひらが頭をはがいじめにし、胸元におしつけた。ひときわ、タオは泣き声を張った。だいじょうぶ、だいじょうぶと、涙声にささやきつづけたランと、そこ以外に居場所さえないとばかりにすがるタオに、人々はただ素直に同情した。









Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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