アラン・ダグラス・D、裸婦 ...for Allan Douglas Davidson;流波 rūpa -123 //なに?それは、なに?/ん?そこに/さっきまでずっと/きざしていたもの//02
以下、一部に暴力的あるいは露骨な描写を含みます。ご了承の上、お読みすすめください。
また、たとえ作品を構成する文章として暴力的・破壊的な表現があったとしても、そのような行為を容認ましてや称揚する意図など一切ないことを、ここにお断りしておきます。またもしそうした一部表現によってわずかにでも傷つけてしまったなら、お詫び申し下げる以外にありません。ただ、ここで試みるのはあくまでもそうした行為、事象のあり得べき可能性自体を破壊しようとするものです。
眞砂雅雪はふと、あやうく感じた。一種の肌ざわりとして。だから、耳たぶをそっと、やわらかな歯頚に咬まれたような、そんな。
庭。
ブーゲンビリアのしろい花と色葉のした、しかも舞い散ったしろの群れのうえに、ふいに頸だけのけぞらせ返り見たランの背中。たしかに衰えが見えた気がしたから。素肌。ラン。なめらかな。…狂気のユエン以外の、だれの目にもふれないここで、ランも雅雪も好き放題に破廉恥でいられる。
はじめて抱いたとき、ランはこれみよがしなほどに豊満な肉体をさらしていた。サイゴン。南。レースのカーテンはかならずしも外光をふせがない。月の、街燈の、夜の家屋と遠いビルディングの灯り。それら。床のながい翳りのいくつかは、ただひかりの既なり氾濫をこそあかす。なにをかくせないでいたあかるみに、眼が殊更に見つめるまでもなくそのランはただ、ゆたかだった。吹きこぼれ、花ざかりだった。もはやいとわしいくらいに。
そこに、ランはあえて冷静な雅雪のまなざしが、そっと肌におちた須臾をさえ羞じた。過剰な羞恥だった。素直すぎて荒れた。雅雪は、傷みにちかいあわれみを感じた。喜びよりもむしろ。この完成されきった肉体がいまだ、その年数を数えるまで誰のゆびにもふれられていなかった事実に。恥じらいのラン。その肉体が抱かれようとする腕が、肌が、かならずしもその煽情に溺れた故だけではないことを、せめて教え込みたかった。じぶんではなく、あくまでランの矜持のために。とはいえ、その気づかいこそむしろ侮辱だろうか?あまりに蠱惑的なものにたいする。だから、ランのなにに惹かれたという明確をもたない雅雪は、ただその肌をいつくしむしかなかった。まさに質感に溺れ切っているに似せて。
いずれにせよ、ランは申し分なかった。結婚してから、もう何年めかになる日曜日の午前、だから、寝室からそのまま庭さきにたわむれ出たふたりの肉体に、それぞれに衰えがきざすのを見るとは雅雪は思っていなかった。ランがやせはじめたのには気づいていた。三十をもうすぐ越えようとする瀬戸際の数か月だった。いま、ランの華奢な四肢は枯れかけて見えた。腰の豊満は骨格をいたましく見せた。そして胸のゆたかさはなぜか病んで見えた。重さを咬む曲線の豊満自体が。
ランがなにかささやいた。雅雪も笑んだ。こころここにあらざる稀薄な雅雪を、ランは咎めない。誇った。そこに、仏間のひさしの翳りに素肌をさらす最愛の男は、あかるい日射しにあばかれた最愛の女の裸身に見蕩れていたにちがいなかったから。ふとランは背すじをのばした。やがて引いた顎の下目に、自分の肢体のうつくしさをそっと確認した。
ランはだれにも充分うつくしい。雅雪はなすべきことを知る。ランは愛されるべきで、肉体さえもそうであるべきだった。ふたつの肉体に、そこになんら飢餓がなかったことは知っている。素足に、雅雪は土と花弁をふんだ。近づいた。至近に、思う存分に肉体に見蕩れた。膝間づき、棘にも想えた翳りの繁茂のうえ、やわらかな彎曲に口づける。
レ・ハンがひさしぶりに着信を入れたとき、雅雪はふたつめのリビングにいた。肌をさらす膝の上、おなじく無防備なランが無防備に頭をだけのせていた。木製の長椅子に横たわるラン。まどろみを咬む須臾もなく、冴えたままそこに憩うた。
「なにしてる?」
スピーカーで、ひびくレ・ハンの声を、しかしランが厭うことも知っている。レ・ハンは雅雪とむつまじい。女よりもうつくしい男の接近を、ランは決して好まない。嫉妬よりも更に辛辣な嫌惡を、ランだけが喉もとの血管にいつものように咥えた。雅雪はそれとなく、その髪をなぜた。…別に、と、そこに雅雪がささやきはじめたときにレ・ハンは、すでに声をたてて笑っていた。
「なに?」
「いつにも増して暇そうだね」
「そうでもない」
雅雪の、日本に於くカフェ・チェーンはもう、実質的なトップたる専務の完全な仕切りに回っていた。雅雪にすべきことは、上納金じみた役員報酬を口座に確認するだけだった。その役割さえ、経理の専門家たるランがやった。実際、雅雪に仕事らしい仕事と言えば、レ・ハンの相手をしてやること、および、ランを愛してやること以外にはない。逢おうよ、そうレ・ハンがささやく。ふいに声をひそめ、不用意な深刻をさらして。
「どうしたの?」
「なに?」
「なんか、あった?」
「なにも。…ただ、」そして、息を吸い込むと、よくとおる特有のカウンター・テナーがひびく。「むしゃぶりつきたいだけ」笑った。ひとり、レ・ハンは。雅雪も。レ・ハンが笑いはじめないうちにもすでに、ただ、レ・ハンのためだけに。「いますぐ抱きしめて体中舐めまわしてしかもおれだけ勝手に失神しちゃいたい」
「好きにしなよ」
「オッケー」おどけるレ・ハン。情熱に噎せ返る故意の声を唐突に醒ます。ふと、「じゃ、」鼻に笑った。「あしたね。…それまで、無茶苦茶強烈な想像のなかでぼろぼろにしといたげる」そしてレ・ハンは一方的に切った。おどろきも不快もない。常だった。そっとランのくちびるが、膝の付け根をからかっていたことに気づいた。レ・ハンの云った月曜日は、もちろんランの出勤日だった。日本がわからないランは、しかし知っている。ふたりのうつくしいけものじみた肉体は、じぶんのベッドのうえでけものじみて戯れるに違いない、と。だから、じぶんの知らない、ちかい未来のいつかに。
夜、だからランは雅雪に抱かれた。求めればいつでも、何度でも愛する。雅雪の腕は、指は、くちびるは、そして舌も。求めるまま、あるいはそれ以上に。その上質な擬態。もとめ、飢え、渇き、焦がれきっているかの情熱の。雅雪はすでに枯渇していた。だから手のひらとくちびるの愛玩用にすぎないそれは、ふれあうそこに空虚ないとおしい暴力をあたえる。いつでも、何時間でもこのうえなくやさしく、このうえなくはげしくいられる技巧上の肉体は、たしかにランのからだの片面を充足させた。歓喜させた。満足だった。残された片面、飢餓と懊悩にだけ燃えあがらせた。はぐくまれるべきものが、急激に枯れはてていく雅雪の肉体をまえに、ただ可能性をどんどん狭めていくのだけが知れた。あせりがあった。じぶんの老いよりはるかに深刻なあせりだった。ランは褐色の肌を、昏がりに息吹かせた。
肉体は、その表現に於きより過剰になっていくしかない。慣れて狎れた質感は、よりふかく、よりあざやかに喜びを事実与え、そして表現させた。肉体のあせりは、もはや針の孔ほどにも想えた可能性を押し開くため、ただそのためにこそひたすらにみだらをきざした。なにが喜びか知れなかった。本当によろこんでいるのか、それさえわからない。混乱と焦燥。だからさらにランを破廉恥にする。たぶん、だれもが淫乱な雌に成り下がったと思うにちがいない。そのランを見れば。憑かれ、とり憑かれ、やがて疲れた肉体に、指も舌もふれられない須臾、だからかたわらには息づかう雅雪の休息。ふと、思う。下卑た雌犬と。下品なあばずれ。飢えた下劣。淫欲に燃えた家畜。たとえば、かつてブッディズムのスートラを教えてくれた僧侶。彼が見たら?あるいはかつての利発すぎる清冽な少女を知る学友たち。彼らが知ったら?または、自分たち。ハン、ラン。血も涙もなく捨てたあの男。彼が、耳にしたら?もはや故意の煽情的。息づかいのみだれ。指に、舌に、うるんだ、しめった、陰湿なノイズ。あの男は苦悩するだろうか?稀れにではあれ、膝の上にのせたあたまを撫ぜた。いやにませていた六歳の少女。あのなれのはてがこれかと。ランは、噓ではない情熱と歓喜のさざめきに、ほんとうに荒れた息を吐きながら、やがてふたたびあの男に、好き放題に苦悶させた。あえぐ。こうべをたれ、のけぞる。だから膝をついて男は股をひろげる。髪を掻きむしる。腰をつきあげる。見た。あの男。その懊悩を、汗。体液。わななき。擬態。真実。失神しかけた頂点の。見れば?ただいとしい雅雪の至近の虹彩をだけ見つめながら。破廉恥な肉体のしたで、雅雪のゆびさきは喉のつけねのかたちを確認した。肌にうるおいの不快を、そして不快へのいとしさを知る。もう何度目にも。汗が垂れ、散る。
ランの家屋の宏大な庭にバイクを侵入させ、レ・ハンは目立つブーゲンビリアの翳りに留めた。すぐに、尻とシートの充分な乖離をまたずに笑った。そこに、月曜日の朝のレ・ハン。九時をまわったばかりだった。タイヤがしろい花弁のいくつかを、知らずに踏みにじっていた。雅雪はレ・ハンがもっと早く来るものと思っていた。仏間に時間をつぶしていた。いつもレ・ハンは、これみよがしに、まだランの在宅の早朝に来るのが常だったから。それで、ランのこころは一気に台無しになる。嫉妬ではない。夫が同性をも愛することなど知っている。異性に関しては、もはやじぶん以外を愛せないことも。だから、嫉妬では。一面の裏切りを、まるで無関係な他人の問題のようにランは赦した。かつ、一面の極端な誠実を、ランは赤裸々に愛した。レ・ハンは子供がうめない。そういうことだった。レ・ハンは生涯の伴侶ではない。たとい生涯つきまとったにしても。ランとは関わりのおもみに於いて、レ・ハン如き嫉妬の対象ではない。ランはただ、レ・ハンを汚らわしく思った。「ランは?」そのレ・ハンは、なんの惡気もなく「どこ?もう行っちゃった?」
「働いてるよ。いまごろ、」…そっか、と。「牛がお散歩する田舎通りの近代的巨大オフィスで?」
雅雪が笑った。ふと、レ・ハンはため息をつく。「会いたかったな。…」と、「ひさしぶりに」そして唐突に、レ・ハンは笑った。レ・ハンに邪気はない。雅雪はそう知っている。ついに、だれをも憎めない人格なのだと。そして噓もない。憎むにも偽るにも、精神はそれなりに持続しなければならない。わずかな粘着もないうつりきなレ・ハンには、如何にしても「…いや、」不可能だった。「どうでもいいんだけど」雅雪のかたわらに座り込み「べつに会いたくもないから」雅雪の笑う声に笑む。鼻孔に、肌の匂いをたしかめた。たしかに、だからそこに雅雪の体臭を思い出す。思い出すとともに、実に鼻は知った。体臭。惡臭とさえ謂うべきだった。どこか、濡れたつちの臭気に限界濃度の砂糖水をぶちまけたような。「雅雪は、」と。いまそこに存在する事象への、あるいは倒錯的な懐古をは匂わせもしないレ・ハンは、「好きだよね…え」
「ん?」
「え」
「え?」
「え」
「なに、…」問いなおしかけ、「絵画…」雅雪はわれに返った。かすかに、めずらしい発音上のささいなミスがあったようにも想われ、しかし、もはや事実は知れない。
「好きでしょ?」
レ・ハンはその須臾の、雅雪の停滞のまだるっこしさを赦す。「嫌いじゃない…」油彩なら、思春期から二十代をとおして雅雪の趣味だった。といって描く技術への固執があったわけではない。見るという、そのことそのものが好きなだけだった。いつか、飽和した。結局はよりよく見、よりよく描くという行為に両立はない。そう知った。描くという行為はつねに或る様式の構築か従属にすぎない。人体さえ切り裂いた見た人レオナルドでさえも、そのタブローはついに様式の追及でしかなかったではないか。技法は見ることを破綻させる。見ることは技法の解体におもむく。絵画はすさまじい矛盾の、一瞬の無視が切り開く錯乱にしか成立しない。…と。
いつだったろう?切っ掛けらしいものを探せば、それはハオ・ランの完成しなかった裸体画の放棄かもしれない。ハオ・ランそのものと決別する間際、知っていた。その、永遠の少女。不死。不滅。久遠の果てまでたもたれつづける、いわばあざむきの十六歳の少女の外貌。しかし、やがて朽ちるしかないカンバスとホルバインに描かれることを、ハオ・ランは喜んだ。…すごい。熱のあるまなざしと、くちびる。それらがささやく。耳元に。…ね?「雅雪は、いま、ぼくを永遠にとらえて、永遠にここに定着させるだね」油彩が褪せるよりはるかにもながく、地上に存在しつづけるはずの生命体。…裸婦。だから、いく千年も十六歳の少女でありつづけた未曽有のハオ・ランの、倒錯としかおもえない裸婦像への情熱を、雅雪はあざやかなおびえのなかに見ていた。ハオ・ランは、そこでもうすぐ発狂して仕舞う兆候を見せた気がして。中断は、しかしハオ・ランの健全をのぞんだからとは言えない。すでに永遠のハオ・ランの、永遠の発狂を受け入れる準備を、ふれえない他人事のようにこころはして仕舞っていたから。聖ヨハネ。と、そう呼ばれる、たぶんデュオニソス神らしき、あの淫蕩。いざないの微笑。ふと、あの汚れにくすんだ色彩を想起させて、レ・ハンがささやく。
「絵、好きだったら、見せたい画家、いる」
レ・ハンとレオナルド様式に、顔貌の具体的な類似は一切ない。
「画家?…生きてる人?」
「死んではいないね」
「逢うの?」
「会うとも言えないね」たわむれに謎めかすレ・ハンの不用意な倦怠を、雅雪はひとり倦んだ。
ことし二十四、五歳になる少年なのだと、レ・ハンが云った。気になった。だから、聞き直す。「少年?」
「…違うね」こだわりのないレ・ハンはてらいもなく訂正した。「あくまで声援」
「青年」
「それ。その少年、とても、とても、綺麗な絵を描く…」
「…って、なに?というか、どんな?」
「知らない」雅雪は笑うしかない。「…そこに、おれは興味ないから」
「じゃ、なんで?」うとましい男、と。
ふと、返り見ざまにレ・ハンは思った。その雅雪に。ななめに日射しが、だからその見つめられた顔にあわい陰影を、しかも複雑にきざむ。そのくせ混乱はない。昏迷も。だから、明晰すぎて調整されきった端正のみ、そこにさらされていたから。翳りさえも、ふれて翳るまま濁りようがないと。たしかにうとましいほど、いまだ魅力的なかたちには違いない。たぶん、年々劣化しつづけている形骸にすぎなかろうが。まばたく。レ・ハンは。
もう亜熱帯の日射しに熟れて、雅雪の肌はあざやかな褐色をさらしていた。ここで褐色の肌は貴ばれない。自然なタンニンのありふれた色彩より、当然希少たるべき白い肌の希少そのものこそ貴ばれる。理の当然として、逆に赤裸々な褐色はむしろ稀有になる。冬のないここで、だいたいが、だからできそこないの白肌をばかりさらす。笑んだ。レ・ハンは。そこに不用意な笑みが、雅雪を戸惑わせるとは気づかずに。ふいに思い出したレ・ハンがささやいた。「…輪廻転生。信じる?」
「生まれ変わり?」
「…そ。信じる?」
見つめた。雅雪は、うつくしいレ・ハンを。人種不詳。故にか年齢さえけむに撒く。だからかどこか抽象的なレ・ハン。彼に片面に於き見蕩れていた。片面に於き疑っていた。その、疑うべくもないうすいほほ笑みの、見蕩れる余地もない冴えた完璧を。たくらみが、笑みに存在した。なにを仕掛けたいのか。ほんのささやかな、あくまで理不尽なその場かぎりの思いつきを以て。
雅雪が、声を立てて笑った。レ・ハンは気にしない。
「信じないけど、…いいよ。信じろと言えば信じないでもない」
「どっち?」
「努力はするよ」
「じゃ、逢おう。彼に。連絡しとくから。ちょっと待ってて。すぐ連絡入れる」と言って、レ・ハンはすぐさまスマホを弄りはじ
めるでもない。
雅雪は気になった。
そして、なによりまぶしかった。
そこ、レ・ハンの頬にすれ違った向こう、離れた土をひからせた日射し。その綺羅の帯。そこにじぶんを舐めていたしろ猫をより発光させていたのが。なにが気にさわったのか、雅雪は知らない。じょうずに曲げて、舌を這わされる手首を見ていた。勝手な陶酔に閉じられた眼。そのすぐわきに。
夕方、帰宅したランは寝室に着替えに入った矢先、ふと、シーツに乱れを見た。なんの乱れという意味も、それはあくまでもあかさない。ふれた。指先に。雅雪が連れこんだ男の肌が匂う気がした。苦悩はない。あきらめもない。ただ、喉のあさみに澱みがある。あたたかい。もっとも、乱れは錯視にすぎなかったかもしれない。事実、朝、すでにシーツはランが乱していた。
ふたつめの、狭いほうのリビングに雅雪がいる。ランは着替えの途中で、思わずそっちへ行った。いまだはかれないままのショート・パンツは右のゆび先がぶらさげているはずだった。ランはそう知っていた。ゆび先は胸元に自由だった。ベッドのうえに忘れられていたから。
いたたまれなかった。ランは。焦燥があった。雅雪のなにに苦悩があるわけでもない。じぶんにも。ランは、じぶんのほほ笑みが完璧であることを口まわりのほのかな筋肉の温度に確認しようとした。
完璧な笑顔だった。だから雅雪は完璧な女性をそこにたしかめた。おそらくは故意のだらしさなが描いたみだらさえ、うつくしかった。そして、いちど気付いてしまえばかくれようなかった衰微をも見た。見蕩れる眼の知らない眼に。
木製の、豪奢な飾り彫りの古い長椅子。いつものようにそこに座り、その雅雪は。ランはだから、いまだしぶといニスの白濁をも見ていた。気づきはしなかった。それら白濁の散乱など。雅雪は、情熱をかくせないランが膝のうえにすわるのを、赦した。まるで若い計算されたふしだらじみて、故意にひろげた大股が雅雪の両脇をふさぐ。拘束。乱雑な。そして頸にすがる腕が、やや調整されたランの体重を感じていた。
さびしかった?
Em buồn
そう、雅雪は謂った。
Tai sao ?
なぜ?
ランは答えた。表情はなかった。すなおに、ランは雅雪がなげかけた謎を謎として悩んでいた。答えは知っていた。暇つぶしの、挨拶じみた常套句。おれにあえなかったから、さびしかったろ?雅雪のくちびるがそう動きはじめる前に、猫背のランはくちびるをふさいだ。たわむれた。くちびるが。情熱を、そっと感じた。だから、ふれたくちびるにだけの情熱を。その情熱に、知った。じぶん自身の情熱を。だから、たわむれた。くちびるが。ふれたくちびるの情熱に。じぶんのたしかな情熱にも。もっと?もっと、情熱をかきたてようと?咬み、咬みつき、咬みちぎるため。ふれた情熱そのものを。フルーツ嫌いの雅雪の好きな例外的な青りんごのように。かじる。咬む。じぶんの咬んだ情熱を。じぶんに咬みついた情熱を。だから、ランは情熱だった。
知っていた。雅雪も情熱だった。鮮明だった。確かだった。噓はなかった。もう、噓と真実ということばさえ無効の、しかもあわい情熱。うるおいを知った。にじみだす。さまざまな孔。ひそかな、無数の開口。夏。ふれあう肌。それらさえ、じぶんのにじませるうるおいに濡れる。濡らす。ふれあうところ。そこだけ。おしつけられたところ。そこも。情熱。そのふれていたところも。たわむれ。肉体の?それは。精神の?なに?…と。雅雪はささやく。聞く。その声を。ランは。いつかうしろに回り込んでいたランが、雅雪を抱く。じぶんより大きな強い肉体を、こどものように。かかえこむように。はがいじめにするように。拘束するように。首筋にくちびるをおしつけた。髪が鎖骨をくすぐった。ランはその繊細ないたぶりに気づかなかった。雅雪はいたぶりの存在さえ知らなかった。雅雪だけが息を吐いた。右の手のひらは、もう、うしろから雅雪の眼をふさいでいた。まなざしはすでに、やわらかでか細い、華奢とやつれのあわいにかたむきかける温度にうばわれた。赦した。雅雪は。だから
夢を見た。夢を
故意の、しかも
見るという自覚も
過剰なみだらに、その
いぶきも
ランは舐めた。わざと
きざしもなく、そこ
このうえもなく
夢に、…なに?
破廉恥をさらして
雪。ふり、…なぜ?
つきだした舌に
ふりそそぎ、しかも
肌を。その
だから雪。しろ
だれのまなざしも
雪?
存在しようもない空間の
雪。あえて
赤裸々な孤立に、ただ
雪。しろ
赤裸々に
雪?
淫靡に。はずかしいほど
雪。にもかかわらず
淫乱に。まるで
雪。しろ
飢えているかのように
雪?
ランは。見た。
花。…と、
知った。受信。
知った。ようやく、
メッセージ。
花。…と、
Zalo。この国の
それは
SNS。それは
花。しろい
タオ。知っている。
花。…なに?
ランは、もう
ブーゲンビリア。しろい
一週間も、だからタオが住んでいる
稀れな
あの祖父ミンの家に
ブーゲンビリアが
雅雪を連れて来ないことを
まえぶれも
恨んで。そして
きざしもなく、そこ
じれて。そして
夢に、…なに?
なじって。ただ、
花。ふり、…なぜ?
慎重に、あくまで慎重に
ふりそそぎ、しかも
なじることばは
だから花。しろ
明言しきらずに。…なに?と、ささやいた雅雪。そのことばのなに?それが、なにをさしているのかはわからない。答えない。ランは。あえて、ではなくて。たんに、答えるという行為自体の忘却。帰ったとき、ただいまのキスの途中に投げ出したままだった。スマート・フォン。そのテーブル。木製。木目とニス。光沢のうえ。何度めかの震え。スマート・フォン。みぎのゆびさき。ためらいながら雅雪の、ややつきだされた顎にふれ、つらなり。フォント。つらなるメッセージ。いやらしい。嫌惡。男の体毛の、かすかな手ざわり。えぐい。…約束が違う。恥知らず。だってラン姉さんは、…きたない。髯。みじめ。みだら。こわい。いたい。髯。…毎日つれてくるって謂った。もう、にくしみ?ふと、ゆびさきが憎惡にまでかたむきかけた瞬間に、くちびるがすべった。…かの、ように、すべらされた。だから、ふれた。その、…妻だから。わたしも、もう、妻だから。つまんだ。わざと、まるで子供がそうするように、だからやや暴力的に、…まだなんですか?厭う。ランは、執拗なタオの短文の集積が、眼にふれることを。十二歳のタオが
雨が。だから
ランを上目に警戒しながら
やさしい雨が
その思いをつげたときに
匂いながら
謂った。こんど
ふる。ふり、
生まれ変わったらね。…じゃ
いやらしい匂い
なに?わたし
なぜ?雨は
いま死んだ方がいい?
あざやかな
ひっぱたかれたタオはその日
あわい
はじめての
うすむらさきいろの
家出をした。そして
その雨は
存命だった実父がようやく
花に、…花?
連れ戻した。実父カンの焦燥。結婚が成立したあと
ブーゲンビリア
十三歳のタオにも
しろい、
十四歳になろうとするタオにも
それは
知れていた。いずれのタオにも
花。しろい
思いは断ちきられていないことを、
花。…なに?
あるいは
ブーゲンビリア。あわい
断ちきる気さえないことを、
あざやかな
ランは、その
うすむらさきいろの
タオ。男を盗み見する
それは
陰湿な、ただ
雨。しろい
思い詰めた残酷な処女の
花に、いま
容赦ない眼に
雨。…なぜ?
すでに、…謂った。三か月前に、タオに、——妻になりたいの?彼の。…そ。いいよ。妻にしてあげる。待って。でも、待って。こどもが生まれるまで。ね?生まれたら、ね?そうしたら、あなたももうひとりの妻として、赦してあげる。繰り返される家出。その何度目かに連れ戻された不良のタオに。ランは見た。そこに歓喜しないタオを。飛び上がって胸に腕を組まないタオを。のけぞって嗚咽をもらさないタオを。恩寵の不意にうしろむきに失神しないタオを。憎惡も殺意も見せないタオを。
タオはただ、そこにしずかに安堵していた。安堵に眼じりがゆるんでいた。しばらくたって、ようやくため息を、喉が漏らした。頬に、誰かに殴打された痕跡のある顔。ゆるんだ目じりにふれかける黝ずみが、ふと、ひとどだけ引き攣った。知っていた。ランは。じぶんがいつか
雨はいろみを
狂気することを。あの
濃くし、濃くして
母のように。ハン。あの
もう、鮮烈な
花を喰い、
紫。くれないに
喰い散らし、苛烈な
あやうくちかづく
ハン。花粉によごれ
紫に、…血?
花汁にぬれ、苛酷な
だれの?
ハン。くちびるを舐める、
その血は
あの、ハン。きたならしい
だれがながして
女のクズのように。ランは
いつにながれて
知ってる。やがて
なぜ?それは
じぶんこそ、また
花。しろい
あの女とおなじ狂気に
花。…なに?
花を穢すのだということを、だから
ブーゲンビリア。あきらかな
躊躇などなかった。すくなくとも
くれないづいた
そのときに
紫色の
タオをじぶんのかたわらに、
それは
ベッドルームにしのばせることを
血。しろい
いまではない未来に
花に、いま
約束する事は、ただ
だれかの血。…なぜ?
タオそのものに対する赤裸々な嫌惡が存在するだけだった。じぶんが狂ったあと、知らない女にうばわれるよりましだった。はるかに。くらぶべくもなく。ランがじぶんで赦しを与えた女だった。その腕にのみ、雅雪が抱かれるならば。
高校の時?もはやランの記憶は曖昧に濁りつつも、学校であらためてDNAシステムについて教えられた時、ふとランは気づいた。なら、狂気も遺伝するにちがいないと。体質の類似が遺伝であり、狂気に神秘性などなく、ただただ肉体にかかわる問題であって、だから、狂気さえ体質にかかわる問題であるはずで、なら、いずれにせよ狂気も遺伝的要因を背景としなければならないではないか。その考えかたに妥当性があるかどうか、ここで問題ない。また差別の問題も知ったことではない。ランにとって、それはひたすら合理的な解に想われた。ランは恐怖しなかった。絶望さえ。わずかにさえ。まして悲嘆など。むしろしずかな恍惚を感じた。じぶんの生涯のかたちが、いまだその全貌など知りようはなくも、占い師如き神秘家のほのめかしなどくらぶべくもない明晰を以て、そこに本当のすがたをだけ赤裸々にしたと思った。
あばかれた。さらけだされた。陶酔を、…だから陶酔。そのことばを甘味のある没我という意に解くなら、どこまでも陶酔をは欠落させた冴えた、冴え切った恍惚こそが、ランをそっとうちふるわせた。
ランはいまだに思い出さない。あの、顔中を、それどころか体中を裂かれた刃物傷に変形された傷痕に、——線虫が皮膚のうちがわに這って、しかもふいの失神に身動きしなくなってしまったかのような…、母。ハン。あの女。狂った女。彼女が顔に、さらされた肌の部分部分に見せた醜惡が、その所以すべてが自分にのみあるのだという事実を。忘却。ラン。完全に忘れていた。親族のしたしい女のそれぞれがが教え諭すようにささやく。それぞれに、そっと、しかもランを気遣いながら、…大切にしてあげなさい、と。やさしくしてあげなさい、と。せめてそばにいてあげなさい、と。だから恐怖。ささやく彼女たちは一様に恐れていた。そのささやきをランにこぼす時には。やがて気づいた。ランは、ささやきの須臾の彼女たちがふいに、まさにランをあやうい危険物としてのみ見出していた事実を。これみよがしにランをいつくしんできた女たち。あれらですら、留保なきおそれのきざしをだけランに、…恐怖。赤裸々に、恐れ。
ランは、だから、やさしい言葉がささやかれる須臾、自由をうばわれた。十六歳?…そのころにはもう、あの花喰いの女のはなしなど、あるいは名前すらささやかれなくなった。歩いて行ける祖父ミンの家。最上階の仏間にいまだ、それとなく隔離されていた花喰いは、遠くはなれたその妹が引き取っていった。あくまで疎遠の妹だった。妹自身の金銭問題が因だった。ランがまだ物心もつかないころの一族の紛争に、ミンはどこまでも無能だった。それを一族は、彼らじしんの自由として享受した。
最後、別れとして引き合わされたとき、ランの眼の前で花喰いはひさしぶりの妹に笑んだ。これみよがしにも笑んだ。そして唾を吐きかけた。唾は妹の、いまだみずみずしさのあやうく残存していたひたいに散った。身じろぎもしなかった。目を伏せさえしなかった。一族は粗暴のハンを咎めない。我が意を得たりと?妹は強靭な笑みの柔和に、時を隔てた処罰を受け入れた。もちろん、ランふくめた一族の軽蔑はかわらない。
ハン。
娘に押し倒されて、ハン。刺されてゆく顔。抉られてゆく顔。裂かれていく顔。だから傷ついてゆく顔。変容していく、顔。その記憶がないランに、花喰いは唐突に傷だらけになった抽象的な欠損物だった。ランには反省のしようもなかった。自己処罰のしようもなかった。呵責も、だからいっさい抱きようがない。
したしみを感じていた。ふいに、唐突に知ったじぶんの赤裸々な狂気の裸像に。ランは。おなじき破綻者としての花喰いの女にも。だからむさぼった。くちびるを。ランは、そこ、木製の長椅子のうえ、あくまでも上品に。雅雪のわきをときに挿み込むふとももに、にじんだ汗は生地に吸い取られた。
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