アラン・ダグラス・D、裸婦 ...for Allan Douglas Davidson;流波 rūpa -97 //冷酷。睫毛の/それら、すこしした/なぜ?沙羅/ふるえていた//06
以下、一部に暴力的あるいは露骨な描写を含みます。ご了承の上、お読みすすめください。
また、たとえ作品を構成する文章として暴力的・破壊的な表現があったとしても、そのような行為を容認ましてや称揚する意図など一切ないことを、ここにお断りしておきます。またもしそうした一部表現によってわずかにでも傷つけてしまったなら、お詫び申し下げる以外にありません。ただ、ここで試みるのはあくまでもそうした行為、事象のあり得べき可能性自体を破壊しようとするものです。
謂く、
ヨハンネス・Bその
くらいひびきが
耳元に、しかも
どうしようもなく遠く
ヨハンネス・Bその
傷みのないまま
目に、しかも
刺さり、抜けない
謂く、
ヨハンネス・Bその
すがった指に
にあわない
存在できる
くらいひびきが
指にだけ
きみに、絶望は
諦めていない
傷みのないまま
咬む
なぜ?
執着にこそは
耳元に、しかもランとわたしたちとの体外受精の試みの、最初の失敗の時もそうだった。すべてにおいてやる気を——生きる気も?なくした、なんの集中力もないただの絶望はランをベッドの上に横たわらせた。二回目もその日、病院から帰って来てからずっと、傷みはランをベッドの上に息づかわせつづけた。わたしには、最初とおなじように落胆のわずかさえめばえなかった。ただ、ランをあやぶんだ。不安だった。おびえが咬みついていた。傷みも。ただ、ランへの。そして容赦ないいとしさ。添い寝してやりながら、まなざしのなかのランへ、ふとした想起の、記憶のランへ、明日を想うこころが望んだラン、または厭うたラン、あるいはかなしんだラン、さらにはそれだけはあってはならないとひとり拒絶に焦燥と懊悩をかさねたラン。あらゆるランに。だから、結局はいとおしさにだけむせ返り、背中を向けたランのそばに横たわる。ときに、腰をなぜる。いたわり。愛撫といたわりの絶望的な差異への絶望。ふれた、かすかに汗ばんだランはもはやいまが何時か
見て
ちぎれる
知らない。眠るべき
ぼくを
裂ける
時間がいつなのか
見て
ちぎれる
知らない。醒めてあるべきときがいつか、いまなにをすべき時間か、なにができるか、すべて曖昧で、そもそもすべて放棄されているにすぎなかった、…倦怠?そう名づけ得はしない、しかも倦怠とだけかろうじて名づけるしかない時間。わたしたちはただ、それぞれに舐める。わたしたちの倦怠をだけ。それぞれに、それぞれのしかたで、それぞれの須臾に、それぞれのなにかに咬みちぎられながら。ランは間歇的な悲痛に泣く。思い出したように。わたしは
べたつきを
醜い
間歇的な不安に
汗ばんだ
おれたちも
息を
頸すじに
世界そのものも
吐く。ランに、かくしとおして。添い寝の腕の中、ランの身体は、脱力していた。赤裸々な無力しかない。猶も残る骨格の厚み。容赦なくそこにランが存在していることを明示し、その存在が消え去れないことをまさに明示し、それさもがもはや傷み。もはや不安。そして無防備にいとおしさを投げた。わたしのささいな身動きが、…たとえば、なに?ひたいへの、慰撫?ささやかな。指先の、…嗚咽。その瞬間、ランは。
すべてが、あなたをいま、傷める。前もそうだった。だから「…ね?」
「なに?」
五か月前の、…ラン。最初の施術の前日、ランは「ひとつ、聞きたい」
「なに?」
そのとき、云った。わたしたちの、「いいの?」
「いいよ」
冒険、と。…準備はいい?そのランは
Are you ready ?
故意にたわむれ、すがりつく耳もと。その声。その息。いぶき。吐く。いたわりとともに撫ぜたような。いつくしみとともにほほ
笑んだような。不安のなかにいとおしんだような。あるいは、ただ祈るように、「…ね?」
「なに?」
笑んでいたラン。そして「いま、だいじょうぶ?」
「なに?」
もちろん、ランを「いいの?」
「いいよ」
腕に抱くわたしも。どうしようもなく、笑む。寺に行った。あくまで民間宗教としてランは敬虔な仏教徒だった。観音菩薩の巨大なしろい像にひざまづいた。わたしを背後にしたがわせて。ふたりでベトナム語の経文を読んだ。まわりにまばらな、同じように祈るひとびとがいた。宗教など嫌惡しているはずのわたしにさえ祈りの
かさつきを
醜い
真摯があった。もちろん、
乾ききった
おれたちも
ただランのためにだけ
くちびるに
世界そのものも
捧げられていた。すがった。ランのしあわせのために。またさまざまな民間信仰。鳩を食べた。湿地の魚を川べりに流した。毎日、ふたりで祈りを捧げた。ベトナム。その異邦の神々にも。ランにとっては、異邦人のわたしと。なにをも「…ね?」
「なに?」
なじる気はない。わたしには。そして「ひとつ、聞きたい」
「なに?」
たぶん、そのランにも。ただ「いいの?」
「いいよ」
ランは今回もまた、しあわせになれなかった。責任はわたしにあるに違いない。そんなこと、分かり切っている。ランも、わたしも。しかも、わたしを離れてランにしあわせはない。愛しているから。たしかに愛しているから。わたしだけを愛しているから。愛し合ってい…愛?なんの意味が?愛?なんの価値が?それでも猶も?愛?しかも猶も?…愛?
それはむしろ「…ね?」
「なに?」
狂気なんじゃないの?…「…ね?」
「なに?」
…と。「だから、…」
「なに?」
まばたきもせずに、「ぼく、…さ」と、その十二歳の少年のくちびるが「ここにいても、さ」うごき、ややかすれた「いいの?」…ちがう、と。そのわたしは頭のなかでそっとささやき。…叫び。その、ささやきは、しかも、さけび。叫び?…ちがう。いま、
叫んでたんだ
陶酔。不用意な
眼の前の
だれ?
糞尿の香気に
雅文にささやくべきは
愛されたいって
陶酔。不用意な
こんな言葉では
裂けていたんだ
鼻毛さえ
なかった。家畜じみた、犠牲者じみた、かよわさを装い、ひよわさに甘えた、こんな言葉では。くちびるが、そしてしかもすこしだけかすれたいたましいだけのふるえる声、…だれ?いまたしかに存在している事実に、…だれ?事象の、だから容赦なくいまそこにある現実に、…だれ?現存に、…だれがいま、ここでささやきここでいま、つぶやきここでいま、傷つきここでいま、泣きそうな目をしているの?なんの
だれ?ぼくって
ケツ舐めますか?
資格があって?なんの
なに?ぼくって
肛門ですか?
権限があって?どのつら
クソ?ぼくって
尻毛もですか?
さげて?…もちろんだよ。そう、雅文の典型的で愚劣で無能で凡庸なくちびるが、「だって、お前は、」典型的で愚劣で無能で凡庸な言葉を「おれの子供じゃないか」ささやくものだと思った。故意に、はっきりと、故意に確信をのみそこに故意にさらして。で、熱い男の抱擁をでも?沈黙。眼の前にその雅文は、すべての言葉を喪失していた。ママもパパも、あいうえおもなにも、その雅文は忘失していたにちがいいない。だから、…失語?
「なんか云ったら?」
失語。わたしたちは
ささやかないで
「…ね?」
すでに、いつも
なにも、そこに
「莫迦なの?」
失語。もっとも
むしろ
「なにも言えないの?」
饒舌であるときにこそ
花々のように
「…親の顔しないでくれる?」
失語。だから
花々。沈黙
「他人じゃない?いま」
轟音のなかに
つぶやかないで
「それ、認めてるよね?いま」
血をながす。その
なにも、そこに
「拒絶してない?いま積極的に。…あんた、さ」
耳が
むしろ
「糞だよね」それははじめてわたしが雅文に吐いた穢い言葉だったにちがいない。だれにも親切な、稀に見る美貌の、利発な少年。知っていた。雅文。そこにかれがたとえ失語に墜ちていたとして、それすなわち拒絶を示したわけではない。愚劣を示したわけではない。放棄を示したわけではない。ただ彼に、そこにあふれかえるささいな感情の微風の厖大が、もはや複雑怪奇につらなりすぎた乱気流のなか、彼じしんをこそ放棄し、放置し、拒絶し、失語していたにすぎなかった。雅文は犠牲者だった。そんなことは知っていた。そこに、彼はいたましかった。もちろんだった。彼は、わたしにその出生を告げて以降も、けっして養育義務を放棄しなかった。わたしのいくどもの暴力事件にも頭を下げた。握りつぶそうとした。わたしの将来のために。現在のために。相手の眼窩に決定的な損傷を与えたときにさえ。わたしがいちども刑事事件の加害者にならなかったのは彼が泥水をすすりつづけたからには違いない。そして、犠牲者によるわたしへの赤裸々な恐怖。憧憬。うつくしい、破壊的なけだもの。少年たちの思春期のこころに突き刺さる危険な棘。わたしはその日以降、ふたたび雅文とまともに会話することはなくひかり。
顧みて、だから
いつでも
ひかり、そそぐ庭に。
そのまなざしが
唐突に
花。…なに?
わたしを認める前に、その
こころは
ブーゲンビリア。
ランは、ひとりでに
気づく
稀れなしろ。
ほほ笑むのだった。…そんな
そして
その、ブーゲンビリア。
それはいつ?…いつの憎しみ?かならずしも雅文に憎しみなど感じたことがあったのだろうか?激怒に似た情熱。ひとめ視野にはいった影にさえ咬みつかれる、そんな憎しみ。そんなものなど。羞恥?…嫌悪?…愛情の裏返し?…単なる破壊欲。…自己破壊衝動、そのゆがんだあらわれのかたち?…なに?…ひかり。
しあわせだったころの?
いつでも
光り、そそぐ庭に。
ラン?…いつ?
知らずに
花。…なに?
…いまも。事実、いかなる
こころは
タイ・サーラ。
痛みが、悲しみが、…ラン。
忘れる
うすもも色にかたむく、しろ。
わたしたちをうちのめしても
そして
その、タイ・サーラ。
わたしたちはしかも暴力?血液型検査のだれにも一致しない結果にふと、わたしが問い詰めるともなく…例外的な事例だと、わたしはそう解釈していたから。わたしは稀な少年だからと。ふと、不意の恍惚。そして矜持。須臾の沈黙。そして…なんと?雅文はなんと?もったいぶった重厚な前置き。しかも、記憶にいっさい残らないからっぽなそれ。すでに知っていた。わたしの出生の詳細を彼がささやきはじめる前には、いま、わたしは越える、と。閾を越えるのだ、と。ほんの数分後にはわたしはだから、いままで見たこともなかった風景の中にひかり。
しあわせだった。その
いつでも
ひかり、そそぐ庭に。
眼の前に微笑む
まぶぶれもなく
花。…なに?
猶もあどけないランが
こころは
沙羅樹の花。
庭の樹木の翳りに
感じる
ひらすらな、しろ。
そっとわたしに
そして
その、沙羅の花。
わたしだけてをふって、その背後の離れた木立のむこうはノイズのむれ。大通り、走るバイクの、貨物の、バス。大型車両に、なにに、かにに、ノイズ。綺羅。木立のさきの切れ目にしかもノイズ。綺羅。わななく轟音。もはや轟音とでもいうしかないノイズ。綺羅。わななきつづけて、その綺羅は…河。ハン河がとおくにさらしていた綺羅の明滅。とめどもない暴力衝動。その加速。それはその告白が結果したものだとは想えない。…わたしの本性?ただ破壊し、破壊のために破壊し、じぶん自身さえも…いや。生き延びた。わたしは。清雪も、春奈も、葉子も、雅文もそれぞれがそれぞれの破滅を見せつけたかたわら、わたしはひとりでひかり。
ブーゲンビリアの
見上げれば
ひかり、そそぐ庭に。
花も色葉も
ラン。樹木のしたに
花。…いくつもの
しろくゆれてた
見上げれば
花さく花の
ゆれる翳り
光り。ゆれ
花ざかりの庭に
タイ・サーラの
そっと、その頸を
その、あなたがほほ笑みから
にじんだしろも
さわぐ翳りに
わたしも、そっと
そっとゆらいだ
かたむけてみたら
微笑もう。ただ
ゆれる翳り
光り。ゆれ
あなたのために
沙羅の花の
木漏れ日は——男。ひとりの男がいた。名は壬生雅文。壬生の本家から分家。小学校教諭。雅文はあくまでも異端だった。たぶん。教師などにじぶんからなろうとしたのは、彼以外にはいなかった。あの、不動産事業で潤った親族のなかでは。モーツァルト。バッハ。マイセン。アール・デコ。ミュシャ。ロートレック。バッハ…の、カンタータとパッション以外のくそおもしろくもない手すさびの群れ。モネ。マネ。ドガ。フェルメール。修復前の最後の審判…作家の知ったことではない汚れのえがいた昏い情念。しょせん架空の他人の恐怖。ルキノ・ヴィスコンティ。ジークムント・ワグナーの演出。クナッパーツブッシュ。鍵盤の獅子王。それら。基本ヨーロッパかぶれの日本人の一例にすぎない彼等の好みの中で、雅文は理論系の仏教を他人の東洋思想として尊重した。慈善家だった。優秀な教師と言われた。ときに戦後直後の生まれに相応しい?体罰にその手のひらを染めたにしても。じぶんの息子…と、かれが認知したうつくしい少年に手を上げることなどなかったから、雅文の「殴る手の方が痛いまごころの」体罰はただ、他人の子供たちの他人の側頭部とケツのためにあった。宮島に赴任した。その経緯は知らない。宮島に或る女がいた。その母親は死んでいた。そうだれもが認識していた。詳細は雅文にはわからない。母親の墓参りの風習は、なぜか彼らにはない。父親が女をひとりで育てた。女の名は葉子、父親の名を、雅文はついにあかさなかった。伏せた?言い忘れただけ?謂う程の価値もないと?わたしはいちいち問いたださなかった。葉子は島の精神医療施設に通院していた。厳島偕楽園という名。島民なら誰もが知っている。慈善の象徴。および差別の対象。沙羅寺院という寺がある。老いぼれの住職がひとりと若くはない見習い沙門がひとりいた。真言宗のふるい寺。そこの沙門が雅文と知り合わせた。それに、だれも他意はない。ふたりは西光という名の文化人きどりの沙門のもとで生け花をならっていただけだったから。ふたり以外にも十人ばかり。無償の所謂カルチャースクールのようなもの。雅文は葉子に精神疾患があるとは思わなかった。島の人間が葉子とたもちつづけた一定の距離。あえて排斥の意図をさらすわけではなく、あくまで稀薄に。雅文は垣間見ていた。女たちの嫉妬と羨望を。その故のあわく昏い虐待を。赤裸々な同情とひそかな義憤が雅文を葉子にしたしませた。沙門西光は、それを赦した。称賛をしのばせ。変わり者で知られた住職はあざ笑った。女がすきか?花がすきか?花は女か、女は花か?…と。雅文は無視した。葉子は聞こえないふりをした。いずれにせよ三十過ぎて独身を守った雅文を、しかも狂わせかかるほどには葉子はうつくしかった。清楚だった。可憐だった。しかも瀟洒が匂った。はかなげだった。そんな言葉を連発させるうつくしさを、うっとうしいほどにそこに葉子はさらしていた。まるで、わたしをその時代の女にしたように。だから、わたしはその時代に彼女を、男にしたように見えた。たぶん、島の人間たちには。雅文は血縁関係などなにもない、しかも稀れに見る相似にあるいは他人の罪の現存をのみ見出していたのだろうか?あるいは、宿命としてでも
?葉子の父親が死んだのを、やがて雅文は知った。葉子を初めて見た春がすぎ、もう一度春が廻りかけた頃だった。その寒空、葉子の稀れな不在を活け花に見た雅文は沙門に問うた。…なにか、あったんですか?故に、実は、…と。そこに沙門は葉子の父親の自殺を語ったに違いない。帰り、雅文は葉子の家に行った。日曜日。花を慎重に切り殺し、剣山に射し殺し、だから生き殺しの花々の茎を新鮮でそして清潔な真水につけ、自分の趣味だけを満足させてみたあとで。昼下がり?夕方?夜?知らない。慰問の客はほとんどいない。葉子が、あるいは親族たちにその手落ちを責められているものだと思った。父親を自殺させたあまりに至らない無能なひとりむすめ。もしくは自殺に追い込んだ莫迦娘。勝手な憶測と断定と断罪の濡れ衣を着せられた、葉子をそこにひとり見た。周囲の家の女たちに手伝われていた。一応の質素な通夜の時間は、稀薄な憐れみのなかに流れた。葉子は意外なほど普通だった。前の週に別れたときと変わらない。なにがあったともない。その葉子に違和を感じた。女たちはやがて、自分たちの食事の準備に一時帰宅を口々につげていった。稀薄。稀薄な軽蔑。稀薄な排斥。稀薄な同情。稀薄な憐憫。繊細に取り繕われすぎたやさしさの気配。それぞれの数時間の帰宅に、やがて部外者は誰もいなくなった。家屋に、ひとりのこされた部外者、雅文のまなざしは知った。あらためて、葬儀がおちついてだれも来なくなった時の葉子の孤独と孤立を。そのいたましさ。葉子をすくうためには、葉子の寂寥を見つめるまなざしの、そのなかには姿がない見つめる男そのものが、ふとそのかたわらにあらわれてやるしかない。そしてよりそってやるしかない。雅文がなにか言いかけた。あるいは、葉子が何か言いかけた。日本間の畳のうえ。父親の枕許に正座する葉子はふと泣き崩れた。背筋をのばしきったままに。頸からうえだけが、唐突な慟哭に歪んだ。わなないた。くずれかけた。痙攣した。もはや清楚も典雅もなにもない破滅だけさらされた。雅文は見た。そこに。あわれ、と?むごい、と?いたましい、と?そこにわたしは姿を表さなければならない、と、そう雅文が閾を越えた須臾はいつだったのか。ともかくふたりは半年後の秋、結婚した。沙門を仲介人にたてた。沙門は自嘲にたわむれて云った。坊主がふたりの旅立ちに顔をだすのは、ただただはしたないだけだけれどもね。葬式いがいに用のない沙門がそこに存在することに、ひとびとは不吉をのみ感じるべきだった。雅文は、壬生の一族に許可を取らなかった。田舎の、身をあかしようもない女を貰うということに。ただ通達しただけだった。その反応がどんなものだったかわたしは知らない。壬生の親父たちがわたしに見せた関心の稀薄、相反する執拗な監視。ここぞというときに見せた束縛の苛烈。あるいはそのときの経緯に起因していたのか。遠因していたのか。もっとも、わたしの素行もひどかった。十六歳。あの、家出にさまよっていたわたしを探し出した壬生。彼らによる拉致と監禁。そのときまでわたしは壬生の一族など見たことがなかった。だが、群衆のなかに見分けられるほどには、壬生たちはわたしを知っていた。歌舞伎町でいきなり男数人に羽交い絞めにされた。殴られた。挙句縛られた。車で麻布の壬生本邸に連れこまれた。あのときに引き合わされた壬生の親父。あまりの冷淡。と、根拠のない自尊。雅文と葉子の婚姻は成功だったように見えた。ふたりはおしどり夫婦として有名だった。かたわらに雅文がいることによって、葉子への島民の緩和があった。排斥と憐憫の矛盾の、しかもいっさい矛盾の気づかれなかった矛盾。そのかたほうだけがくずれかけていた。いまや雅文は尊敬を受けた。孤独な、こころに疾患のある女。しかも身寄りがない。それをあえて身に引き入れた善意の男。噂では関東の資産家の息子だそうだ。葉子はきよらかな庇護者にまもられて幸福をひとり生きる、ついに恩寵に報われた姫君だった。その実情は知らない。とまれ葉子は子供をうまなかった。孕めなかったのか、孕ませられなかったのかは知らない。こどものない寂寥さえ、島の人々は愛でた。瘤取り爺さんだろうが花咲か爺さんだろうが子種なしではないか。善人の、あまりにもやさしい故のささいないたましい欠損、と?十年ちかくすぎた。ある日、帰ってきた雅文はふと慣れない匂いを嗅いだ。なんの匂いとも思いつかなった。玄関にも居間にも葉子のすがたはない。とりたてて家事をする能力もなかった葉子が居間に暇を潰していないわけもなかった。しかも音があった。洗濯機の音だった。音がするなら、洗濯機が回っている事実があるに違いない。雅文は放置した。不在の葉子の所在。思い当たるのは寝室以外にない。そのまま二階に上がった。二階の窓、ちょうど神社の鳥居が見える。朝の、いまだ海に沈んでいる鳥居が、雅文は気に入った。だからそこを購入し、一番の部屋を葉子に与えた。部屋の戸は半ば開いていた。いてもいなくても葉子がドアを閉め切ることはない。執拗に窓の開閉にだけは固有のこだわりを見せながら。ひらいていた戸の隙間。そこに、容赦ない違和が存在していた。それだけが見えた。匂いの正体は、洗濯機に廻されていたものが染ませたものだったのか。それともそこにやすらぐ貪欲なものだったのか。葉子の腕に乳児がいた。未熟児に見えた。なぜか葉子は全裸に乳首をくわえさせ、顔をあげた。見せた。こころに咬みつく不審。そして不安。そして焦燥。翳る。——変なの。ささやいた。葉子が。ここに乳をむさぼる未熟児のがいてよいはずがなかった。ここにむさぼられる葉子がいてよいはずがなかった。受胎告知か、黄金の沙門が口から飛び込んだか。それにしても胎をふくらませないいきなりに、乳児が存在していいわけがなかった。…なに?
「おっぱい、でないの」
お前の?
「どうしよう?」
誰の?…それ、
「なんで?…どうしよう?…この子」
どこの?
「死んじゃう。…助けて」…なんの理解も得られなかった。雅文は沙羅樹院を尋ねた。いちばんちかくの、いちばん信頼する人が、沙門だったから。あるいは、かれ以外には「…見てみて」いなかった。同じ「なんか、もう」よそ者で、「ここ極楽なんかのうと、そんな」緊急の事態に「…見てみて」寄り添い得る可能性があるのは。その「笑ってるんじゃないん?」沙門。なぜか、法衣に甘い香水の匂いをいつでも香らせる、不穏な坊主。同性愛者とそれは「どう思う?」噂だけ?…って、「なにが、ですか」
「この子、どこの子?」雅文は見る。ふいにそうささやいた沙門。讃嘆と不審の思いの共存。すぐさまに沙門は狡猾に、あることないこと口八丁に哺乳瓶とミルクを買い付けた。雅文連れに葉子のもとにたどりつき、気づかいのある歓喜と愛。そしてその故の愚昧の気配。丁寧にさらされた愚かしいばかりの慈愛。飢えた未熟児に哺乳瓶を咥えさせた、その、沙門西光。…このずる剝けあたまになるまでに、な?と。沙門の「まとも人生、わたし」肩越しには「歩いてないよってな」可憐。充足した未熟児。もはや雅文の目はただ健康をしか見ない。可憐な葉子はただ満足していた。そしてただ幸福に見えた。いつのまにか、まなざしがそこに、この幸福があることこそが事実だったと錯視しはじめた須臾、「…奪って来たの?」
耳打ちの沙門の声に、その返り見た雅文。冴えた冷淡をだけ見た。自分たちにとってあくまでかかわりのない他人の悲劇を見てるかの。その自分にはすでに雅文までが取り込まれ、「…可能ですか?」
「奪うのが?」
「病院から?」
「生まれたばかりの子じゃないの?」
「じゃ、…」
「葉子さん」と、沙門走西光はおもむろに葉子にささやく。「なんで、秘密にしてたの?」笑んだ。なにごともない。なんのほのめかしもない。秘めたこころの企みが漏れる隙き間も。葉子はなにを問われているのか、気づかない。
「いつ、生んだのよ」
「この子?」
「いつ?」
「さずかったんです。もう、だって」
「だれに?」
「欲しかったから…」葉子はそっとわたしを見やりかける。まあざしが、わたしを知る寸前には羞じ、そらした。「…欲しがってた。…だから」
「祈ってた?」
「さずかったんですよ」
「だれに?…」その時に、沙門西光のよく知り、雅文の知らないある苗字を、葉子は出した。名前で、沙門が確認した。沙門は、それでも猶も動き出さない。もう夜がふけた。月が高くなりかけた。そんなころにまで時間をつぶした。うまれたての母親葉子をいたわった。うまれたての名もない未熟児を可愛がった。未熟児は落ち着いていた。眠りを貪った。即席の寝台さえ、沙門が用意した。…じゃあ、っと、…と。
「あなた、」返り見て雅文に、葉子の告げた苗字を云った。「…さんに、挨拶、まだ?」雅文はまどう。雅文をは捨て置く。「…さんとこ、」葉子に「ふたりで行ってくるわ」沙門はそう云った。葉子は素直に頬に羞恥をさらしていた。行きの山道。降りのぼりしながらふたりの男たちが、道になにを話したのかわたしは知らない。とまれその苗字の家の門をくぐった。家屋の中に照明はつけられていない。山のふもとから中腹までつづく飛び飛びの家屋の集合。その一番うえのそこ。月のひかりだけが鮮明にあかい
。しかも、ふれて照らしてあかるませる。夜にふたりの目は狎れていた。まあたらしい新築の家屋だった。庭の植林さえも若い。車がある。昏さ以外になんの不穏もない。昏さの不穏だけが、雅文には手の施しようもない赤裸々な不安の巨大な開口に見えた。声をかける前に沙門は引き戸を引いた。抵抗はなかった。だからすぐに空く。沙門が雅文を見た。雅文は沙門の焦燥を見た。眉間。いまだ見たこともなかった沙門西光だった。沙門は玄関口に入って、慎重に声を立てた。周囲を憚ったのか。呼び出しの声。二度。三度。返答はない。雅文の目が、ふと草履を脱ぎかけしかも、思い直して土足にあがりなおす沙門をあやしむ。雅文は沙門のするにしたがう。沙門はここに顔をのぞかせ、そこにのぞかせ、照明もつかないくら闇、いきものの気配をさがした。部屋に、その慎重な眼は見捨てかけた須臾、思い直した。見止めた。そこ。その男。惨殺死体。もちろんその時にはそれが凄惨を見せているとまでは知らなかっただろう。いきなりの俊敏に、照明をさぐる沙門。そのゆびさき。絶句。照らし出されたものに。雅文は。沙門も。かつて自嘲して曰く、修羅場という修羅場ならたいがいとおりぬけた、と。その沙門さえも。射し傷だらけだった。詳細を、雅文はもちろん語らない。ただ、全身、とだけ。言い淀んだ喉に、やがて包丁で、と。その二言だけ。忌まれたことばを忌むことがまさに、わたしにより過剰な酸鼻を想わせた事実に気づかないままに。さらにのぞき、のぞき、のぞき見る焦燥のち、以前に顔をだけ突っ込んで引いた台所、ようやく見つけた。向けの女。その容赦ない亡骸。確認するまでもない。ひと目で屍と。女は胎を裂かれていた。…ここから、か。沙門がつぶやいた。それのを雅文は覚えていた。いつまでも。「ここから、引きずり出したんか」
「どうする?」沙門のささやく声が、繰り返されつづけていたことにやがて、雅文は気づいた。そのささやきはかたわらの雅文をあくまで返り見ない。気づいたのちにも、さらに幾度かのくりかえさせた。ふいに、「…って、なにをですか?」
「このひと、たぶん、臨月だったよ」
「臨月?」
「…さん、知らない?——か。あなたが来なくなってから、それから島に…だから、活け花に、な?…だから島、来て、それから寺、来て、黒田の紹介か?で、お花、来られるようになって、だから、知らないか。葉子さんと仲良かったけな?…そんな印象はないんだけれども、」と、京都ふうの?あるいはもっと北の方にも想えた、なんら素性をあかさない微妙なみだれのふし。沙門はいつもどおりに声を立てる。「じゃ、」と。雅文が言いかける須臾、「このひとのそこから、引きずり出したのよ。…あの」
「あの子…」
「抱いてられた子」沙門はいつまでも、通報しようというそぶりを見せない。放置するでもない。思考停止の愚鈍など、まして。もの想いに想いふかめふかく思い返しまた想いはりめぐらす途切れ途切れの、提案とも述懐とも憐憫ともつかないちぎれた言葉。雅文は耳に聞いた。聞きつづけ、しかももはや聞いた先から忘れられる。沙門がついに返り見て、そして雅文に云った。「とりあえず、見なかったことにしょう」
「いや。この、…いや、犯罪でしょう?」
「もちろん」
「それって、だから共謀しろと?」
「考えてみられ。ここに、死んだものがいる。な?死んだもん救うのは生きてるわたしらの仕事じゃない。死んだ者は死んだ者にまかせるしかなかろ。それでなきゃ宗教の神様か仏様によ」
「あなた、住職じゃない?」
「生きとるものを考えよう。それしかできんから。かたや、しょうしょう頭に問題あってもいま、しあわせな生きた女よ。かたほう、死屍よ。蛆と蠅の餌よ。どう思う?守るのはどっち?しかも生きた女の腕にこれからしあわせになるべきいのちの無垢がある。どう思う?守るのはどっち?どっちのしあわせ?死者のかたもって、なにもできんくせなんにもせんかったくせ、なんかしたふりだけして、女ひとり不幸にし、無垢な子ひとり不幸にししかも将来ゆがめちゃる…どうする?いま生きてるもの取るか?もういなんものに、すじとおして勝手にひとりよろこんどくか?」
「見殺しにしろと?」
「だれを?」
「だから、この臨月の…」
「見殺し?」沙門が、そしてことさらに声をひそめて「見もなにも、実際に」ささやいた。「もう殺されてるじゃないかい。殺されてるもん、いまさら見殺しにも半殺しにもできるもんかい…」胸に手をあわせながら。雅文は生きたものを選んだ。その場で沙門は思案した。岡山にある信頼できる人物がいる、と。厳島偕楽園の姉妹施設たる芳井偕楽園の女園長である、と。彼女のもとに一時、この子を預けようと思うが如何に?雅文には是非の思案の隙もない。また謂く、朝一番の船で本土に行く。あの子を連れて。葉子が抵抗するなら一緒に連れて行こうか。頃合いを見て、あんたが引き取って、島のやつにはある事情のある孤児をあずかったとでもいえばいい。…いや、わたしに周旋してもらったとでも。「この人たちは」
「冬でしょ?…においするまで、いくらもある。…バイク、中に入れとくか?」
「いや、どっからどうかんがえてもおかしいでしょ?いきなり夫婦一組」
「つきあいないじゃない?だれとも。ちがうか?って、知らないんよね。…ないから。あんたも、このひとらと。つきあいが。島のひとら、冷淡なもん。勝手に思うよ。嫁さん臨月じゃったね。じゃから本土帰ったんじゃないんかと。ええ病院、入れたりぃにな?」
「男の方、はたらいてんるんじゃ、」
「見なかった?」
「なに?」
「このひとの、旦那さん、絵描きだもん。…あったよ。その、あのひと、くた、…な、く、なってたところに。絵。…あそこ、アトリエ。先々週か?…お花、とうぶん休むと、詫び、みんなの前で云ってられたしな…出産ちかいから、と」葉子は沙門の深夜の提案に抗わなかった。罪の意識をまったく意識しない葉子は、だからまるで別世界にいた。ただ無垢なひとのように見えた。雅文にも沙門にも素直だった。沙門は云った。さずかりもの稀有の子だから、本土の偉い坊さんの所に行って一回、お祝いの法要してやりたいから、と。その架空を感謝した。もはやこの世界に加害者の息吹も虐待者のいぶきも見ない幸福な女は、この次元、この世界のなかに、かえすがえすも未熟児を頼み、恋いすがりながら、空の明けるまえに沙門とその子を見送った。沙門と、わたしを。謂く、
まよいもなく
風。風がゆれ
まどいもなく
女。まばたく
いい?いい?いい?
しあわせになって
ひとり、ひとりだけ
しあわせでいていい?
謂く、
いい?いい?いい?
ばかだな。いい
いいよ。もう
いいね
しあわせになって
いいから
いい。いいんだ
いいじゃない
ひとり、ひとりだけ
ばか。いい
いいよ。もう
すごく、いい
しあわせでいていい?
ささやきつづけた
耳元で
お前のせいで
すべて壊れた
聞きつづけた
見開いて
開けた口蓋で
母はつぶやいた
ふれるのもやだ
穢すぎて
莫迦すぎて
死んで。豚
能なしなんだ
咥えるだけで
しゃぶるだけで
孕んだ?まだ?
殴ってやろうか?
そこにいぶいて
そこにきざして
危なくなったら
蹴ってやろうか?
お前が、なぜ?
こんないまが、なぜ?
お前が壊した
いなくなればいい?
見えなくなればいい?
見なくていいよ
暗闇をあげるよ
謂く、
いなくなればいい?
だれの?
いたい。すこし
わたし?
見えなくなればいい?
ゆび、だれの?
いたいですが
爪、だれが?
見なくていいよ
わたし?
だいじょうぶ。いっ
だれ?
暗闇をあげるよ
猶予もなく
葉。木の葉がゆれ
ためらいなく
女。まばたく
いい?いい?いい?
しあわせになって
ひとり、ひとりだけ
しあわせでいていい?
謂く、
いい?いい?いい?
ばかだな。いい
いいよ。もう
いいね
しあわせになって
いいから
いい。いいんだ
いいじゃない
ひとり、ひとりだけ
ばか。いい
いいよ。もう
すごく、いい
しあわせでいていい?
わめきつづけた
耳元で
怯えないで
だいじょうぶだから
聞きつづけた
鼻が開いて
ちぢんだ口蓋で
彼はつぶやいた
きれい。お前は
きれいすぎて
かわいらしすぎて
いじらしかった
惡くなんだ
だれも、すこしだけ
複雑なだけで
芽生えた?まだ?
殴ってやろうか?
そこにほのめいて
そこに目覚めて
危なくなったら
蹴ってやろうか?
笑って、なぜ?
怖くないでしょ、なぜ?
まさにお前はきれいだから
いなくなればいい?
やれなくなればいい?
やらくていいよ
静寂をあげるよ
謂く、
いなくなればいい?
だれの?
あつい。すこし
わたし?
やれなくなればいい?
息、だれの?
あついですが
汗、だれが?
やらくていいよ
わたし?
だいじょうぶぁっ
だれ?
静寂をあげるよ
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