アラン・ダグラス・D、裸婦 ...for Allan Douglas Davidson;流波 rūpa -38 //沙羅。だから/その唐突な/あなたの目覚めに/ふれていたのだ//04





以下、一部に暴力的あるいは露骨な描写を含みます。ご了承の上、お読みすすめください。

また、たとえ作品を構成する文章として暴力的・破壊的な表現があったとしても、そのような行為を容認ましてや称揚する意図など一切ないことを、ここにお断りしておきます。またもしそうした一部表現によってわずかにでも傷つけてしまったなら、お詫び申し下げる以外にありません。ただ、ここで試みるのはあくまでもそうした行為、事象のあり得べき可能性自体を破壊しようとするものです。





謂く、

   傷みなど

   きみが壊れた

   その須臾は見た

   すでに


   おののきなど

   きみが燃え尽きた

   その須臾は見た

   すでに

謂く、

   傷みなど

      恐怖。まるで

    耳孔に

     生きてたね

   もう壊れていた

      つき刺さるような

    そそいであげよう

     また、出逢えたね

   おののきなど

      戦慄。まるで

    熱湯を

     生きてたね

   もう燃え尽きていた女は、顔をそむけていなかった。失神していたわけでも。それに、気づいた。もう、こちらに顔は向けられていた。褐色は翳る。だから、その顔が救いようもなく翳る。翳り。眼が、

   月に。下弦の

      花まみれ

見ひらかれていた。わたしたちを

   月に、獏を

      まみれ

見ているにちがいなかった。ブルー。その、

   獏を放て

      花ちらし

虹彩は、

   餓えた獏

      ちらし

ブルー。そして

   月の下弦に

      花汁まみれ

容赦ない凄惨。息を飲んでいた。わたしは。絶望さえしていた。なぜ?口をおさえた。

「びっくりした?」

笑う。レ・ハン。返り見た、レ・ハン。わたしにだけねじられた頸。耳の、そのくちびるがふれそうな至近に、ささやいた。名前を。末尾のせりあがりかけた唇。たしか。タン?…タイ?…ター?聞きとれなかった。だからわたしには名前さえない女にすぎなかった。その容赦ない悲惨は。理解した。レ・ハンの声の、やさしいひびきのやさしさだけを。ブルーの眼は、奇妙なまでに

   爛れた花が

      ね?ほら

わたしたちに、じぶんが

   花汁を

      見つめていいよ

見つめられてある実感を

   爛れた花弁に

      はずかしいくらい

あたえない。知れた。壊れてるんだ、と。

   花汁を

      見つめてていいよ

死んでる、死んだ眼なんだ、と。瞳孔は

   爛れた蕊に

      ね?ほらきみの

無意味に伸縮を

   爛れた粉を

      目があるうちに

くりかえす。遠慮もないレ・ハンは、ドアをあけると迷いなく侵入したのだった。ずかずかと。そのまま女のかたわらにまで接近し、見下ろし、至近に笑った。その声。返り見た。わたしを。わたしにも、そこにあかるい、無邪気なレ・ハン。「元気?」日本語で言った。褐色の女に。ほくそ笑んでいた。レ・ハンは。女がそのままの姿勢で言葉を発した。声はたしかに

   ささやけ

      なんですか?

聞こえた。なめらかな

   まるで叫び

      わたしの額に

声。若干の

   叫ぶように

      触手が、ほら

ひびわれ。それが甘さをより

   わめけ

      ゆらいでいます

きわだてる。夢のような、

   まるでささ

      なんですか?

美声。たしかに。如何にぶざまに肉体をさらしていようとも。例えば録音されたリリー・クラウス。ピアノ。あの、中音のニュアンス。あたたかですこしふしだらな夢の、清潔な午後。くらべれば、レ・ハンの声さえポリーニの気配を感じざるを得ない。しかし、極度に濫用される濁音。わたしは彼女が聞き慣れない方言を使ってるのだと、勝手に思った。レ・ハンの日本語は最初の一語だけ。あとは現地の、…戯れ?レ・ハンの、わたしへの。そうだったのだろう。レ・ハンはわたしを見つめたまま、一方的にサイゴンなまりのベトナム語で話しかけた。女は会話を対応させる気がない。だから、かぶりあう会話に音声がポリリズムにゆらめく。振り返りざま、「…どう?」レ・ハンは笑いかけた。答えた。「やりすてられた女について?」と。甲高い笑い声を、わたしは聞いた。レ・ハン。無邪気な惡意。あるいは

   雨がふった

      やさしい温度

惡意なき

   汚物の雨が

      肌に、ひかり

辛辣。好きにしていいよ、と。「ね?」そして「この子」その日、レ・ハンは「好きにしちゃって」ふと、そう云ったのだった。正義と背徳の区別にいっさいの興味をしめさないレ・ハン。そのくせ海辺で朝、禪に興じて喜ぶレ・ハン。資産家のレ・ハン。もっともっと若いころ、この国の、おもに山間部の貧困層の女たちを売りさばいた。人身売買。汚れた金。その顧客の国籍は言わずもがな。いくつもの王朝を築いては崩壊させた、そんな巨大な北東の国。いまは、つるんだ下僕たちがミャンマーとラオスにまで出向く。それ以外にもなにかやっているにはちがいない。興味はない。わたしには。彼は、だからわたしにとってはただうつくしい、絶望的なまでに不埒な、ひとりの、三十代の男にすぎない。出逢った頃には、レ・ハンは

   去ったんだ!

      あたたかすぎて

二十代半ばだった。中国語が

   流れ去った!

      ねむいほどです

話せた。日本語も、フランス語、そして

   消え去ったんだ!

      ですでです

ポルトガル語となぜかサンスクリット、ラテン語。そして英語はアイ、ラブ、ユーと四文字言葉しか話せない。好きにしろって、さ、…「かわういそうな子なんだ。この子」

「だから、面倒見ろって?」

「そんな気ないでしょ?あなたには。すがって頼って乞い願っても。いがいに冷淡だから、さ。…なんで?しかも、女になんか、…暇つぶしにはなるでしょ?」レ・ハンは、そして手のひらに、スペア・キーを一本だけ握らせた。その女。

四つん這い。頸だけを

   叫ばないで

      花粉に

ねじり、どう考えても

   耳のうしろで

      その色彩に

楽な姿勢ではないはずの、

   絶叫しないで

      その匂いに

なぜ?それでも猶、

   気絶しますよ

      ほら、まみれたままに

さらしつづけた

   きみににぎられた

      蝶たちが

臀部に、ななめにひかりが

   ふいの百合の花

      落ちた

ふれる。流れるように。

   うすむらさきいろの

      みなもに波紋は

すべるように。

   百合の花束

      極彩色の

纏われた帯びのように。…この部屋、ね?レ・ハンが「なに?」ささやく。いつか回り込んだわたしの背後、「眺め、いいでしょ?」耳元。息。温度。わずかな臭気。もはや後ろから抱きすくめるにも似せ、それとない誘惑のレ・ハン。「海、…好き?」

「きれいだね、…」

「好き?」

「きれい、…」ささやくわたしの耳を、唐突なくちびるが咬んだ。やさしく歯をあてて。その

   やらしく、さ

      塵さえも

男…女?ハオ・ランと呼ばれた

   すっげぇ、すっげぇ

      ななめのひかりに

彼、…彼女?が、すくなくとも

   クソやらしく、さ

      綺羅めいたから

十六歳前後の

   めっちゃ、めっちゃくそ

      ぼくは忘れる

少女の肉体をもっていたことは

   マジやらしく、さ

      ささやかれるべ

事実だった。年齢はあくまでも不詳。厖大な知性を、しかも無造作に持てあまし、それをなにつかうというそぶりもない。ただただ無駄な浪費。濫費。時間などいくらでもある。ハオ・ランにだけは。たぶんこころは間違いなく男性のそれだった。ハオ・ラン。十八歳のわたしがハオ・ランに魅了され、こころから愛したとおなじように、ハオ・ランもわたしを愛した。永遠の、残酷な美少女…少年?いたずらな「なんでなんだろう?」ハオ・ラン。「なに?」

「ぜったいに眞砂は」と、なぜかかならず苗字のほうでわたしを呼び、「好きって言わない」

「海?」

ハオ・ランがその、気紛れな六月に白浜に取ったホテルの部屋。その窓。より添い、ふたりだけで見ていた。わたしたちは。だから海。海など…眼の前に赤裸々に綺羅めく日本の梅雨の雨のなかの海。見つめられながら、海など…綺羅。綺羅たち。無際限の綺羅。散乱。ただ、…生滅。しかもすでに色褪せた。やさしい雨。白濁した風景のやわらかなしろに。色彩は、しかしそれらじしんをいや濃く、きわだたせていた。雨の風景。そのいつもの矛盾。解消不能の、しかも見なれたしかし、色彩。存在しない。海の色彩。それをたしかに見たものなど。不断の明滅。つきない消滅。しかも生起の無際限。繰り返し、繰り返されつづけ、見ても見飽きていてさえ、海の色を見たまなざしなどない。残酷な

   詩人たちが

      凡庸なのだ

色彩。いま、

   華美な、あまりに

      永遠とは

しろを基調にした

   質素な

      平凡なのだ

すさまじい数の、色彩なすものたちの

   噓に舌を

      無限とは

横溢。

   咬みちぎったら

      ほら

ざわめき。

   きみの頬に

      滑走。蛇が

とめどもない

   口づけるだろう

      ぼくの小指に

さわぎだち。後ろから、小柄で華奢なハオ・ランはわたしを抱きすくめたまま、なぜ?笑った。そっと、なに?声をたてて、「トラウマとか、あったりして」

笑った須臾、息も声も乱して、そこに微細なすさみ。ハオ・ラン。ささやき。たしかにそのとき、もうすこしなにか、せめてもうすこしだけ意味ありげな会話をわたしたちの喉はかさねたはずだが、やがて振り向きざまのわたしの唇が、そのはかなすぎるくちびるをうばうのをハオ・ランは拒否しない。あらがいなど。受け入れも、みずからむさぼりはじめもせず、まして身を任すなど。ハオ・ランにとって、思うにわたしとのふれあいは一種の

   かさなり

      なに?それは

同性愛だった。同性愛の名は、しかも

   かさなりあった

      なに?いま

あくまで不当に過ぎなくとも。事実として

   蕊が唐突に

      いま、きみが前歯に

ハオ・ランの永遠の肉体は、ただ

   かさなり

      くわえた翳り

少女のそれ以外ではなかったのだから。ハオ・ランはくちづけに、いつものように眼をとじない。…ラン。彼女のように。わたしも決して眼を閉じない。…ラン?彼女のよない。しない。そらしもしない。だから、見つめい合う。あまりの至近。まなざしはもう、如何なる色彩も、…すれすれ。かたちも、なにも…れすれす。ほのめかしに…すすれれ。堕さしめる。朧ろ。しかし、「なんか、」あざやかな。「云ってません?」自分で勝手に言葉を切った数秒の沈黙のあと、その壬生敦子はつぶやいた。電話。清雪がまだ生きていて、そして十三歳になるという年。二月。敦子がよりによって朝の九時にかけてよこした、だからその頃のわたしにとっては眠り始めるべき遅すぎる「例の、」時間。「虐め問題?」

「なんか、相談、とか?…なんか、信号、みたいな。そっちに、なんか、なんかちょっとでもいってないのかなって」ふと思う。敦子はそっちに行ってと云ったのだろうか。それとも言って、と?…どうでもいいのだが。

「来てない。ぜんぜん。というか、」

長電話だった。しかも不毛だった。もはや右手に重くなりかけたナショナルの携帯電話。わたしはすでに飽き、飽きたじぶんにも飽きない敦子にも飽き、ささやく。ながいため息。敦子。その歯の隙間が吐くのを聞いた。「実際、なんか、そんなに深刻なの?」

「じゃ、ないんですよ」

すでに、唯の杞憂、思い違いにすぎないとふんでいた。

「先生からも言われてなんでしょ?」

「そう、ですけど」

   やめて。もう

      垂れそう。ほら

「ノートに死ねとか?くさいとか?きたないとか?」

「じゃ、なくて」

   惑わせないで

      花しずく

「学校、行きたくないんだよね、とか?」

「それは、まったくな」

   やめて。もう

      しずく

「じゃなに?爪かみはじめた?」

「きれいですよ。…ピアノ、弾くじゃないですか。あの子」

   かなしませないで

      ふるえそう。ほら

「じゃ、超前衛的な作曲でもはじめた?」

「興味ないみたい。つくるほうは…でも、最近、リスト。あの、むずかしいの、あれ、すっごい上手に」

   やめて。もう

      花しず

「いきなり叫び始めたとか?」やめて、…と。ほんのわずかな不意の失語。空白。そのあと、ふと、ささやいた。敦子だけが。口ばやに。おそろしく声を、いきなりひそめて。ごめん、と。わたしの、そして「…ごめんなさい」敦子。声がふたつ、あやうくかぶった。だから耳はあやうい衝突を、無造作に聞いた。

「思い出させた、…ね?たぶん、」わたしが「いま」やがて、そしてなにも思い出さない追憶の数秒。おたがいに、…春奈。あの、母。あの、…なに?ひたすらあやうくはかない美少年の、しかし廃人として死んでいった「…たぶん、ね、」母胎。敦子の、姉。母親ちがいの。「思い過ごしなの。わかってる。ぜんぶ、わたしの、…わた。わかってるの。…でも、ね?なんか、わた。ね?」

「気になっちゃう?」

「姉…だって、あんな、…ちがうよ?ぜんぜん、姉とは、もう、ぜんぜん、でも、遺伝、とか?あんな、姉が、ね?じゃない?あんな、…から。だったから、だから、あの子も、とか?そんな莫迦な、さ。ちがうじゃない。ないから。遺伝し、そんな、な、あとほら、生活環境?虐待されて育った子が親になったときに、って、なんか、良く言うじゃん。ああいうの、でも、それがすべてじゃないじゃん?そいうんじゃない人も、…だって、愛してるよ。すくなくとも、わたし、わ。大切だよ。わた。でも、友達でいるの、」と。稀れで唐突なタメ口にいきなり気づいた「…です。」敦子は、「ね?伝聞じゃなくて。…です。わたし、だから、大学の時の。とも、…しかも。姉を、ね?姉。見てないじゃん?清くん。抱かれてもいないんだよ。わた」

「抱かれるくらいは、」

「わたしだから。あくまでも、育てたの。わたし。だから、清くんの」

「生活環境、あくまでもありあまる壬生のありあまる豪邸だから、…さ」

壬生。その富裕なる一族。

「嫌味、謂わないで」

「じゃなくて、恵まれてるって。だろ?」

敦子の祖父が一代で築いた。

「いま嫌味にしか、聞こ」

「たしかに風変りな出生。…だよ?あいつ。でも、実際は」

壬生。その翳りはじめた一族。

「ないんだよ!」いきなり、敦子が「なんかもう、自信、」泣き声に近い叫びを「ないの…」たてた。あくまで、押さえつけられた小声に。わたしは

   あれ?…あ

      ん?なに?

沈黙した。

   あれ?…あ

      は?なに?

沈黙いがいに、なにも

   あれ?…あ

      ん?なに?

なかった。電話のむこう。沈黙の荒れた息遣い。聞こえるまま、聞いた。いま、敦子はあきらかに口を受話器に近づけすぎていて、だからすさみきったノイズ。彼女のこころの混乱。剝き出しに、思う存分、わたしに伝えた。さがしていたのだった。わたしは、やさしい言葉を。事実、そこにわたしは素直にやさしい気持ちになっていた。敦子がふいに、春奈をおもださせてからの数秒。じぶんでも不穏に想えたほどに。壬生敦子の父親…風雅という名前を父親につけられた、血走った巨体の父親似の男。壬生の親父と、わたしたちに呼ばれた。彼が、たわむれに沖縄出身の我喜屋という苗字の女性に生ませた。実母の下の名前を、わたしも敦子も知らない。壬生の親父は認知した。しかしそれだけだった。まともな養育などしなかった。言われれば、金だけは投げ捨てるようにくれてやった。壬生の大親父…秀則が不動産業に築き始めた富を、風雅は更に多方面に拡張していた。ケツをふくにも万券が使えた。また、そんな見栄にたわむれそうな男でもあった。いずれにせよ、くさるほど金はある。雌が生んだ雌一匹くらい、犬ほどの価値もない。壬生たちにとって、春奈はあくまで我喜屋春奈だった。その母親は、東京の風俗街、そしてスナック街とを転々とした。母親だけに育てられた春奈は、しかし沖縄にはいちども行ったことがない。「できるかぎりのこと、してる。わたし、兄と、でも、」

「不安だよね。実質上の、親としては」

「あの子に、ほら、出生…じつは、云ったの」

「なんて?パパは眞砂さんよって?でもそれ、もう言ってあるんでしょ」

「聞かれたから。…眞砂さん、なんでおれの父親じゃないのって」

「…で?」

「あの、…だから、あれ」

「…莫迦?」

思わずわたしは「おまえ、莫迦なの?」そう云った。敦子を追い詰めることばだとは、云ったあとで気づいた。事実、わたしは敦子だけをそこに罵っていた。実際には、あの、あれの、その苛烈のなかにわたしは、わたしこそが、いた。たしかに、いた。たしかに、だから春奈を決定的にわたしが壊した。見ていた。受胎を。そんなこと、気づきもせず、知らないまま、清雪。参加していた。わたしは。やった。わたしも。囃した。わたしも。たしかに。愚劣に。これいじょうない下劣さで。わたしだった。惡いのは、わたしたちだった。…なんて、わたしだけだった。…なんて、言ったの?あいつに「やわらかく、…極力、ん、…だから、衝撃的な?刺戟的な?そういうの、ん、…避けたよ?そういう、ん…言い方は、わたし。避けましたよ?わたし、そもそも、わたし

女ですよ。女の気持ち、わかるじゃない。…ですか、ハルの。言えないし、言いたくないし、でも、…でもね、ん。清雪、でも、すっごい、まっすぐ見つめててくれて、でも…で、わたし、だまされてたの」

「だましてない。おれは、…だって」

「じゃなくて、あの子に」

「清雪?」

「敦子ママの、口から聞きたいんだって。…眞砂さんからはなんとなく聞いたよ。ぼく。ちゃんと聞け。真実を見ろ。しっかりしろ。男だろって。…なんか、変なところ、体育会系入ってるよね、眞砂さん、って、」ふいに、敦子が「笑ったりして、」思い出し笑いをし、「言ってない。おれは。そんなの」

「と、いまは、思います」

「じゃ、そのとき」

「なんか、うれしかった。わたし。眞砂さんからもう聞いたのに、それでもやっぱり、わたしからやっぱり聞きたくて、聞きたくなって、最後はやっぱり、だからそういう…」

「信頼?」

「うれしかった。だから、」

「で、白状しちゃった、と。…あんたのママはね、歌舞伎町の糞風俗嬢で、糞ジャンキーで、廃人状態で、糞まみれのレロレロで、のりで阿保な糞ホスト十人ばかりと薬やった夜に、廻されて廻されまくって糞ぶっ壊されて、糞孕まされて糞堕胎できずに糞生まれたのがお前だってかよ?」

敦子は答えなかった。

「眞砂の糞だってほんとの糞親かどうかわからねぇよってかよ?」

答えない。

「春奈の母親なんか未成年んときもうとっくにどっか行っちゃってて、身寄りねぇから施設ぶちこまれそうになってたって?」

答えない。

「壬生の糞大親父なんて糞餓鬼智慧づかねぇうちに始末しちゃえくらい言ってたって?…で、」

答えず、敦子は

「…糞のあんたが、無理やり引き取っ…」もはや、もう息遣いさえ「…た、」ひびかせてはいなかった。「って?」敦子。完全な無音。彼女がもう受話器を置いてしまっているのだと思っていた。両耳を両手にふさいで。だから、敦子のただ冴えた冷静な声が聞こえはじめたとき、わたしは耳をうたがった。その声。感情をもう、なにも感じさせない、声。冷淡なくらいに、ただ、ただ、ただ、澄んでいた「ぜんぶ、」声。「云いました。かくさず。わたし。…そういう、故意にひどい言い方じゃないですけど」

わたしが嗜虐に、ただ自虐的に焦燥しながらしゃべっていたのは、事実だった。

「でも、そしたら、あの子、」

沈黙。不用意な、ふたたびのそれが不安すぎて、

「なんて?」

知らずに口走っていた。…ん。

敦子。

ん、…

「なに?」

「ありがと。…って」

知っていた。あるいは普通の親いじょうの「やっと、わかった。ぼくが、」思いを、敦子が「愛されない、理由…」清雪に「だから、」抱いていることは。「敦子ママ、ありがとね。…って」敦子は独身のままだった。男にもてはやされないわけではないはずだった。敦子の鞏固な意思だった。子供がうめなかった。すくなくとも、敦子はそう云った。あの、縁談話のときにも。その実際は知らない。敦子はそう解釈していた。十六歳のときに強姦された。あまりに変質的な、中年の男に。残った体液を蒸発させるために、男は終わったあとで猟奇的な手段を使った。だから、敦子は妊娠しなかった。詳細は言わない。ただ、壬生の家にはヘア・アイロンというものがいっさい存在しない。男が逮捕されたという情報は聞かない。警察沙汰には、しなかった。

「それから、その日、どうだったの?」

「普通…すごく。すごく、普通…」

「なにごともなく?」

「ピアノ…云ったじゃない。さっき。リスト。むずかしい、エチュードかなんか。…わたしは、あんまり、正則はわかるけど」

「じゃ、大丈夫だったん」

「じゃ、ないかもしれなくて」

「なんで?」

「最初は、いつもの、むずかしいの。最近、もうなんか弾くの難しいのばっか弾きたがる。…聞いてすぐわかるもん。そのくらい難しいやつ…最初は、そんな、でも、途中から、がらっと、」

「なにが?」

「弾いてる曲…いきなり、なんか、すごくメランコリックで、なんか、なつかしくて、なんか、泣いてるようで、でも、泣けないようで、そんな…で、綺麗な曲なんです。すごく。あんなこともあったし、悲し気な曲だし、だから、彼の部屋、音楽室。あっちのほう、…二階の。あそこ行って、で、なに弾いてるのって?」

「ラヴェルとか?」

「ママ、それ、好きだな、って、」

「ショパン?」

「そしたら、」

「ノクターン、とか?」

「ジョン・ケージ」

「ケージ?」

「っていう人。その、イン・ア・ランドスケープ…って、でもあれ、なんか前衛系のひとなんでしょ?」

「初期。ごくごく初期。綺麗な曲。そういうの、わかいころ、結構、書いてる」

「聞かせてくれた。清雪。…で、ひみつで、CD、買っちゃった。で、なんか、ね?ときどき、ね?わたし、そっちのほう、よく

わかんないじゃないですか?でも、聞いた。ヴォリューム絞って。気付かれたくなくて。あの子に、」

「なんで?」

「聞けば聞くほど、なんだろう…不安になる。あの子の気持ちが…もっとはっきり悲しい曲とか、そういうのだったら、…でも、」なんとなく、わたしは敦子の「曖昧すぎる…」その不安の、言いたいことが「曖昧すぎて、…」分かる気がした。結局のところ「せつなすぎて、…」わたしとしては敦子を「もう、」慰めるしかなく、「わかんない…」慰めの言葉など、いつでも月並みに堕するしかない。たとえ対象がいかに稀有な消息をさらしていたとしても。慰めながらわたしは、慰めにささやかれた言葉のことごとくをささやくさきから忘れた。そして、たぶん、敦子はささやかれるさきから「…しわせになってほしんですよ」すぐさまに…しあわせ?

「なんか、うまく言えないけど」…見守るしかないよ、いまは、…「あの子には、なんか、もっと」いい子だと思うよ。おれ、もちろん「もっと普通に…」おれには、さ、こんな「あんなにピアノなんか、あんな上手じゃなくていいし、」こんなこと謂う資格、ないんだけど、「頭も」…成績優秀だよね?「月並みでよくないですか?そんなの、」いい子だよ。彼は、たまに「冴えてなくていいの。もっと、」たまにしかあわないけど「普通に、だって」それは、おれも、「普通が一番しあわせだって、ほんとそう思うから」傷み。首筋に痛みがあった。すこしだけ傾けていたわたしの、…傷み。沙羅。逆光。そこに褐色のいや濃い沙羅を見やりながら、傷み。ふいに、沙羅はのばされきった背筋のまま、傾く。わたしに。腰のあたりから、だから半身の彫像をゆっくりと倒してゆくに似て。やがて、しかも唐突な敗北。重力に、体躯。崩れかかるそれを、わたしは咄嗟にささえた。手のひらに、肩。脇腹。それぞれの鞏固なかたさ。あやういやわらかさ。ふれた。その須臾、手のひらに、それら手ざわりは飛び散ったように。わらっていたように思った。沙羅が。なにをしでかすかわからない、けだものの沙羅が。わたしを覆いかくした髪の毛。厖大な、繁殖のゆらぎ。四方に臭気をたてて、馴れない。わたしは、髪の毛の匂いには、なぜか。沙羅の顔に、そのけだものじみた笑みを見止めようとする間もなくもう、くちびるがわたしの右のまぶたを覆った。そっと眼を閉じた。片方はもう、閉じていた。すでに毛先が傷めていたから。謂く、

   息をとめた

   沙羅。わたしは

   その、沙羅

   無造作な髪に


   覆う。沙羅

   臭み。芳香に

   容赦もない

   匂い。臭気に


   息をとめた

   沙羅。わたしは

   息が、沙羅

   つまるまえに


   埋まる。沙羅

   臭み。芳香に

   容赦もない

   匂い。臭気に


   うずまりながら

   うずもれながら

   家畜。わたしは

   下劣な家畜

謂く、

   覆う。沙羅

      激怒しそう

    髪のむこう

     歯をひきぬき

   臭み。芳香に

      いま

    垣間見えた

     肛門につきさし

   容赦もない

      まがる。ゆびが

    空が、自虐的

     鳥たち。飛び

   匂い。臭気に


   埋まる。沙羅

      気絶しそう

    耳のさき

     舌をひきぬき

   臭み。芳香に

      いま

    須臾見えた

     尿道につきさし

   容赦もない

      腐る。こゆびが

    空が、侮辱的

     鳥たち。すべり

   匂い。臭気に


   息を吐いた

   沙羅。わたしは

   その、沙羅

   顔に、故意に


   ふきかける。沙羅

   臭み。芳香に

   容赦もない

   匂い。臭気に


   うずまりながら

   うずめられながら

   家畜。わたしは

   卑劣な家畜

謂く、

   ふきかける。沙羅

      痙攣しそう

    顎のむこう

     拳をかため

   臭み。芳香に

      いま

    ほの見えた

     喉にぶちこみ

   容赦もない

      爪が密集する

    空が、自嘲的

     鳥たち。返り見

   匂い。臭気に


   沙羅。あざけりかけ

   その須臾、笑った

   沙羅。その眼の前

   わたしだけ笑った

謂く、

   沙羅。あざけりかけ

      引き攣けた

    黙れ。まるで

     落ちてゆけ

   その須臾、笑った

      …刺して

    徒刑囚じみて

     ひかり。落ちた

   沙羅。その眼の前

      手首に針を

    鼻をかめ

     そのみなも

   わたしだけ笑った


   わたしさえ笑った

      びくついた

    顔しかめ

     あきらめてしまえ

   沙羅。その眼の前

      …つき刺して

    徒労と知って

     ひかり。落ちた

   その須臾、笑った

      動脈に火薬を

    黙れ。まるで

     ふれた。みなも

   沙羅。あざけりかけ









Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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