攝大乘論:攝大乘論本所知相分第三-01/無著/三藏法師玄奘譯



攝大乘論本卷中

  無著菩薩造

  `三藏法師玄奘奉  詔譯

所知相分第三

入所知相分第四

彼入因果分第五


所知相分第三

已說所知依。所知相復云何應觀。此略有三種。一依他起相。二遍計所執相。三圓成實相。

已に所知依を說けり、

所知相をば復、云何んが應に觀ずべきや。

此れに略して三種有り、

一には依他起相、

二には遍計所執相、

三には圓成實相なり。


此中何者依他起相。謂阿賴耶識爲種子。虛妄分別所攝諸識。此復云何。謂身身者受

者識。彼所受識。彼能受識。世識。數識。處識。言說識。自他差別識。善趣惡趣死生識。

此の中、何者か依他起相なりや。

謂はく、

阿賴耶識を種子と爲る虛妄なる分別に攝むる所〔=所攝〕の諸識なり。

此れ復、云何ん。

謂はく、身身者・受者の識、

彼の所受の識、

彼の能受の識、

世識、

數識、

處識、

言說識、

自他差別識、

善趣惡趣死生識なり。


此中若身身者受者識彼所受識彼能受識世識數識處識言說識。此由名言熏習種子。若自

他差別識。此由我見熏習種子。若善趣惡趣死生識。此由有支熏習種子。由此諸識一切

界趣雜染所攝。依他起相虛妄分別皆得顯現。如此諸識皆是虛妄分別所攝。唯識爲性

是無所有。非眞實義顯現所依。如是名爲依他起相。

此の中、

若しくは身・身者・受者の識、彼の所受の識、彼の能受の識、世識、數識、處識、言說識は此れ、

名言‐熏習‐種子に由り、

若しくは自他差別識は此れ我見‐熏習‐種子に由り、

若しくは善趣惡趣死生識は此れ有支熏習の種子に由る。

此の諸識に由つて一切〔三〕界〔五〕趣の雜染に攝〔屬〕する所〔=所攝〕の

依他起相、虛妄なる分別皆、顯現することを得。

此の如く諸識は皆、是れ虛妄なる分別に攝〔屬〕する所〔=所攝〕にして

唯識を性と爲す。

是れ、あること〔=所有〕無く、

眞實に非らざる義、顯現する所依なり、

是の如きを名づけて依他起相と爲す。


此中何者遍計所執相。謂於無義唯有識中似義顯現。

此の中、何者か遍計所執相なりや。

謂はく、義無く唯、識のみなる〔=有〕中に於て

義に似て顯現するなり。


此中何者圓成實相。謂即於彼依他起相。由似義相永無有性。

此の中、何者か圓成實相なりや。

謂はく即ち彼の依他起相に於て

義に似たる相、永しへに有ること無きに由る性なり。


此中身身者受者識。應知即是眼等六内界。彼所受識。應知即是色等六外界。彼能受識。

應知即是眼等六識界。其餘諸識。應知‘是此諸識差別

(※是此二字明本作此是二字)

此の中、身・身者・受者の識じゃ應に知るべし、

即ち是れ眼等の六の内界なりと。

彼の所受の識は應に知るべし、

即ち是れ色等の六の外界なりと。

彼の能受の識は應に知るべし、

即ち是れ眼等の六識界なりと。

其の餘の諸識は應に知るべし、

此〔=是〕れ是〔=此〕の諸識の差別なりと。(※是此二字明本作此是二字)


又此諸識皆唯有識。都無義故。

又、此の諸識は皆、唯、識のみ有り、

都て義無きが故なり。


此中以何爲喩顯示。應知夢等爲喩顯示。謂如夢中都無其義。獨唯有識。雖種種色聲香味觸舍林地

山似義‘影現。

(※影字三本宮本俱作顯字)

而於此中都無有義。

此の中、何を以て喩へと爲して顯示するや。

應に知るべし、

夢等を喩へと爲して顯示す、

謂はく、

夢中、都べて其の義無く、獨り唯、識のみ有るが如し、

種種なる色聲香味觸舍林地山、義に似て影現すと雖も(※影字三本宮本俱作顯字)

而かも此の中に於て都て義有ること無し。

由此‘喩顯。

(※喩字三本宮本俱作唯字)


應隨了知一切時處皆唯有識。由此等言。應知復有幻誑鹿愛翳眩等喩。

此の喩への顯らはすに由つて(※喩字三本宮本俱作唯字)

應に隨つて一切時處に皆、唯、識のみ有りと了知すべし。

此れ等の言に由りて應に知るべし、

復、幻誑・鹿愛・翳眩等の喩へ有ることを。


若於覺時一切時處皆如夢等唯有識者。如從夢覺便覺夢中皆唯有識。覺時何故不如是轉。

若し覺時に於て一切時處、皆、夢等の如く唯、識有るのみならば〔=者〕

夢從り覺めて便ち、夢中、皆、唯、識のみ有りと覺るが如く、

覺時に何故に是の如く轉ぜざるや。


眞智覺時亦如是轉。如在夢中此覺不轉。從夢覺時此覺

乃轉。如是未得眞智覺時此覺不轉。得眞智覺此覺乃轉。

眞智覺は時に亦、是の如く轉ずるも、

夢中に在りて此の覺、轉ぜず、

夢從り覺むる時、此の覺、乃ち轉ずる如く、

是の如く未だ眞智覺を得ざる時は此の覺、轉ぜず、

眞智覺を得れば此の覺、乃ち轉ず。


其有未得眞智覺者。於唯識中云何比知。由敎及理應可比知。此中敎者。如十地經薄伽

梵說。如是三界皆唯有心。

其の、未だ眞智覺を得ざる者有らんに、唯識の中に於て

云何にして比知するや。

敎及び理に由つて應に比知す可し。

此の中、敎とは〔=者〕

十地經の如し、

薄伽梵說きたまはく、

『是の如き三界は皆、唯、心のみ有り。』


又薄伽梵解深密經亦如是說。謂彼經中慈氏菩薩。問世尊言。

諸三摩地所行影像。彼與此心當言有異。當言無異。

又、薄伽梵、解深密經にも亦、是の如く說きたまへり。

謂はく、

彼の經の中に慈氏菩薩、世尊に問うて言はく、

『諸の三摩地所行の影像は彼れと此の心と〔=與〕

 當に異なり有りと言ふべきや、

 當に異なり無しと言ふべきや』と。


佛告慈氏。當言無異。何以故。由彼影像唯是識故。我說識所緣唯識所現故。

佛、慈氏に告げたまはく、

『當に異なり無しと言ふべし。

 何となれば〔=何以故〕彼の影像は唯、是れ識なるに由るが故に、

 我れ、識の所緣は唯‐識‐所現なりと故くが說なり。』


世尊。若三摩地所行影像。即與此心無有異者。云何此心還取此心。慈氏。無有少法

能取少法。然即此心如是生時。即有如是影像顯現。如質爲緣還見本質。而謂我今見

於影像。及謂離質別有所見影像顯現。此心亦爾。如是生時相似有異所見影現。

『世尊よ。

 若し三摩地所行の影像は即ち此の心と〔=與〕異なり有ること無くば〔=者〕

 云何んが此の心、還へつて此の心を取るや。』

『慈氏よ。

 少法として能く少法を取るもの有ること無し、

 然るに即ち此の心、是の如く生ずる時、

 即ち是の如き影像有つて顯現す、

 〔本〕質を緣と爲して還つて本質を見るを、

 而も我れ今、影像を〔=於〕見ると謂ひ、

 及び謂離〔本〕質を離れて

 別に所見の影像有つて顯現すと謂ふが如く、

 此の心も亦、爾なり。

 是の如く生ずる時、異り有るに相ひ似たる所見の影〔像、顯〕現す。


即由此敎理亦顯現。所以者何。於定心中隨所觀見。

諸靑瘀等所知影像一切無別靑瘀等事但見自心。

即ち、此の敎へに由つて理も亦、顯現す、

所以は〔=者〕何ん。

定心の中に於て觀見する所〔=所觀見〕に隨つて

諸に靑瘀等の所知の影像には一切、別の靑瘀等の事無く、

但、自心を見るのみなり。


由此道理菩薩於其一切識中應可比知。皆唯有識無有境界。

此の道理に由つて菩薩は其の一切識の中に於て應に比知す可し、

皆、唯、識のみ有り、

境界有ること無し、と。


又於如是靑瘀等中非憶持識。見所緣境現前住故。聞思所

成二憶持識。亦以過去爲所緣故。所現影像得成唯識。

又、是の如き靑瘀等の中に於て、

非憶持識は所緣の境、現前に住するを見るが故に、

聞思〔二慧〕より成る所〔=所成〕の(二)憶持識も亦、

過去〔の法を〕以て所緣と爲すが故に、

所現の影像得、唯識を成ずことを得。


由此比量菩薩雖未得眞智覺。於唯識中應可比知。

此の比量に由つて菩薩、

未だ眞智覺を得ずと雖も唯識中に於て應に比知す可し。


如是已說種種諸識如夢等喩。即於此中眼識等識可成唯識。

是の如く已に種種なる諸識は夢等の喩への如しと說けり。

即ち此の中に於て

眼識等の識〔是れ〕唯‐識あることを成ずべし。


眼等諸識既是有色。亦唯有識云何可見。此亦如前由敎及理。

眼等の諸識には既に是れ色有り、

亦、唯、識のみ有るをば云何んが見る可きや。

此れも亦、前の如く敎及び理に由るなり。


若此諸識亦體是識。何故乃似色性顯現。一類堅住相續而轉。與顚倒等諸雜染法爲依處故。

若し此の諸識も亦、體、是れ識ならば、

何故に乃ち色性に似て顯現するや。

一類にして堅住し相續して〔=而〕轉じ

顚倒〔の見〕等の諸の雜染の法の與に依處と爲るが故なり。


若不爾者。於非義中起義顚倒應不得有。此若無者。煩惱所知二障雜染應不得有。此若無

者。諸淸淨法亦應無有。

若し爾らざれば〔=者〕

非義の中に於て義〔なりとする〕顚倒〔の見を〕起こすこと

應に有ることを得ざるべく、

此れ若し無ければ〔=者〕煩惱・所知の二障の雜染、

應に有ることを得ざるべく、

此れ若し無ければ〔=者〕

諸の淸淨なる法も亦、應に有ること無かるべし。


是故諸識應如是轉。

是の故に諸識は應に是の如く轉ずべし。


此中有頌

 亂相及亂體  應許爲色識

 及與非色識  若無餘亦無

此の中に頌有り、

≪亂相及び亂體をば、

  〔其の次第の如く〕應に許して、色識

 及與び非色識と爲すべく、

  若し〔色識〕無ければ餘〔の非色識〕も亦、無からん≫


何故身身者受者識所受識能受識。於一切身中倶有和合轉。能圓滿生受用所顯故。

何故に身・身者・受者の識、所受の識、能受の識は

一切の身中に倶に和合して轉ずること有りや。

能く圓滿に生じ、受用するに顯らはさるる〔=所顯〕が故なり。


何故如說世等諸識差別而轉。無始時來生死流轉無斷絕故。諸有情界無數量故。諸器

世‘界無數量故。

(※界字宮本作介字)

諸所作事展轉言說無數量故。各別攝取受用差別無數量故。諸愛非愛

業果異熟受用差別無數量故。所受死生種種差別無數量故。

何故に說けるが如き世等の諸識、差別して〔=而〕轉ずるや。

無始の時より來、

生死流轉して斷絕すること無きが故に、

諸の有情界は無數量なるが故に、

諸の器世界は無數量なるが故に、(※界字宮本作介字)

諸の所作の事をば展轉して言說すること無數量なるが故に、

各別に攝取し受用する差別、無數量なるが故に、

諸に愛非愛の業果、異熟を受用する差別、無數量なるが故に、

受くる所〔=所受〕の死生の種種なる差別、無數量なるが故に、


復次云何安立如是諸識成唯識性。略由三相。一由唯識無有義故。二由二性有相有見

二識別故。三由種種種種行相而生起故。所以者何。此一切識無有義故得成唯識。有相見故得成二種。

復、次に云何んが是の如き諸識を安立して唯識性を成ずるや。

略して三相に由る、

一には唯、識のみにして義有ること無きが故に、

二には二性〔即ち〕有相・有見の二は識の別なるに由りての故に、

三には種種種種なる行相、(而)生起するに由るが故なり。

所以は〔=者〕何ん。

此の一切識には義有ること無きが故に、

唯識を成ずることを得、

相見有るが故に二種を成ずることを得ればなり。


若眼等識以色等識爲相‘以眼識識爲見。

(※以字三本宮本俱作似字)

乃至以身識識爲見。

若しくは眼等の識じゃ色等の識を以て相と爲し、

眼識の識を以て見と爲し、(※以字三本宮本俱作似字)

乃至、身識の識を以て見と爲す。


若意識以一切眼爲最初法爲最後。諸識爲相。以意識識爲見。由此意識有分別故。‘似一切識

而生起故。

(※似字三本俱作以字)

若しくは意識は一切の眼を以て最初と爲し、

法を最後と爲し、

諸識を相と爲し、

意識の識を以て見と爲す、

此の意識に分別有るに由るが故に、

一切の識に似て而も生起するが故なり。(※似字三本俱作以字)


此中有頌

 唯識二種種  觀者意能入

 由悟入唯心  彼亦能伏離

此の中に頌有り、

≪唯識と二と種種とに

  觀〔行〕者の意、能く入り、

 唯心に悟入するに由つて、

  彼れをも亦、能く伏離す。≫


又於此中有一類師說一意識。彼彼依轉得彼彼名。如意思業名身語業。

又、此の中に於て一類の師有り、

一意識を說く、

彼彼の依、轉じて彼彼の名を得、

意思‐業を身語‐業と名づくるが如し、と。


又於一切所依轉時。似種種相二影像轉。謂唯義影像及分別影像。

又、一切の所依、轉ずる時に於て、

種種なる相に似たる二の影像、轉ず、

謂はく唯、義の影像及び分別の影像なり。


又一切處亦似所觸影像而轉。有色界中即此‘意識依止身故。

(※「意」字宮本作「作」字)

如餘色根依止於身

又、一切處も亦、所觸の影像に似て〔=而〕轉ず、

有色界中、即ち此の意識は身に依止するが故なり、(※「意」字宮本作「作」字)

餘の色根の、身に〔=於〕依止するが如し。


此中有頌

 若遠行獨行  無身寐於窟

 調此難調心  我說眞梵志

此の中、頌有り

≪若しくは遠行し、獨行し、

  無身にして窟に〔於〕寐ね、

 此の調〔伏〕し難き心を調〔伏〕するを

  我れ眞の梵志なりと說く。≫


又如經言。如是五根所行境界。意各能受意爲彼依。

又、經に言へるが如し、

『是の如き五根の所行の境界をば意は、

 各能く〔領〕受し、意は彼の〔諸根の所〕依と爲る。』

又如所說十二處中。說六識身皆名意處。

又、所說の如く十二處の中、

六識身を說いて皆、意處と名づく。


若處安立阿賴耶識識爲義識。應知此中餘一切識是其相識。若意識識及所依止是其見

識。由彼相識是此見識生緣相故。似義現時能作見識生依止事。如是名爲安立諸識成

唯識性。

このところ〔=若處〕に阿賴耶識の識を安立して義識と爲す、

應に知るべし、此の中、餘の一切の識は是れ其の相識なり、

若しくは意識の識、及び所依止は是れ其の見識なりと、

彼の相識に由つて是れ此の見識生じて、相を緣ずるが故に、

似義現ずる時、能く見識生ずる〔所〕依止の事と作る。

是の如きを名づけて諸識を安立して唯、識性を成ずと爲す。


諸義現前分明顯現。而非是有云何可知。如‘世尊言。

(※世尊二字宮本作若取二字)

若諸菩薩成就四法。能隨悟入一切唯識都無有義。

諸義、現前に分明に顯現するも

而も是れ有るに非らざるをば云何んが知る可きや。

世尊の言たまへるが如し、(※世尊二字宮本作若取二字)

若し諸の菩薩、四法を成就すれば能く隨つて、

一切、唯、識のみにして都べて義有ること無き〔理〕に悟入せん。


一者成就相違識相智。如餓鬼傍生及諸天人同於一事。見彼所識有

差別故。二者成就無所緣識現可得智。如過去未來夢影緣中有所得故。三者成就應

離功用無顚倒智。如有義中能緣義識應無顚倒。不由功用智眞實故。四者成就三種勝

智隨轉妙智。

一には〔=者〕相違識相の智を成就す、

餓鬼・傍生及び諸の天人の如き、

同じく一事に於て彼の所を見る識に〔=彼所識〕差別あるが故に、

二には〔=者〕

所緣無きに識、現に得可しと〔する〕の智を成就す、

過去・未來・夢影の如き、

緣中、所得有るが故に、

三には〔=者〕應に功用を離れ顚倒すること無かるべき智を成就す、

有義の中の能く義を緣ずる識の如き、

應に顚倒する無く功用に由らず、

智、眞實なるべきが故に、

四には〔=者〕

三種の勝智、隨轉する妙智を成就す、


何等爲三。一得心自在一切菩薩得靜慮者。隨勝解力諸義顯現。二得奢摩

他修法觀者。纔作意時諸義顯現。三已得無分別智者。無分別智現在前時。一切諸義皆

不顯現。由此所說三種勝智隨轉妙智。及前所說三種因緣諸義無義道理成就。

何等をか三と爲すや、

一には心自在なることを得たる一切菩薩にして、靜慮を得たる者は

勝解力に隨つて諸義〔をば〕顯現す、

二には奢シヤ摩マ他タ修法觀を得たる者、纔かに作意する時、

諸義、顯現す、

三には已に無分別智を得たる者の、

無分別智、現在前する時、一切の諸義、皆、顯現せず。

此の所說の三種の勝智隨轉する妙智、及び

前の所說の三種の因緣に由りて

諸の義無義なる道理、成就す。


若依他起自性實唯有‘識。

(※識字三本宮本俱作說字)

似義顯現之所依止。云何成依他起。何因緣故名依他起。從自

熏習熏子所生。依他緣起故名依他起。生刹那後無有功能。自然住故名依他起。

若しくは依他起の自性は實には唯、識のみ有りて(※識字三本宮本俱作說字)

似義‐顯現するの〔=之〕所依止なり、

云何んが依他起を成じ、

何の因緣の故に依他起と名づくるや。

自ら熏習せる種〔=熏〕子より生ずる所〔=所生〕

他緣に依つて起こるが故に依他起を名づけ、

生ぜる刹那の後、功能有ること無くして

自然に住するが故に依他起と名づく。


若遍計所執自性。依依他起實無所有似義顯現。云何成遍計所執。何因緣故名遍計所

執。無量行相意識遍計顚倒生相故。名遍計所執。自相實無唯有遍計所執可得。是故說

名遍計所執。

若しくは遍計所執の自性は

依他起に依りて實はあること〔=所有〕無く、

似義顯現す、云何んが遍計所執を名じ、

何の因緣の故に遍計所執と名づくるや。

無量なる行相は意識の遍計し

顚倒して生ずる相なるが故に遍計所執と名づけ、

自相、實に無くして唯、遍計所執の得可き有るのみ、

是の故に說いて遍計所執と名づく。


若圓成實自性。是遍計所執永無有相。云何成圓成實。何因緣故名圓成實。由無變異性

故。名圓成實。又由淸淨所緣性故。一切善法最勝性故。由最勝義名圓成實。

若しくは圓成實の自性は是れ

遍計所執、永しへに相有ること無し、

云何んが圓成實を成じ、

何の因緣の故に圓成實と名づくるや。

變異無き性に由るが故に圓成實と名づけ、

及び〔=又〕淸淨〔智〕の所緣に性なるに由るが故に、

一切善法の〔中〕最も勝れたる性なるが故に

最も勝れたる義に由つて、圓成實と名づく。








Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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