流波 rūpa ……詩と小説090・流波 rūpa;月。ガンダルヴァの城に、月 ver.1.01 //序。戦争と国家を超克するために。


≪流波 rūpa;癡多 citta≫、これは更に伽多と呼んでおく詩がつづいていくのですが、あえてすこし中断して別の作品を。




とりあえず≪流波 rūpa;月。ガンダルヴァの城に、月≫と、ここに名づけたこの中編小説は、詩と散文によって構成されています。


ちなみにガンダルヴァの城(梵;gandharva-nagara)とは、要するに蜃気楼のことのようです。鳩摩羅什訳の摩訶般若波羅蜜經、いわゆる大品般若の導入部には≪解了諸法如幻、如焰、如水中月、如虛空、如響、如揵闥婆城、如夢、如影、如鏡中像、如化≫すなわち、≪認識されるさまざまなカタチをこのように了解していた、それらはすべて幻のよう、焰のよう、水の中の月のよう、虛空のよう、響きのよう、ガンダルヴァの城のよう、夢のよう、影のよう、鏡の中の像のよう、更にはただ、なにかに化かされ見た幻像のようだ、と≫


さて、この小説の内容についてですが、基本的に物語として要約するのが難しいカタチをとっています。

たとえばある美少年シンガーがいて、しかもかれは破滅型で、そしてたとえば自殺をはかり、しくじり、かろうじて生き延び、ぼろぼろになった肉体と精神をさらす。残された、かつてかれを愛した青年たちは彼の名をかたって、いまその破滅したシンガーが鳴らすべく想われた、しずかな瞑想のひびきを鳴らそうとしたのだった。…とか。

あるいは、一家惨殺の被害者になった少年がいる。かれは実は犯人を知っている。しかも、かれは犯人を愛している。…とか。

あるいは、じぶんの家族を惨殺して仕舞った少年がいる。…とか。

あるいはそもそも極端な障碍を持って生まれた子供がいて、生命維持装置につながれたかれはそこで夢を見る、…とか。

意図的に複数の読み取りが可能になるように言葉を散らしてあるからです。その根拠は先の≪解了諸法如幻、如焰、如水中月≫云々のブッディズム的な認識に於いてテクスチュアを組成したかったということ、または、量子力学等のいわゆる多元世界論に基礎を置きたかったこと、以上に依ります。ちなみに、ここでいちいちブッディズムと片仮名表記したのは、仏教と言って仕舞えばそれなりに宗教的にひびいてしまう気がしたからというだけの措置です。理論仏教と方便仏教というのがあると思っていて、前者は般若經系とか龍樹、唯識論系の理論理論で責めてくるもの。後者はたとえば南無阿弥陀仏で阿弥陀の極楽に行けるよというようなもの。あくまでわたしが尊重するのは前者のほうのみに過ぎません。


作品の、散文部分の文体は、あるいは、前衛気取りのしかも冗長な文体と思われるかもしれませんが、…そしてあるいは結果的にそれもまた事実であるにはちがいないのですが、要するにいわゆる古式ゆかしいカット・アップで短い章句をかさねた、と、そんな文体です。


なぜいちいちそんな面倒くさい文体を使うのかと言えば、たとえば、雅楽で謂えば『蘭陵王』一具、その≪亂序≫とか。ああいう≪フーガの技法≫を取り込んだ音楽的なテクスチュアというのを、やってみたかったからです。バッハでもマーラーでもなんでも、音楽で言えば対位法というのは常識的技法なのに、なぜ、文章であんなふうなかさなりあう言葉の戯れを駆使しようとしてはいけないことがあろうものか、と。


また、もうひとつ、たとえば人麻呂に代表されるような長歌のあの、短い章句の乱反射する綺羅めき。あんな言葉の風景を、散文作品の言葉として実現できないものか、と。


もちろん、文の謂わんとする意味だけを取ればそれでいいというなら、ここにあるのは必要以上に冗長かつ散漫な言葉のむれにすぎません。でも、人麻呂の歌をこれは「大君、万歳!」と言っている歌だと意味を取って、それで納得する人なんかいないだろう。マーラーの例えば九十分、あれもテーマだけ抜き取ったらほんの二、三秒の音楽だろう。…と、一応は言い訳をしておきます。


また、念のため、この作品は現状、未だ未定稿というべきもので、更に書き直されるべきものではあります。

及び、なんというか、最初にざっと粗ら書きをひととおり書いたあたりで、ロシアとウクライナの戦争がはじまって、…ここではあえて侵攻という言葉はつかないでおきますが、直接その戦争について言及したり主題化したりするわけではないものの、そんな戦争のある風景の中で修正していったものでもあります。


いま、戦争に関していくつか言っておけば、ブロック・チェーンだのメタ・ヴァースだのファンドだのAIだのなんだのという現在、国家という形態を以てのみ可能であることがなにか、それを考えたら、もはや戦争と領土紛争しか殘らないはずです。現状、国家とは戦争装置である、と。さらに、結局のところ戦争がいったい何なのかと言えば、すくなくとも現代に於いてそれは政治活動の破綻にすぎない、そう思います。政治問題があって、それが政治的解決不能とされ、そこで暴力的に問題系自体を破壊することによって最終的問題解決をはかる、と。たとえば北方領土問題。政治活動としては解決不可能と判断された。しかも問題は解決しなければならない。なら、問題の存在しているということ自体を一気に破壊すればいい。どうすればいいか?あるいは、北方領土に核弾頭なりなんなりあるだけあつめて吹っ飛ばして島を海に沈めちゃいましょうか?領土がなければ領土問題問題もない。あるいはもっと現実的には日本人ならロシアという国家自体を無きものにすればよく、ロシア人なら日本という国家を無きものにすればよい。あいつらみんな殲滅しちゃいましょか?…以上。これが戦争の基本論理。すこしでも頭のいい人間するべきことでしょうか?しかも、そもそも北方領土なんて、あれ、ロシアのものですか?日本のものですか?あれは、アイヌのものでしょ?ロシアも日本も歴史的に他人の領土にすぎない土地を勝手に領土問題化している馬鹿なひとたちというだけではないでしょうか?はっきり言う。北方領土の領土問題なんていうのをやってる暇があったら日本国のために滅ぼされかかっているアイヌ文化のせめてもの維持に努力したほうがはるかにいい。


結局、国家という形態自体が、いまや戦争するしか能のない無能の壮大な張りぼてにすぎない。なら、さっさと放棄してしまえ。かつて無政府主義というものがありましたが、実際にはいま、わたしたちは国家不在の共同体のカタチくらいさまざまに作れる方法論と技術など、いま、いくらでもはずです。だったら、そっちを採用したほうがよい。


いま、今日もたとえば祖国を護るためにウクライナ人のだれかがイノチを張る。銃を取る。祖国?祖国を護る?本当に?普通の日常を守りたいだけじゃない?本來は。実際には。引き金を引くそもそもの目的の本当は。いつから祖国などいう、その言葉。その意味がいったいなんなのかだれにも正確な定義のわからない、ただただ巨大で英雄的で正義らしいひびきだけはある言葉の強烈な信者にされて仕舞ったのだろう?明日普通に会社へ行って、仕事終わりにウォッカ飲んで子供あやして寝たいだけじゃないの?


そんな普通の生活さえ維持できないなら国家という妄想の巨獣にやるべき餌などなにもないはず。いったい、どこの馬鹿が隙あればマスターを喰い散らすことしか狙わない飢えた狂獣を自宅に放し飼いにして、しかもその喉を素手でなでなでしてやることに幸福を見い出すのでしょう?よしよし、今日は、ぼくの左足を喰うのかい?


ロシア、ウクライナ、どちらに正義があるなどという確定をしたいとは思いません。正義の確定など神様以外にできないでしょう。一個人は神様ではなく、しかも神様など存在しない。

ただただ、既存の国家、民族、宗教、歴史、文化、戒律、正義規定及びその逆、こうした概念すべての完全なる破壊と、あたらしい無政府主義に依る、しずかな革命を望みます。


ちなみに、倫理とはなんでしょう?妄想的な架空の伽藍もなく、神様さえもいない肥沃な曠野に立って周囲を見渡せば、簡単な定義だけで終わります。社会生活がある。その維持に倫理が必要である。ここで利益を私利と他利にわける。私利を得ることが倫理か?しかしそれは欲望の充足と定義され得る。わたしは社会全体を含むことはできない。故に倫理はわたしの欲望の充足ではない。依って私利は倫理ではない。倫理は所詮、他利にすぎない。わかりやすく言うと、ただただ眼の前のあなたの幸福のためにどうしようか考え、方策を考え、あなたに尽くしつづけて飽きないこと。もし、あなたと彼とにどうしても落とし所が見えない問題があれば、取り繕ってなあなあでやりすごさせて仕舞い、その場はかしこく立ち回っておくこと。白黒はっきりつけようとしたところで、たとえばホルバイン社の油彩絵具の厖大な種類の白を思って見ればいい。その白と名づけられた一色さえ厖大なヴァリエーションをさらす。黒。本当の唯一の黒ならだれもが知っている。無数に存在するブラック・ホール。イベント・ホライズンのあの黒が唯一無二の黒だ。しかしあれは光りを喪失した色彩の破綻を眼差しがつじつま合わせに処理にしただけの見かけの色彩であって、そもそもが色彩の不在というにすぎない。たとえば紫、黄色、赤、…琥珀色の虹彩の見る夕焼けの色彩と、ブルーの虹彩の見たそれとさえもが実際には差異しているというに、いったい、同じひとつの色彩など見たひとびとがどこにいたのだろう?かつても、これからも?それが神様も、如何となれば眞我=アートマン、つまり本当のそれ、本当のわたしも存在しない曠野に拡がる風景だ。所詮、そんなもの。

存在とはなんだろう?生きるとはなんだろう?倫理とはなんだろう?いかに生きるべき?世界とはなに?生命とはなに?なにが尊厳?わたしとはなに?なぜわたしは生まれた?人類にとって幸福は何なんだ?どこから来て、なにもので、どこへ行くの?…と、でも、たぶん、人間たちの見るこの謎めいた巨大な世界の究極の秘密の素顔とは、実は所詮は、ただそれだけ。


最後に、しかし、もっとも、にもかかわらず以下の作品が試みるのは、あくまでも肥沃な曠野に立つための破壊だけです。だからごくごく消極的なもの。曠野の肥沃な土壌で実際になされるべき具体的な倫理的行為に、文学作品如きの出てくる余地はないはずなので。実際に眼の前のそのひとの幸福について考えるというのは、あくまでも日常のなかの営みでしかあり得ず、所詮、文学なり哲学なりに可能なのは、肥沃な曠野に出るための、妄想の伽藍への破壊工作しかできないのではないでしょうか?


以下、一部に暴力的あるいは露骨な描写を含みます。ご了承の上、お読みすすめください。


自序として謂く、

   あるいは見る。見

   見て、ふれ、ふれ?

   感じ、知り、見て?

   なに?…その観測者は


   かれは、しかもうつくしい

   それ、ふるえ、ゆれ

   ゆれ、散り、玉散り

   飛沫さえに、ゆれ


   綺羅ら。須臾に

   須臾の綺羅ら

   映え、失せ、故に

   名づけた。仮りに


   仮りにわたしと

   見て、ふれ、ふれ?

   知る、知り、見て?

   なに?…その観測者は


   かれは、しかもうつくしい

   それ、きざし、あらわれ

   ゆれ、苛烈に、瞬時に

   あざやかに、ゆれ


   綺羅ら。明晰に

   猶も儚い綺羅

   映え、失せ、故に

   名づけた。仮りに


   仮りに楓と

   見て、ふれ、ふれ?

   感じ、知り、見て?

   なに?…その観測者は


   かれは、かならずしもうつくしくない

   それ、ゆらぎ、舞い、舞って

   のたうち、さらされ、そこに

   ただほのかに、ゆれ


   綺羅ら。失神するに似

   醒めたまま、綺羅

   映え、失せ、故に

   名づけた。仮りに


   仮りに≪流沙≫と

   見て、ふれ、ふれ?

   感じ、知り、見て?

   なに?…その観測者は


   あるいはそこに

   無慚を。狂気し

   ささやくイノチ

   なに?そこに


   畸形のこどもは

   イノチをつなぎ

   生命維持装置

   つながれ、そこに


   見る。かれ。夢を

   醒めながら見た

   それら、夢を

   夢なす夢を見たのを


   見る。あるいは見る

   見て、ふれ、ふれ?

   感じ、知り、見て?

   なに?…その観測者は


   妹殺しの犯罪者を

   母親さえも殺し

   かれは、しかもうつくしい

   それは夢。夢に


   かいま見られた

   飛沫に映え、散り

   綺羅なす綺羅に

   その綺羅めきらに


   見る。かれ。そして夢を

   醒めながら見た

   それら、夢を

   夢なす夢を見たのを


   見る。あるいは見る

   見て、ふれ、ふれ?

   感じ、知り、見て?

   なに?…その観測者は


   母親に殺された

   水没の少年

   かれは、しかもうつくしい

   それは夢。夢に


   かいま見られた

   飛沫に映え、散り

   綺羅なす綺羅に

   その綺羅めきらに


   見る。かれ。そして夢を

   醒めながら見た

   それら、夢を

   夢なす夢を見たのを


   見る。あるいは見る

   見て、ふれ、ふれ?

   感じ、知り、見て?

   なに?…その観測者は


   淚さえ枯れた、ただ

   そこに見るしかなかったかれ

   無罪者。その破壊

   自己破壊、さらに


   破壊。殺害。他者をも

   だから破壊。ついに自裁

   かれは、しかもうつくしい

   それは夢。夢に


   かいま見られた

   飛沫に映え、散り

   綺羅なす綺羅に

   その綺羅めきらに


   見る。かれ。そして夢を

   醒めながら見た

   それら、夢を

   夢なす夢を見たのを


   見なかったにひとしい

   だれも夢など

   ダイスはいつも

   振られなかったにすぎなくば


   いちどしか振られなかった

   ダイス。それは

   振られなかったにひとしい

   なにも、そこに


   無限に振りつづけられた

   ダイス。それは

   振られなかったにひとしい

   いちどさえ、そこに


   だれも見なかった

   夢など

   夢さえその

   ガンダルヴァの城に故に


   絶句。すでに

   そこに、色彩

   あざやかに、絶句

   恍惚。息さえ


   吐くさえ、陶酔

   忘れ、色彩

   言葉は、絶句

   まばたくさえ


   生きてあること、…なに?

   それさえ、絶句

   色彩。ゆらぎ

   ゆらめき、しかも


   それは、しかも猶うつくしい

   夢。赤裸々に、夢に

   翳り。かいま見、その須臾に

   飛沫のうつした


   陽炎のように

   焰のように

   翳りのように

   蝕にふちどる白虹のように


   白虹のひらく蝕のように

   翳りのように

   焰のように

   陽炎のように


   飛沫のうつした

   翳り。かいま見、その須臾に

   夢。赤裸々に、夢に

   それは、しかも猶うつくしい


   ゆらめき、しかも

   色彩。ゆらぎ

   それさえ、絶句

   生きてあること、…なに?


   まばたくさえ

   言葉は、絶句

   忘れ、色彩

   吐くさえ、陶酔


   恍惚。息さえ

   あざやかに、絶句

   そこに、色彩

   絶句。すでに

般若經。龍樹。唯識論。十六文字、色即是空、空即是色。色不異空、空不異色。これらとともに。これらのひびきの下に、見い出そうとするのは倫理。その基礎形式。存立根拠。そして典拠としたのは梶井。その伝説的短編。すなわち『櫻の樹の下には』を、そして詩と散文に依る自由な形式で。更にかさねて謂く、

   絶句。すでに

      もはや、もう

    なにをいまささやく?

     …ね?

   そこに、色彩

      それ。色彩とさえ

    いまさら、なにを

     それ。色彩とさえ

   あざやかに、絶句

      …ね?

    なにも

     もはや、もう

   恍惚。息さえ


   吐くさえ、陶酔

      だからさ、綺羅ら

    なにものもすでに

     なにを見ようか?

   忘れ、色彩

      どこへ行こうか?

    綺羅めいて

     どこ行く?どこ?

   言葉は、絶句

      なにを聞こうか?

    せつないばかりに

     ひたすら、綺羅ら

   まばたくさえ


   生きてあること、…なに?

      なににふれあい、なに?

    いたましいほど

     なにを想おう?

   それさえ、絶句

      なにを感じ、なに?

    綺羅めいて

     なになになに、なに?

   色彩。ゆらぎ

      なにを想おう?

    なにものももはや

     なににふれ、なに?

   ゆらめき、しかも


   それは、しかも猶うつくしい

      綺羅めき

    綺羅。綺羅ら

     盡きさえも

   夢。赤裸々に、夢に

      果てさえもなく

    それら綺羅めき

     果てもなく

   翳り。かいま見、その須臾に

      須臾の滅びも

    綺羅ら。もはや

     綺羅めき

   飛沫のうつした


   陽炎のように

      ゆらめき。ゆららっ

    ひたすらに綺羅

     綺羅めききらら

   焰のように

      限りもなく

    綺羅ら。綺羅

     窮まりもなく

   翳りのように

      綺羅めききらら

    すでに無限の

     ゆらめき。ゆららっ

   蝕にふちどる白虹のように


   白虹のひらく蝕のように

      綺羅めききらら

    すでに無窮の

     限りもなく

   翳りのように

      窮まりもなく

    綺羅ら。綺羅

     窮まれもせず

   焰のように

      限られえもせず

    ひたすらに綺羅

     綺羅めききらら

   陽炎のように


   飛沫のうつした

      須臾の滅びも

    綺羅ら。もはや

     綺羅めき

   翳り。かいま見、その須臾に

      果てもなく

    それら綺羅めき

     果てさえもなく

   夢。赤裸々に、夢に

      綺羅めき

    綺羅。綺羅ら

     盡きさえも

   それは、しかも猶うつくしい


   ゆらめき、しかも

      なにを想おう?

    なにものももはや

     なににふれ、なに?

   色彩。ゆらぎ

      なになになに、なに?

    綺羅めいて

     なにを感じ、なに?

   それさえ、絶句

      なににふれあい、なに?

    いたましいほど

     なにを想おう?

   生きてあること、…なに?


   まばたくさえ

      なにを聞こうか?

    せつないばかりに

     ひたすら、綺羅ら

   言葉は、絶句

      どこ行く?どこ?

    綺羅めいて

     どこへ行こうか?

   忘れ、色彩

      だからさ、綺羅ら

    なにものもすでに

     なにを見ようか?

   吐くさえ、陶酔


   恍惚。息さえ

      …ね?

    なにも

     もはや、もう

   あざやかに、絶句

      それ。色彩とさえ

    いまさら、なにを

     それ。色彩とさえ

   そこに、色彩

      もはや、もう

    なにをいまささやく?

     …ね?

   絶句。すでに

うつくしい、と。あなたはすでに美しいと、猶もそこに、うつくしい、と。せめてそうとでもささやいておこうか?もはやそんな戲れ言くらしか、ささやくべき言葉の影さえ、殘っていないから。









Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

0コメント

  • 1000 / 1000