中論 Mūlamadhyamaka-kārikā 觀邪見品下・龍樹 Nāgārjuna の偈を、青目 Piṅgala が釈し、三蔵法師鳩摩羅什 Kumārajīva が訳す・漢訳原文と書き下し(33)
中論卷の第四
龍樹菩薩造
梵志靑目釋
姚秦三藏鳩摩羅什譯す
若天異於人 是即爲無常
若天異人者 是則無相續
若天與人異。則爲無常。無常則爲斷滅等過。如先說過。若天與人異。則無相續。若有相續。不得言異。復次。
◎
≪若し天、人に〔=於〕異ならば
是即に無常なり〔=爲〕
若し天、人に異ならば〔=者〕
是れ則ち相續無し≫
若し天、人と〔=與〕異ならば〔=則〕無常なり〔=爲〕。
無常、則ち斷滅等の過なり〔=爲〕。
先說の過の如くに。
若し天、人と〔=與〕異ならば〔=則〕相續無し。
若し相續有らば、異なりとは言ひ得ず。
復、次に、
若半天半人 則墮於二邊
常及於無常 是事則不然
若衆生半身是天。半身是人。若爾則有常無常。半天是常。半人是無常。但是事不然。何以故。一身有二相過故。復次。
◎
≪若し半天・半人ならば
則ち二邊に〔=於〕墮す
常及び無常に〔=於〕
是の事は〔=則〕然らず≫
若し衆生半身是れ天、半身是れ人にして、若しも爾ならば〔=則〕有常にして無常なり。
半天是れ常。
半人是れ無常。
但に是の事、然らず。
何を以ての故に。
一身に二相有る過の故に。
復、次に、
若常及無常 是二俱成者
如是則應成 非常非無常
若常無常二俱成者。然後成非常非無常。與常無常相違故。今實常無常不成。是故非常非無常亦不成。復次今生死無始。是亦不然。何以故。
◎
≪若し常及び無常
是れら二俱に成ぜば〔=者〕
是の如きは〔=則〕應に成じん
非常にして非無常なるを≫
若し常・無常の二俱に成ぜば〔=者〕、然る後、非常・非無常をも成ず。
常・無常と〔=與〕の相違の故に。
今實には常・無常成ぜず。
是の故、非常・非無常も〔=亦〕成ぜず。
復、次に今の生死、その始めも無き、と。
是れも〔=亦〕然らず。
何を以ての故に。
法若定有來 及定有去者
生死則無始 而實無此事
法若決定有所從來。有所從去者。生死則應無始。是法以智慧推求。不得有所從來。有所從去。是故生死無始。是事不然。復次。
◎
≪法、若し來の定有ならば
及び去の定有ならば〔=者〕
生死は〔=則〕その始めも無し
而れど實には此の事無し≫
法し若、決定の從來〔=所從來〕有り、從去〔=所從去〕も有らば〔=者〕生死は〔=則〕應に始めも無し。
是の法、智慧を以て推求するに從來〔=所從來〕は有り得ず。
從去〔=所從去〕も有り〔得ず〕。
是の故、生死無始といふ是の事、然らず。
復、次に、
今若無有常 云何有無常
亦常亦無常 非常非無常
若爾者。以智慧推求。無法可得常者。誰當有無常。因常有無常故。若二俱無者。云何有亦有常亦無常。若無有常無常。云何有非有常非無常。因亦有常亦無常故。有非有常非無常。是故依止過去世常等四句不可得。有邊無邊等四句依止未來世。是事不可得。今當說。何以故。
◎
≪今若し常有ること無くば
云何んが無常有る
亦は常、亦は無常なるも
非常・非無常なるも≫
若し爾らば〔=者〕智慧を以て推求するに法の常なり得可き者無し。
誰か當に無常たる〔=有〕。
常に因り無常有らば〔=故〕。
若し二俱に無くば〔=者〕云何んが亦は有常、亦は無常有る。
若し常・無常有ること無くば云何んが非有常・非無常有る。
亦は有常、亦は無常なるに因るが故、非有常・非無常有らんに。
是の故、過去世に依止する常等の四句、不可得なり。
有邊・無邊等の四句、未來世に依止したり。
是の事も不可得なり。
今當に說かん。
さて何を以ての故に。
若世間有邊 云何有後世
若世間無邊 云何有後世
若世間有邊。不應有後世。而今實有後世。是故世間有邊不然。若世間無邊。亦不應有後世。而實有後世。是故世間無邊亦不然。復次是二邊不可得。何以故。
◎
≪若し世間、有邊ならば
云何んが後世有る
若し世間、無邊ならば
云何んが後世有る≫
若し世間有邊ならば應に後世有るべからず。
而れど今實には後世有り。
是の故、世間有邊なるは然らず。
若し世間無邊なるも亦應に後世有らず。
而れど實には後世有り。
是の故、世間無邊なるも〔=亦〕然らず。
復、次に是の二邊、不可得なり。
何を以ての故に。
五陰常相續 猶如燈火炎
以是故世間 不應邊無邊
從五陰復生五陰。是五陰次第相續。如衆緣和合有燈炎。若衆緣不盡燈則不滅。若盡則滅。是故不得說世間有邊無邊。復次。
◎
≪五陰、常に相續し
猶し燈火の炎の如し
是れを以ての故、世間
應に邊・無邊たりえず≫
五陰從り復、五陰を生ず。
是の五陰、次第に相續す。
衆緣和合し燈炎有るが如くに。
若し衆緣、燈を盡くさずば〔=則〕不滅なり。
若し盡くれば〔=則〕滅したり。
是の故、世間の有邊・無邊の說をは得ず。
復、次に、
若先五陰壞 不因是五陰
更生後五陰 世間則有邊
若先陰不壞 亦不因是陰
而生後五陰 世間則無邊
若先五陰壞。不因是五陰更生後五陰。如是則世間有邊。若先五陰滅已。更不生餘五陰。是名爲邊。邊名末後身。若先五陰不壞。不因是五陰而生後五陰。世間則無邊。是則爲常。而實不爾。是故世間無邊。是事不然。世間有二種。國土世間。衆生世間。此是衆生世間。復次如四百觀中說。
◎
≪若し先きの五陰壞せば
是の五陰に因り
更に後の五陰をは生ぜず
かれ世間は〔=則〕有邊
若し先きに陰不壞ならば
亦、是の陰に因り
而して後の五陰を生じき
かれ世間は〔=則〕無邊≫
若し先きの五陰壞せば是の五陰に因り更に後の五陰生ぜず。
是の如きは〔=則〕世間有邊なり。
若し先きの五陰滅し已はらば更に餘の五陰は生ぜず。
是れ名づけて邊とす〔=爲〕。
邊、末後身と名づく。
若し先きの五陰壞さずば是の五陰に因りて〔=而〕後の五陰生ず。
世間は〔=則〕無邊なり。
是れ則ち常なり〔=爲〕。
而れど實には爾らず。
是の故、世間無邊といふ是の事、然らず。
世間、二種有り。
國土世間。
衆生世間。
此れぞ是れ衆生世間なり。
復、次に四百觀中の說の如く、
眞法及說者 聽者難得故
如是則生死 非有邊無邊
不得眞法因緣故。生死往來無有邊。或時得聞眞法得道故。不得言無邊。今當更破亦有邊亦無邊。
◎
≪眞法、及び說者
聽者、得難き故に
是の如かれば〔=則〕生死
有邊にも無邊にも非らず≫
眞法を得ざる因緣の故、生死・往來その邊有ること無し。
或る時は眞法を聞き得、道を得たり。
故、無邊と言ひ得ず。
今當に更に亦は有邊、亦は無邊を破さん。
若世半有邊 世間半無邊
是則亦有邊 亦無邊不然
若世間半有邊半無邊。則應是亦有邊亦無邊。若爾者。則一法二相。是事不然。何以故。
◎
≪若し世の半は有邊
世間の半は無邊ならば
しからば是れ則ち亦は有邊
亦は無邊、しかれど然らず≫
若し世間の半は有邊なり、半は無邊ならば〔=則〕應に是れ亦は有邊、亦は無邊なり。
若し爾らば〔=者〕則ち一法に二相なり。
是の事、然らず。
何を以ての故に。
彼受五陰者 云何一分破
一分而不破 是事則不然
受亦復如是 云何一分破
一分而不破 是事亦不然
受五陰者。云何一分破。一分不破。一事不得亦常亦無常。受亦如是。云何一分破。一分不破。常無常二相過故。是故世間亦有邊亦無邊則不然。今當破非有邊非無邊見。
◎
彼の受五陰者
云何んが一分を破し
一分を(而)破さざる
是の事は〔=則〕然らず
受、亦復に是の如し
云何んが一分を破し
一分を(而)破さざる
是の事も〔=亦〕然らず≫
五陰受くる者、云何んが一分破し一分破さざる。
一事に亦は常、亦は無常なるを得ず。
受も〔=亦〕是の如し。
云何んが一分破し、一分破さざる。
常・無常の二相なる過の故、是の故に世間の亦は有邊、亦は無邊といふは〔=則〕然らず。
今當に非有邊・非無邊の見をも破さん。
若亦有無邊 是二得成者
非有非無邊 是則亦應成
與有邊相違故有無邊。如長相違有短。與有無相違。則有亦有亦無。與亦有亦無相違故。則有非有非無。若亦有邊亦無邊定成者。應有非有邊非無邊。何以故。因相待故。上已破亦有邊亦無邊第三句。今云何當有非有邊非無邊。以無相待故。如是推求。依止未來世有邊等四見皆不可得。復次。
◎
≪若し亦、有無邊
是の二、成じ得たれば〔=者〕
非有・非無なる邊
是れぞ〔=則〕亦應に成ぜん≫
有邊と〔=與〕の相違の故、無邊有り。
長の相違に短有るが如くに。
有無と〔=與〕の相違に則ち亦は有・亦は無有り。
亦は有・亦は無と〔=與〕の相違の故にぞ〔=則〕非有・非無有り。
若し亦は有邊・亦は無邊、定成したれば〔=者〕應に非有邊・非無邊や有らん。
何を以ての故に。
相待に因るが故に。
上に已に亦は有邊・亦は無邊の第三句を破したり。
今、云何んが當に非有邊・非無邊有らん。
相待無きを以ての故に。
是の如く推求するに未來世に依止する有邊等の四見皆、不可得なり。
復、次に、
一切法空故 世間常等見
何處於何時 誰起是諸見
上以聲聞法破諸見。今此大乘法中說。諸法從本以來畢竟空性。如是空性法中無人無法。不應生邪見正見。處名土地。時名日月歲數。誰名爲人。是名諸見體。若有常無常等決定見者。應當有人出生此見。破我故無人生是見。應有處所色法現見尚可破。何況時方。若有諸見者應有定實。若定則不應破。上來以種種因緣破。是故當知見無定體。云何得生。如偈說。何處於何時。誰起是諸見。
◎
≪一切法、空なる故
世間の常等の見
何處にか、何時に〔=於〕か
誰か是れら諸見を起こす≫
上に聲聞法を以て諸見を破したり。
今、此の大乘法中に說かん。
諸法、本從り以來、畢竟にして空の性なり。
是の如き空性の法中に人無し。
法だに無し。
應に邪見も正見も生ぜず。
處、土地と名づく。
時、日月歲數と名づく。
誰か名づけて人とす〔=爲〕。
是れ諸見の體と名づく。
若し常・無常等に決定の見有らば〔=者〕應に(當)人の此の見を出生するべし。
我を破すが故、人の是の見を生ずるも無し。
應に處所に色法有るも現見にだに〔=尚〕破さる可きに、何を況んや時方をや。
若し諸見者有らば應に定實有るべし。
若し定ならば〔=則〕應に破すべからず。
上來、種種の因緣を以て破したり。
是の故に當に知るべし、見の定體は無しと。
云何んが生じ得る。
偈說の如し、≪何處にか、何時に〔=於〕か、誰か是れら諸見を起こす≫と。
瞿曇大聖主 憐愍說是法
悉斷一切見 我今稽首禮
一切見者。略說則五見。廣說則六十二見。爲斷是諸見故說法。大聖主瞿曇。是無量無邊不可思議智慧者。是故我稽首禮。
中論卷第四
◎
≪瞿〔ク〕曇〔ドン〕大聖主
憐愍し是の法を說きたまふ
悉く一切見を斷じたまふ
我今稽首し禮したてまつる≫
一切見とは〔=者]略說せば〔=則〕五見なり。
廣說せば〔=則〕六十二見なり。
是れら諸見を斷じんが爲の故に法を說きたまふ。
大聖主瞿曇。
是れ量るべく無く邊だに無く思議す可くもなき智慧者。
是の故、我稽首し禮したてまつる」と。
中論卷第四
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