中論 Mūlamadhyamaka-kārikā 觀如來品・龍樹 Nāgārjuna の偈を、青目 Piṅgala が釈し、三蔵法師鳩摩羅什 Kumārajīva が訳す・漢訳原文と書き下し(27)


中論卷の第四

  龍樹菩薩造

  梵志靑目釋

  姚秦三藏鳩摩羅什譯す



■中論觀如來品第二十二//十六偈

問曰。一切世中尊。唯有如來正遍知。號爲法王。一切智人是則應有。答曰。今諦思惟。若有應取。若無何所取。何以故。如來。

問へらく〔=曰〕、

「一切世中の尊、唯、如來正遍知のみ有り。

 號して法王、一切智人とす〔=爲〕。

 是れ則ち應に有なるべし」と。

答へらく〔=曰〕

「今諦〔顯〕らかに思惟せよ。

 若し有ならば應に取るべし。

 若し無ならば何の所取なる。

 何を以ての故に。

 如來とは、(※如來は、如〔=それのその如きまま〕に來〔=至る〕たる)


 非陰不離陰  此彼不相在

 如來不有陰  何處有如來

若如來實有者。爲五陰是如來。爲離五陰有如來。爲如來中有五陰。爲五陰中有如來。爲如來有五陰。是事皆不然。五陰非是如來。何以故。生滅相故。五陰生滅相。若如來是五陰。如來即是生滅相。若生滅相者。如來即有無常斷滅等過。又受者受法則一。受者是如來。受法是五陰。是事不然。是故如來非是五陰。離五陰亦無如來。若離五陰有如來者。不應有生滅相。若爾者。如來有常等過。又眼等諸根不能見知。但是事不然。是故離五陰亦無如來。如來中亦無五陰。何以故。若如來中有五陰。如器中有果水中有魚者。則爲有異。若異者。即有如上常等過。是故如來中無五陰。又五陰中無如來。何以故。若五陰中有如來。如床上有人器中有乳者。如是則有別異。如上說過。是故五陰中無如來。如來亦不有五陰。何以故。若如來有五陰。如人有子。如是則有別異。若爾者。有如上過。是事不然。是故如來不有五陰。如是五種求不可得。何等是如來。問曰。如是義求如來不可得。而五陰和合有如來。答曰。

≪陰に非らず、陰を離れず

  此彼に相在せず

 如來、陰を有せず

  何處にか如來有らん≫

「若し如來、實有ならば〔=者〕その五陰を是れ如來とせ〔=爲〕ん。

 五陰を離れ如來有りとせ〔=爲〕ん。

 如來中に五陰有りとせ〔=爲〕ん。

 五陰中に如來有りとせ〔=爲〕ん。

 如來に五陰有りとせ〔=爲〕ん。

 是れらの事皆に然らず。

 五陰、是れ如來に非らず。

 何を以ての故に。

 生滅相の故に。

 五陰、生滅相なり。

 若し如來、是れ五陰ならば如來即ち是れ生滅相なり。

 (若)生滅相ならば〔=者〕如來は〔=即〕無常・斷滅等の過有り。

 又、受者・受法、則ち一なり。

 受者、是れ如來。

 受法、是れ五陰。

 是の事、然らず。

 是の故、如來、是れ五陰に非らず。

 五陰を離れても〔=亦〕如來無し。

 若し五陰を離れ如來有らば〔=者〕應に生滅相有るべからず。

 (若)爾らば〔=者〕如來に常なり等の過有り。

 又、眼等の諸根、見知る能はず。

 但に是の事、然らず。

 是の故、五陰を離れても〔=亦〕如來無し。

 如來中にも〔=亦〕五陰無し。

 何を以ての故に。

 若し如來中に五陰有らば、器中に果有り、水中に魚有るが如し。

 しからば〔=者〕則ち異有るなり〔=爲〕。

 若し異ならば〔=者〕即ち上の如き常なり等の過有り。

 是の故、如來中に五陰無し。

 又、五陰中にも如來無し。

 何を以ての故に。

 若し五陰中に如來有らば、床上に人有り、器中に乳有るが如し。

 しからば〔=者〕是の如き、則ち別異有り。

 上說の如き過なり。

 是の故、五陰中の如來無し。

 如來も〔=亦〕五陰を有せず。

 何を以ての故に。

 若し如來、五陰有らば、人に子有るが如く、是の如きは〔=則〕その別異有り。

 若し爾らば〔=者〕上の如き過有り。

 是の事、然らず。

 是の故、如來に五陰有らず。

 是の如く五種に求め不可得なるに、何等か是れ如來なる」と。

問へらく〔=曰〕、

「是の如き義に如來を求むれば不可得なり。

 而れど五陰和合して如來有り」と。

答へらく〔=曰〕、


 陰合有如來  則無有自性

 若無有自性  云何因他有

若如來五陰和合故有。即無自性。何以故。因五陰和合有故。問曰。如來不以自性有。但因他性有。答曰。若無自性。云何因他性有。何以故。他性亦無自性。又無相待因故。他性不可得。不可得故不名爲他。復次。

≪その陰、合して如來有らば

  則ち自性有ること無し

 若し自性有ること無くば

  云何んが他に因り有る≫

「若し如來、五陰和合の故に有らば〔=即〕その自性は無し。

 何を以ての故に。

 五陰和合に因り有るが故に」と。

問へらく〔=曰〕、

「如來、自性を以て有らず。

 但に他性に因り有り」と。

答へらく〔=曰〕、

「若し自性無くば云何んが他性に因り有らん。

 何を以ての故に。

 他性も亦、自性無し。

 又、相ひ待因する無きが故に他性、不可得なり。

 不可得ならば〔=故〕名づけて他とせ〔=爲〕ず。

 復、次に、


 法若因他生  是即爲非我

 若法非我者  云何是如來

若法因衆緣生。即無有我。如因五指有拳。是拳無有自體。如是因五陰名我。是我即無自體。我有種種名。或名衆生人天如來等。若如來因五陰有。即無自性。無自性故無我。若無我云何說名如來。是故偈中說法若因他生是即為非我。若法非我者云何是如來。復次。

≪法、若し他に因り生ぜば

  是れ即ち非我なり〔=爲〕

 若し法、非我ならば〔=者〕

  云何んが是れ如來なる≫

「若し法、衆緣因り生ぜば〔=即〕その我有ること無し。

 五指に因り拳有るが如くに。

 是の拳、その自體有ること無し。

 是の如く、五陰に因りて我と名づく。

 是の我、即ち自體無し。

 我に種種に名有り。

 或は衆生、人、天、如來等と名づく。

 若し如來、五陰に因り有らば即ちその自性無し。

 自性無くば〔=故〕無我なり。

 (若)無我ならば云何んが說きて如來と名づく。

 是の故、偈中に說きたり、≪法、若し他因り生ぜば是即に非我なり〔=爲〕。

 若し法、非我ならば〔=者〕云何んが是れ如來なる≫と。

 復、次に、


 若無有自性  云何有他性

 離自性他性  何名爲如來

若無自性。他性亦不應有。因自性故名他性。此無故彼亦無。是故自性他性二俱無。若離自性他性。誰爲如來。復次。

≪若し自性有ること無くば

  云何んが他性有る

 自性・他性を離れ

  何をか名づけて如來とす〔=爲〕≫

 若し自性無くば、他性も亦應に有らず。

 自性に因るが故、他性と名づく。

 此れ無くば〔=故〕彼も〔=亦〕無し。

 是の故、自性・他性二俱に無し。

 若し自性・他性を離れ、誰をか如來とす〔=爲〕。

 復、次に、


 若不因五陰  先有如來者

 以今受陰故  則說爲如來

 今實不受陰  更無如來法

 若以不受無  今當云何受

 若其未有受  所受不名受

 無有無受法  而名爲如來

 若於一異中  如來不可得

 五種求亦無  云何受中有

 又所受五陰  不從自性有

 若無自性者  云何有他性

若未受五陰。先有如來者。是如來今應受五陰。已作如來。而實未受五陰時先無如來。今云何當受。又不受五陰者。五陰不名爲受。無有無受而名爲如來。又如來一異中求不可得。五陰中五種求亦不可得。若爾者。云何於五陰中說有如來。又所受五陰。不從自性有。若謂從他性有。若不從自性有。云何從他性有。何以故。以無自性故。又他性亦無。復次。

≪若し五陰に因らず

  先きに如來有らば〔=者〕

 今の受陰を以ての故に

  則ち說いて如來とす〔=爲〕

 今實には陰を受けずば

  更に如來の法無し

 若し受けざるを以て無ならば

  今當に云何んが受く

 若し其れ未だ受有らざれば

  所受を受と名づけず

 有ること無し、受法無きに

  (而)名のみ如來とす〔=爲〕など

 若し一異中に〔=於〕

  如來不可得ならば

 五種に求めて亦に無し

  云何んが受中に有る

 又、所受の五陰

  自性從り有らず

 若し自性無くば〔=者〕

  云何んが他性のみ有る≫

 若し未だ五陰を受けず如來、先有ならば〔=者〕是の如來、今應に五陰を受け、已はりて如來と作りたり。

 而れど實には未だ五陰を受けぬ時、先きに如來は無し。

 今云何んが當に受くべし。

 又、五陰受けざれば〔=者〕その五陰、名づけて受とはせ〔=爲〕ず。

 受無きに(而)名づけて如來とする〔爲〕有ること無し。

 又、如來、一異中に求めても不可得なり。

 五陰中に五種に求むれども〔=亦〕不可得なり。

 (若)爾らば〔=者〕云何んが五陰中に〔=於〕『如來有り』と說く。

 又、所受の五陰、その自性從りは有らず。

 若し『他性從り有り』と謂はば(若)自性從り有らざるに云何んが他性從り有らん。

 何を以ての故に。

 自性無きを以ての故に(又)その他性も〔=亦〕無くば。

 復、次に、


 以如是義故  受空受者空

 云何當以空  而說空如來

以是義思惟。受及受者皆空。若受空者。云何以空受。而說空如來。問曰。汝謂受空受者空。則定有空耶。答曰不然。何以故。

≪是の如き義を以ての故に

  受も空、受者も空

 云何んが當に空を以て

  (而)空なる如來を說く≫

 是の義を以て思惟せば受、及び受者皆に空なり。

 若し受、空ならば〔=者〕云何んが空を以て受く。

 (而)空なる如來を說く」と。

問へらく〔=曰〕、

「汝謂さく、『受は空、受者も空』と。

 則ち空は定有なるや〔=耶〕」と。

答へらく〔=曰〕、

「然らず。

 何を以ての故に。


 空則不可說  非空不可說

 共不共叵說  但以假名說

諸法空則不應說。諸法不空亦不應說。諸法空不空亦不應說。非空非不空亦不應說。何以故。但破相違故。以假名說。如是正觀思惟。諸法實相中。不應以諸難爲難。何以故。

≪空は〔=則〕說く可くもなし

  非空も說く可くもなし

 共なるも共ならざるも說き叵〔難〕し

  但に假名を以て說くのみ≫

 諸法空ならば〔=則〕應に說くべからず。

 諸法空ならずてだに(亦)應に說くべからず。

 諸法空なるも不空なるも亦、應に說くべからず。

 空に非らず・空なるに非らずても亦、應に說くべからず。

 何を以ての故に。

 但に相違を破するが故に假名を以て說くのみ。

 是の如き正觀思惟に、諸法實相中、應に諸難を以て難しとす〔=爲〕べからず。

 何を以ての故に。


 寂滅相中無  常無常等四

 寂滅相中無  邊無邊等四

諸法實相。如是微妙寂滅。但因過去世。起四種邪見。世間有常。世間無常。世間常無常。世間非常非無常。寂滅中盡無。何以故。諸法實相。畢竟淸淨不可取。空尚不受。何況有四種見。四種見皆因受生。諸法實相無所因受。四種見皆以自見爲貴。他見爲賤。諸法實相無有此彼。是故說寂滅中無四種見。如因過去世有四種見。因未來世有四種見亦如是。世間有邊。世間無邊。世間有邊無邊。世間非有邊非無邊。問曰。若如是破如來者。則無如來耶。答曰。

≪寂滅相中に

  常・無常等の四は無し

 寂滅相中に

  邊・無邊等の四は無し≫

 諸法實相、是の如き微妙寂滅なり。

 但に過去世に因り四種の邪見、世間有常・世間無常・世間常無常・世間非常非無常を起こしたり。

 寂滅中には盡く無きに。

 何を以ての故に。

 諸法實相、畢竟にして淸淨なり。

 取る可くもなし。

 空だに〔=尚〕受けず。

 何を況んや四種の見の有るをや。

 四種見、皆に受に因り生じき。

 諸法實相、所因を受くる無し。

 四種見皆に自見を以て貴しとす〔=爲〕。

 他見を賤しとしたり〔=爲〕。

 諸法實相、此彼有ること無し。

 是の故、≪寂滅中に四種の見無し≫と說きたり。

 過去世に因り四種見有るが如く、未來世に因り四種見有り。

 亦に是の如し。

 それ、世間有邊・世間無邊・世間有邊無邊・世間非有邊非無邊なり」と。

問へらく〔=曰〕、

「若し是の如く如來を破せば〔=者〕則ち如來は無きや〔=耶〕」と。

答へらく〔=曰〕、


 邪見深厚者  則說無如來

 如來寂滅相  分別有亦非

邪見有二種。一者破世間樂。二者破涅槃道。破世間樂者。是麤邪見。言無罪無福。無如來等賢聖。起是邪見捨善爲惡。則破世間樂。破涅槃道者。貪著於我。分別有無。起善滅惡。起善故得世間樂。分別有無故不得涅槃。是故若言無如來者。是深厚邪見。乃失世間樂。何況涅槃。若言有如來。亦是邪見。何以故。如來寂滅相。而種種分別故。是故寂滅相中。分別有如來。亦爲非。

≪邪見、深厚ならば〔=者〕

  則ち如來無しと說かん

 如來、寂滅相なり

  有りと分別すれば亦、非なり≫

「邪見、二種有り。

 一は〔=者〕破世間樂。

 二は〔=者〕破涅槃道。

 破世間樂とは〔=者〕是れ麤なる邪見なり。

 『無罪なり、無福なり、如來等賢聖も無き』と言へり。

 是の邪見を起こせば善を捨て惡を爲す。

 則ち世間の樂を破したり。

 破涅槃道とは〔=者〕我に〔=於〕貪著したり。

 有無を分別し、善を起こし惡を滅す。

 善を起こすが故、世間の樂を得たり。

 有無を分別すれば〔=故〕涅槃をは得ず。

 是の故、若し『如來無し』と言はば〔=者〕是れ深厚なる邪見なり。

 乃ち世間樂を失す。

 何を況んや涅槃をや。

 若し『如來有り』と言ふも〔=亦〕是れ邪見なり。

 何を以ての故に。

 如來、寂滅相なり。

 而るを種種に分別したり。

 故に、是の故に寂滅相中に『如來有り』とするも亦、非なり〔=爲〕。


 如是性空中  思惟亦不可

 如來滅度後  分別於有無

諸法實相性空故。不應於如來滅後思惟若有若無。若有無。如來從本已來畢竟空。何況滅後。

≪是の如き性空中

  思惟も〔=亦〕不可

 如來、滅度の後

  有無を〔=於〕分別したり≫

 諸法實相にその性、空なり。

 故に應に如來滅後に〔=於〕若しは有り、若しは無し、若しは有りて無しとの思惟、すべからず。

 如來、その本從りこのかた〔=已來〕畢竟にして空なり。

 何を況んやその滅後をや。


 如來過戲論  而人生戲論

 戲論破慧眼  是皆不見佛

戲論名憶念取相分別此彼。言佛滅不滅等。是人爲戲論。覆慧眼故不能見如來法身。此如來品中。初中後思惟。如來定性不可得。是故偈說。

≪如來、戲論を過ぎ

  〔=而〕人、戲論を生ず

 戲論、慧眼を破す

  是れら皆、佛をは見ず≫

 戲論を憶念し相を取り、此彼を分別すと名づく。

 佛の滅、不滅等を言ふ是の人、戲論を爲す。

 その慧眼、覆はれたれば〔=故〕如來法身を見る能はず。

 此の如來品中、初中後に思惟して如來の定性、不可得なり。

 是の故偈に說けらく、


 如來所有性  即是世間性

 如來無有性  世間亦無性

此品中思惟推求。如來性即是一切世間性。問曰。何等是如來性。

答曰。如來無有性。同世間無性。

≪如來の所有の性

  即ち是れ世間の性

 如來、その性有ること無し

  世間も〔=亦〕その性は無し≫

 此の品中に思惟推求するに如來の性、即是にして一切世間の性なり」と。

問へらく〔=曰〕、

「何等か是れ如來の性なる」と。

答へらく〔=曰〕、

「如來、その性有ること無し。

 同じくに世間もその性は無し」と。







Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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