中論 Mūlamadhyamaka-kārikā 觀法品・龍樹 Nāgārjuna の偈を、青目 Piṅgala が釈し、三蔵法師鳩摩羅什 Kumārajīva が訳す・漢訳原文と書き下し(23))


中論卷の第三

  龍樹菩薩造

  梵志靑目釋

  姚秦三藏鳩摩羅什譯す



■中論觀法品第十八//十二偈

問曰。若諸法盡畢竟空無生無滅。是名諸法實相者。云何入。答曰。滅我我所著故。得一切法空。無我慧名爲入。問曰。云何知諸法無我。答曰。

問へらく〔=曰〕、

「(若)諸法、盡く畢竟にして空、生無く滅も無きを、是れ諸法の實相と名づく。

 しからば〔=者〕云何んが入る」と。

答へらく〔=曰〕、

「我・我所の著、滅せば〔=故〕一切法空を得たり。

 無我なる慧を名づけ入とす〔=爲〕」と。

問へらく〔=曰〕、

「云何んが諸法無我なるを知る」と。

答へらく〔=曰〕、


 若我是五陰  我即爲生滅

 若我異五陰  則非五陰相

 若無有我者  何得有我所

 滅我我所故  名得無我智

 得無我智者  是則名實觀

 得無我智者  是人爲希有

 內外我我所  盡滅無有故

 諸受即爲滅  受滅則身滅

 業煩惱滅故  名之爲解脫

 業煩惱非實  入空戲論滅

 諸佛或說我  或說於無我

 諸法實相中  無我無非我

 諸法實相者  心行言語斷

 無生亦無滅  寂滅如涅槃

 一切實非實  亦實亦非實

 非實非非實  是名諸佛法

 自知不隨他  寂滅無戲論

 無異無分別  是則名實相

 若法從緣生  不即不異因

 是故名實相  不斷亦不常

 不一亦不異  不常亦不斷

 是名諸世尊  教化甘露味

 若佛不出世  佛法已滅盡

 諸辟支佛智  從於遠離生

有人說神。應有二種。若五陰即是神。若離五陰有神。若五陰是神者神則生滅相。如偈中說。若神是五陰即是生滅相。何以故。生已壞敗故。以生滅相故。五陰是無常。如五陰無常。生滅二法亦是無常。何以故。生滅亦生已壞敗故無常。神若是五陰。五陰無常故。神亦應無常生滅相。但是事不然。

≪(若)我、是れ五陰ならば

  我、即ち生滅なり〔=爲〕

 (若)我、五陰に異ならば

  則ち五陰の相に非らず

 (若)我、有ること無くば〔=者〕

  何んが我所、有るを得ん

 我・我所、滅せば〔=故〕

  無我智を得たりと名づく

 無我智を得るとは〔=者〕

  是れ則ち實觀と名づく

 無我智を得れば〔=者〕

  是の人、希有なり〔=爲〕

 內外の我・我所

  盡く滅し有ること無くば〔=故〕

 諸受は〔=即〕滅したり〔=爲〕

  受、滅せば〔=則〕その身も滅したり

 業、煩惱、滅したれば〔=故〕

  之れを名づけ解脫とす〔=爲〕

 業、煩惱、實に非らず

  空に入らば戲論は滅す

 諸佛、或は我を說きたまひ

  或は無我を〔=於〕說きたまふ

 諸法實相中に

  我無し、非我も無し

 諸法實相とは〔=者〕

  心行言語斷じ

 生無く、(亦)滅も無く

  その寂滅、涅槃の如し

 一切は實なり、實に非らず

  亦は實・亦は實に非らず

 實に非らず・實に非らざるにも非らず

  是れら諸佛の法と名づく

 自ら知り、他の隨ならず

  寂滅に戲論無し

 異無し、分別無し

  是れぞ〔=則〕實相と名づく

 若し法、緣從り生ぜば

  因に即せず、異ならず

 是の故、實相と名づく

  斷ぜず、亦、常ならず

 一ならず、亦、異ならず

  常ならず、亦、斷ぜず

 是れら諸の世尊

  敎化の甘露味と名づく

 若し佛、出世したまはず

  佛法已に滅盡するも

 諸の辟支佛の智

  遠離に從り生じん≫

「有る人說けらく、『神、應に二種有り』と。

 若しは『五陰即ち是れ神なり』と。

 若しは五陰を離れ神有り』と。

 若し五陰是れ神ならば〔=者〕神則ち生滅の相なり。

 偈中に說けるが如し、≪若し神是れ五陰ならば即ち是れ生滅の相なり≫と。

 何を以ての故に。

 生じ已はり壞敗するが故に。

 その生滅相を以ての故に。

 五陰是れ無常なり。

 五陰無常なる如く生滅二法、亦に是れ無常なり。

 何を以ての故に。

 生滅も〔=亦〕、生じ已はり壞敗するが故に無常なり。

 神若し是れ五陰ならば、五陰無常なるが故、神も亦應に無常なり。

 生滅相なり。

 但に是事、然らず。


若離五陰有神。神即無五陰相。如偈中說。若神異五陰。則非五陰相。而離五陰更無有法。若離五陰有法者。以何相何法而有。若謂神如虛空離五陰而有者。是亦不然。何以故。破六種品中已破。虛空無有法名爲虛空。若謂以有信故有神。是事不然。何以故。信有四種。一現事可信。二名比知可信。如見烟知有火。三名譬喩可信。如國無鍮石喻之如金。四名賢聖所說故可信。如說有地獄有天有欝單曰。無有見者。信聖人語故知。是神於一切信中不可得。現事中亦無。比知中亦無。何以故。比知。名先見故後比類而知。如人先見火有烟。後但見烟則知有火。神義不然。誰能先見神與五陰合。後見五陰知有神。若謂有三種比知。一者如本。二者如殘。三者共見。如本。名先見火有烟。今見烟知如本有火。如殘。名如炊飯一粒熟知餘者皆熟。共見。名如眼見人從此去到彼亦見其去。日亦如是。從東方出至西方。雖不見去以人有去相故。知日亦有去。如是苦樂憎愛覺知等。亦應有所依。如見人民知必依王。是事皆不然。何以故。共相信先見人與去法合而至餘方。後見日到餘方故知有去法。無有先見五陰與神合後見五陰知有神。是故共相比知中亦無神。聖人所說中亦無神。何以故。聖人所說。皆先眼見而後說。又諸聖人說餘事可信故。當知說地獄等亦可信。而神不爾。無有先見神而後說者。是故於四信等諸信中。求神不可得。求神不可得故無。是故離五陰無別神。復次破根品中。見見者可見破故。神亦同破。又眼見麤法尚不可得。何況虛妄憶想等而有神。是故知無我。因有我故有我所。若無我則無我所。修習八聖道分。滅我我所因緣故。得無我無我所決定智慧。

 若し五陰を離れ神有らば、神には〔=即〕五陰相無し。

 偈中に說けるが如し、≪若し神五陰に異ならば則ち五陰相に非らず≫と。

 而れど五陰を離れ更らに法有ること無し。

 若し五陰を離れ法有らば〔=者〕何相、何法を以て(而)有る。

 若し『神、虛空の如く五陰を離れて〔=而〕有り』と謂はば〔=者〕是れも〔=亦〕然らず。

 何を以ての故に。

 破六種品中に已に破したり。

 虛空、法有ること無し。

 かれ名づけて虛空とし〔=爲〕たり。

 若し『有信を以ての故に神有り』と謂はば是の事、然らず。

 何を以ての故に。

 信に四種有り。

 一は現事、信ず可し。

 二は比知、信ず可しと名づけ、烟を見、火有るを知るが如し。

 三は譬喩、信ず可しと名づけ、國に鍮石無くば之れを金の如しと喩ふるが如し。

 四は賢聖の所說故に信ず可しと名づけ、地獄有り、天有り、欝〔うつ〕單〔たん〕曰〔わつ〕有りと說くが如し。

 見し者有ること無けれど聖人の語を信ずるが故に知りたり。

 是の神、一切の信中に〔=於〕不可得なり。

 現事中にも〔=亦〕無し。

 比知中にも〔=亦〕無し。

 何を以ての故に。

 比知は先きに見るが故に後に比類して〔=而〕知るに名づけたり。

 人、先きに火に烟有るを見、後に但に烟見るのみに則ち火有るを知る。

 神の義、然らず。

 誰か能く先きに神、五陰と〔=與〕合すを見たる。

 その後、五陰を見て神有るを知る。

 若しは謂さく、『三種の比知有り』と。

 『一には〔=者〕如本なり。

  二には〔=者〕如殘なり。

  三には〔=者〕共見なり』と。

 如本とは先きに火に烟有るを見、今に烟を見てその本の如くに火有るを知れりと名づく。

 如殘とは炊飯に一粒熟すれば餘の者皆に熟すを知ると名づく。

 共見とは名如眼見の人、此れ從り去り彼しこに到り、亦に其の去るを見るが如く、日も亦是の如くに東方從り出で西方に至る。

 去るを見ざれど〔=雖〕人に去相有るを以ての故に、日も亦去有るを知れり。

 是の如く苦・樂・憎・愛・覺知等も亦應に所依有るべし。

 人民を見て知必らず王に依るを知るが如くに。

 かかるを名づけたり。

 是れらの事皆に然らず。

 何を以ての故に。

 共相の信、先きに人、去法と〔=與〕合して〔=而〕餘方に至るを見、後に日の餘方に到るを見たるが故、去法有るを知れり。

 先きに五陰、神と〔=與〕合したるを見、後に五陰を見て神有るを知ること有ること無し。

 是の故に共相、比知中にも〔=亦〕神無し。

 聖人の所說中にも〔=亦〕神無し。

 何を以ての故に。

 聖人の所說、皆先きに眼見にして〔=而〕後に說きたり。

 又、諸聖人、餘事の信ず可きを說きたり。

 故に當に知るべし、地獄等も〔=亦〕信ず可きを說きたり。

 而れど神は爾らず。

 先きに神を見、(而)後に說く者有ること無し。

 是の故、四信等の諸信中に〔=於〕、神を求めて不可得なり。

 神を求め不可得ならば〔=故〕無きなり。

 是の故、五陰を離れ別なる神無し。

 復、次に破根品中に、見・見者・可見を破したれば〔=故〕神も〔=亦〕同じくに破さん。

 (又)眼見の麤法だに〔=尚〕不可得なるに何を況んや、虛妄憶想等の〔=而〕神の有をや。

 是の故、無我を知る。

 我有るに因る故、我所、有り。

 若し我無くば〔=則〕我所無し。

 八聖道分を修習し、我・我所の因緣を滅するが故に無我・無我所、決定の智慧を得たり。


又無我無我所者。於第一義中亦不可得。無我無我所者。能眞見諸法。凡夫人以我我所障慧眼故。不能見實。今聖人無我我所故。諸煩惱亦滅。諸煩惱滅故。能見諸法實相。內外我我所滅故諸受亦滅。諸受滅故無量後身皆亦滅。是名說無餘涅槃。問曰。有餘涅槃云何。答曰。諸煩惱及業滅故。名心得解脫。是諸煩惱業。皆從憶想分別生無有實。諸憶想分別皆從戲論生。得諸法實相畢竟空。諸戲論則滅。是名說有餘涅槃。實相法如是。諸佛以一切智觀衆生故。種種爲說。亦說有我亦說無我。若心未熟者。未有涅槃分。不知畏罪。爲是等故說有我。又有得道者。知諸法空但假名有我。爲是等故說我無咎。又有布施持戒等福德。厭離生死苦惱畏涅槃永滅。是故佛爲是等說無我。諸法但因緣和合。生時空生。滅時空滅。是故說無我。但假名說有我。又得道者。知無我不墮斷滅故說無我無咎。是故偈中說。諸佛說有我亦說於無我。若於眞實中不說我非我。

 又、無我・無我所とは〔=者〕第一義中に〔=於〕も亦、不可得なり。

 無我・無我所とは〔=者〕能く眞に諸法を見る。

 凡夫人、我・我所を以て慧眼を障ふるが故に實を見る能はず。

 今、聖人、我・我所無くば〔=故〕諸煩惱も〔=亦〕滅したり。

 諸煩惱滅せば〔=故〕能く諸法實相を見たり。

 內外の我・我所、滅したれば〔=故〕諸受も〔=亦〕滅したり。

 諸受滅するが故、量るべくも無き後身も皆に亦、滅したり。

 是れを名づけ無餘涅槃と說きたり」と。

問へらく〔=曰〕、

「有餘涅槃は云何ん」と。

答へらく〔曰〕、

「諸煩惱及び業滅するが故に心、解脫を得たりと名づく。

 是れ諸煩惱と業とは皆に憶想分別從り生じたり。

 實有なること無し。

 諸憶想分別皆に戲論從り生じたり。

 諸法實相、畢竟にして空なるを得たれば諸戲論も〔=則〕滅す。

 是れを名づけ、有餘涅槃と說きたり。

 實相の法、是の如し。

 諸佛、一切智を以て衆生を觀じたまへば〔=故〕、種種に說をし〔=爲〕たまひき。

 亦は『我有り』と說きたまひき。

 亦は『無我なり』と說きたまひき。

 若し心、未熟ならば〔=者〕、未だ涅槃の分は有らず。

 罪を畏るるをも知らず。

 是れ等が爲の故に『我有り』と說きたまひき。

 又、道を得たれ〔=有〕れば〔=者〕、諸法空なり、但に『我有り』假名なるのみと知る。

 是れ等が爲の故にぞ我を說く。

 咎無し。

 又、布施持戒等の福德有り。

 生死の苦惱を厭離し涅槃永滅を畏る。

 是の故に佛、是れ等が爲に『無我』を說きたまひき。

 諸法、但に因緣和合し生ずる。

 時に空、生じき。

 滅時に空も滅す。

 是の故、『その我無し』と說きたまひき。

 但、假名のみに『我有り』を說けり。

 又、道を得たれば〔=者〕、無我を知り斷滅に墮さざるが故、無我を說くも咎無し。

 是の故に偈中に說けらく、≪諸佛、有我を說き、亦に無我を〔=於〕も說く≫と。

 (若)眞實中に〔=於〕は我・非我を說きたまはじ」と。

問曰。若無我是實。但以世俗故說有我。有何咎。答曰。因破我法有無我。我決定不可得。何有無我。若決定有無我。則是斷滅生於貪著。如般若中說菩薩有我亦非行。無我亦非行。

問へらく〔=曰〕、

「若し無我是れ實ならば但に世俗を以ての故に有我を說きて、何の咎有る」と。

答へらく〔=曰〕、

「我法の破に因り無我有り。

 我、決定して不可得なり。

 何ぞ無我有る。

 若し決定して無我有らば〔=則〕是れ斷滅なり。

 貪著を〔=於〕生ず。

 般若中に說けるが如し、

 ≪菩薩、有我も亦、行に非らず。

  無我も亦、行に非たず≫と」と。


問曰。若不說我非我空不空。佛法爲何所說。答曰。佛說諸法實相。實相中無語言道。滅諸心行。心以取相緣。生以先世業果報故有。不能實見諸法。是故說心行滅。問曰。若諸凡夫心不能見實。聖人心應能見實。何故說一切心行滅。答曰。諸法實相即是涅槃。涅槃名滅。是滅爲向涅槃故亦名爲滅。若心是實。何用空等解脫門。諸禪定中。何故以滅盡定爲第一。又亦終歸無餘涅槃。是故當知。一切心行皆是虛妄。虛妄故應滅。諸法實相者。出諸心數法。無生無滅寂滅相。如涅槃。問曰經中說。諸法先來寂滅相即是涅槃。何以言如涅槃。答曰。著法者。分別法有二種。是世間是涅槃。說涅槃是寂滅不說世間是寂滅。此論中說一切法性空寂滅相。爲著法者不解故。以涅槃爲喩。如汝說涅槃相空無相寂滅無戲論。一切世間法亦如是。

問へらく〔=曰〕、

「若し我・非我・空・不空を說かざれば、佛法、何の所說なる〔=爲〕」と。

答へらく〔=曰〕、

「佛、諸法實相を說きたまひき。

 實相中に語言道無し。

 諸の心行を滅したり。

 心、取相の緣を以て生じ、先世の業の果報を以ての故に有り。

 諸法を實見する能はず。

 是の故、心行の滅を說きたまひき」と。

問へらく〔=曰〕、

「若し諸の凡夫、その心は實を見る能はざるも、聖人の心ぞ應に能く實を見ん。

 何故に一切心行の滅を說きたる」と。

答へらく〔=曰〕、

「諸法實相、即是に涅槃なり。

 涅槃、滅と名づく。

 是の滅、涅槃に向かふが爲の故に亦に名づけて滅とし〔=爲〕たり。

 若し心、是れ實ならば何ぞ空等の解脫門を用ふ。

 諸禪定中に何故に滅盡定を以て第一とす〔=爲〕。

 又亦に終に無餘涅槃に歸す。

 是の故、當に知るべし、一切心行皆に是れ虛妄なりと。

 虛妄ならば〔=故〕應に滅せん。

 諸法實相とは〔=者〕諸の心數法を出で、生無く、滅無き寂滅相なり。

 ただ涅槃の如し」と。

問へらく〔=曰〕

「經中に說けらく、

 ≪諸法、先きよりこのかた〔=來〕寂滅相なり。

  即是に涅槃なり≫と。

 何を以てか涅槃の如きと言ひたる」と。

答へらく〔=曰〕

「法に著す者、法を分別し二種有り。

 是れ世間、是れ涅槃と。

 涅槃是れ寂滅と說き、世間是れ寂滅とは說かず。

 此の論中に一切法の性、空なり、寂滅相なりと說きたり。

 法に著する者、解せざるが爲の故に涅槃を以て喩へたり〔=爲〕。

 汝の『涅槃の相は空なり、無相なり、寂滅なり、戲論無し』と說くが如し。

 一切世間法も〔=亦〕是の如し。


問曰。若佛不說我非我。諸心行滅。言語道斷者。云何令人知諸法實相。答曰。諸佛無量方便力。諸法無決定相。爲度衆生或說一切實。或說一切不實。或說一切實不實。或說一切非實非不實。一切實者。推求諸法實性。皆入第一義平等一相。所謂無相。如諸流異色異味入於大海則一色一味。一切不實者。諸法未入實相時。各各分別觀皆無有實。但衆緣合故有。一切實不實者。衆生有三品有上中下。上者觀諸法相非實非不實。中者觀諸法相一切實一切不實。下者智力淺故。觀諸法相少實少不實。觀涅槃無爲法不壞故實。觀生死有爲法虛僞故不實。非實非不實者。爲破實不實故。說非實非不實。

問へらく〔=曰〕、

「若し佛、我・非我を說かず、諸心行滅し、言語道だに斷ぜば〔=者〕、云何んが人に諸法實相を知らしむ〔=令〕」と。

答へらく〔=曰〕、

「諸佛、量るべくも無き方便力あり。

 諸法、決定相無きに衆生を度さんが爲に或は說きたまはく、≪一切實なり≫と。

 或は說けらく、≪一切不實なり≫と。

 或は說けらく、≪一切實にして不實なり≫と。

 或は說けらく、≪一切實に非らず。實ならざるに非らず≫と。

 一切實なりとは〔=者〕諸法實性を推求し皆、第一義、平等なる一相に入る所謂、無相なり。

 諸流、色を異にし味を異にす。

 大海に〔=於〕入らば〔=則〕一色一味なり。

 一切實ならずとは〔=者〕、諸法未だ實相に入らざれば〔=時〕各各に分別し、觀じ、皆にその實有ること無し。

 但に衆緣合するが故に有らば。

 一切實にして實ならずとは〔=者〕、衆生に三品有り、それ上中下たり〔=有〕。

 上は〔=者〕諸法相を觀じ實に非らず、實ならざるにも非らず。

 中は〔=者〕諸法相を觀じ一切實にして一切實ならず。

 下は〔=者〕智力淺きが故、諸法相を觀じて少かに實なり、少かに實ならず。

 涅槃、無爲法にして不壞なれば〔=故〕實なりと觀ず。

 生死、有爲法にして虛僞なれば〔=故)實ならずと觀ず。

 實に非らず・實ならざるにも非らずとは〔=者〕、實・不實を破さんが爲の故に實に非らず・實ならざるにも非らずと說きたまへり。


問曰。佛於餘處。說離非有非無。此中何以言非有非無是佛所說。答曰。餘處爲破四種貪著故說。而此中於四句無戲論。聞佛說則得道。是故言非實非不實。問曰。知佛以是四句因緣說。又得諸法實相者以何相可知。又實相云何。答曰。若能不隨他。不隨他者。若外道雖現神力說是道是非道。自信其心而不隨之。乃至變身雖不知非佛。善解實相故心不可迴。此中無法可取可捨故。名寂滅相。寂滅相故。不爲戲論所戲論。戲論有二種。一者愛論。二者見論。是中無此二戲論。二戲論無故。無憶想分別。無別異相。是名實相。

問へらく〔=曰〕、

「佛、餘處に〔=於〕說けらく、≪非有非無を離る≫と。

 此の中に何を以て非有非無を是れ佛の所說と言ふ」と。

答へらく〔=曰〕、

「餘處に、四種の貪著を破さんが爲の故に說きたまひき。

 (而)此の中の四句に〔=於〕戲論無し。

 佛說を聞き則ち得道せん。

 是の故、非實非不實と言たまひき」と。

問へらく〔=曰〕、

「知佛、是の四句の因緣を以て說き、又は諸法實相を得たりと知れば〔=者〕何相を以てか知る可き。

 又はその實相は云何ん」と。

答へらく〔=曰〕、

「(若)能く他の隨ならず。

 他の隨ならずとは〔=者〕若しは外道、雖現神力を現ずれど〔=雖〕是の道是れ道に非らずと說き、自ら其の心を信じて〔=而〕之れの隨ならざるなり。

 乃ち變身するに至り佛に非らざるを知らざれど〔=雖〕善く實相を解すれば〔=故〕心、廻〔=迴〕る可くもなし。

 此に中に法、取る可きも捨つる可きも無きが故、寂滅相と名づく。

 寂滅相の故、戲論に戲論さるる〔=所戲論〕こともなし〔=不爲〕。

 戲論に二種有り。

 一は〔=者〕愛論。

 二は〔=者〕見論。

 是の中に此の二戲論無し。

 二戲論無きが故、憶想分別も無し。

 別異の相も無し。

 かれ是れを實相と名づく」と。


問曰。若諸法盡空。將不墮斷滅耶。又不生不滅或墮常耶。答曰不然。先說實相無戲論。心相寂滅言語道斷。汝今貪著取相。於實相法中見斷常過。得實相者。說諸法從衆緣生。不即是因亦不異因。是故不斷不常。若果異因則是斷。若不異因則是常。問曰。若如是解有何等利。答曰。若行道者。能通達如是義。則於一切法。不一不異不斷不常。若能如是。即得滅諸煩惱戲論。得常樂涅槃。是故說諸佛以甘露味教化。如世間言得天甘露漿。則無老病死無諸衰惱。此實相法是真甘露味。佛說實相有三種。若得諸法實相。滅諸煩惱。名爲聲聞法。若生大悲發無上心。名爲大乘。若佛不出世。無有佛法時。辟支佛因遠離生智。若佛度衆生已。入無餘涅槃。遺法滅盡。先世若有應得道者。少觀厭離因緣。獨入山林遠離憒鬧得道。名辟支佛。

問へらく〔=曰〕、

「若し諸法盡く空ならば將に斷滅に墮すべけんや〔=耶〕。

 又は不生不滅ならば或は常に墮さんや〔=耶〕」と。

答へらく〔=曰〕、

「然らず。

 先きに『實相に戲論無く心相寂滅にして言語道斷なり』と說きたり。

 汝今、取相に貪著したり。

 實相法中に〔=於〕斷常の過を見たり。

 實相を得れば〔=者〕說かん、『諸法、衆緣從り生じき。

  是れ因に即せず亦、因に異ならず。

  是の故に斷ぜず、常ならず』と。

 若し果、因に異ならば〔=則〕是れ斷なり。

 若し因に異ならずば〔=則〕是れ常なり」と。

問へらく〔=曰〕、

「(若)是の如く解くに何等の利有る」と。

答へらく〔=曰〕、

「若し、行道者、能く是の如き義に通達せば〔=則〕一切法に〔=於〕一ならず異ならず、斷ならず常ならず。

 若し能く是の如かれば即ち諸煩惱を、戲論をも滅し得ん。

 常樂涅槃をも得ん。

 是の故、說きたまはく、≪諸佛、甘露味を以て敎化す≫と。

 世間に、天の甘露漿を得れば〔=則〕老病死無し、諸衰惱無しと言ふに如かん。

 此の實相法、是れ眞の甘露味なり。

 佛、實相を說きたまふに三種有り。

 若しは諸法實相を得、諸煩惱を滅せば名づけて聲聞法とす〔=爲〕。

 若しは大悲を生じ無上心を發こさば名づけて大乘とす〔=爲〕。

 若しは佛、出世なりて佛法有ること無くば〔=時〕辟支佛、遠離に因りその智を生ず。

 すなはち(若)佛、衆生を度し已はり無餘涅槃に入りたまひき。

 その遺法だに滅盡したりき。

 先世に應に得道すべき者有り。

 少かに厭離の因緣を觀じ、獨り山林に入る。

 憒〔け〕鬧〔ねう〕を遠離し得道し、辟支佛と名づく」と。








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ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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