タイトルのない短い小説……#3


以下、一部に暴力的な描写を含みます。ご了承の上、お読みすすめください。



わたしの住んでいた家屋について、書き留めておくべきだろう。その家は軈て十四歳くらいの時に半分建て増しされ、軈て十八歳くらいの時に雛罌粟の離婚して戻ってきた妹とその三人のこどもたちに与えられ、わたしたち親子は他に家を建て、軈ては雛罌粟の建築会社の二度目の不渡りと共にふたつとも人手に渡るのだが、十歳前後の頃にはまだ木造の二階建て母屋と、同じく二階建てのちいさな離れがひとつあり、そのふたつをトタン屋根のガレージがつなぐともなくつないだ。母屋はどうか知らないが、離れに関しては大工の棟梁だった祖父がひとりで建てたという話しだった。離れが、わたしと両親の寝る時の住まいだった。母屋にはまだ無かったクーラーが設置された。雛罌粟は最新の家電製品が好きだったから。

わたしたち親子は九時前には離れに入るのが常だった。そこにはテレビもあったし、食事だけ母屋の台所で済ませればあとはそこに必ずしも用はなかったのだった。そもそも藤が、表面上はお互いに睦みながらも、かならずしも櫻にも椿にも好意を持っていなかったことにも依る。藤はその日、離れに入った瞬間に豹変した。つまりは、椿たち稻城のならずものたちへの罵りがはじまったのである。雛罌粟は聞き流した。大体は雛罌粟も心を同じくしているには違いない。ただ、彼れは藤の逆上しいきり立ったひそひそ聲が煩わしいのだった。わたしは此処で母が裏表の激しい惡人であったなどと謂うのではない。逆である。善良でよく気を遣いよく気の付く品の良い人だった。そして誰れもそう知られた。一般的に、そんな人の、特に女性は殊に激しい豹変をみせるものだ。藤は椿を思い、気遣うから敢えて口に出さないのであり、雛罌粟をなだめるのであり、同時に椿たちが許せないからその目の無い所で正当な非議を訴えるのである。終には聞こえないふりをはじめた雛罌粟に倦んで、軈て藤の標的はわたしになった。問いただした。何をされたのか、何を言われたのか、大丈夫だったのか、本当に大丈夫だったのか、金を渡したりはしなかったのか、本当に何もされなかったのか。改まってそう問いただされれば、わたしに云うべき事はなにもなかった。結局のところ、わたしはその日その場に存在しなかったに等しかった。あるいは痴呆の櫻と同じくに。それとも、こう言えば?…彼れ、とってもエレガントでセクシーで綺麗。…頭おかしいけど素敵な人だね、つややかすぎて発情しちゃいそうだったよ、実際、さきっぽ、滲んじゃったもん、びちょって。…とでも?

わたしが気を使っているのだと推した椿の追及は執拗さをだけ増した。彼女の要求を埋めるだけの言葉を何も持っていなかった。心が無意味に追い詰められた。ただ昂るしかなかった。終に、故にわたしは泣きじゃくりはじめた。椿は傷ついた自分のひとりだけの子供を抱きしめ、雛罌粟は目を逸らし、彼れ等はそれぞれの眼差しに、しかも一様に、幼い、無慚に傷ついた自分の愛し兒を見ていたのである。即ち謂はく、

   淚。ほら、淚

   淚は汚物。いま

   埀れたその糞

   おなじ温度


   淚。ほら、淚

   淚は汚物。いま

   漏れたその尿

   匂うでしょう?


   淚。ほら、淚

   淚は汚物。いま

   こぼれた肉汁

   腐ったあなたは


   生きてるつもり?

   死んでるよ

   もう生きてない

   屍みたい


   屍のつもり?

   かたちがないよ

   ただの殘骸

   なんでもない


   なんでもないよ

   ただの殘骸

   かたちがないよ

   屍のつもり?


   屍みたい

   もう生きてない

   死んでるよ

   生きてるつもり?


   腐ったあなたは

   こぼれた肉汁

   淚は汚物。いま

   淚、ほら、淚


   匂うでしょう?

   漏れたその尿

   淚は汚物。いま

   淚。ほら淚


   おなじ温度

   埀れたその糞

   淚は汚物。いま

   淚。ほら、淚


かさねて謂はく、

   淚。ほら、淚

      泣いたふり

    悲しみはほら

     ふり

   淚は汚物。いま

      淚のふり

    鐵をとかした灼熱のように

     淚のふり

   埀れたその糞

      ふり

    ふりそそぎ

     泣いたふり

   おなじ温度


   淚。ほら、淚

      悲しいふり

    怒りにも似て

     ふり

   淚は汚物。いま

      痛んだふり

    かぎ爪のある飛沫のように

     痛んだふり

   漏れたその尿

      ふり

    ふりそそぎ

     悲しいふり

   匂うでしょう?


   淚。ほら、淚

      傷ついたふり

    痛みにも似て

     ふり

   淚は汚物。いま

      むごたらしいふり

    無数のガラスの破片のように

     むごたらしいふり

   こぼれた肉汁

      ふり

    ふりそそぎ

     傷ついたふり

   腐ったあなたは


   生きてるつもり?

      ふり

    わたしは笑いを我慢した

     傷ついたふり

   死んでるよ

      むごたらしいふり

    ひとりでなんとか

     むごたらしいふり

   もう生きてない

      傷ついたふり

    耐え忍び

     ふり

   屍みたい


   屍のつもり?

      ふり

    必死になって

     悲しいふり

   かたちがないよ

      痛んだふり

    ひとりでなんとか

     痛んだふり

   ただの殘骸

      悲しいふり

    わたしは笑いを我慢した

     ふり

   なんでもない


   なんでもないよ

      ふり

    ふりそそぎ

     泣いたふり

   ただの殘骸

      淚のふり

    無数のガラスの破片のように

     淚のふり

   かたちがないよ

      泣いたふり

    痛みにも似て

     ふり

   屍のつもり?


   屍みたい

      泣いたふり

    ふりそそぎ

     ふり

   もう生きてない

      淚のふり

    かぎ爪のある飛沫のように

     淚のふり

   死んでるよ

      ふり

    怒りにも似て

     泣いたふり

   生きてるつもり?


   腐ったあなたは

      悲しいふり

    ふりそそぎ

     ふり

   こぼれた肉汁

      痛んだふり

    鐵をとかした灼熱のように

     痛んだふり

   淚は汚物。いま

      ふり

    悲しみはほら

     悲しいふり

   淚、ほら、淚


   匂うでしょう?

      傷ついたふり

    怒りにも似て

     ふり

   漏れたその尿

      むごたらしいふり

    かぎ爪のある飛沫のように

     むごたらしいふり

   淚は汚物。いま

      ふり

    ふりそそぎ

     傷ついたふり

   淚。ほら淚


   おなじ温度

      ふり

    痛みにも似て

     傷ついたふり

   埀れたその糞

      むごたらしいふり

    無数のガラスの破片のように

     むごたらしいふり

   淚は汚物。いま

      傷ついたふり

    ふりそそぎ

     ふり

   淚。ほら、淚



だからといって、次の日に両親が≪稻城のおじ≫に怒鳴り込みに行ったとか、そんな事實はない。あるいは彼れはすでに、なにを云っても同じ事、無駄な事と見切られていたので、結局はその一件は放置されるしかなかった。だいたい、傷ついた少年など両親の謂わば錯視の中にしか存在しなかったのだ。又、その後、何らかの劇的展開があったというでもない。それから、≪ひさ公≫は忘れたころに二、三度顔を出した。云うことは決まって金の工面だった。決まって祖母が掴ませ、追い返した。わたしがいないときに、もっと頻繁に來ていたのかもしれない。櫻はそれから≪ひさ公≫の來訪を敢えて話題にすることはなかったし、わたしも取り立てて興味があるわけでもなかった。稻城の家に行って、そこで≪ひさ公≫を見かけたことはない。實際、日中の殆どを徘徊に費やしていたようだ。彼れは父親と住む離れの平屋には夜遅くになって帰って來る。食事は父親が母屋から殘りものを持ってきてやる。だから母屋にはめったに顏を出さない。排斥とは言わないまでも、歓迎されていないことくらい知っていたのかもしれない。又、殘りの二度の食事をいったいどこでどうやって取っているのか、誰れも知らない。誰れかから文句を言われた事はないらしいので、結局は謎のままである。此処で≪ひさ公≫の発狂の経緯を纏めると、≪ひさ公≫は東京の大学に行った。そしてそこで二年もしないうちに精神疾患を発症して帰って來た。その時の詳細について、わたしは知らない。耳にしなかった。≪ひさ公≫は病院に入ることもなく、それからずっと實家の離れに住み着き、生き殘りつづけた。結局のところ、その精神疾患の具体的な名称さえわたしにはわからない。祖母方の縁戚に、当時所謂精神分裂病と言われ、今に謂う統合失調症を発症した男がもうひとりいた筈なので(噂には聞いたが、会ったことはない)大方そんなものだったのかもしれない。

ところで、常に書き換えられ続ける教科書の中で、たしか中学の時に当時のまだ粗い遺伝理論について学んだ時に、だったら狂気も或る意味で遺伝なのだろうとわたしは推した。癌という発症事象そのものが遺伝しなくとも、諸細胞の癌化しやすい体質が遺伝するなら例えば統合失調症の発症事象そのものが遺伝しなくとも統合失調症体質(…脳質?)自体は遺伝する、ないし遺伝的な相続を見せる筈である。かつて狂気が血統にその由來を求められ、差別されたという歴史をは聞いた。そしてそれが虚偽であって、そんな差別を近代人たる我々は超克しなければならないのだと。それには勿論同意する。血統の語と遺伝の語とにまったき差異を与えたその限りにおいて。ただし、わたしにはそんな善意の振る舞いと裝いこそ虚偽に思われた。統合失調症を來し易い体質が相続するなら、もはやそれは単なる遺伝的事象ではないか。であるなら結局のところ単に肉体的事象以外の物ではあり得ない。つまり前世因縁、霊的なんたら、人間精神のなんたらなどではなくて。狂気が脳組織の中における肉体的な事件であるなら、だったら、そもそも統合失調症を時には來す精神ないし意識というもの、それそのものがいったい何で、どういうもので、どんな有り様で、故にどのように扱うべきなのか思惟するべきで、訳の分からない善意で臭いものに蓋をしても仕方ないだろう、と。

後に十二、三歳の頃、母方の祖母が統合失調症を発症して、藤たちが茨の家に引き取って、わたしとは明らかに同じ風景を共有していなく思われた彼女との同居が始まった時に、いよいよ親しみを増した狂気について、所謂正気と狂気の境いめに迷い、むしろ無差異にさえ思われ、且つ正気と狂気とあからさまな違いを思い知り、且つ、わたしは、自分もいつか狂気するに違いないと思われた。何故なら、周囲の正気然とした男たち女たちは皆、すべからく武骨で、無粋で、押しつけがましく、愚かしいだけだったから。そんな愚鈍のなかで生きなければならないなら、かならず彼れ等より純粋可憐で知的で感性豊かなわたしは零れ落ちて仕舞うに違いなく思われたから。そんな、言って仕舞えば自意識過剰な、すでにして狂っているわたしは、——正確に謂えば、お多感な年のころの常として平凡に自己の固有性に狂気していたわたしは、だから凡庸な人並みとして東京にあこがれていた。又、≪ひさ公≫と同じように、すくなくとも大学進学の時には東京に行くに違いないと思っていた。希望ではなかった。そうならなければ可笑しいのだった。わたしは選ばれた単独者だから。まして大学進学で上京するなど、当時すでに凡庸中の凡庸の田舎者の凡庸を極めた振る舞いに過ぎなかった。故に確定的未来として十三歳のわたしは、≪ひさ公≫の事例から推し、同じく東京で同じように気が狂うにちがいないと確信していたのだった。即ち謂はく、

   あなただけの風景を

   聞かせて

   見せて

   あなただけの


   その屈辱

   その破綻

   その苛烈

   その悲惨


   その歓喜

   その愉楽

   あまりにも昏く

   虹彩の綺羅めく


   眼差しに

   敎えて

   風景を

   あなただけの


   だれのものであり得なかった

   あなたの狂いも

   わたしの狂いも

   だれも存在しなかったから


   だれも見い出しはしなかったから

   わたしの狂いも

   あなたの狂いも

   だれのものでもあり得なかった


   あなただけの

   風景を

   敎えて

   眼差しに


   虹彩の綺羅めく

   あまりにも昏く

   その愉楽

   その歓喜


   その悲惨

   その苛烈

   その破綻

   その屈辱


   あなただけの

   見せて

   聞かせて

   あなただけの風景を


かさねて謂はく、

   あなただけの風景を

      それはわたし

    花ひらき

     わたしは花

   聞かせて

      わたし

    ひらくのは

     わたし

   見せて

      わたしは花

    何?

     それはわたし

   あなただけの


   その屈辱

      死んだ

    自分に巻き付く

     みんなで死んだ

   その破綻

      狂気は

    蔦にひとりで

     狂気は

   その苛烈

      みんなで死んだ

    窒息した

     死んだ

   その悲惨


   その歓喜

      死んだ

    失神し

     神さえ死んだ

   その愉楽

      狂人は

    我をも忘れ

     狂人は

   あまりにも昏く

      神さえ死んだ

    花はひらいた

     死んだ

   虹彩の綺羅めく


   眼差しに

      資本主義のように

    畸形の花ら

     サムライたちのように

   敎えて

      マルキズムのように

    いびつな、ゆがんだ、正視できない

     光源氏のように

   風景を

      大日本帝国のように

    畸形の花ら

     すめらぎのように

   あなただけの


   だれのものであり得なかった

      狂人はもう

    花はひらいた

     砂塵に帰って

   あなたの狂いも

      人間のように

    我をも忘れ

     人間のように

   わたしの狂いも

      砂塵に帰って

    失神し

     狂人はもう

   だれも存在しなかったから


   だれも見い出しはしなかったから

      すめらぎのように

    窒息した

     資本主義のように

   わたしの狂いも

      光源氏のように

    蔦にひとりで

     マルクシズムのように

   あなたの狂いも

      サムライたちのように

    自分に巻き付く

     大日本帝国のように

   だれのものでもあり得なかった


   あなただけの

      神さえ死んだ

    何?

     死んだ

   風景を

      狂人は

    ひらくのは

     狂人は

   敎えて

      死んだ

    花ひらき

     神さえ死んだ

   眼差しに


   虹彩の綺羅めく

      みんなで死んだ

    花ひらき

     死んだ

   あまりにも昏く

      狂気は

    ひらくのは

     狂気は

   その愉楽

      死んだ

    何?

     みんなで死んだ

   その歓喜


   その悲惨

      わたしは花

    自分に巻き付く

     それはわたし

   その苛烈

      わたし

    蔦にひとりで

     わたし

   その破綻

      それはわたし

    窒息した

     わたしは花

   その屈辱


   あなただけの

      眼差しのなかに

    失神し

     見い出されたなかに

   見せて

      死んでいた

    我をも忘れ

     死んでいた

   聞かせて

      見い出されたなかに

    花はひらいた

     眼差しのなかに

   あなただけの風景を



ところで、≪稻城のおじ≫について。稻城の家には頻繁に行った。雛罌粟と藤の経営するちいさな建築会社の事務所及び作業場が、稻城の家の小路を挿んだ隣とはす向かいあったからだ。その家は田園にアスファルトの大通りをぶっ通した、その路ぞいにあった。あくまで田園風景が主体であって、家などまばらに散在するだけである。茨の家からは、車で十分くらい(そんな距離を、≪ひさ公≫は徒歩に往来していたということだ)。つらなる山の上の谷間の平地だ。山脈とも言えない低い山だったが、光りは海面により近い底地に比べれば澄んで、そしてやさしく、且つ、悲しい気配をだけ、色をはなさないままに眼差しにさらした。

≪おじ≫は離れに住んでいた。わがまま放題に生きたかつての軈て夭折すべき美少年は皴だらけの鼻つまみ爺いになっていた。だから誰れもめったに離れに近づかず、わたしもただの二、三度そこの庇の、樹木の、それら散乱する翳りと木漏れを潜ったに過ぎない。

はじめて≪おじ≫のテリトリー…謂わばその独裁王国の敷地中に足を踏み入れたわたしには、だから禁忌の場所の如きそこは、或はうつくしい場所に思われた。親しく、そして拒絶的な土の匂いが籠った。もっとも≪おじ≫に親近など感じたわけではない。≪いちがい≫は子供にとっても≪いちがい≫である。直接の害があったわけではなくとも。大人たちの振る舞いの模倣?ただ、趣味人だった彼れの離れの庭を埋め尽くす、植栽と鉢植えの花盛りの風景が、どうしようもなく愚鈍、凡庸な正気の人々の母屋よりうつくしかった、それは事實だった。

たぶん、椿と、母屋の若夫婦——すでに死んだ四男の作った息子夫婦。その嫁の方をも同伴して。此の嫁を、仮りに百合とでも名づけておく。百合の性格は藤に似ていた(そもそも藤は椿に似ていた)。完成度は藤の方が高かった(あるいは、椿は藤よりもいっそう完成され、故にひたすら愚かしかった)。つまり、百合は善良で、にこやかで、だから翳で何を言っているのか知れない女、その若干の劣化版である。藤より抜け見える。だから、大方その眞意は透け赤裸々に見取れる。

百合は藤に援助を賴み、≪おじ≫に何か文句を言いに行ったのだ。堪え性がなく、いつでも自分が尊重されてしかるべきと思っている≪おじ≫は、金の工面もなにも、近隣の誰れ彼れにも言うだけ云って遠慮がなかったから。≪おじ≫にとって、世界は彼れのはかないイノチを軈て悲しむ爲にだけ存在してる儘だったから。

ふたりの善良な女はなかなか感情を表に出さない。だから非難され諫められている≪おじ≫は、いったい彼女たちが何をしに來たのか理解できない。いつものように傍若無人にふるまう。そんな、まだるっこしい、ふたりの女にとっては苛烈な言い合い、≪おじ≫にとってはまったく要領を得ない不愉快なだけの茶飲み話が長々とつづき、ふたりの女は善良な人の常として、我慢が限界に來た時に唐突に激怒する。或は彼女たちにとっては自然な上昇線を描いた感情の爆発だったのだが、傍から見ていれば文字通り前触れのない噴火でしかない。

ただの丘だと思っていた足元がいきなりマグマを吹き飛ばして、激昂し放題の傍若無人なふたりの高揚した罵詈雑言に≪おじ≫はその対応手段を失っているしかない。

わたしが見蕩れていたのは、まなざしの中に咲き乱れる庭の、名も知らない花の色彩の氾濫だった。赤い、青い、白い、むらさきの、黃いろの、はっきりし分散した混色の、にじむような混色の、それら色とりどりの、花の色彩の奔流。蜂は飛んだ。蝶も飛んだ。名も知らない羽虫も飛び、莖に、あるいは血管じみたすじを透かせる葉の裏にも、ちいさな青虫が密集した。匂った。なにもかもが。かわいた土も、濡れ色をさらす水を撒かれたばかりの土も、かわきかけの湿りも、青虫の口蓋の粘液さえ匂いたつ気がした。直感として、わたしは思った。此の世界は人間たちの爲のものなどではない、と。ホモ・サピエンスは寄生したにすぎないに違いない、と。眼差しの風景のすべてからヒトのかたちを、息吹きを、悉く消去して見れば、むしろはじめて均整の取れた完璧な世界が姿を表す気がした。気付いた。まだ不純物がある、と。つまりは最後のホモ・サピエンスたるわたしの眼差しだった。それも消す。そうしたらそれは…何なのだろう?無と?

虚無?

まさか。

眼差しが不在であるにすぎない。なにも失われはしなかった。

わたしはその瞬間赤裸々に恐怖した。即ち謂はく、

   咲くのは花ら

   花。花、花ら

   だから花だらけ

   花だけが裂け


   裂くように咲き

   咲いた。咲き

   咲き乱れ

   裂くように


   明るい日差し

   あなたはいない

   わたしはいない

   だれもいない


   わたしは花

   あなたは花

   花らは花

   みんな花


   眼差しなど

   なにもありはしなかった

   ひらかなかった

   瞼など


   狂っていたのは

   わたしだけ

   あなただけ

   狂っていたのは


   瞼など

   ひらかなかった

   なにもありはしなかった

   眼差しなど


   みんな花

   花らは花

   あなたは花

   わたしは花


   だれもいない

   わたしはいない

   あなたはいない

   明るい日差し


   裂くように

   咲き乱れ

   咲いた。咲き

   裂くように咲き


   花だけが裂け

   だから花だらけ

   花。花、花ら

   咲くのは花ら


かさねて謂はく、

   咲くのは花ら

      心に

    さわいだだろう

     その心に

   花。花、花ら

      狂気は

    ぼくは

     狂気は

   だから花だらけ

      その心に

    口がないから

     心に

   花だけが裂け


   裂くように咲き

      知性に

    見ただろう

     その知性に

   咲いた。咲き

      狂気は

    ぼくは

     狂気は

   咲き乱れ

      その知性に

    目がないから

     知性に

   裂くように


   明るい日差し

      ダイヤモンドは

    嗅いだだろう

     心がないから

   あなたはいない

      狂わない

    ぼくは

     狂わない

   わたしはいない

      心がないから

    鼻がないから

     ダイヤモンドは

   だれもいない


   わたしは花

      紫陽花の色は

    ふれただろう

     知性がないから

   あなたは花

      狂わない

    ぼくは

     狂わない

   花らは花

      知性がないから

    肉体がないから

     紫陽花の色は

   みんな花


   眼差しなど

      知性がないから

    知っただろう

     紫陽花の色は

   なにもありはしなかった

      狂わない

    ぼくは

     狂わない

   ひらかなかった

      紫陽花の色は

    頭がないから

     狂わない

   瞼など


   狂っていたのは

      心がないから

    頭がないから

     ダイヤモンドは

   わたしだけ

      狂わない

    ぼくは

     狂わない

   あなただけ

      ダイヤモンドは

    知るだろう

     心がないから

   狂っていたのは


   瞼など

      その知性に

    肉体がないから

     知性に

   ひらかなかった

      狂気は

    ぼくは

     狂気は

   なにもありはしなかった

      知性に

    ふれるだろう

     その知性に

   眼差しなど


   みんな花

      その心に

    鼻がないから

     心に

   花らは花

      狂気は

    ぼくは

     狂気は

   あなたは花

      心に

    嗅ぐだろう

     その心に

   わたしは花


   だれもいない

      心に

    目がないから

     その心に

   わたしはいない

      狂気は

    ぼくは

     狂気は

   あなたはいない

      その心に

    見るだろう

     心に

   明るい日差し


   裂くように

      知性に

    口がないから

     その知性に

   咲き乱れ

      狂気は

    ぼくは

     狂気は

   咲いた。咲き

      その知性に

    さわぐだろう

     知性に

   裂くように咲き


   花だけが裂け

      ダイヤモンドは

    なに?ほら

     心がないから

   だから花だらけ

      狂わない

    燃え上がったもの。それは

     狂わない

   花。花、花ら

      心がないから

    なに?

     ダイヤモンドは

   咲くのは花ら

12.02-03.黎マ








Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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