タイトルのない短い小説……#2
以下、一部に暴力的な描写を含みます。ご了承の上、お読みすすめください。
ともかくも、いきなり背後に聲を聞いた——何してるの!と。その叫ぶようにささやかれたひとこと。「なにしとるんなら」或は「なんしくさりょおんなら」もしくは「なんしょうんなら」?それは椿の聲だった。彼女が出先きから帰って來て、だからわたしはむしろ茫然と祖母を見た。まるで自分一人が惡ものだったかのように。同時に、目を見開き眼差しに祖母に訴えた。まるで惡ものに虐げられている現状からの不意の救いの手に媚びようと?また同時に、謂わば勝利に噎せ返って。つまり、惡しきうつくしき男は、不法占拠していたその居場所を終になくすべきあらたな形姿を纏うのだった。
思うに、椿の奇妙なささやき=叫び聲の意味は、惡しきうつくしい男への威嚇として叫び、且つ、異形の男の此処に存在する事を、そして此処に存在することが必ずしも不当ではない事實を、周囲に憚ったに違いない。
椿はわたしに、その丸い二重の顎でしゃくって、そしてやさしい何かの言葉と共に——忘れた。要するに、中に入っていろ、と?だから、顎にばかり気を取られ、わたしが見止めはしなかったその眼差しは、或は咎めるように、又は慈しむように、又は愛し兒へのかぎりもなき庇護として、又は先の憚りの一種として、いずれにせよ椿はわたしを家の中に行かせると、庭先に殘った。古い木造の家屋だ。外に剥き出しの縁側にわたしに見守られながら、椿は庭に男と話し合うのだった。立ったままで。それら耳にふれる言葉の群れは、つじつまの合っている会話とは言えない。例えば、こんなふうに。
——お前、なにをしに來た?…「おめぇなにしにきたんならぁ」?
——金を貰わなければならない。…「ぜにもらわにゃあならまぁが」?
或は、こんなふうに。
——どうやって來たの?…「どがんしてきたんなら」?
——千円くらいあるか?…「せんえんぐれぇあるんじゃろうが」?
或は、こんなふうに。
——≪稻城のおじん≫は此処にいるのを知っているのか?…「いなぎんおじにぃあここんおるんしっとんか」?
——とても疲れた。だが、気にするな。…「でえれぇえつかれたけぇどがきにせんでぇええど」?
或は、こんなふうに。
——みんな、心配してるだろう?…「みんなしんぺぇえしょうろうがぁ」?
——あの≪おじん≫が金なんかくれる訳がないじゃない?…「あんおじんにぁかねやこうくれるわきゃぁなかろうが」?
或は、こんなふうに。
——いつからここにいるのか?…「いつからここにおるんなら」?
——今月分だけ。來月分は、今はいい。…「こんげつんぶにぃだけじゃがな、らいげつんぶにぁいまんとかぁええで」?
わたしは此れらの会話の間中、どんな思いで此れらの風景を見ていたのだろう?いま推しながら思い出す限りでは男に見蕩れていた気さえする。同時に、そう回想しながら本当とは思えない。赤裸々な軽蔑こそが、その時のわたしの、謂わば異形の彼れへの眼差しに相応しく思われるのである。推すに結局のところ、祖母はポケットから数千円取り出し、彼の手に掴ませ、追い返した。即ち謂はく、
あなたの匂い
蜜の匂い
花の薫りに
狂った蜂ら
蜂は日差しに
或は翳りに
光りは照らし
ふれて翳らし
撒き散る匂い
蜜の匂い
花らは傾き
狂った蜂ら
瞬く目
その虹彩さえ
色を見すごし
色を嗅ぎ
あなたの匂い
蜜の匂い
花のかわりに
まどわす臭気
まきたつ臭気
花のかわりに
あなたの匂い
蜜の甘み
色を嗅ぎ
色を見すごし
その虹彩さえ
まばたく目
狂った蜂ら
花らは傾き
蜜の匂い
撒き散る匂い
ふれて翳らし
光りは照らし
或は翳りに
蜂は日差しに
狂った蜂ら
花の薫りに
蜜の匂い
あなたの匂い
かさねて謂はく、
あなたの匂い
風はやさしく
見蕩れていよう
吹いたのだった
蜜の匂い
ふれるように
なにもないから
ふれるように
花の薫りに
吹いたのだった
わたしにはもう
風はやさしく
狂った蜂ら
蜂は日差しに
しあわせだよ
なすべきことなど
あなたはしあわせ
或は翳りに
知ってる?いま
なにもないから
知ってる?いま
光りは照らし
あなたはしあわせ
なし得ることさえ
しあわせだよ
ふれて翳らし
撒き散る匂い
風はやさしく
見つめていよう
吹いたのだった
蜜の匂い
なぜるように
言葉さえなく
なぜるように
花らは傾き
吹いたのだった
わたしにはもう
風はやさしく
狂った蜂ら
瞬く目
しあわせだよ
話すことなど
知ってる?いま
その虹彩さえ
だれもがしあわせ
なにもないから
だれもがしあわせ
色を見すごし
知ってる?いま
話し得ることさえ
しあわせだよ
色を嗅ぎ
あなたの匂い
だれもいなかった
あなたはうつくしい
かなしむものなど
蜜の匂い
淚こらえて
たしかに、或は
淚こらえて
花のかわりに
かなしむものなど
狂気のくせに
だれもいなかった
まどわす臭気
まきたつ臭気
歎くものなど
狂気の故に
ひとりもなかった
花のかわりに
淚枯れ果て
たしかに、或は
淚枯れ果て
あなたの匂い
ひとりもなかった
あなたはうつくしい
歎くものなど
蜜の甘み
色を嗅ぎ
だれもがしあわせ
話し得ることなど
しあわせだよ
色を見すごし
知ってる?いま
なにもないから
知ってる?いま
その虹彩さえ
しあわせだよ
話すことなど
だれもがしあわせ
まばたく目
狂った蜂ら
吹いたのだった
わたしにはもう
風はやさしく
花らは傾き
なぜるように
言葉さえなく
なぜるように
蜜の匂い
風はやさしく
見つめていよう
吹いたのだった
撒き散る匂い
ふれて翳らし
あなたはしあわせ
なし得ることも
しあわせだよ
光りは照らし
知ってる?いま
なにもないから
知ってる?いま
或は翳りに
しあわせだよ
なすべきことなど
あなたはしあわせ
蜂は日差しに
狂った蜂ら
吹いたのだった
わたしにはもう
風はやさしく
花の薫りに
ふれるように
なにもないから
ふれるように
蜜の匂い
吹いたのだった
見蕩れていよう
風はやさしく
あなたの匂い
父親と母親が帰って來て、その日の狂気の人の來訪を、——いつだろう?椿にその日排斥された異形のうつくしい彼れを≪狂気の人≫と、誰れに指示されるともなく名づけたのは?椿は彼れ等に報告した。報告というか、要するに話し好きな椿は一日中なんでも話しているので、そもそも秘密というもののない人だった。本人では口が硬いという自負があったにはせよ。謂はく、
≪ひさ公≫が今日——それがかの≪狂気の人≫の呼び名である。戸籍上彼に与えられていた正式な名称は、いまに至るまで知らない。呼んでもいないのに単身ここに來た。雅雪に——これは、ここで仮りに用いるわたしの名前である。何か言っていたようだ。金の工面をしに來たので、大方そんなことでも言っていたのではないか。
此処で、父はひとりで激昂し、藤はなだめた。父親を仮りに此処では雛罌粟とでも名づけておく。曰く、
「なんで雅雪が応対したんだよ?」…なんでまさがあいてしたらなならんのんなら?
「いや、…此の子がひとりで留守番していた時だから」…いやなこんこがひとりでるすばんしとったときじゃけぇ…?
「雅雪をひとりにしてお前、どこでなにしてたんだよ」…まさぁひとりんしてぇておめぇあどこぉほっつきありぃとったんなら?
「わたしだって忙しいのよ」…わたしかてぇいそがしぃいがな?
「…って、ひとりしかいない孫をほうったらかしてか?」せぇじゃぁあてひとりしかおらんまごぉほうっちゃらかしといてかや?
「雅雪の対応は良かったよ。見せたかった。けなげに、ちゃんと」まさんたいおうはよかったんど、みせたりたかったわぁ、そらおめぇけなげにな、ちゃんと?
「お前、莫迦?」おめぇあんごうか?
椿はひとりいきりたつ息子を無視し、つづけて謂はく、
頭のおかしな≪ひさ公≫は要領を得ないから、わたしが五千ばかり握らせて帰した。五千という金銭を≪ひさ公≫などに掴まして、それこそどぶに捨てるようなものだが、いくら話しても埒が明かないのだから仕方がない。長引けば雅雪も不安がるに違いない。≪ひさ公≫の父の≪稻城のおじ≫には電話して事の次第を伝えておいた。そうしたら、あの変わり者の(=いちげぇの)≪稻城のおじ≫はなんで金を掴ませた、惡用するに決まっている、今後二度とするなと云う。本当にあの変わり者には困ったものだ(ほんまなぁあのいちげぇにもてまばぁやけてからかなやぁせんがな?)。
此処でふたたび、雛罌粟は激昂し、だからふたたび藤はなだめた。曰く、
「お前の兄貴だろう?お前とそっくりだよ」…おめぇのあにきじゃろうが、おめぇとそっくりで?
「そんなこと言ったって、血のつながりだから仕方ないだろう?」…さぁなんゆうて、ちのつがりじゃけぇしかたなかろうが?
「兄弟良く似すぎて困るよ、俺も。あの叔父貴に二度と外に出すなって云っとけよ」…きょうだいようにてからになぁほんまこまるわぁ、わしもな、あんおじきんにどとほっつきあるかすなゆうとけよ?
「そんなこと言ったって、出るものは出でしょうよ」…さぁなんゆうてからにでるもんはでるもんでぇ?
「首でも縛り上げて捕まえとけよ」…くびでもひっしぼうてつかえとけぇ?
「それでも、≪ひさ公≫がまともだった時は、お前も≪ひぃさん≫≪ひぃさん≫と云って、なついて、良くしてもらったのよ」…せぇでも≪ひさこ≫んまともじゃったじぶんにぁな、おめぇかてひぃさんひぃさんゆうてからに、ようなついてようしてもろうとんじゃけぇなぁあ…?
「それ、いつの≪ひぃさん≫だよ。施設にでも入れちまえよ。あの莫迦親父も放ったらかしなんだから」…さぁなんいつのひぃさんなら。しせつにでもな、いれちまやぁあええんじゃが、あんあんごうくそもほうったらかしなんじゃけぇのぉや?
「そんな無慈悲なことを言っちゃいけないよ…」…そっがぁんむげぇことゆうちゃぁおえんどっ?
「危ないものは危ないんだろうが。それでお前も今日困ったんだろ?」あぶねぇもなぁあぶねんじゃろうが、せぇでおめぇもきょうこまっしもうたんじゃねぇんか?
「でも、身内だから…」…せぇかてみうちじゃがぁ…?
その他、後に聞いた話をもふくめ、うかがい知る分には、≪ひさ公≫と呼ばれる男は、もともとは勉学優秀な田舎の美丈夫として、或は故に田舎に相応しくない少年として近隣の有名人だったらしかった。雛罌粟たちの同世代に属する。親族の中の、その世代の長子であり、面倒見も良かったようだ。誰れ彼れとなく人望もあった。人は誰れもが言った、これこそ所謂鳶が鷹を生むという奴だ、と。且つ、≪ひさ公≫は謂わば私生児である。≪稻城のおじ≫が籍にも入れていない女に孕ませ、生まれたあと曲折あって、引き取ったということらしい。≪おじ≫は終に生涯独身で過ごした。此の≪おじ≫が鳶と呼ばれた所以は、一生定職につかず、二人早世し四人殘った兄弟の中の次男でありながら妹ふたり(長生きした)と男ひとり(此れは四十で死んだ)の弟妹にたかって生きてきたのだった。長男が十二歳で死んだとき、その両親は悲しんで占い師に次男を見せたのだそうだ。そうしたら、この子は成人はしないと言われた。はっきりと、迷いなく、「だから今のうちに好きなように生きさせてやったらいい」と、そう言われたと言うのだ。長男を失ったばかりの両親は、だから十歳の≪おじ≫に贅沢のかぎり、我が侭のかぎりを盡させた。もっとも、田舎の子だくさんの貧家の、しかも戦前戦中のはなしである。今の基準で言えばたかが知れてるにはちがいない。何よりも優遇され傍若無人な≪おじ≫を、妹ふたりも弟も妬みもせず尊重した。本人含む誰れもが夭折の約束された子供と知るはかない存在だったからだ。推すに≪おじ≫は大正から昭和に変わる変わらないの頃の生まれである。もちろん、戦争にも行った。通信兵だった三男は戦争で、大陸のどこかで死んだ。正確な場所は知らない。陸上の一兵卒だった≪おじ≫はやすやすとフィリピンのどこかから昭和二十年のはやいうちに、五体満足でつやつやした皮膚のまま帰ってきた。現地で喰ったバナナが旨かったと言ったとか云わなかったとか。いずれにせよ、しぶとい男だったのだ。戦後の混乱、その繁忙の中に予言も忘れられかけ、同時に記憶されるともなく記憶されつづけ、だから≪おじ≫は惰性のなかに尊重され続け、ふと気付けば三十を超えようとしていた。一体、夭折の上限はいつなのだろう?成人とは何歳を以て謂うべきなのだろう。気付けば、傲慢不遜で自分勝手なだけの大柄巨体の生き生きとした男が、どこかの女を孕ませて勝手に父親になっていた。育兒など妹たちに当然のこととして押し付けて。
「二度とあんなやつ、敷居をまたがせるな」…こんりんざいあがぁななぁしきぃまたがせなぁ?
「またがせてない」…またがせちゃおらんが?
「じゃ、どこで話したんだよ」…じゃったらどこではなしくそうたんなら?
「庭でよ」にわでじゃが?
「恥さらしじゃないか!」…こんはじっさらしがぁ?
雛罌粟は怒鳴り、テーブルを拳に叩いた。即ち謂はく、
何を聞いた?
ささやき
つぶやき
叫ぶような
何を聞いた?
ひびき
さざめき
突き刺すに似た
語られた言葉など
聞かなかった
むしろ投げ捨てていた
あなたの喉のふるえなど
語られた心など
ふれなかった
むしろ放り捨てていた
あなたの拔け殻の意識など
わたしは波
しぶき
飛び散り
さわがしい波
はどめない波
飛び交い
碎き
あなたは波
あなたの意識の拔け殻など
むしろ放り捨てていた
ふれなかった
語られた心など
あなたの喉のふるえなど
むしろ投げ捨てていた
聞かなかった
語られた言葉など
突き刺すに似た
さざめき
ひびき
何を聞いた?
さけぶような
つぶやき
ささやき
何を聞いた?
かさねて謂はく、
何を聞いた?
ちぎればいいよ
なにも聞こえはしなかった
耳なんか
ささやき
聞きたくないなら
なにも
聞きたくないなら
つぶやき
耳なんか
纔かにさえも
ちぎればいいよ
叫ぶような
何を聞いた?
抉ればいいよ
なにも聞こえはしなかった
目なんか
ひびき
見たくないなら
なにも
見たくないなら
さざめき
目なんか
もはやすべては
抉ればいいよ
突き刺すに似た
語られた言葉など
ひっこ拔けば?
暴流の轟音
舌なんか
聞かなかった
知りたくないから
轟音と沈黙
知りたくないから
むしろ投げ捨てていた
舌なんか
静寂と叫喚
ひっこ拔けば?
あなたの喉のふるえなど
語られた心など
狂っちゃおう
それらに何の違いが?
だれでもみんな
ふれなかった
狂人だから
何が?
狂人だから
むしろ放り捨てていた
だれでもみんな
何の違いが?
狂っちゃおう
あなたの拔け殻の意識など
わたしは波
死んじゃおう
泣き叫ぶように
だれでもみんな
しぶき
死人だから
沈黙。静寂は
死人だから
飛び散り
だれでもみんな
泣き叫ぶように
死んじゃおう
さわがしい波
はどめない波
舌なんか
何の違いが?
ひっこ拔けば?
飛び交い
知りたくないから
何が?
知りたくないから
碎き
ひっこ拔けば?
それらに何の違いが?
舌なんか
あなたは波
あなたの意識の拔け殻など
目なんか
静寂と叫喚
抉ればいいよ
むしろ放り捨てていた
見たくないなら
轟音と沈黙
見たくないなら
ふれなかった
抉ればいいよ
暴流の響鳴
目なんか
語られた心など
あなたの喉のふるえなど
耳なんか
もはやすべては
ちぎればいいよ
むしろ投げ捨てていた
聞きたくないから
なにも
聞きたくないから
聞かなかった
ちぎればいいよ
なにも聞こえはしなかった
耳なんか
語られた言葉など
突き刺すに似た
抉ればいいよ
纔かにさえも
目なんか
さざめき
見たくないなら
なにも
見たくないなら
ひびき
目なんか
なにも聞こえはしなかった
抉ればいいよ
何を聞いた?
さけぶような
ひっこ拔けば?
なにも聞こえはしなかった
舌なんか
つぶやき
知りたくないから
なにも
知りたくないから
ささやき
舌なんか
もはやすべては
ひっこ拔けば?
何を聞いた?
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