タイトルのない短い小説


以下、一部に暴力的な描写を含みます。ご了承の上、お読みすすめください。



むかし或る男、ひとり面を彫る。

名を斗陀ノ陁果遠と曰う。

陁果遠の生まれたのは茨の西蠅原の邑だった。

岡山と廣島の境に在る。

故にそこに生きた。

又ある時南のミンダナオ島に人を殺した。

戰爭に行った故に。

かくて又茨の西蠅原に歸った。

故に老いさらばえた後そこにひとり死んだ。

このように聞く。

陁果遠十八の時に徴兵されて銃を取った。

十九の時に戰爭は終わった。

その八月から二た月ばかりの後に本土の圡を蹈んだ。

父は已に死んでいた。

戰爭の銃弾の爲ではなかった。

爆撃の爲でも原爆の爲でもなかった。

肺をやられた。

血を吐き寠れて死んだと聞いた。

母は已に死んでいた。

戰爭の銃弾の爲ではなかった。

爆撃の爲でも原爆の爲でもなかった。

あるいは邑の男に姧されたのかもしれなかった。

裸に剝かれるか裸に剝くかして肥溜めに死んでいたと聞いた。

兄は魚が喰った。

武藏で石炭を焚いた。

故に弐仟六佰四年の十月廿四日に死んだ。

死にざまを知るすべはなかった。

陁果遠は歸ってすぐさまに出征のとき十七だった女と結婚した。

叔父貴が娶らせた。

女の名を陁麻能と曰う。

子を孕んで子を産みかけて死んだ。

故に陁果遠に子はなかった。

戰爭の後大工になった。

故鉋屑に塗れた。

その匂いが好きだった。

殊に檜のそれを好んだ。

ある時醉いつぶれて棟梁の家の作業場の材木置き場に鉋屑の中に寐た。

風邪もひかなかった。

木屑の香氣に安らいだ。

ひとり眠りをし貪った。

故れ眠る眼差しに陁麻能を見た。

とよむのは潮騒の音だった。

故眼差しは海を見ていた。

乳を埀らしたかの眞白の海だった。

立つ浪さえ白くしぶいた。

空の白いせだったことを陁果遠の眼はすでに知っていた。

故空は見晴るかす乳白色にくすんだ。

ひとり思へらく遠くに雨でもふるのだろうと。

水平の方にでも。

或は思へらくやがて雪でも降るのだろうと。

足の先に波打ち際にでも。

かく思うに自らの足の沙を踏まないことを知った。

左をみても海があった。

右を見ても海があった。

返り見ても海があった。

四方に海があった。

故に浪うつ海の波の上を蹈むに違いなかった。

かたわらに女の匂いがあった。

振り返りはしなかった。

すでに聲の耳元に聞こえてあった故に。

女の云さくあんたんことばあしんぱいしょうてからによるにもねむれあせんのんでと。

即ちあなたの事ばかりを心配して夜も眠れないのですと云う。

故れ陁果遠思わず笑い笑い止まないうちにも云さくそがあなんゆうてからにさきにしんじもうたんはおめえのほうじゃろうがあんごうと。

即ちそんなことを言っても先に死んでしまったのはあなたのほうでしょう。

阿呆と云う。

故れ女笑みもせずに云さくしんぱいせんでええあんこもはすんはのうえでなことしはたちになったけえななあんもあんたがしんぱいするよなこたあねえがと。

即ち心配しなくていい。

あの子も蓮の葉の上で今年二十歳になったからね。

何も、あなたが心配するようなことはないのよと云う。

故れ陁果遠指折り數えていぶかり云さくあんごうがおめえしんだなあさんねんまえじゃろうがなにゆうとんならと。

即ち阿呆。

お前が死んだのは三年前だろう?

なにを云ってるのと云う。

爾にはじめて女吐く幽かの息でのみ笑う。

女云さくこっちんじかんとそっちんじかんといやあぜんぜんちごうとるんじゃけえいっせんねんもいちまんねんもあんたらあがおもうとるようなもんじゃなかろうがよと。

即ちこっちの時間とそっちの時間と謂えば全然違っているのだから。

一千年も壹万年もあなたたちが思っているようなものじゃないでしょう?と云う。

不意に愚弄されたかにも思う陁果遠時に返り見ればすでに女はおらず。

捜し見るまでもなくて眼差しの上の方に綺羅らぐ気配を感じた。

故れ見上げるに乳色の空の上の方に色さえ見せずに綺羅らぐ光の舞い上がりゆくの見た。

羽衣を纏う陁麻能の昇天し行くに違いなく思う。

かくて陁果遠ひとり思へらく終に俺の女房は死んで天女になったかと。

ならば俺はいつか勝手に流れた時間の中ですでに白髪をさえ頭に抱いているに違いないと。

この時はじめて陁果遠は陁麻能その人を女として愛した氣がした。

故れいちども女として愛してはいなかったことに気付いた。

陁果遠はただ無慚に想った。

何を?

知らず。

陁果遠だにも知らなかった故に。

又何故に?

知らず。

是また陁果遠だにも知らなかった故に。

三十すぎた時に父に讓られた家のちいさい庭に離れを作った。

自分で暇ゝを見つけて建てた木造の掘立小屋を作業場と呼んだ。

陁果遠はそこに面を彫り始めた。

能の面。

雅樂の面。

又は神樂の面。

鬼の面。

所以は如何。

ある朝庭に出て庭の芍薬の花の上に蛾の死んであるのを見た。

梅雨の小雨に打たれて流れ出し且つは固まった鱗粉に汚す。

陁果遠は思わずにただその残酷をし思った。

雨の中にひとり自分の残酷をせめて隱す何かをさがした。

大工の陁果遠にできることは木に顏を彫ることぐらいしかなくに想えた。

故に陁果遠は面を彫った。

やがて手つきの馴れるほどに西蠅原の神社のいくつかに面を乞われた。

故今も西蠅邑の神社数社に陁果遠の面は伝わる。

もっともそれ以上人に乞われることも無かった。

故に多くの人には唯の無口な面彫りずきの數寄者にすぎなかった。

四十も半ばを超えた年に近所の子供の二十二、三で貰ったその年上の女房というのに戀した。

女の名前は比登惠と曰う。

陁麻能とも母とも違ってふくよかに豊満を矜恃もなく曝した。

美星の方から来た女だった。

子供を毎年その太った尻に産んで四人をかさねた。

ただただ素直な女だった。

頭の発育の遅れた女とさえ近所に古女房らは笑った。

そうなんかなあという口癖の間延びした口調を嘲て真似た。

陁果遠の庭に韮をもらいに来る度々にその肌と髪の匂いに噎せた。

ある日陁果遠は今更に自慰した。

汚した白濁の液の匂いにしばらく茫然とした。

須臾の後ひとり泣き臥したくなる屈辱のみ感じた。

とはいえ屈辱を飽かずひとりかさねた。

比登惠への想いを斷つこともなく叶えることも無かった。

六十三になろうという年の初めに終に昭和の帝の東の遠くに死んだことを知った。

何を思うでも無かった。

大喪の礼の雨の日にはそれでもテレビにかじりついた。

始めて見る天皇の葬送でもうふたたび生きて見ることはなく思えた。

時に近所の子の作った子で十歳になるのがあった。

神童とさえ言われた利発な子だった。

名を斗璃牟禰と曰う。

幼い神童の大凡に同じく斗璃牟禰はのち十二をすぎればただの変わり者になりさがって十九に死んだにしてもその時十歳の斗璃牟禰は祖母と俱なり作業場の壁を餝る面の群れを見回せば云さくみんな是れ死人の顏?と。

祖母は邪気も笑って否定した。

猶も斗璃牟禰は云う。

いや違う。

これ全部死んだ人の顏だよと。

爾にふたり歸ったのちにひとりになって思うにさもありなんと。

今見ればたしかにことごくに死人の顏を無言に曝すようにも思えた。

故れ陁果遠思へらく自分は死人をばかり作り上げてきたに違いないと。

思わずに空恐ろしくなるほどの孤独をこそ感じた。

決して飲み込めない大きさの空のその大きさの絶望的な大きさのさらした色を見上げた。

晴れていた。

靑かった。

雲は層をかさねてところどころに流れた。

八月の暮れ方だった。

九月の朔日。

陁果遠は作業場で腹を切った。

死ぬ理由はなかった。

それ以上に生きる理由はなかった。

そして生きてある事への乃至死ぬ事へのすさまじい孤独の念はそれ以上に陁果遠を怯えさせた。

せめて昭和の帝に殉死しようと思ったのだった。

或は殺した異国人らにも。

死んだ女房と生まれなかったひとり子にも。

父にも母にも兄貴にも。

生きとし生けるものすべてのすさまじい孤独の叫喚にも。

身寄りも無き陁果遠は屍が夏に腐った無様を曝すのを厭うた。

故に陁果遠は作業場の戸を開け放して腹を切った。

新聞配達の中学生が屍を見つけた。

死ぬのに難儀した陁果遠は疊のみならず面のことごくにも血を飛び散らせ仰向けに死んでいた。

腹に短刀が刺さっていた。

爪は畳を掻きむしっていた。

殺されたとしか思えなかった。

故に陁果遠は最後に謎めいた事件に巻き込まれ不可解な他殺躰をさらした哀れな老人として市役所の人間の手を煩わせた。

社業場は不吉として取り壊された。

土地は売りだされた。

買うひともなく更地になった。

面は總て市で焼却した。

更地に草が生えた。

山際の土地だった。

樹木の翳りが落ちた。

すこし先に川とも言えない細い川があった。

磐を流れる水は淸らだった。

故その陁果遠の殘した叢に時に螢は迷い込み綺羅らぐも阿麻波勢豆加比許登能加多理其登母許遠婆

2021.01.16.黎マ





Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

0コメント

  • 1000 / 1000