蚊頭囉岐王——小説68
以下、一部に暴力的な描写を含みます。ご了承の上、お読みすすめください。
匂いさえもが
わたしの誰かを喚ぶ聲は
ここにさらした
壁にとよみ
他人のすごした無人の時間を
たゞ自分の響きに
かくて斗璃摩娑
こだましとよむにすぎないものを
爾に都儛耶氣良玖
いるはずはなかった。
だれも。
その朽ちたすべては無造作にさらした。
勝手に古りたゝぶん百年の時間を。
或はすでにそれ以上の経過を。
足音が響き、それだけだったにすぎない。
孤独?
慥かにわたしはひとりだった。
さがした。
誰を?
酉淨を。
わたしを呼んだ彼を。
夢の中で。
わたしを呼んだ酉淨。
そしてわたしの肉を。
わたしの魂さえをも貪り喰った酉淨を。
彼は生きていなければならなかった。
なぜ?
わたしを喚んだのだから。
彼がわたしを呼んだその爲だけにも。
慥かに。
彼は息てそこに存在していなければならなかった。
誰かの介護なくして息られないその不死の強靭な肉の腫瘍にいまだに肥大しながらも。
故レ中庭に出るに未ダに沙羅の雙樹茂りき故レ葉の茂りノ綠の間にモ間にもそノ白い花の群れ誰の爲にとモなくに咲きテ咲き乱れ散りテ散り舞ヒき時に登唎摩娑振り返りきキ所以者何耳に比登の女の聲を聞きタる故なりき故レ返り見ルに中庭に開ク硝子戸のひビ割れの傍らに女ひトり立ちタりき女ひとり息遣ヒさながらに息てあルもの自分ひとりト知りたるが如くしタり故レ斗璃摩娑おもハずに錯乱シて思へらく我すデに死にたるヤらんと所以者何まさに女自分ひトり爾に息てあるトその姿曝したルが故ナりき故レ斗璃摩娑爾に娑娑彌氣囉玖
だれ?
見つめた
と
わたしを見詰めたその眼差しを
聲を聞いた
顯らかにあやうい靑白いその虹彩の色を
誰?
思った
と
見たに違いない
いまだ一度も聞いたことのなかったその
彼女は顯らかに
やわらかな昏いうわづるアルト
靑白い光澤を佩びた
かくて斗璃摩娑爾に
わたしの投げた翳りのかたちを
都儛耶氣良玖
言葉を失ったわけではなかった。
まさか驚くなど。
わたしは見ていた。
微笑みさえして。
思っていた。
彼女はそこに居るに違いなかった。
そこに女は慥かにそこに居た以上。
そこに息て、だからそこに息づいてある以外にあり得なかった。
わたしは笑んだ。
誰の爲に?
彼女の爲に?
まさか。
もはや誰の爲にでもなく笑むわたしの顏を女は見ていた。
だから彼女は云った。——だれ?
と。
わたしはさゝやく。
あなたは?
と。
自分の喉の奥のほうにだけ。
だから彼女はさゝやく。
咎めるように?
ないし自分の咎める怯えた聲に戲れたにも思えて。——だれ?
と。
花が舞った。
纔かにしか存在しない女とわたしの距離の間にも花は舞う。
なぜ?
その沙羅の花。
花は散り故に散り舞う故にその花は倦めた。
わたしと彼女との隔たりの隙間をまえも。
綺羅らかに白く綺羅めきながらも——誰?
と。
さゝやく女に応えた。
わたしは。
——忘れた。
笑った。
わたしは。
吐く息でだけ笑うわたしを女は見ていた。
故に女はすでにその目に微笑んでいた。
邪気もなく。
はじめて見た目の前の男の爲にだけ笑んだ。
爾に夜麻陀ノ多香牟良ひとトり沙羅の雙樹ノ狹間そノ花の舞フうチにあル男を見て娑娑彌氣囉玖
存在する筈もなかった
生き殘り?
すでに生きた人の男など
生まれ變わり?
夢のように想った
いまさらに
風景そのものを
すでに生きてるべきでさえない時間のうちに?
遠い昔に滅びたいきものゝ
息遣う男の周囲には漂う
いのちのカタチ。今更に風景の中に現れた
花の馨にさえ掻き消えもしない
その風景をそのものをこそ
男の肌の
夢のようにも
その匂いを嗅いだ
かくて多香牟羅
甘やいだ蜜の
爾に都儛耶氣良玖
夢だったにちがいなかった。
あるいは幻。
あるべきでない姿なら。
あるいは私が彼の幻。
あるべきでない姿なら。
怯えもなかった。
夢にすぎない男の近くに近づきながら。
慄きも。
纔かの恐れも。
まして懐かしさなど。
男の傍らにわたしは立った。
その名前さえ忘れた男のかたわらに。
聞く。
耳は——誰?
と。
彼のさゝやいた声を聴いた。
髮に墜ちた。
その花の一つは。
頬にふれた。
その肩に。
頸にさえも。
その沙羅の花は。
だから——あなたは誰?
男がさゝやく。
彼の眼差しは見たのだった。
間違いもなく。
ふれさせた。
花に。
その髮に。
ふれさせその花の一つに。
更にひとつ。
ほかのひとつにも頬に。
ふれさせその肩に。
頸にさえもふれさせた女の。
生きて在る女のかたちを。
彼は見ていたに違いなかった。
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