中論 Mūlamadhyamaka-kārikā 觀六情品・龍樹 Nāgārjuna の偈を、青目 Piṅgala が釈し、三蔵法師鳩摩羅什 Kumārajīva が訳す・漢訳原文と書き下し(5)


中論卷の第一

  龍樹菩薩造

  梵志靑目釋

  姚秦三藏鳩摩羅什譯す



■中論觀六情品第三、八偈

問曰。經中說有六情。所謂。

問へらく〔=曰」、

「經中に說けらく、

 ≪六情有り≫と。

 所謂、


 眼耳及鼻舌  身意等六情

 此眼等六情  行色等六塵

此中眼爲內情色爲外塵。眼能見色乃至意爲內情。法爲外塵。意能知法。答曰無也。何以故。

≪眼耳、及び鼻舌

  身意等の六情

 此れら眼等の六情

  色等の六塵に行ず≫

 此の中、眼を內情とす〔=爲〕。

 色を外塵とす〔=爲〕。

 眼、能く色を見る。

 乃ち意にまで至り內情とす〔=爲〕。

 法を外塵とす〔=爲〕。

 その意、能く法を知れり」と。

答へらく〔=曰〕、

「無し(也)。

 何を以ての故に。


 是眼則不能  自見其己體

 若不能自見  云何見餘物

是眼不能見自體。何以故。如燈能自照亦能照他。眼若是見相。亦應自見亦應見他。而實不爾。是故偈中說。若眼不自見何能見餘物。問曰。眼雖不能自見。而能見他。如火能燒他不能自燒。答曰。

≪是の眼は〔=則〕

  自ら其の己れの體を見る能はず

 (若)自らだに見る能はざるに

  云何んが餘物をは見る≫

 是の眼、その自體を見る能はず。

 何を以ての故に。

 燈、能く自ら照らし亦、能く他をも照らす。

 眼、若し是れ見相ならば亦應に自ら見、亦應に他をも見ん。

 而れども實には爾らず。

 是の故、偈中に說けらく、≪若し眼、自ら見ずば何んが能く餘物を見ん≫と」と。

問へらく〔=曰〕、

「眼、自ら見る能はざるも〔=雖〕而れど能く他を見たり。

 火、能く他を燒き自らを燒く能はざるが如くに」と。

答へらく〔=曰〕、


 火喩則不能  成於眼見法

 去未去去時  已總答是事

汝雖作火喩。不能成眼見法。是事去來品中已答。如已去中無去。未去中無去。去時中無去。如已燒未燒燒時俱無有燒。如是已見未見見時俱無見相。復次。

≪火の喩へも〔=則〕

  見の法を〔=於〕成ず能はず

 去・未去・去時に

  已に總べて是の事、答へき≫

 汝、火の喩へを作せど〔=雖〕眼見の法を成ず能はず。

 是の事、去來品中に已に答へたり。

 已去中に去無く、未去中に去無く、去時中にも去無きが如く、已燒・未燒・燒時に俱に燒有ること無し。

 この如く、是の如くに已見・未見・見時に俱に見相は無し。

 復、次に、


 見若未見時  則不名爲見

 而言見能見  是事則不然

眼未對色。則不能見。爾時不名爲見。因對色名爲見。是故偈中說。未見時無見。云何以見能見。復次二處俱無見法。何以故。

≪見、若し未見の時は

  〔=則〕名づけて見とせ〔=爲〕ず

 而れど見、能く見たりと言はば

  是の事も〔=則〕然らず≫

 眼、未だ色に對せずば〔=則〕見る能はず。

 爾の時を名づけて見とせ〔=爲〕ず。

 色に對するに因り名づけ見とす〔=爲〕。

 是の故、偈中に≪未見時に見無し≫と說きたり。

 云何んがその見に〔=以〕能く見ん。

 復、次に二處、俱に見法無し。

 何を以ての故に。


 見不能有見  非見亦不見

 若已破於見  則爲破見者

見不能見。先已說過故。非見亦不見。無見相故。若無見相。云何能見。見法無故見者亦無。何以故。若離見有見者。無眼者。亦應以餘情見。若以見見。則見中有見相。見者無見相。是故偈中說。若已破於見則爲破見者。復次。

≪見に見有る能はず

  非見も〔=亦〕見ず

 若し已に見を〔=於〕破せば

  〔=則〕見者をも破したり〔=爲〕≫

 見、見る能はず。

 先きに已に過を說くが故に。

 非見も〔=亦〕見ず。

 見相無くば〔=故〕。

 (若)見相無きに云何んが能く見ん。

 見法無くば〔=故〕見者も〔=亦〕無し。

 何を以ての故に。

 若し見を離れ見者有らば、眼無き者も〔=亦〕應に餘情を以て見ん。

 若し見を以て見れば〔=則〕見中に見相有るも見者には見相無し。

 是の故、偈中に說けらく、≪若し已に見を〔=於〕破せば〔=則〕見者をも破したり〔=爲〕≫と。

 復、次に、


 離見不離見  見者不可得

 以無見者故  何有見可見

若有見見者則不成。若無見見者亦不成。見者無故。云何有見可見。若無見者。誰能用見法分別外色。是故偈中說。以無見者故何有見可見。復次。

≪見を離るも、見を離れざるも

  見者、不可得

 見者無きを以ての故

  何んが見・可見ぞ有らん≫

 若し見有りても見者、則ち成ぜず。

 若し見無くても見者、亦も成ぜず。

 見者無きに〔=故〕云何んが見・可見ぞ有らん。

 (若)見者無くに誰か能く見法を用ひ外色を分別せん。

 是の故、偈中に說けらく、≪見者無きを以ての故、何んが見・可見ぞ有らん≫と。

 復、次に、


 見可見無故  識等四法無

 四取等諸緣  云何當得有

見可見法無故。識觸受愛四法皆無。以無愛等故。四取等十二因緣分亦無。復次。

≪見と可見と無きが故

  識等の四法も無し

 四取等の諸緣も

  云何んが當に有り得べき≫

 見と可見の法無きが故、識・觸・受・愛の四法も皆、無し。

 愛等無きを以ての故に四取等十二因緣の分も〔=亦〕無し。

 復、次に


 耳鼻舌身意  聲及聞者等

 當知如是義  皆同於上說

如見可見法空。屬眾緣故無決定。餘耳等五情聲等五塵。當知亦同見可見法。義同故不別說。

≪耳鼻舌身意

  聲及び聞者等

 當に知るべし是の如き義

  皆、上の說に〔=於〕同じきと≫

 見・可見の法空なり。

 衆緣に屬するが故、その決定無し。

 この如く餘の耳等の五情、聲等の五塵も當に知るべし亦、見・可見の法に同じきと。

 義、同じかれば〔=故〕別には說かず」と。







Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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