蚊頭囉岐王——小説63
以下、一部に暴力的な描写を含みます。ご了承の上、お読みすすめください。
戸は明け放たれたまゝだったにも他ならず。
和葉の頸を絞めた。
息がつまる。
喉に。
鼻に。
思い出した。
俺は珠美の頸さえ閉めて殺した。
思い出した。
そのあざやかな記憶。
同じく珠美をなど思いもしなかった。
だれのことをも。
たゞいきなり目を開いた和葉以外には。
和葉の目が俺を見詰めていたから。
目は知らなかった。
俺が誰かを。
起き拔けに死に懸けた窒息の和葉は。
すでに目は何も見えてはいなかったから。
俺の顏だけを見つめながら。
開かれた大口が舌を出した。
思い出した。
酉淨の口を引き裂いたときのことを。
わたしが海に身を入れる前に。
逃走の果てに行き場所もなくて。
海に死ぬために遠淺の波をひたすらに歩いた。
遠い沖に。
なんども砂に足をすくわれなながら。
溺れそうになる度に躬をおこした。
沖に步く。
溺れる爲に。
思い出していた。
酉淨の引き裂かれた口を。
息は吐かれなかった。
和葉の口蓋は。
すでに吐かれるべき息などなかったかにも?
もとから息などありもしなかったかにも。
なかなか和葉は死ななかった。
どうしようもなく死に懸けながら。
だから俺は焦燥の内に彼の死を願った。
和葉の孔のこぼした彼の体液の匂いに噎せる気がしながらも。
故レすでに死に絶えタる蚊豆波の頸をさラにだに絞メ続けながら斗璃麻娑ひトり娑娑彌氣囉玖
完全に
なかった
顯らかに彼を死なせる爲に
憎しみなど
蘇らないように
和葉に。だから
完全に亡びる爲に
知った。瞼は
肉の存在
僕の流す
死んでいまだに滅びもせずに
淚の温度を
たゞ肉はそこに
かくて斗璃麻娑
自分の死をだけ曝した
爾に都儛耶氣良玖
その時に知った。
振り向き見た眼は。
気配に感応したわけでもなく。
ただ惰性のうちに振り向かれた眼差し。
弓香は僕たちを見ていた。
部屋の戸の傍らに。
息をひそめるともなく。
立ち尽くす。
弓香だけが。
立ち尽くすともなくただその二本の足でたつ。
弓香だけは。
戸に背もふれないで。
指先さえ何にもふれずに。
弓香は。
牙す表情もなかった。
それを不審にも思わなかった。
弓香は自分が生んだ子供のひとりが僕に殺されるのを見ていた。
だから知っていた。
弓香も。
和葉の死をは。
だから弓香は僕たちを見ていた。
死んだ和葉と僕を。
その朝の日ざしの洩れ込む直射の中に。
綺羅らぐ。
斜めに入り込むそれは。
綺羅らがせた。
空中に舞った埃りをさえ。
空中に散った塵りをさえ。
僕はまばたく。
だから僕は見ていた。
弓香のただ澄んだ目の凝視を。
思った。
彼女に言葉を掛けるべきだった。
何か。
だから僕は立ち上がる。
息をつきながら。
知る。
僕の息があらゝいでいたのを。
臭う。
自分の肌の薄くかいた汗の馨を。
他人の馨のような臭気。
かたわらに近づくのを咎めなかった。
僕の躰の接近。
弓香は。
なぜ?
ふれあうほどの至近に僕を見ていた。
彼女より纔かに背の高くなった僕を。
弓香は何か言いかけた。
ひらく唇が言葉にふれる前にさゝやく。
僕の唇は、——大丈夫。
と。
なにが?
思う。
僕は。
さゝやく。——あなたを殺しません。
なぜ?
思う。
僕は。
だからさゝやいた。——俺は、誰も殺さない。
聞いた。
自分のその聲。
やゝ低めのアルト。
まるで聲の低い女聲のようなアルト。
たぶんだれもが一度聞けば記憶する。
特異なアルト。
弓香は瞬いた。
淚も無く。
その瞬間に乾いた…違う。
充分潤んだ、けれども淚の霑いをは知らない目は。
その表面は。
瞬く。
何度か。
みじかく。
早く。
故レ斗璃麻娑ひトり阿迦井の家を立ち去りき故レ阿迦井ノ由美哿ひトり迦須波が部屋に哿須波をみツめて爾に娑娑彌氣囉玖
死んだ肉躰はもはや傷まない
いつ?
死んだから?
いつふれたのか
死んだ肉体はもはや
死に
顯らかな死
その肉體は
すでに顯らかに死んでいることをだけそこに曝して
微動だにせず
恥ずかしげもなく
理不尽に想えた
飽く事もなく
その予測だにない
倦むこともなく
一瞬に
無き殻という言葉の正しさをのみ見せつけた
いつふれたのか
死んだ肉躰はもはや傷まない
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