蚊頭囉岐王——小説62
以下、一部に暴力的な描写を含みます。ご了承の上、お読みすすめください。
と。
なぜ彼女に見覺えが無かったのだろう?
その顯らかな不可解が僕を笑ませた。
だから彼女は僕に心を赦した。
すでに彼女は赦していたから。
心を。
僕に。
誰もが知っていた。
僕を。
その美しく素直なやさしい少年。
啼き臥したくなるほどに稀な苦難の息物。
狂った母親をいたわった。
虐待の祖父に堪えた。
それでもいつも穢れなく笑んだ。
まるで苦しみなどなかったように。
畸形の兄乃至弟は死に懸けのイノチを貪り続けた。
意識さえなくただ喉という器官に呻いた。
苦痛の?
絶望の?
誰もがそう思った。
同じく知っていた。
誰もが。
まさか苦痛など。
その糜れた瀛みに。
まさか絶望など。
その臭む瀛みにも。
意識さえなく器官が空気をゆらがす音響に過ぎなかった。
その叫びは。
彼は苦痛を認識できはしなかった。
彼の肉に刃物をさしても。
彼の肉にしのびこんだ獣が牙さしても。
彼は絶望など發し得なかった。
彼が三秒後に死ぬと知っても。
僕が頭の皮を引きちぎり彼の目の前で死んだとしても。
死んだ方が幸せだとだれもが思いながら。
酉淨は生き延びつづけた。
誰もが僕を愛した。
美しくそして不幸だったから。
だから赦した。
見知らない女は僕をだけ。
その微笑の美しさの絶望的な不幸をだけ。
故レ斗璃麻娑ひとり阿迦井ノ由美蚊と俱なりテ娑娑彌氣囉玖
どうしたの?と
さゝやく
女は云う
いる?と
さゝやくように
鳥雅はひとり呟き
たぶん弓香
すぐに言い直した
あなたの母親は
います?と
老いさらばえかけた皮膚に必死で笑んで
何も言わないわたしをようやく
せめてもわかやぎ
見上げた
せめて女らしくも
鳥雅は
こんな早くに、と
笑んだ
諫める気配さえ匂わさずに
まるで今此の時には微笑む以外に術など無いと
やさしく
みずから知っていたかのように
なにも云わないわたしに
説きふせるかのようにも
ただ笑むしかないわたしに
鳥雅は笑んだ
弓香は笑む
祖父を殴ったに違いなかった
わたしの笑みにかさなるように
あまりにも救いがたい関係
わたしの笑みに競りあうように
誰もが知っていた
だから彼女は不意にささやく
あまりに過酷な運命が少年の拳に暴力を与え
入って、と
自らの暴力に彼はひとり傷つくしかない
言い終わらないうちにも問う
だからひたすらに
和葉?と
鳥雅は傷ついていた
答えも待たずに
います?…もう
だから彼女は自分にさゝやいた
と
待って
彼
と
和葉、もう
まだ寢てるから
起きてます?
と
さゝやく少年に
彼女はひとり奧に行こうとする
せめて微笑む
かくて斗璃麻娑
彼だけのなにかゝらせめてしばらく
爾に
迯げ出そうとした少年の爲に
都儛耶氣良玖
我を忘れた。
不意に。
殊更に笑んだ俺に。
その目の見た微笑に。
阿迦井弓香は。
だから俺はその脇を通り抜けた。
未だベッドの中を引きずる寢汗の洗い流されなかった匂いが漂った。
わたしは一瞬だけ息を止めた。
その匂いが痛ましい程に惨めに想えたから。
和葉の部屋は知っていた。
何度も來たから。
和葉が俺の部屋をよく知っていたように。
だから俺は階段を上がった。
夫婦の寝室のはす向かいに彼の部屋があった。
妹の部屋の正面に。
蘰子の。
だから彼の部屋の戸を開けた。
扉は軋みもしなかった。
蘰子の部屋で衣擦れの音を聞いた気がした。
彼女は目覚めたかも知れなかった。
和葉がひそかに愛し続けた妹の。
獦馬が顯らさまに戀した蘰子の。
その胸にわたしに焦がれつゞけた十二歳の蘰子の。
彼女は目覺めたかも知れなかった。
彼女は知らなかった。
わたしが誰かを。
兄の部屋の戸を開けたのが誰か知らなかったから。
だから彼女は知らなかった。
私が誰かを。
だから俺はすでに忘れた。
蘰子も。
蘰子のたてた衣擦れの音のかすかも。
和葉は寢息を立てゝいた。
彼は寢ているに違いなかった。
閉じられなかったカーテンに朝の光はさした。
たゞ暗く。
冷たく。
なぜ?
山際の南西向きの部屋だったから。
だから影のように光りはさした。
飽く迄も光りでこそありながら。
俺は和葉のベッドの上に乘った。
その時だけマットレスがきしんだ。
乃至はベッドの板材が?
スプリングが?
何が?
誰も居なかった。
背後には。
振り返るまでもなく。
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