蚊頭囉岐王——小説56
以下、一部に暴力的な描写を含みます。ご了承の上、お読みすすめください。
獦馬は。
はじめてこの世界に自分以外の生き殘りがいたことに気付いたかのように。
だから獦馬の顏は素直な驚嘆をだけそこに曝した。
——お前?
獦馬は云った。
俺だよ、と。
ぼくは喉の奥にだけさゝやきそして彼を見つめた。
言葉もなく。
誰でも知っている。
いつでも常に月の光はふりそゝぐ。
雨の降らない日には。
雲の繁茂しなかった日には。
——呼んだの、お前じゃない?
聞いた。
獦馬の耳は。
不意の僕の聲を。
僕の耳が聽いたように。
だからさゝやく。——俺が?
——呼んだよ。
——呼んだ。
——どうしたの?
その時に獦馬は我に返った色を曝した。
その目に。
だから獦馬は返り見る。
山の方を。
その梺近くに焰は上がった。
彼が放った焰に違いなかった。
だから山は燃えた。
ぼくたちは見た。
その焰。
昏い山を軈てすべて燃え立たせるかに違いなく錯覺させる。
でもあまりにもちいさな焰。
死んだ誰かの肉を燒く。
ついに燒き尽くせもしない無邪気な焰。
あまりにも小さな、絶望的な破壞。
だれかの壞滅。
かくて迦豆摩まバたき斗璃摩娑の肌ノ馨を嗅ぐそノ蜜ノ香を故レひとり娑娑彌氣囉玖
なにを破壊したいわけでもない
もっと大きな
誰も云った
大きな破壞を
あの母親のせいだと
壞滅を
俺はそれを認めなかった
どうしようもない殲滅を
彼女はひ弱な命のひとつに過ぎなかった
赦し難い惡を
彌生に過失は何もなかった
目を追うばかりの
たとえ彼女が俺の肌に取り返しのつかない傷痕を与え続けていたにせよ
何百度も発狂させて飽きない殘酷さを
彌生はたゞ犠牲者に過ぎなかった
望んだことは一度もなかった
ほかの誰もと同じように
この世界に欠けていたのはまさにそれらだったから
誰のものでもない罪のせいで
この世界が無力であるように
焰は燃え上がるしか術を持たなかった
僕はただ無力だった
かくて迦豆摩
だから
爾に
僕は沉默黙さえできなかったのだった
都儛耶氣良玖
加藤日向の死が蘰子を歎かせることは知っていた。
繊細過ぎる彼女のたゞひとりのともだちだったから。
日向。
みにくい子供。
吹き出物だらけの。
或は大人になったら驚くほど美しくなるのかもしれない。
そう聞いた。
すくなくとも神社の佐伯の女たちが噂したのを。
一度だけではあったとしても。
それは事実かも知れなかった。
それはたゞの憐憫のくれた錯覺だったかも知れなかった。
それらすべてはどうでもよい事だった。
日向はすでに死んだから。
盗るべきものなど何もなかった。
いつもと同じように。
十二時すぎて眠る日向の喉を切った。
その口を覆い。
藻掻く歯が手の平にわなゝく。
博史と奈津子は離れて寢ていた。
夫婦の部屋の同じベッドの兩端に。
互いに布団の兩端をつかんで。
死んでいく博史を奈津子は見ていた。
茫然として。
日向と同じように死んでいく夫を。
日向の死にざまを知らない儘に。
死んだ事実さえ知らない儘に。
暗がりの中に見止めた夜の僕の姿を見ていた。
茫然として。
未だに死にきれない男の胎を包丁に突き刺す。
ほんの数秒に。
何度も。
それでも猶も我に返らなかった。
奈津子は。
だから夢を見ていたにちがいなかった。
彼女は開いた醒めた眼差しの中だけに。
たゞ目の前の現実をだけ見ていたとしても。
死に懸けた男を放置して僕はさゝく。
奈津子に。
脱げよ。
と。
まるでその躰が目的だったかのように。
死にゆく彼女の爲だけのせめてもの擬態。
老いさらばえた無樣な女はその瞬間にに女になった。
だから口を開きかけた女の顏を切った。
血が流れたに違いなかった。
掩う掌がそれを隱した。
そして夜の闇も。
奈津子の脱いでいく姿を見ていた。
男は藻掻いた。
すでに聲も上げられなかった。
喉はとっくに壊れていたから。
だからせめて彼は叫んだ。
荒い呼吸の音だけで。
奈津子の縮こまった背中と尻が痙攣していた。
寒い?
さゝやく。
喉の奧だけで。
だから僕はガソリンをまいた。
ペットボトルに入れた厥れ。
その匂いの或る液体を肌に。
舐めるように滑る。
火をつけた時あやうく僕を燒きそうになる。
爆發するに似た焰がわなゝく。
奈津子は回った。
はげしくくるくる。
その背面の焰を見ようとして?
僕は笑いさえしなかった。
必死に届かない手で焰を消そうとしていた。
奈津子は。
だからその目を包丁で切った。
髪をつかみ。
焰でわずかに指を燒きながら。
奈津子は長い息を吐いた。
もうすでに何をも見い出しはしなかった。
最後に見た僕の笑んだ顔。
その殘像以外には。
かくてテその二週間後近親者の手デ三たりは弔はレき故レ哿豆摩道の遠クにその葬儀を見き時に欷ク迦豆囉許そノ棺に寄り添ヒき靈柩車がうチにものりこム故レ哿豆摩ひとりそノ幼き喪服の漆黑の色ノ日に照る白濁を見キ故レ爾にひトり娑娑彌氣囉玖
黑
匂う氣がした
光の下の
鼻の先に
そのさまざまな反射の
その髪の色
すさまじい色の氾濫を見た
たばねられ
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