蚊頭囉岐王——小説38


以下、一部に暴力的な描写を含みます。ご了承の上、お読みすすめください。



 水滴の気配が。

 あふれかえった。

 赤裸々な冷えた潤いの氾濫。

 それらのうちに。

 背後の気配に振り返った。

 茫然と戸口に加賀淨雅は立ち尽くす。

 すべはなかった。

 彼にも。

 それ以外には。

 だからさゝやく。

 近づきもせず。

 わたしにも。

 匍う私にも。

 返り見た二本足のわたしにも。

 聞いた。

 在る耳は。

 聲。

 さゝやく聲を。

 だから聲はさゝやく。

 ——なに?

 淨雅の聲が。

 ——どうした?

 聲はさゝやく。

 ——あれは…

 言葉をなくした一瞬の淨雅のまなざしを見た。

 慄きが?

 こゝろのどこかに、淨雅の。

 まさか。

 むしろ彼は赦しさえしてむしろしずかに一度まばたく。

 やわらく目を閉じたように。

 すぐさまにひらき。

 やわらかに目を閉じていたように。

 わたしは息をひそめさえせずに淨雅を見た。

 彼をだけを。

 眼差しにわたしはその夜の記憶を見いだしながら。

 その夜の弑殺。

 私の掌につかまれた屍。

 雀の屍を淨雅は見た。

 その屍を。

 見た。

 淨雅の眼は。

 濡れた唇を。

 殺されて。

 その内臓にわたしの唇を汚した。

 鈍足の猫のその血の色を。

 ——殺しちゃいけない。

 微笑むわたしに淨雅はさゝやく。

 すでに彼は赦していたかにも見えて。

 ——殺しちゃ、

 ——どうして?

 微笑むわたしを淨雅は見ていた。

 ——生き物は…

 ——食べるでしょ?

 笑う。

 わたしの唇。

 そして喉と。

 それらが俱に笑う聲を聴いた。

 淨雅は。

 わたしと俱に。

 ——食べたの?

 ——食べるでしょ。

 ——殺しちゃいけない。

 ——殺したじゃない。

 ささやく聲の笑んだ色合いを厭いさえもしなかった。

 淨雅はひとり。

 ——猫は殺さない。

 ——殺したじゃない?

 ——鳥も殺さない。

 ——じゃ、……ぼくは?

 と。

 喉の奥にさゝやかれた聲をわたしは潜めた。

 唇にたゞやさしい微笑だけを赦して。

 言葉をは決して知らせない儘。

 なぜ?

 淨雅の爲に。

 やさしい彼の。

 苦惱する彼の。

 加賀淨雅の爲にだけ。

かくて心に娑娑彌氣囉玖

 殺したじゃない?

  チューブを外して

 三月の終わり

  むしろ安樂を

 窓の向こうに櫻咲く日に

  失敗作に?

 舞い散る中に

  イノチのバグに?

 殺したじゃない?

  酉淨を

 土の中で虵はめざめた

  鳥雅を

 ほそい蛇

  殺したじゃない?

 その肌は潤う

  狂った珠美に知らせもせずに

 もうすぐに

  彼女の爲に

 さなぎを造る

  文果とゝもに

 いまだに蝶の羽をもたないそれ

  停止する

 土にはう蟲

  装置は。医師の指先に

 毛衣の虫も

  停止する。その時に文果の

かくて斗璃摩沙

  鼻すゝる音

爾に

  ぼくたちは聞いた

都儛耶氣良玖

 あなたはすでに死んだのだった。

 あの夜にも。

 鳥雅も酉淨も何度目かにもの發熱に夢を見た。

 その夜にさえも。

 何度目にも。

 畸形の子たちを産んだ珠美が心を亂し生ませた男がひとりで死んだあの夜にも。

 發作を起こした珠美は咬んだ。

 自分の舌を。

 茫然としたあなたは鳴らさなかった。

 病室のベッドの緊急ボタンをは。

 ただ我を忘れて。

 かたわらの花瓶の百合の花の花弁の一つが落ちた瞬間に。

 咬んだ舌に血を吹いた珠美をひとり見ていた。

 瞬きもせずに。

 口を開いた珠美はさゝやく。

 血を吐きながら。

 唇に。

 血を埀らしながら。

 ——だれ?

 珠美は云った。

 ——あんた誰なの?

 ふたゝびに見た。

 見開いた眼がすでに滂沱の淚を流していたのを。

 珠美。

 その目。

 狂った眼差し。

 玉散る涕。

 ふるえ玉。

 わななき玉。

 ゆららぎ玉。

 玉散る。

 まばたく。

 白濁。

 睫毛にななめの日差しの。

 その綺羅を。

 立ち上がった珠美が近寄る儘にまかせた。

 ——なにをしたの?

 珠美がさゝやく聲を聴いていた。

 耳元に。

 あなたの耳は。









Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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