蚊頭囉岐王——小説28


以下、一部に暴力的な描写を含みます。ご了承の上、お読みすすめください。



  蓮華の花も

 咲く花たちの匂いを

  沙羅の花

 わたしに斷ることもないまゝ

  降り散る花も

 わたしの鼻孔は吸い込みいつか

  母の唇に

 ひそかな歡びをさえ

かくて斗璃摩娑

  したたる花汁に

爾に都儛耶氣良玖

 引き攣らすのだ。

 淨雅はいつも。

 祇樹園詣でのその前。

 門の前で。

 門の近くで。

 或はその柿の樹の影で。

 引き攣らすのだ。

 わずかに顏を。

 その頬を。

 時には眉を。

 なぜ?

 跳ねた眉。

 頬。…殊更な故意の笑みに崩してみせても。

 引き攣らす。

 だから野放しのひとたち。

 祇樹園の中は野放しのそれら不可解な人々に溢れる。

 騒がせる。

 いわばその野生の人々を。

 思った。

 彼等は圍い込まれながらひとりで息ていたに違いなかった。

 彼等の領野に。

 だから聽いた。

 時には怒號を。

 野生の唇に。

 自分で噛んだ唇の血に沾れた顎に。

 鼻水を光らせた鼻孔に。

 或は介護士が時にたまらずに上げたその怒號。

 素直にさらした憎しみの。

 赤裸々に明かした輕蔑の。

 聲。

 壁の翳りにいつかひとり泣いていた男の震える肩を私は見ていた。

 それ。

 介護士の男。

 彼は壞れるに違いない。

 侮蔑があった。

 その男を慰めるかたわらの介護士。

 その眼差しに。

 嘲笑になる寸前の笑み。

 あくまでやさしい慰めの。

 そしてそこには在る氣がした。

 彼の剝き出しの倦怠が。

 いつか殺しうだろうか?

 彼等は。

 淡いブルーの制服の儘で。

 私はだからふたりに笑んで会釋する。

 わたしの美しさはまさに匂い立つ。

 わたしの美しさはまさにきわ立つ。

 ひとでさえないあたらしいイノチたちの群れの中で。

 かれらの擧げる喉のノイズのつらなりのなかで。

 わたしの美しさはひとりで薰る。

 たぶんわたしだけが人間だった。

 見た。

 いつかの日には兩眼に白い包帶を覆ったひと。

 おそらくは女。

 その女がわめく男に殴打され、それでも。

 それでも?

 明け開いた口は叫びさえせずに。

 なにも?

 だれにも氣づかれない儘に。

 棟の翳りの靑む暗がりの圡を囓む。

 だから嗤ってあげる。

 わたしは。

 彼等に貪られた彼等のふれ合いをそっと。

 わたしの眼にはすこしだけ暴力的に思えたとしても。

 伎與麻娑は云った。

 頭の上で。

 ——行こう。

 お母さんが待ってるから…

 その体躯で隱した。

 私の眼から。

 野放しの彼等の心のふれ合いを。

 拳と頬のふれ合いを。

 拳と額のふれ合いを。

 拳とこめかみのふれ合いを。

 拳と唇のふれ合いを。

 拳と鼻血のふれ合いを。

 拳は自分の皮膚の裂けた血にさえ霑れていた。

 齒のせいで?

 見た。

 いつかの日には梅の葉。

 花はない。

 庭の東南に立った梅の細い木にしがみつきその男はひとり天を仰いだ。

 おそらくは。

 あるいは彼は樹木に這う蛇だったのか。

 あるいは彼は樹木にへばりつく虎だったのか。

 あるいは樹木に飛び交う蚯蚓だったのか。

 見た。

 その女。

 いつの日かには土に顔面を押し付けながらひくゝつぶやく。

 その女。

 だれかとゝもに。

 その女。

 ひくゝつぶやきまるで一人で二人分の聲を。

 その喉はかさなる聲を出したかにも思えてひたすらに目を剝きつぶやく。

 違う、と。

 思った。

 わたしたちは違う、と。

 わたしは。

 彼等、或はわたしたち、此のそれぞれにあたらしい固有のイノチが決して。

 決して同じでなど。

 その形さえ。

 淨雅はひとり引き攣っていた。

 決してふれ合わない他人事の希薄なまゝの濃密。

 ふれ遇う。

 所詮彼にとって同じ場所にさえいなかったまゝに。

 わたしたちはふれ遇う。

 共有されたなにものもなく。

 彼等のだれもがおそらくはかつて誰も見なかったその風景の中にだけ目覺めていても。

 だからわたしはひとりで退屈する。

 彼等の誰もがすでに散々誰かしらに見られたに過ぎない。

 過去にも何度もくりかえさた風景。

 そのいつもの風景に迷い込む。

 そうだったにすぎなくとも顯らかな他人の彼にとっては。

 お前の耳は鳥。

 彼にとっては。

 人の躰を持った花。

 彼にとっては。

 すべてものが言葉を發した。

 彼にとっては。

 あなたの血はいま沸騰したのだろう。

 彼にとっては。

 ひざまづいて虫の蝶になる刹那を穿て。

 彼にとっては。

 花の匂い。

 それら他人ごとの群れのさなかに。

 多摩媺の狂った眼差しと唇。

 花の匂い。

 それこそが加賀淨雅を引き攣らせた。

 とめどもなく。

 言葉もなく。

 こらえようもなく。

 引き攣らせ続けた薰る花。

 淨雅の眉はわなゝき引き攣る。

 花。

 淨雅の瞼はわななき引き攣る。

 色めきの花。

 淨雅の眉はわななき引き攣る。

 その花汁。

 香れ。







Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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