蚊頭囉岐王——小説26
以下、一部に暴力的な描写を含みます。ご了承の上、お読みすすめください。
いるからね。まだ。俺は…
そうな
あの子ら
娘さんもな
雙兒も…
あの子ら…
まだね…
大丈夫?
だから
泣いたらいゝんよ。
爾に我に返りテ伎與麻娑いまさラに目の前に圓位がありケることヲ見い出シきかくて今更に沙門圓位笑ミてほゝ笑みたルを見けるに
哭きなさいな。
爾に思ハずに伎與麻娑號泣し頽れ卧すものノ圓位が足にすがりつきテ泣き喚キたるヲ
泣けばいゝんよ
爾に伎與麻娑ひトり都儛耶氣良玖
薰った。
ほのかに薫らす。
その沙門は。
法衣に。
肌に。
だから匂った。
なぜ?
女ものゝ香水の匂い。
微かにだけ。
最初は香の匂いかと思った。
その老いぼれた沙門。
文果は云った。
いつか。
なんどめにか。
その時。
珠美と雙兒の身の上の相談に寺を詣でた何度目かの歸りに。
文果はふとわたしの耳に口を寄せた。
いたずらめかして。
さゝやいた。——あれ…
ね?
なに?
あれ…
なんだよ——あれ、香水よ?
なに?と聞き返す私を勝手に捨て置き
——あれ、女の物の香水。ポワゾンの赤い丸い瓶…
文果の髮の毛が匂った。
——強烈に甘い…
だから笑んだ。
年よりは若く見えた老いぼれの圓位は皴塗れの顏に。
文果の屍。
むりやり義眼を入れたその顏を見て。
すこしの無理もせず。
あまりに自然に。——いゝ、顏ね?
——こんな…
——どんな?
——傷だらけですよ…
——癒えないよな…亡くなってるから。
——無殘な…こんな…
——こんな無殘な?
——だってそうでしょ?
——むごたらしい?
——違います?
——いいお顏よ。
——なんで?
——陸地の低さを心の底から知らないとね…
——なんですか?
——空の髙さはわかりますまいよ
——なにを…
——いゝお顏よ。
——こんなふうに死にたい奴なんていますか?
——わたしね…
——います?こんな感じに、
——今度生まれ變わったら
——あなた死にたい?
——次はね
——こんな継ぎはぎの顏さらして?
——食用の豚に成ろうと思う。
——豚?
——自分が俗世に食べた分だけね。次は鷄…次は牛…
——食べたから?…殺しちゃったから、
——次は草…
——ですか?
——成佛というのはそもそも輪廻転生をもうしない最期の肉躰を得て失せるということ。
けれどもが。そう考えるといつまでもいつまでもこの濁世にね。生まれ続けないと…
とても成佛はしていられない。あるいはそれをこそ成佛というべきか知らん。
いつまでも。いつまでも。轉生のうちに。むしろそれをこそ願い、…だから。
——ただ、それは…
——いつかはこんな顏してわたしも死ぬでしょうよ。…今生の果てる際の顏にでも、ひょっとすればね…
雙兒ちゃんは?
と。
沙門圓位は云った。
上に…と。
だから笑んだ。
さゝやいたわたしに頷いた圓位は。
ひとりわたしにだけ笑みをくれ、そしてすり拔ける。
わたしの傍らを。
床は軋んだ。
板張りの厥れ。
二階に雙兒を圓位は見た。
わたしと俱に。
雙兒の部屋に明かりはともされ、厥れは電氣の明るさ。
感じさせる。
あわいオレンジの色みを。
酉淨は呼吸器チューブの送る酸素を肺に直に息遣う。
誰かの血液が人工心臓に運ばれた。
鳥雅は壁にもたれた。
床に座ってその刹那にこぼす。
その微笑みを。
まなざしの捉えたその沙門のすがたの一瞬に。
素直な子。
無垢の美しい…嘆かわしい程に。
ただ美しい。
素直な子。
見た。
その笑む顏のけなげさをわたしたちは。
ふたりで。
乃爾圓位笑ミて胸に手を合わせ斗璃摩娑ヲ見て覩畢るにひとり白さク——お美しいお顔なと故レ伎與麻娑は手招キ斗璃摩娑を呼べば爾に白サく——挨拶しないとなト故レ斗璃摩娑笑みたる顏を瞬時に凍らセ且つは沙門を見テ覩畢りたるにふたタびに笑みテ白さく——よろしくお願いしますト故レ沙門問ひて白さく——よろしく?と故レ斗璃摩娑躬づらの言葉の失言たるやも怖れつツにも殊更に笑みテ白さく——おばあちゃんをよろしくおねがいしますと云へば沙門問へらク——おばあちゃんを?と故レ斗璃摩娑沙門を諭すにも似て答へらくハ——おばあちゃんすごく大變だったから天國に連れて行ってあげてくださいト答へたるそノ聲のひビきをはらぬに伎與麻娑ひとり目ヲそらシき是レ心に思ハずに悔恨にも似てたダ躬ヅからを責める思いのみ生ジたる故なりき沙門白シけらクは——いゝ子な。
とかくテいゝよ。
とかクてわたしがな。
とかくテわたしがおばあちゃん。
とかくテ連れてってあげる。
トかくてその、お手傳いしたげる。
とかクて…から、あなたもお手伝い一緒にしてな。
とかくテ沙門部屋を伎與麻娑と且つは斗璃麻裟と俱に出でたるノちに俱に娑娑彌氣囉玖
——うつくしい子よな
——鳥雅?
——あの子も、あの…腫瘍…
——酉淨みたいな…
——あの腫瘍もってうまれたんでしょう?
——そう…そもそもは同じ…あれよりはひどくなかったんですけど…
——それがいまや…
——いきなり、剝がれるおちるみたいに綺麗になって…
——奇蹟よな
——だから心のどこかで…
——奇蹟の子だと?
——だったとして、酉淨のほうもいつかそうなるんじゃないかと
——あれ、原因は何なの?
——わからないんですよ…いまゝでにああいう症例の報告も無い…すくなくとも先進國では…
——それでもなんでも、あれは奇麗な…
——まだ子供ですけどね…
——女の方たちも放っておかないようなね…やがては…
——たゞ…
——なに?
——どうなんでしょう?
——なにが?とかくて伎與麻娑ひとりシて娑娑彌氣囉玖
あまりにも彼は
むしろ澄んだ水に
見過ぎたと?
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