妙法蓮華經五百弟子受記品第八


底本、「國譯大藏經、經部第一卷」(但し改行施し難読以外の傍訓省略又、一部改変)

奥書云、

大正六年六月廿三日印刷、同廿六日發行。昭和十年二月二十四日四刷發行。

發行者、國民文庫刊行會



 卷の第四

  五百弟子受記品第八

爾の時に富樓那彌多羅尼子、佛に從ひたてまつりて、是の智慧方便の隨宜の說法を聞き、又、諸の大弟子に阿耨多羅三藐三菩提の記を授けたまふを聞き、復、宿世の因緣の事を聞き、復、諸佛の大自在神通の力、有しますことを聞きたてまつりて、未曾有なることを得、心、淨く踊躍す。

 即ち座より起つて佛前に到り、頭面に足を禮して却つて一面に住し、尊顔を瞻仰して目、暫らくも捨てず。

 而も是の念を作さく、

「世尊は甚だ奇特にして所爲希有なり。

 世閒の若干の種性に隨順して、方便知見を以て爲に法を說いて、衆生處處の貪著を拔出したまふ。

 我等は佛の功德に於て、言をもつて宣ぶること能はず。

 唯、佛世尊のみ能く我等が深心の本願を知ろしめせり。」

爾の時に佛、諸の比丘に告げたまはく、

「汝等、是の富樓那彌多羅尼子を見るや不や。

 我、常に其の說法人の中に於て、最も第一なりと稱し、亦、常に其の種種の功德を歎ず。

 精勤して我が法を護持し助宣し、能く四衆に於て示敎利喜し、具足して佛の正法を解釋して、大いに同梵行者を饒益す。

 如來を捨〔お〕いてよりは、能く其の言論の辯を盡くすもの無けん。

 汝等、謂うふこと勿れ、富樓那は但、能く我が法を護持し助宣すと。

 亦、過去の九十億の諸佛の所に於て、佛の正法を護持し助宣し、彼の說法人の中に於ても亦、最も第一なりき。

 又、諸佛の所說の空法に於て明了に通達し、四無礙智を得て、常に能く審〔あき〕諦〔らか〕に淸淨に法を說いて疑惑有ること無く、菩薩の神通の力を具足し、其の受命に隨つて常に梵行を修しき。

 彼の佛の世人、咸く皆、之れを實に是れ聲聞なりと謂へり。

 而も富樓那は、斯の方便を以て無量百千の衆生を饒益し、又、無量阿僧祇の人を化して阿耨多羅三藐三菩提を立〔りつ〕せしむ。

 佛土を淨めんが爲の故に、常に佛事を作して衆生を敎化しき。

 諸の比丘、富樓那は亦、七佛の說法人の中に於て第一なることを得、今、我が所〔もと〕の說法人の中に於ても、亦、第一なることを爲(得)。

 賢劫の中の當來の諸佛の說法人の中に於ても亦復第一にして、皆、佛法を護持し助宣せん。

 亦、未來に於ても、無量無邊の諸佛の法を護持し助宣し、無量の衆生を敎化し饒益して阿耨多羅三藐三菩提を立せしめん。

 佛土を淨めんが爲の故に、常に勤め精進して衆生を敎化せん。

 漸漸に菩薩の道を具足して、無量阿僧祇劫を過ぎて、當に此の土に於て阿耨多羅三藐三菩提を得べし。

 號をば法明如來、應供、正徧知、明行足、善逝、世閒解、無上士、調御丈夫、天人師、佛、世尊と曰はん。

 其の佛、恒河沙等の三千大千世界を以て一佛土と爲し、七寶を地と爲し、地の平かなること掌の如くにして山陵、溪澗、溝壑有ること無けん。

 七寶の臺觀、其の中に充滿し、諸天の宮殿近く虛空に處し、人、天、交〔こもご〕も接〔まじは〕りて兩〔とも〕に相ひ見ることを得ん。

 諸の惡道無く、亦、女人無くして、一切衆生、皆以て化生し、婬欲有ること無けん。

 大神通を得て、身より光明を出だし、飛行自在ならん。

 志念堅固に精進、智慧あつて、普く皆、金色に、三十二相をもつて自ら莊嚴せん。

 其の國の衆生は常に二食を以てせん。

 一には法喜食、二には禪悅食なり。

 無量阿僧祇千萬億那由佗の諸の菩薩衆有つて、大神通四無礙智を得て善能く衆生の類を敎化せん。

 其の聲聞衆は、算數校計すとも知ること能はざる所ならん。

 皆、六通、三明、及び八解脫を具足することを得ん。

 其の佛の國土は是の如き等の無量の功德有つて莊嚴し成就せん。

 劫をば寶明と名づけ、國をば善淨と名づけん。

 其の佛の壽命は無量阿僧祇劫、法住すること甚だ久しからん。

 佛の滅度の後、七寶の塔を起てて其の國に徧滿せん。」

爾の時に世尊、重ねて此の義を宣べんと欲して偈を說いて言はく、

『諸の比丘、諦らかに聽け、

 佛子所行の道は、

 善く方便を學するが故に、

 思議することを得可からず。

 衆の小法を樂つて、

 大智を畏るることを知れり。

 是の故に諸の菩薩は、

 聲聞、緣覺と作る。

 無數の方便を以て、

 諸の衆生類を化して、

 自ら、是れ聲聞なり、

 佛道を去ること甚だ遠しと說き、

 無量の衆を度脫して、

 皆、悉く成就することを得せしめ、

 小欲懈怠なりと雖も、

 漸く當に作佛せしむべし。

 内に菩薩の行を祕し、

 外に是れ聲聞なりと現じ、

 少欲にして生死を厭へども、

 實には是れ、佛土を淨む。

 衆に三毒有りと示し、

 又、邪見の相を現ず。

 我が弟子、是の如く、

 方便して衆生を度す。

 若し我、具足して、

 種種の現化の事を說かば、

 衆生の是れを聞かん者、

 心、則ち疑惑を懷きなん。

 今、此の富樓那は、

 昔の千億の佛に於て、

 所行の道を勤修し、

 諸佛の法を宣護し、

 無上慧を求むるを爲〔も〕つて、

 而も諸佛の所に於て、

 現じて弟子の上に居し、

 多聞にして智慧有り、

 所說、畏るる所、無く、

 能く衆をして歡喜せしめ、

 未だ曾て疲倦有らずして、

 而も以て佛事を助く。

 已に大神通に度り、

 四無礙慧を具し、

 衆根の利鈍を知つて、

 常に淸淨の法を說き、

 是の如き義を演暢して、

 諸の千億の衆を敎へ、

 大乘の法に住せしめて、

 自ら佛土を淨む。

 未來にも亦、

 無量無數の佛を供養し、

 正法を護し助宣して、

 亦、自ら佛土を淨め、

 常に諸の方便を以て、

 法を說くに畏るる所無く、

 不可計の衆を度して、

 一切智を成就せしめん。

 諸の如來を供養し、

 法の寶藏を護持して、

 其の後に成佛することを得ん。

 號を名づけて法明と曰はん。

 其の國をば善淨と名づけ、

 七寶の合成する所ならん。

 劫をば名づけて寶明と爲さん。

 菩薩衆、甚だ多く、

 其の數、無量億にして、

 皆、大神通に度り、

 威德力、具足して、

 其の國土に充滿せん。

 聲聞、亦、無數にして、

 三明、八解脫あり、

 四無礙智を得たる、

 是れ等を以て僧と爲さん。

 其の國の諸の衆生は、

 婬欲、皆、已に斷じ、

 純一に變化生にして、

 相を具して身を莊嚴せん。

 法喜、禪悅食にして、

 更に餘の食想無く、

 諸の女人、有ること無く、

 亦、諸の惡道無けん。

 富樓那比丘、

 功德、悉く成滿して、

 當に斯の淨土の、

 賢聖衆、甚だ多きを得べし。

 是の如き無量の事、

 我、今、但、略して說く。』

爾の時に千二百の阿羅漢の心、自在なる者、是の念を作さく、

「我等、歡喜して未曾有なることを得つ。

 若し世尊、各、授記せらるること餘の大弟子の如くならば、亦、快からずや。」

佛、此れ等の心の所念を知ろしめして、摩訶迦葉に告げたまはく、

「是の千二百の阿羅漢に、我、今當に現前に次第に阿耨多羅三藐三菩提の記を與え授くべし。

 此の衆の中に於て我が大弟子、憍陳如比丘は當に六萬二千億の佛を供養し、然る後に佛に成爲〔二字な〕ることを得べし。

 號をば普明如來、應供、正徧知、明行足、善逝、世閒解、無上士、調御丈夫、天人師、佛、世尊と曰はん。

 其の五百の阿羅漢、優樓頻螺迦葉、伽耶迦葉、那提迦葉、迦留陀夷、優陀夷、阿㝹樓駄、離婆多、劫賓那、薄拘羅、周陀、莎伽陀等、皆、當に阿耨多羅三藐三菩提を得べし。

 盡く同じく一號にして名づけて普明と曰はん。」

爾の時に世尊、重ねて此の義を宣べんと欲して、偈を說いて言たまはく、

『憍陳如比丘、

 當に無量の佛を見たてまつり、

 阿僧祇劫を過ぎて、

 乃し等正覺を成ずべし。

 常に大光明を放ち、

 諸の神通を具足し、

 名聞十方に徧じ、

 一切に敬はれて、

 常に無上道を說かん。

 故に號づけて普明と爲さん。

 其の國土、淸淨にして、

 菩薩、皆、勇猛ならん。

 咸く妙樓閣に升(昇)つて、

 諸の十方の國に遊び、

 無上の供具を以て、

 諸佛に奉獻せん。

 是の供養を作し已つて、

 心に大歡喜を懷き、

 須臾に本國に還らん。

 是の如き神力有らん。

 佛の壽ひは六萬劫ならん。

 正法、住すること壽ひに倍し、

 像法、復、是れに倍せん。

 法、滅せば天、人、憂へなん。

 其の五百の比丘、

 次第に當に作佛すべし。

 同じく號づけて普明と曰ひ、

 轉次して授記せん。

 「我が滅度の後に、

  某〔なに〕甲〔がし〕、當に作佛すべし」と。

 其の所化の世閒、

 亦、我が今日の如くならん。

 國土の嚴淨、

 及び諸の神通力、

 菩薩、聲聞衆、

 正法、及び像法、

 壽命の劫の多少、

 皆、上に說く所の如くならん。

 迦葉、汝、已に、

 五百の自在者を知りぬ。

 餘の諸の聲聞衆も、

 亦、當に、復、是の如くなるべし。

 其の此の會に在らざるには、

 汝、當に爲に宣說すべし。』

爾の時に五百の阿羅漢、佛前に於て受記を得已つて歡喜踊躍し、即ち座より起つて佛前に到り、頭面に足を禮し、過を悔いて自ら責む。

「世尊、我等、常に是の念を作して、自ら已に究竟の滅度を得たりと謂ひき。

 今、乃し之れを知りぬ、無智の者の如し。

 所以は何。

 我等、應に如來の智慧を得べかりき。

 而るに即ち自ら小智を以て足りぬと爲しき。

 世尊、譬へば人有り、親友の家に至つて酒に醉うて臥せり。

 是の時に親友、官事の當に行くべきあつて、無價の寶珠を以て其の衣裏に繫〔か〕け之れを與へて去りぬ。

 其の人、醉ひ臥して都べて覺知せず。

 起き已つて遊行し他國に到りぬ。

 衣食の爲の故に勤力求索すること甚だ大いに艱難なり。

 若し少し得る所有れば便ち以て足りぬと爲す。

 後に親友、會ひ遇うて之れを見て、是の言を作さく、

 「咄〔つたな〕哉〔や〕、丈夫、

  何ぞ衣食の爲に乃し是の如くなるに至る。

  我、昔、汝をして安樂なることを得、

  五欲、自ら恣ならしめんと欲して、

  某の年日月に於て無價の寶珠を以て汝が衣裏に繫けぬ。

  今、故〔なほ〕、現に在り。

  而るを汝、知らずして、勤苦憂惱して以て自活を求むること、

  甚だ爲れ癡なり。

  汝、今、此の寶を以て所須に貿易す可し。

  常に意の如く乏短なる所、無かるべし」といはんが如し。

 佛も亦、是の如し。

 菩薩たりし時、我等を敎化して、一切智の心を發こさしめたまひき。

 而るを尋いで廢忘して知らず覺らず。

 既に阿羅漢道を得て自ら滅度せりと謂ひ、資生艱難にして少しきを得て足りぬと爲す。

 一切智の願、猶、在つて失せず。

 今者、世尊、我等を覺悟して、是の如き言を作したまはく、

 「諸の比丘、

  汝等が得たる所は究竟の滅に非ず。

  我、久しく汝等をして佛の善根を種ゑしめたれども、

  方便力を以ての故に涅槃の相を示す。

  而るを汝、爲れ、實に滅度を得たりと謂へり。」

 世尊、我、今、乃ち知んぬ、實に是れ菩薩なり。

 阿耨多羅三藐三菩提の記を受くることを得つ。

 是の因縁を以て、甚だ大いに歡喜して未曾有なることを得たり。」

爾の時に阿若憍陳如等、重ねて此の義を宣べんと欲して、偈を說いて言さく、

『我等、

 無上安穩の授記の聲を聞きたてまつり、

 未曾有なりと歡喜して、

 無量智の佛を禮したてまつる。

 今、世尊の前に於て、

 自ら諸の過〔と〕咎〔が〕を悔ゆ。

 無量の佛寶に於て、

 少しき涅槃の分を得、

 無智の愚人の如くして、

 便ち自ら以て足りぬと爲す。

 譬へば貧窮の人、

 親友の家に往き至る。

 其の家、甚だ大いに富み、

 具さに諸の肴膳を設け、

 無價の寶珠を以て、

 内衣裏に繫著し、

 默して與へて捨て去りぬ。

 時に臥して覺知せず。

 是の人、既に起きて、

 遊行して他國に詣り、

 衣食を求めて自ら濟〔わた〕り、

 資生、甚だ艱難にして、

 少しきを得て便ち足りぬと爲して、

 更に好き者を願はず、

 内衣裏に、

 無價の寶珠有ることを覺らず。

 珠を與へし親友、

 後に此の貧人を見て、

 苦〔ねん〕切〔ごろ〕に之れを責め已つて、

 示すに繫くる所の珠を以てす。

 貧人、此の珠を見て、

 其の心、大いに歡喜し、

 諸の財物を富有して、

 五欲に而も自ら恣ならんが如し。

 我等も亦、是の如し、 

 世尊、長夜に於て、

 常に愍れんで敎化せられて、

 無上の願を種ゑしめたまへり。

 我等、無智なるが故に、

 覺らず亦、知らず。

 少しき涅槃の分を得て、

 自ら足りぬとして餘を求めず。

 今、佛、我を覺悟して、

 「實の滅度に非ず、

  佛の無上慧を得て、

  爾〔しか〕して乃し爲れ、眞の滅なり」と言たまふ。

 我、今、佛に從ひたてまつり、

 授記、莊嚴の事、

 及び轉次に受決せんことを聞きたてまつりて、

 身心、徧く歡喜す。』








Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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