多香鳥幸謌、附眞夜羽王轉生——小説86
以下、一部に暴力的な描写を含みます。ご了承の上、お読みすすめください。
髙長「もう、亡くなったと。
香香美「そういうこと…でもね。(香香美はひたすにやさしく、憂いさえ含ませて髙長に言う)大丈夫、…彼女、ちょっと氣が狂ってるだけだから…
「いい加減にしろよ!」と猪原がついに叫んだ。車いすの後ろに居なければ彼はとびかかっていたに違いなかった。香香美は云った。「違う?…あなた(と比呂子に言った)カウンセラーくらいには罹ってない?
髙長「通院してます。
香香美「でしょ?
髙長「だからって、あなた、どこのだれか知りませんけどね、人に向かって言っていい叓と、…
香香美「じゃ、こういった方がいい?
圓位「もうやめとけ…
香香美「あんたをだました淫賣と?
髙長「お前…
香香美「片や可哀想な氣狂い女…かたや嘘塗れの淫売…どっちがいい?あなたは、どっちとして、こいつを見たい?…いや。どっちでもいいか。そのうち別れるから。…捨てちゃうからね…ポイっと。
圓位「お前は何がしたい!(と叫んだ。)
答えずに香香美はわたしの傍らの眞夜羽の眼の位置にまで腰をかがめて、そして云った。
香香美「ごめんね…だいじょうぶかな?
眞夜羽は默した。彼はあきらかに自分が今抱くべき感情がわからないまま、むしろ怯えることさえできずに香香美を見る目を震わせるにすぎない。
眞夜羽の幼い肌の不意にかいた汗がにおうのを、(氣のせいか)わたしはひとりで感じていた。
香香美は云った「あそこに、比呂斗君いたね?
眞夜羽默す。
香香美「生きてるね?
眞夜羽默す。
香香美「でも、君、比呂斗くんでしょ?生まれ代わりだよね?
眞夜羽默す。
香香美「わかる?
眞夜羽。「嘘じゃないよ。
香香美「そ。お前ね、…頭おかしいの。お母さんと一緒。病院送りのお母さんと一緒。頭の中に、蟲這ってるの。
謂って、眞夜羽の眼の前に息を吹きかけながら香香美は笑った。
そして斷言した。「お前は所詮ただのお前なんだよ。…
せせら笑う。
「お前以外のもんじゃねぇえんだよ。…莫迦。
身を起こした香香美は憚る所なく聲をあららげて笑い轉げて、やがて、笑い笑いわたしをこづく。云う。「行こうぜ。
私「行く?
香「歸ろう…もう終わったから。
わたしの足のそばで屈みかけた眞夜羽は茫然とし、ちいさく髪の毛を震わせていた。…全身を震わせていたのか?…恐怖に?怒りに?怯え?…わからない。
踵を返し立ち去ろうとする香香美を、わたしは周囲に聲をかけることさえ忘れて追った。と、香香美は立ち止まった。早足に戻り、その儘立ち尽くす無言の集団の、他の誰をも見ないで眞夜羽の耳にだけ耳を寄せた。
何か云った。
振り返った微笑の香香美が行こうと私に顎をしゃくった向こうに、はっきりと憎惡の上目を香香美にむけた眞夜羽の七歳の三白眼を見た。
わたしは子供が殺意を抱き得ることを知った。鮮明で、まがう所のないそれ…
偕樂園の門でタクシーは待っていた。
運轉手「あれ?二人だけ?
香香美「先に、僕らだけ…
運転手「どちらまで?
香香美「急ぎで、驛まで…まだ、電車あるかな?宮島…廿日市まで。
二人で宮島まで歸った。その道すがらに私は香香美に詳細を問いただしたのだった。
私「眞夜羽と比呂斗の轉生、あれ、一体どういうことなの?
香「祇樹古藤園のカウンセラー…名前、何だっけ?
私「山羽…
香「の、言ったとおりだと思うよ。基本的には。たぶん、眞夜羽の頭の中に店の事務所に集められた観光地各地のパンフレットだの、夫婦の業務會議だのなんだので聞いてたんじゃない?額田何とかっていう名の遠い都の美人さん、と。なかなか聞かない名前、すりこまれる音、ぬかた、と。嚴島、そういう何々小町的な美人の話だの悲戀の話だのないでしょ?あるのは平家一門淸盛の盛衰驕れるものも久しからずあなあわれなりと。だから、あの夫婦、そういう色氣のある話でもあればいいけどな…とか?云ってたんじゃない。羨望を晒してね。またその一方で、たぶん、夫婦の諍いの時とかにでも、紘夢の名前くらい出たんじゃない。あるいは、お母さんが秘密めかして時に掛ける電話で、比呂の音、聞いたんじゃない?比呂くん…比呂さん…比呂先輩…とか?…いずれにせよ特別な、なにか羨望すべき秘密めいたつまりは素敵なものかもしれないふたつの音、ね?…ぬかた、と、ひろ。
或る時スマホだかパソコンだかで検索した、と。ぬかた、ひろ…と。
私「でも、あのこ、できないって言ってたぜ。
香「親の方がでしょ?親の前では、できないふりしてるか、本当にすりこみでできない氣になってるかなんじゃない?第一、子供にスマホ与えて、弄り倒さないわけがない…
私「で、フェースブックから?
香「デジャブを觀じたかもね。見つけた時。ま、記憶には殘るよね。覺える。印象的。ぬかた、ひろこ。死んだ子供。ぬかた、ひろと。…ぼくがうまれたころに…と。妄想を弄って遊ぶうちに本等と思い込む、ないし、名前と死で六年っての見た瞬間に妄想に呑まれちゃったか…家に行ったときも、思い込んでるから記憶がよみがえった氣がする…いろいろ言ったはずだよ。これ、前からあるよね?これ、あたらしいよね、これ僕知らない…でも、一々全部その成否覺えてるか?仮に七年前に息子の比呂斗が死んでたとして、家の物のどれがいつからあったかなんか。それに外れた事より當った事の方がインパクトが強い…だいたい、子供の云う事だぜ…ひとつでも當ってりゃ、まわりはびっくりするでしょ?以上は七年前に息子比呂斗が本当に死んでたとして、の話。
それから、これは眞實の比呂斗の方、…これは勘だよ。中學生の時の妊娠、何故か兄だけが親父殺して自殺、子供の名前は兄の名前、しかも兄貴は死んでも妹は死なない。自分のせいで兄貴と親父死んでるんだぜ?…もちろん考え方は人それぞれ。殘されたものの身の処し方も人それぞれ…だけど、こう考えたら筋が通る。兄妹で作った子なのさ。兄は耐えきれず自死した。だからこそ妹は必死に育てようとしたのさ。すくなくとも最初のうちはね。あの子…比呂斗くんをね。自分を愛して死んでしまったお兄さんの形見として。けど、無理だったんでしょ。普通の子供を十何歳がそだてるのも困難だってのに、…しかも、それに母親までいろいろおかしくなりだせば…ね?
たぶん、本人も限界がきたのかな?自分が生んだ比呂斗は死んだと思い込んで、それでなんとか解消したのかもね。
私「通院は?比呂子の?
香「カマかけただけ。たぶんそうだろな、と。おれはちゃんと疑問形で云ったぜ?それから、深雪と和哉は…
私「誰に聞いたの?
香「さっきの比呂の音だよ。息子に神秘的なものとして比呂の音が刷り込まれてるくらいなら、何か理由があるだろう。それに眞夜羽、自分はおじいちゃんの子だとかなんとか世迷い事云い出したんだろ?ということは父親があやしいって思ってたのさ。つまり、深雪は比呂何々さんと密通してる…僕の本当のパパは比呂なんとかさんなのかも、と、そう思った、と…ね?無意識的にでもね。和哉、店で調子に乘せてプライベートいろいろ話させたら、たまたまアルバムなんか見せて…そこに居たの。紘夢っていうのが。修学旅行の写眞でもとなりで肩汲んでピース、…ね?十人ばかりの集合寫眞。他の奴の話はいっぱいするの、あの人。けど、紘夢の話だけは避けるように何もしない…この人何のかな?ひょっとして、旦那のほう、浮氣、知ってるのかな?だったらこいつが怪しいな…と。で、カマかけた。…でも、ああいう込み入った話だっとは知らなかった…俺はあくまで紘夢元氣って?そう云っただけだぜ。
謂って、香香美は笑んだ。
續けて曰く「でも、基本的に、そんなに惡人なんかいない。だれも、普通にいい人なんじゃない?そう思わない?…例えば、お爺さん、亡くなった眞夜羽の…お爺さんの子だなんて濡れ衣(と笑った。)…でもたぶん、すごく優しくていつくしみのある人だったんじゃない?いつも、眞夜羽にも。お嫁さんにも。だから、此の人がお父さんなんだって…そう、尤も願わしい一瞬の妄想を口に出しちゃったんだよ。あの子。眞夜羽。耳で聞いたら、本人は事實だと思い込む…そういうこと、つまり、俺たちのお會いしなかったおじい樣でさえも、本當に、普通にいい人たちだったんだと思うよ。
感傷も無く、微笑と共にだけ香香美はそう云った。
廿日市から十時14分の最後のフェリーに乘って宮島に。ホテルに一泊。大幅にチェックイン時間を過ぎた我々をホテルのフロントは寛大にもゆるしてくれたのである。
〇
玖珠本‐香香美Line、2019.09.20.
香香美「今日はありがと
玖珠本「つぎいつ会える?
香香美「サイゴンに雪が降る日に
玖珠本「OK(笑)
〇
香香美から片岡比羽犁から宛て。メールに添付。
2019.9.23.メール
(本文)
沖縄にいる。…沖縄のどの島かは教えないでおく。
教えたら、あなたはこっちに来てしまいそうだから。
添付は、あなたが気に掛けているはずの事について。
かれらにはすでに連絡しておいた。終わったか、終わっていないかだけ。…聞いてるだろうね。穗埜果から?
彼にあなたから伝えてもいい。どちらでもいい。
あなたの心を翳らせるだろうけれども、秘密にする気にはなれなかった。
忘れたかったら、忘れて仕舞うがいい。
香香美
(ファイル)
2019.09.19.
宮島のホテルに帰った。
時間は10時45分。
私は先にシャワーを浴びた。出てくると久村はワードを叩く。何してるの?とは、聞かなかった。あらかた知れた。久村はわたしには秘密にしたいようだった。——ちょっと待ってて…すぐに、と。久村は言い、そして振り返って、
「先に寐てていいよ。
わたしは応えなかった。ただ、笑みをくれた。
ややあって生返事の久村に言う。
私は、その背後から。
「聞く?
…
「あの坊主…
…
「圓位、さんか。
…
「昼間、お前、貰ってたでしょ?
…
「笛…尺八…
…
「聞く?
笛袋から尺八を拔く。一本の竹をくりぬいただけのもの。
久しぶりだった。吹き方を未だ覚えてゐるものかどうか怪しかった。
手のひらにその材質を確認した。
驕った笛だった。
煤に水気を何十年もとばした篠竹を断ち切って、漆を塗ってある。龍笛のような卷き。
意外な程軽く、そして硬い。
抜けきって、それで管がこの太さならそうとう図太い竹だったに違いない。
一本の短いひび割れ。…問題はない。表面だけの厥れ。
そしてそれがいまや自然そのままだったかにも、塊り切っている。
私は吹いた。
ひたすらな慈愛のピアニッシモ。
軈て五時近くになった。
我に返ったように久村は手を止めた。わたしはずっと、その背後の離れた壁際に立って、もたれながらに吹いていた。
0コメント