多香鳥幸謌、附眞夜羽王轉生——小説85
以下、一部に暴力的な描写を含みます。ご了承の上、お読みすすめください。
香香美「とりあえず、挨拶だけ…まあ、お手數なんでしょうが、僕ら、やっぱり、ご年配の方から挨拶だけさせてもらっておかないと…
髙「そう?結構、距離あるよ?
香「親父の遺訓なんでね。年長者から立てろとね。一應はね、…草葉の陰で叱られます。
と謂って香香美は笑った。
髙「そりゃ、すごいな(と笑う)お武家さんか何か?
香「武家じゃないけど、ぎりぎり武家みたいなもんですよ。武蔵野の百姓だからね。
邪氣も無くふたりは笑った。
見ると車の向こうに額田比呂子が立っていた。比呂子は頭を下げる。助手席に座っていたのだろう。
髙「乘っとき。
声をかけた。
髙「これから、すぐ、偕樂園行かれるそうじゃから。
そして我々は芳井町偕樂園に向かった。
タクシーには眉村親子と圓位が乘った。
髙長の運轉には私、香香美、そして眞夜羽が。もちろん比呂子も。
後部にわたしと香香美の間に眞夜羽はすわったのだが、こちらがよそ者じみて仕舞う程に(尤も、事實としてそうなのだが)眞夜羽は比呂斗として振る舞い、ごく自然に比呂子は母として振る舞い、ごく自然に髙長は親子の中に入り込めそうで入り込めない新參者の繼父じみて話し、笑い、おどけ、話し、時にさわぐ。
比呂子「あっちで、いい子にしてるんか?
眞夜羽(比呂斗)「最近、喧嘩ばっかりだよ。
比呂子「ちょおっと、…あんた、大丈夫?
眞夜羽(比呂斗)「でも、お母さんが…眞夜母さんが、頭おかしくなったからね、
比呂子「だめよ、そういう…(返り見て叱り、我々に)すみません、此の子、…
髙「ぼくらが敎育してわけじゃないから、どうしても、…
比呂子「そういう言い方も失禮なんだよ。眉村さんとかに。…(我々に)すみません、
眞夜羽(比呂斗)「お母さんたちも喧嘩好き?
比呂子「あんたがそういうことを謂うから(と、行って笑い)
眞夜羽(比呂斗)「でも、おなかすいたよ。
比呂子「食べてないの?
眞夜羽(比呂斗)「今日は未だ。
比呂子(髙長に)「ちょっと…ね?こういう感じよ?
眞夜羽(比呂斗)「でも、大丈夫だよ。
比呂子(眞夜羽に)「もうちょっと待ってて。今日、歸ったら、作ってるから。いっぱいね、…すきなだけたべればいいからね…
云々。
私自身は眞夜羽に對してもっと一物ある雰囲気を見せるものかと秘かに恐れもしていたので、呆気にとられるよりもしろ安堵していた。眉村家の緊張感の後だったので、こちらこそが實の本当の親子のようにも思えたのである。
香香美は眉一つ動かさず、窓の外を見るだけだった。話を聞いているのかどうかさえ疑問だった。
芳井町の偕樂園に着いたのはおよそ7時半くらいか。面會時間を過ぎているのではないかと問う私に髙長は基本8時半までだと謂った。
髙「消灯時間、ここは早くて…田舍だからな。それでも9時45分、か。早くもないか。…日曜日とか、年寄り多いから大河ドラマ見たがるでしょ。それに、むかし時代劇だいたい8時くらいからじゃなかった?それでそういうテレビの時間のあと、ちょっと間おいてから、消灯。…でも、10時でも11時でもいいんですよ。連絡しとけば…そのあたり、家庭の事情には融通きかせてくれる…池田の兄さんのとこなんか、なあ(と比呂子に)いっつも、12時じゃとか謂うてる…あの奧さん、店やられてるから、それから家歸ってから行かれるから、だいたいそうなるみたいでね、…旦那のほうは、抛ったらからしだからな、實の親なんにな、…
比呂子「仲、惡いんだよ。もとから。あそこの親子…
受付に年配の女性が出、比呂子を見れば瞬間に待っててな。それだけ云って猪原を喚ぶ。同級生のよしみで彼女等の担当と化した、ということなのか。
猪原、今、広間にいられるから(…テレビ見てられるからな)ちょっと、連れてきたげる。
そう云って笑う。
わたしたちはロビーのソファに座って待ち(といって、このあたりから已に故意に館内を「家庭的」につくってあるので、受付の冷淡さは受付そのもの以外にはない。)車いすに惹かれた額田朱美を見た。
猪原は頭の上からさかんに朱美に話しかける。うれしいなあ、おばあちゃんなあ、比呂ちゃん來たよ、うれしいなあ…
眞夜羽はおそらく、朱美を始めてみたに違いなかった。仕方ないとは言え知性の影を失った(とは言え、まだ、我々のすこし年上くらいの年齢、そして圓位の遙か下なのだ…)老婆(見かけはまさに、老いさらばえた婆さまそのものである。しら雪被りの細い髪が力なく毛先を綺羅らがせ寐ぐせに起こされた地崩れじみてはねあがり、それがただ目に痛く思えた…)
比呂子は立ち上がって云った。「あれ、うちの母です…
と、一応は母に圓位から紹介する、大聲で、耳に口を近づけ、宮島の…な?知ってる?…な?…嚴島の…な?…大鳥居の?…な?…広島の…な?神社の…な?…お寺さんの…な?…じゅうしょ、…お坊さんよ…な?…わかる?…な?…ありがたいで?…な?云々。
香香美を紹介しようとし、實際はほぼ何の紹介も無かったのに思い當ったのだろう。いきなり香香美を振り向き見た比呂子を捨て置き彼は云った、——あれ?と、香香美は猪原に、「もうひとりいるじゃん?
猪原、戸惑い、「もうひとり?
香香美「いるじゃん…と、猪原を馬鹿にしたようにも笑んですぼめ突き出した口をぱくぱくさせた。
香香美「これ…と、もういちどぱくぱくをくりかえし…(あの日靈兒(比流古)のことだとはすぐに、わたしは気附いた)「じゃん?
香香美は云った。「朱美さんのいいひとなんじゃない?
ひとり笑う。
私が見たのは一向腑に落ちない髙長の横顔と、瞬間(…というか、既に)眉間に顯らかな緊迫の不穩をさらした比呂子の顏だった。香香美にむけてねじった顏を、比呂子はすぐさまに朱美の右肩の方にそむけた。
猪原(香香美に)「つれてきます?
香香美「連れてきてよ。…俺ら、せっかく東京くんだりからここまで來たんだよ…失禮じゃん?
猪原は須臾不快を眼と唇と鼻の穴に素直にさらして、…じゃ、と。そう云って踵を返した。
香香美は一人騒いだ…やっぱり、俺らもさ…(と私に)何時間?…五時間…違うか、…でも、トータルそれくらい?新幹線に電車に…いや、宮島からだからさ…ぜんぶ、何時間?…やっぱりさ…
圓位が不意に激髙し殊更ひそめた聲につぶやく。「あんた、…何を。…
香香美「会いたいよな。…お前(これはわたし)逢ったっけ。…って、言ってたよな…から、俺も知ってんだけど、(と故意に侮辱的に笑い)猪原は奧から車いすにそれを連れてくる。
猪原は口でだけやさしく笑み、眼は香香美への敵意を隱そうともしない。
比呂子はわたしたちそのものから目をそらし續けた。
日靈兒は車いすの上に變形した楕円の躯体を今日も色柄違いのTシャツとショートパンツに包み、ゆがんだ卵形の、あくまで躯体と地續きの頭部の丸い眼を見開いて、そして間の口を魚じみて開け閉じする。
かたわらに眞夜羽は顯らかに怯えた。
圓位の顏は見なかった。眉村親子をも。
背後に、一重が息を飲んだのだけ知っている。
香香美は笑んで、そして膝間付くように朱美のまえに身を倒し、だれにも聞こえるようにはっきりと謂った…來たよ。…よかったね。
意味も解らず朱美は、壊れた笑みを反射的に作った。笑いのない、からっぽの笑い顏。
顔を上げ、香香美は日靈兒に言った…大聲で。「お母さんに逢えたよ!嬉しいね!お母さんだよ!
言った瞬間に比呂子がその場に頽れた。
その時、彼女は朱美の車いすの手すりに額をぶつける。
首をのけぞらせ、顎を突き出す。
比呂子は顏を上げていた。上を見ていた。顎が引き攣った。ややあって比呂子が、頽れた儘香香美に叫んだ——あんた、誰だよ!
息を吸い込み、叫ぶ。「誰が呼んだんだよ!
もう一度、息を深く吸い込んで、叫ぶ「お前、誰だ?
「誰?…冷静に、そしてやさしい聲で、あくまで冷淡に香香美は云った。「紹介してよ。この化け物だれ?
「わたしの…
「なに?
「知ってんだろ?誰に、…お前、誰に…誰が敎えたの?…だれ?
「だからこの穢ねぇ化け物誰だよ!
「あたしの子供だよ!…わたしが生んだんだよ!
香香美は聲を立てて笑う。顯らかに惡意があった。謂う。
「親父は、…
「比呂斗だよ!
言った時に、香香美はひとりで、ただ無防備なまでに侮蔑的な、赤裸々な笑い聲を立てた。
ながい笑い聲だった。
事務室の奧から介護士がふたり顔をのぞかせた。
伺う。
猪原は自分が侮辱されたかにも香香美をにらんだ。
圓位がつぶやく——何を?
「何を云ってる?…この男…なにを?
香香美は自分が笑い終わるのを待って、わたしたちを一度見まわして云った。
「比呂斗…額田比呂斗…お兄さんの方ですよ?朱美の子の比呂斗…あのひとと、比呂子さん。そういう關係にあった…
眉村和哉がちょっと、…と。そう言いかけ、香香美「肉躰關係。…戀愛關係…お好みなら禁じられた純でせつない結ばれ得ない悲劇の愛と?…(せせら笑う)
比呂子はもはや何の反応も示さない。ただ、あからさまな憎惡の眼をだけ香香美に向けた。
瞼と、鼻の穴と、顎だふるえつづけた。唇はかたく結ばれて。
香香美「で、できちゃったと。能無しの和哉と違ってね。…深雪が大好きな紘くんの方みたくにね。できちゃったと。比呂子は産むという、比呂斗は…そこらへん、いろいろあったんでしょ?朱美さん含めて…(と、思い出したように比呂子にささやく)毀したんだよ。あなたが…あなたたちが、…お母さんを…
激怒の圓位が香香美に何か言いかけた。香香美「壞れものはとりあえず捨て置いて、…と。ともかく生んじゃったと…その、比呂斗をね。…複雜な…合併症…なの?…この異形(香香美笑う。)解剖しなきゃわからないか?なら殺しちゃう?(猪原なにか怒鳴りかけ)死んだ…ね?(と、朱美に、やさしく)死んじゃった…ね?(比呂子に)お前の彼氏…首切って(比呂子は此の時から齒ぎしりを始めた)手首切って…(香香美撥ねるように笑う)足首切って…(髙長が香香美を制そうとしたのか、動かない儘片手を上げかけた)おまけに頸括って…(つぶやくように香香美は言い、眼を閉じ、自分の鳩尾あたりに手を合わせる。默す。不意に目を開き、返り見て圓位に言った)俺ら、いい迷惑だよね?
香香美は笑った。
圓位はもはや何も言わなかった。
忿怒の顏をしていたに違いない。わたしは敢えて、傍らの顏を見なかった。
じゃ、…と。
背後に聲がした。和哉だった。
「比呂斗くんの前に、…もうひとり?…じゃない。…比呂斗君が生まれて、…なに?…じゃ、車椅子の子、だれ?
香香美。「いや、だから、あれ、比呂斗君。
和哉「でも、
香香美「死んでないんですよ。だから。…でしょ?
香香美は猪原に言った「それ、比呂斗でしょ?
猪原「あんた、誰か知らんけど、さっきから云っていい叓と惡い事、人間、あるからな?
香香美「…好きにさせろよ(手を振り笑う)、ともかく、あれ、比呂斗。
和哉「でも、死んだって…命日だって…
香香美「所詮フェイスブックでしょ…心の命日ってことじゃない?…死んでないの。心の中で死んだことにしたの。たとえば、是は人間の比呂斗くんじゃない。是は、私の罪。罪の形。比呂斗兄さんと育むべきだった命はもう、死んでしまったのよ…とか、さ。…ね?言い方考え方いろいろあるでしょ?…すっげぇ、自分勝手(吐き捨てるように云い、笑う。)自分でやらかすだけやらかしといてな?生むだけ生んどいてな?…屑だね。
猪原がなにか言いかけ、香香美。「あなた、知らなかったでしょ?
香香美は髙長を省みた。髙長は云った「何を…
香香美「え?
髙長「何を、僕が知らなかったと?
香香美「比呂斗兄さんとのこと、知ってた?
髙長「ぼくは、…
香香美。「知らない。…比呂斗。…息子の比呂斗のことは?
0コメント