多香鳥幸謌、附眞夜羽王轉生——小説82


以下、一部に暴力的な描写を含みます。ご了承の上、お読みすすめください。



道は圓位が先導する。和哉いたって無口に轉ず。道すがら圓位もほとんどなにも云わない。和哉も默す。故、わたしは一重と島のなにというでもない樹木なり気候なり食い物の話なりなど。步いて二十分くらいか。園に入る前に香香美、圓位を返り見て言うに、——額田さんにも連絡しといてもらえますか?

圓「額田?…

香「今日、夜、伺うからと。

圓「だれが…

香「わたしと、…久村と…眞夜羽、それから…いかれます?(と和哉に言った)

和哉、表情も無く香香美を見る。答えはない。

香「和哉さん、それから…住職は?

圓「よろしいですよ。じゃ、同行しましょうか?

香「なら、それだけ。

園には入ると笠原一二三が出迎えた(圓位が紹介する)。

紹介挨拶等の云々は省く。深雪の病室に向かう。途中、この園の名物たるインド・サーラの双樹の下をくぐるのだが、香香美思わず立ち止まって——これ、沙羅の樹?

とささやく(独り語散る)。

圓位、圓で謂う。「見られるのは、始めて?

香「インドには…あっちの方には行ったこと無くて…

圓位「阿輸迦王の生まれ變わりでいられるのに?

香香美は圓位を見詰め、邪氣も無く素直に笑んで答える「あれは、狂人のぼくの言葉ですよ…お判りでしょう?

圓位も、惡氣があって言ったようにも見えなかった。それが奇妙に見えた。ふたりはむしろ、智慧の足りない子供の打ち明け話するに似て見えた。

圓位「存じ上げてます…

香「今も狂ってますけどね。

圓「まさか。

香「本当に…息を吸って吐くうちにも、僕は狂氣するんです。

言って、香香美は笑んだ。

病室前で香香美は立ち止まった。和哉にふれ合う距離に近づき、躬をよけるのも忘れた注意散漫たる彼に耳打ちして

香「あなた、まず、ひとりで。…

和「俺が…

香「あなたが…

和「あんな、他人の…

香「穢された?穢れた?…でもあなたはなんども赦さなければならない…あなたは人間だから。あなたは人間として、壊れそうな彼女を救わなければならない…

和「そんな…

香「やさしく、ただ、笑って言えばいい。…元気だった?

和「俺が?

香「お前がいなくなって、大變だよ…

和「俺は

香「やさしいひとだから。貴方はできる。あなたしかできない。あなたなら…行って。…ほら。むしろ、みんなの爲に。あなた自身をもふくめた、みんなの爲に。

香香美はそういった。唐突に、どうしようもないやさしい気配をただよわせた。和哉は呆気に取られて口を開けていた。和哉の背中を輕く押した。その儘に和哉はひとりで病室に入るしかなかった。しばらく待った。笠原氏はあきらかに香香美をいぶかっていた。あるいは、彼だけが正しかった。香香美はまともな紹介も無く、不穩なまでに尊重され、不穩なまでにひとりで美しく、不穩なまでに勝手知った庭のようにふるまう。とはいえ笠原は何も言わないのは、あきらかに圓位の連れだったからである。この法師にはそれだけの信賴があったのだ。

ドアの向こうに、相部屋の女の、うわづった聲でさかんに一週間の出鱈目な天氣を謠いあげる聲だけが響いた。

わたしは香香美が動くのを待つしかなかった。

香香美はなにというでもなく、廊下に拓かれた窓から向こうの山肌を見ているだけだった。

ややあって振り返り、香香美は一重の腰をエスコートした。——じゃ、ぼくらも。

そう言ってノックし、一重と香香美を先頭に室内に入った。

逆光の中に離れるともなく寄り添うともなくささやき合う夫婦がいた。和哉の顏は落ち着いて、そして深刻だった。深雪はただ、思い出にふけるような眼差しを寢臺に身を起こした自分の足の方に投げていた。

ふたりの向かいに四十近い女が明日のモスクワ(モスコー、と片假名發音で云った)天氣を叫んだ。

一重が和哉の傍らに立ったとき、不意に顏をあげた深雪はいきなりにその顏を崩した。見えない手に骨ごと握りつぶされたように。兩手に覆い、彼女は泣き崩れた。

一重は息子を押しのけるように嫁を抱いて、もらい泣きに泣きはじめながらその頭を撫でた。

笠原は圓位の背後に沉默した。ただ冴えた眼差しに見守る。

圓位は和哉にささやいた。

「話しあわれたの?

和「いや、…なにも。…話したけど…なにも、…ね?そんな、話すこと…いや…

圓位を返り見、「ぼくら、むしろ、なんか、話すことありました?…べつに…ね?

圓「そうな。…べつにな…

和「心の行き違いと謂うか…なれない…あったことも無い…狀況?…そういうんかな…なんか…そういう…頭の中が…

圓「こんがらがって?

和「でも…

圓「もう大丈夫?

和「いや、これからもっと、いろいろ、あると思いますよ…もっと、…けど…

圓「じゃ、もう大丈夫な…

和「ならいいけど…でも、…ね?…でも、…ん。…ね?

会話にならない途切れ途切れの會話が續き、続くともなく途切れ、途切れるともなく續く。

香香美は深雪が泣き已むのを待った。

すぐかたわらのわたしは彼の、例の極度に甘い芳香を嗅いでいた。

しゃくりあげ、しだいしだいに落ち着いてゆく深雪を香香美は見ていた。

いたわるように。深雪は一重に自分の錯亂を侘びた。

ひとりになって、彼女は落ち着きを取り戻していたのだった。

もう会えない。あの子にも、家族にも。そう思うと、もう、堪えられないくらいにつらかった云々…

ようやくに時に笑みがこぼれさえし始めた比に、香香美が不意にやさしく云った。

深雪に。——ね。元バレー部のさ、…ひろむ。…あいつ元氣?

そのときに深雪は香香美を見上げ、そして初めて見る人間を見、はじめて聞く音を聞く目をした(もっとも、此の時初めて深雪は彼を視野に入れたのだが)。

須臾、默した唇が何か言いかけた…云い淀んだ。ともなくに言いかけ、終にはなにも云わない。

香香美を凝視していた。

深雪の唇がささやく。ふるえの無い常音で、——あんた誰?

香「ひろむ。あいつどこにいるの?

深「定光紘夢?

香「まだあってるの?

その瞬間深雪は一重をはねのけ、逃げ出す樣に寢臺に立ち上がり、天井に頭をぶつけそうになる。

眼差しは香香美をにらみ続けた。明らかに忿怒の深雪は極度のささやき聲で怒号を(…としか言えない聲を)喉に發した。

「あんたたちみんな、グル?

謂う。

「全部、お前ら…どの面下げて…

謂う。

「莫迦にするのもいい加減にしろ…素直に…

謂う。

「あんたら、みんな、みんな…

圓位は眉をしかめた。一重は顎をふるわせ深雪を見守る。和哉は唖然とし、わたしは一体なにが起こっているのか判らなかった。笠原の顏は見なかった。その存在さえ忘れていた。香香美はひとりで靜かに笑んで、そして云った。「紘夢の話、全部知ってるから…僕ら、…全部、あなたも云っちゃえば?…豚。

と、吐き捨てるようにその豚の單語を謂い、

「糞まみれの豚女。

明らかに、香香美は深雪をせせら笑いながらいった。

詞のおわりまで待たずに深雪は喚いた。

「阿阿阿阿阿阿阿阿阿阿…

と、濁音付きで、

「阿阿阿阿阿阿阿阿阿阿…

と。

笠原が我に返って深雪を取り押さえようとするに、深雪は頽れるように寝臺に座り込み、そして默し、やがてささやく。

「今はあってません。わたしの頭が可笑しいからです。…でもそこの笠原さんが毎日お尻に腕突っ込んでくれます。

笠「なにを…

深「みんな豚ですから私も豚です。わたしのせいじゃありません。和哉も豚です。紘夢も豚です。みんな豚なので…

香「お腹の子って…

深「紘夢に決まってる…莫迦?

香「眞夜羽は?

深「紘夢でしょ?…和哉がみんなに嘘謂うからね。だからみんなが嘘つくからね…

和哉は顔を覆った。身を上げだす樣に窓に背を靠れた。

圓「じゃ、奧さん、ご主人をだまされてたの?

深「だましたのは和哉でしょ。

深雪は叫び、和哉をにらんだ。

深「お前が騙したろ。糞も豚もどいつもこいつもみんな、あんたが一番だましたろ。

香香美は一重に云った。

「定光紘夢さん、って、ご存じですか?

ただ目を剝き、ただ唇を一文字に結び、ただ怯える一重は無言で頷き、

香「奧さん…もともと和哉さんの髙校時代のお友達の定光紘夢さんと付き合いがあって…

深「誰だよ!

深雪は叫んだ。

深「だから、…お前は…阿阿…お前は!…阿阿阿!…だ。…えは!…阿阿…えわ!…阿阿阿!

歯ぎしりしながら、同時に閉じた口蓋に叫ぶ深雪の言葉はもはや彼女自身にしか聞き取れなかった。

香香美は笑いながら云った。——行こう。

步きさる香香美に圓位だけが隨う。立ち止まり、返り見て眉村親子の腕を叩く。一重は表情を變えずに息子の腰をおした。顏から掌をはずさない息子は(向かいの患者の?)ゴミ箱かなにかを蹴飛ばした(或は汚物入れ?プラスティック製、蓋あり)。私は急ぎ足に香香美を追った。笠原がどんな顏をして居たのかは見なかった。ともかく彼は非常ボタンを押したに違いない。階段に介護士がふたりばかり駆けあがるのにすれ違った。振り返れば吐きそうに手で口を押さえながら、和哉は吐き氣のまるでない眼で何を見るともなくわたしたちに從った。受付でさわぎに惑う事務員等に有無を言わせずタクシーを呼ばせ、香香美は親子二人だけ乘せた。これから茨に行くから。先に波止場で待っていろ、と。

故、運轉手には埠を謂う。

わたしたちは步いて行った。

香香美はなにも云わなかった。あるいは憂鬱なのか。すくなくとも笑んではいなかった。目つきは曇りもなく想えた。心は慥かに、いまだ彼の頭の中にあった。

私も圓位も、謂うべき詞を終に見なかった。

古藤園からそのまま場所だけ迻したように、なんのかわりもなく親子は埠に立っていた。

波止場の海邊、松の木の下で和哉は圓位に告白した…

和「眞夜羽…あれ、僕の子じゃないんで…

圓「そうなの?…あれ、奧さんの世迷い言なの?あなたも知ってたことなの?

和「僕に子供、できるわけなくて、

圓「なんで?

和「無精子症…

圓「夢精?

和「じゃなくて(と思わず和哉は笑った…じゃったら、ええんじゃけえどが、…と、)精子、ないんですよ。透明で、

圓「なんで、それ…いつ知ったの?まだお若いから、それに結婚してすぐ、作られたんじゃない?あの子







Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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