多香鳥幸謌、附眞夜羽王轉生——小説80
以下、一部に暴力的な描写を含みます。ご了承の上、お読みすすめください。
——交通事故、蘭といっしょに、交通事故したから、
——一緒に?
——バイク。
——轢かれたの?蘭も?
——蘭は死ななかったから、だから、蘭はひかれないけど、蘭のお母さんは、…
——轢かれた?
——バイクに。…血がいっぱい、
——誰に聞いたの?
——見てたの、わたし、
——タオも?
——目の前。喫茶店で、砂糖黍のジュースを、
——ヌックミア?
——Nước mía
——その時に?
——バイクが入って來た(露店の店に突っ込んできた、と)。
——それは…
——蘭も刎ねた…跳ねる?
——飛んだ?
——向こうに。飛んだ?…たくさん距離、飛んだ。蘭のお母さんは、
——亡くなった?
——亡くならない。頭から血がたくさん、…出て。でも、亡くなってないから、
——病院?
——蘭は、生きてる。心も大丈夫。
——意識が。…泣いたでしょ。
——泣かない。強い子だから。泣かないけど、心が、…壊れる?壊れないけど、
——悲しいね。
——悲しくないけど、痛い?…けど、強いから
——大丈夫?
——大丈夫じゃないよ。でも、ちゃんと見てた。
——お母さんを?
——蘭のお母さん、大きな声…叫ぶ?…叫んで?
——痛いって?
——違う。こと葉じゃない。…聲、
——獸みたいな?
——なに?
——動物みたいな?
——猫みたいな。變な、こわい猫みたいな、
——病院で亡くなったの?
——二か月あと。…おかあさん、顏のはんぶん、ないから、顎がないから、話せないし、食べられないし、
——意識は?
——心?
——心、あった?
——あるけど、なにもわからないよ。口開けるけど、なにも聲しない。目を開けて、でも、
——わかるよ。
——だから、…
——蘭は、…
——そう。
ややあってわたしは蘭の頭をなぜた。
蘭はなにも反応を示さなかった。
触覺の感じ取る儘にわたしを見上げた。
顎をつきだして。
蘭を見ながらわたしはタオに言った。
——タオさんは、蘭が好き?
——好きじゃないよ。…ほかのお母さんの子供だから、ね。
——嫌い?
——嫌いじゃない。けど、可哀想だから、
——タオが面倒見る?
——誰も居なかったら、亡くなるよ。
——そうだね。
わたしはそう云った。
蘭はタオに對して逆らう素振りは見せない。又、反抗するそぶりも無い。それ以前に、意思ある反応を基本的に示さない。時に食べ物の好き嫌いを表現する程度。
タオは蘭に對して目に立つ虐待をしめすでもない。むしろ、時に苛立つことはあれども普通の介護者だったにすぎない。
・タオの肉体が液状化した時に(液体、このかたちなきかたち…)わたしは彼女の意識がすでに存在しないと感じた。同時に、彼女が死んだとは思わなかった。液化した彼女の細胞(?)の群れは明らかに生きていたから。尤も目視の印象にすぎない…
水というかたちなきかたちがH2Oというかたちの集合にすぎないように、あれも細胞というかたちが躯体を形成するのをやめただけなのだとも思える。…
・思うに、極度のストレスが彼女の肉体に致命的な変態を齎したのだろうか?今のところはそうとしか思えない。精神、この制御不能なもの。結局のところ我々は、…この私もふくめて、精神を制御し得たものなどいないのかもしれない。例えば修行を積んだ禪僧は結局のところ精神反応を無みするのであって、それを以て制御というべきか。精進とは消尽にすぎない。
怪物化した精神が肉体をも崩壊させたのか?
そんなことが可能なのだろうか?
或は、可能なのだろう。精神という本来腦の諸作用に過ぎないものがその実態としてはむしろ実体として存在するかのように機能する。…これ自体すさまじい怪物的状況と謂える…我々は精神を過小評価しずぎたのだ。
・外部からの影響の可能性。
タオは云った。病気だと。人の手で叩き潰される蠅の件、…蠅は病んでいたのか?例えば未知のヴィルスの保菌者として。そのヴィルスがタオを崩壊させたのか?
あるいは逆に、健全な蠅が病的に研ぎ澄まされたタオによっていともたやすく叩き潰されたということなのか。どちらとも思える。ただし、蠅は事実としてタオの掌に潰されたのだ。
・ヴィルスであった場合。又はタオの細胞が例えばがん細胞のように増殖するものだったとした場合。それが他人の躰内でも生息可能であるのなら、その飛沫をあびた私と久村もすでに感染している筈である。
いずれにせよ経過を見るしかない。
付記、わたしは今かならずしも恐怖を感じているわけではない。事実としてはわたしは今まで恐らくは誰も見たことも無いものを見た、ただそれだけである。興奮も無い…なぜだろう?
わたしは自分の心がむしろ冱えるのを感じる。…これはわたしの心の問題だろうか?
あなたが案じるように、すでに狂気の方に堕ちていることが日常であるところのわたしの?
以下、個人的な記憶。
あの日、久村のところへ連れて行く前の昼下がりに、わたしたちは戯れた。
ホテルの寝台で。
蘭はタオの体を、自分自身がタオのものでさえないただ豐かな肉体に甘えるように、…そんな風に姉の肉体をもてあそんだ。代理母?否、純粋にやわらかな肉、やさしくふわふわのあたたかな肉、それ以上のものだったとは思えない。たぶん、もはや姉のものでも母のものでもなかったのだ。
わたしは狂っているのだろうか?
時に咬みつくようなそぶりをみせた。タオは。
本当に齧み切りはしない。タオは。
すべてが自慰がかかった、妄想と模造品の模倣に過ぎない戯れに他ならなかった。
蘭は狂っていた。
タオの眼にはすでに恍惚の色が隠せなかった。日本に着いたときから、無意味に嘔吐し、無意味に失禁し、嘔吐と謂う乃至放尿という機能をでたらめに果たすいわば無謀な各種分泌物生産機械は。
不意に不用意な汗にまみれ、ときの無意味に大口を明けた。目を剝き。いきなりにその須臾堪えられない事象が発生したかにも。そのくせ叫び声をたてるでもなく。
タオの汗がにおった。
髪も。
おびただしく、彼女の肉躰の周辺にだけ籠った。
時にタオはわたしを見た。
見、そして、見られるわたしは彼女の眼に、自分が見出されている自信が終に持てなかった。
タオは狂っていた。
あなたが知るように、私も狂っていた。
それは事実だろう?
十九歳の時、ホストの私がたぶらかした(惡意とともに。確実に惡意、さいしょから毀してやろうとあきらかな惡意、…あの歌舞伎町のNo1ホステス。…の、無数の中の、ひとり)女が——伽那美(その名にあなたが私にとっての個人的なシグナルを感じ取ったに違いない事は知っている。たしかにそうだった。それは記号で、暗号で、黙示で、寧ろ鮮明なGoサインだった…わたしは知っていた。いったい、そんなことが伽那美に何の関係があったろう?所詮源氏名にすぎない。香坂伽那美という名の女などだれにとっても他人に過ぎなかった。関わり様のない、単に架空の他人に過ぎなかった。香坂伽那美?誰?…化け物だったに違いない。無力で、だれともかかわれない不在の、…いったい、田中春奈にとって私など存在したのだろうか?春奈にとっても不在にすぎなかった伽那美と同じように?)
香坂伽那美はわたしの思ったとおりわたしに戀し(思いもせぬうちに、かすめとるように戀い)わたしの思ったとおりわたしに狂い(思いもせぬうちに、かすめとるように狂い)わたしの思ったとおり自分の感情を貪り(思いもせぬうちに、かすめとるように自分の感情を貪り——決して。決してわたしの眼にふれない、私にとっての月の裏側、クレーターの集積の光る荒れ野に)壊れた(——毀した。わたしは、)帰った部屋の中に血まみれの伽那美を見たときに——あれは生きていた。死んでいたと?…まさか。
伽那美はベッドで手首を切っていた。
それから首も切っていた。
更に右目だけをカミソリに切っていた。その眼球を(——なぜ?)
死んでいたと?
まさか。
わたしは伽那美を殺した。その左手の指の先に転がしたカミソリに、(——なぜ?)わたしは(なぜ、そこに?)伽那美を切った。その皮膚を。(だれもがわたしに言った。あなたも。あるいはあなたこそは。わたしは慥かに殺した。二度三度、むしろその恒河沙乘も)
通報したのは自分を救う爲だった(わたしは公権力に自分を売り渡したのでも公的機関もて自分を裁いたのでも無かった——事実、すでにわたしは私を殺していた。伽那美を?架空の伽那美もて?だれが自死などしただろう?それは常に自殺であって、自殺は常に他人を殺すことなのだ。たとえそれが自分の肉躰であっても)
警察は云った、——一体何があったの?
と。
血まみれのわたしを見て?伽那美を見て?——一体、そこに誰が存在してゐた謂うのだろう?
あなたは云った。
言葉さえなくした私に。
あなたは云った。
叫び声さえなくしたわたしに。
私は口を開いた。
何の爲に?
聲さえなくに?
喰う爲にか?
なにを?
吸う爲にか?
なにを?
わたしはむしろ形のない組成物にすぎなかった。
わたしの知らないところでわたしは生きていた。
故、あなたは私を作り上げた。
もういちど。
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