多香鳥幸謌、附眞夜羽王轉生——小説78
以下、一部に暴力的な描写を含みます。ご了承の上、お読みすすめください。
とはいえ未だ気丈でいられる。
思うに騰毗の不在に悩まされながら、しかも心にはその死をさえ覚悟済みらしくも、故にその弔い終わるまで心丈夫にいる積りとこそ思われ。
ただただいたわしく。
ご到着の連絡、ひたすらに心待ちに。
沙門圓位
〇久村優人から安素野飛景あて(2019.09.18.メール)
(本文)
お疲れ様。
今も香香美は僕の許にいる。
そちらのほうで取り立てて捜索する必要はない。
傳えて欲しい。あのひとにも案ずるな、と。もっとも、香香美が目の前で例えば腹を切ったとしてもあの人は眉一つ動かしはしないだろう…決して、冷酷なのではなくてね。
ある事件があって、そちらはうまく何とかなったようだけれども、…まだわからないけれど。あなたがたの手を勞す必要もない。もう勞したからなんとか何ているのかもしれない。そこら邊の詮索は敢えてしないでおく。
ともかく、あの事件のあと、その影響なのかなにか輕い錯亂に、…小狂状態とでもいうべきか、そんな感じには陥った。今朝見た限りでは落ち着きを取り戻したようだ。結局はガラスの心の持ち主とも言える。驚くほど冷酷でありながら、ね。
念の爲、レポートしておく。
あるいは、個人的な記録の爲でもある。
確認あれ。
久村
(ファイル)
17日。早朝澁谷のカフェで別れた。時間にして8時くらいか。宿泊先の部屋はインターネットで私が抑えた。チェックインまで時間がある。その間は彼が好きにするだろう。そう思った。
以外に、何の發作の兆候もなく冷淡な程に落ち着いていた爲。
カフェは澁谷でよく使う例の道玄坂の映画館の上のあそこ。
私の事務所は靑山にあるから近い。ホテルは櫻ケ丘。
時間がなく、また、個人的に汗やら何やらを洗い流したかったので、コーヒー一杯ですぐに出た。
故、此の日の彼の足跡は知らない。
氣になって時にLineを鳴らしたが不在。
靑山学院大のキャンパスの中で悶々とした。
夕方Lineを。ふたたび不在。メッセージはいままでのもの總て未讀の儘。
案じられ、その足でホテルに向かった。
部屋番號は知っていたからフロント通さず9階に。ドアをノックしても内からは聲が聞こえない。不在なら、ひょっとしたら君たちに逢っているのかもしれない。すくなくともわたしは誰からもそんな話は聞いていない。…どうなんだろう?
不安を感じ始めた時に、ドアがいきなり空いた。
中から女が出て来た。
そして挨拶もなく立ち去った。目も合わさない。着亂れた風もない。おそらくあれが例の、最後まで香香美に付き添っていた精神科醫の女だったかも知れない。
質素なスーツを着ていた。綺麗とも何とも、まともに顏さえ見せなかった。
ややあってドアがもう一度空いた。
今度は香香美。
彼が云った、入れと。
いかにも不遜な言葉やりと相反していやにやさしい聲だった。此の時に彼が已にすこしの發作の中にあることに気附いた。
彼はいつもどおりに美しかった。それ以外にはないもない。眼差しは澄んで、それが狂氣の人のものとは思えない。狂うほどに冱える、そんないつもの發作の香香美。
わたしはかすかに憐れんだ。
香香美の歸國の目的は遠く安藝の宮島にあった。そこにある生まれ變わりを自稱する少女がいる。彼女に逢いに行くのだ。是は軈て君に連絡しよう。その詳細を。
香香美に送った文書もある。それを讀んで彼はめずらしく興味を持った。
根掘り葉掘り聞いていたが。
部屋に入った。
香香美にも着亂れた樣子はない。香香美のいつもの躰臭が、…甘い、蜜と百合の匂い、あれが部屋中に籠って女の匂いなど掻き消していた。
香香美はベッドに身を投げ出して、呆れたようにわたしに言った。
——どうした?
不遜に、そして限りもなく優しく。
——お前こそ。…元氣?
——何千回死んだと思う?…此の上さらにご健康を、か?
——報告しとく。例の…
——なに?
——宮島の…
——痴呆の佛弟子の?(と、云ったとわたしは解した。地方の、かも知れない。わたしには判らない。…その生まれ變わりの件にかかわってるたしか眞言宗の坊主がいるのだ。あそこらへん、たしか弘法大師のおひざ元だろう?)
——ひとまず、何事も無いらしい。安心してくれと、
——坊主が?
——云ってた。
——それで?
わたしは言葉に詰まった。だから謂った。——興味ない?
——知ってるんだ。
彼は言った。小聲で。嘆くように。
——もう知ってる。いつ行く?さっさと、彼等に敎えよう、彼等が何を喰っているのか…
——喰う?
——喰いちらす犬の糞の原子分解を。
わたしは笑った。そして云った。
——いつ行こうか?…大學はもう、明日から一週間休講にしといた。…目くじら立てられけどな。
——なんで?
——だって、いきなり、大學を
——なんで、お前が職務放棄する必要がある?
——ひとりで行くの?
——お前が來たないならくればいい。
——ならそうする、
——妹がうるさいんだ。
——妹?だれの?
——お前の?まさか。そんなもの存在しもしないだろう?
——お前も、
——俺の妹が
と香香美は云う。しかし私は知っていた。彼は一人っ子だった。故、なんらかの妄想的な意味があるのだろう。思うに、自分自身の分身として幻造った妹、ということか。香香美曰く
——俺の妹が俺の亡骸を咥えてへばりつく。
——壁に?
——天井にも…ながく、ながく、ながく、引き伸ばされて。
——溶けたチーズみたく?
——アンダルシアの犬はダリの映画じゃない。あれは論理化された絵画構築とは無緣の直接的な欲望を見てやるべきだ。且つ幼兒的で所詮は糞おもしろくもない…模造品の手のひらと目のにじませた液躰の、それらのやわらかさを捉えようとした欲望。誠實なんだよ。…事実、觸感をまなざしに感じさせるほどに柔らかだろう?
——好きなの?あれ?
——太り過ぎた女の健康美に興味はない。
——妹は何してる?お前に喰いついて?
——咀嚼する齒さえない。齒はむしろ鳥の羽根めかせてその奇形の全躬にばらまいて口を開く。一本づつの齒の爲に引き裂かれた無數の、
——お前を喰ってる?
——まさか。こうささやく。事實を俺に、
——事実?
——ささやく。彼女は。あの日あなたはお母さんを殺さなかった、と。
——あの日?
——十二歳の…話したろう?
——六本木の…
——あの部屋で、名前も付けられなかった妹は未だに覺醒し俺の眼差しを喰って共有しながらすべてを見ていた。おれが彼女の奇形の死人(志毗登)の眼にことごとくを見ると同じくに、…耶舎王、…お前は知る、…だろう?すでに妹に喰われたものをお前は今喰おうとする。
——お前を?
——瞿曇の悉達多の皇子はすでに喰われた。彼が見い出しもしなかった遠い阿憂樹に淚した日に。ほかならぬその阿憂樹の葉の雫の宿した王その人に。とまれ、妹はささやいた、あの日多伽子は阿憂の皇子を殺したと。
——お前を?
——その夜更け、女はいつものように注射を打った。…もうすでに彼女はそれなしでは生きて行けなかった。とまれ錯亂は何もなかった。それを藥のせいにしては彼女の自尊心を傷つけるだろう…事実、何の曇りもなく冴えた意識に彼女は阿憂ノ皇子をはかなんだ。それが事実だ。彼は自分あんきあともこの絶望的なまでに冷酷なる世界の中に生き続けなければならない、たったひとりで、その全き現実の容赦ない無惨が彼女にト殺を決斷させた、そこに憎しみはない。むしろ自己犠牲の愛こそあった。
…見える?愛しかない無慈悲なまでに冴えた風景が?
阿憂ノ皇子は自分の頸を絞める母を眠気の醒めない起き拔けの眼に見出していた。窒息の苦痛とともに。熱狂し混濁する意識と、母を凝視する澄んだ意識が共存した。妹は云った、…あなたも知っていたでしょう?と。多伽子の心を。目を剝いてこえもなく、ただ阿のかたちに広げた唾液の糸する叫びの無い聲に自分ひとりの耳の内にだけその叫び聲をききながら、多伽子の繊細な心のすさまじい心の震えの連鎖を。
彼女は見ていた。愛の風景、そして俱なって苦痛しかない破壊されゆく固有の肉躰の痛みを。
息子の肉體のこと切れた時に多伽子は自分の子殺しを知った。故、彼女は明けの前の道を走った。ぐるぐると、そのマンションの周圍を。
倒れた多伽子を牧師は見つけた。朝に。迦祁の聲さえない朝に。鵼の羽搏きだにも無く。敎會の庭の眞ん中に彼女は倒れていたから。…故、彼女は未だに病院に収容されている。わたしのあの人が、彼女をてあつく介護している…俺はすでに死んでいた。…阿憂ノ皇子は…知ってた?
——何を?
——幻を見るな…もうそれ以上。…現実に触れろ。…耶舎王。とっくに死に絶えた亡靈よ。
わたしはすこし彼に付き合って、此の日は帰った。
〇久村優人から安素野飛景あて(2019.09.18.メール)
(本文)
先の続き。
久村
(ファイル)
18日。
朝、香香美を尋ねた。
此の日はノックの後時おかずに香香美が出る。
彼は云った。
——昨日、來てくれたね?
此の時の香香美はひたすらに優しく紳士的だった。
——ありがとう。…もう落ち着いた。あんなことがあったから…
その前々日に香香美が連れて來たベトナム人ふたりは失踪したのだった。日本語を故國で勉強していた。未成年故に勞働ビザなど落ちるわけがない。彼等は香香美を担いだのだ。彼から聞いた話を總合するに、その少年二人は狂氣の發作に消耗した彼の鋭敏な心をさかなでたのだった。恐らくは、香香美の妄想言そのままに、わたしは日本人の生まれ代わりです、日本に歸りたいです、と。これが上に言った「事件」の詳細である。
0コメント