多香鳥幸謌、附眞夜羽王轉生——小説77


以下、一部に暴力的な描写を含みます。ご了承の上、お読みすすめください。



——花は、もっときれいだよ。

タオは云った。

——もっと、…女の人より、きれいだよ。

あびて、と。そうささやいたタオに従って、わたしはバスルームに消えた。

バスルームの飛沫の中で、わたしは危うく狂気にめ醒めそうなさまざな瞬間をちらした。

ノズルが噴き出す水流が散れる肌にしぶくそのすさまじく無数の瞬間瞬間に、わたしは皮膚に無数にそれが芽生えかけて眠りに落ち、私の脳の中が瞬き続けるのを触感として感じ続けた。

飛沫は散った。

そのむごたらしいまでの無際限さが私の氣を遠くした。

バスルームから出ると正午に近い窓越しの光が物に逆光の翳りを与えた。

翳りのうちにタオはその身に添うて、唇と指に彼女の肉体の形を確認する蘭のそれ、唇も、指先も、胸元に雪崩れ落ちた髪の毛も秘かにからまる太もゝもなにも、ただ赦した。

タオは目を閉じるともなく向こうを見て、そしてわたしにささやく。

——今日、晴れてる?

見ている窓の向こうの雲を切らした靑空の点在に、それは既に顯らかな筈だった。

——どっちだと思う?

わたしは云った。

——ひどい、ね。

笑うような聲を立てる。

——綺夜宇さんは、ひどい、ね。教えてくれない、の?

わたしは彼女の額に唇をつけた。

蘭の解き放たれた髪の毛が亂れたがままにタオの腹部を黒く汚し、白い肌の上に反射の白濁を散らした。

立て拡げられた太ももに斜めになにかのガラスの反射が蜘蛛の巢なす綺羅らぎを映した。

わたしの指先がタオの唇のかたちをなぞった。

——綺夜宇さんは、秘密にしたね。

私は応える氣も無い儘に

——今日の天気は、秘密だね。

タオの瞼を見詰めた。

ふたりの終わる兆しもなく、そのきっかけさえない行爲の傍らに横たわり、わたしは何を思うでもなく壁を見ていた。壁には麻紗美の陽炎が見たことも無い子供の陽炎を付着させ、それら無数の陽炎らの蠢きの中にひと際わたしの眼に目だった。

明らかなのは、すでに私がそれ、彼等の無数の奇形の眼球の中に眼差しを得ていた事実だった。

わたしは彼等のその眼差しの一つの中に息遣っていた。

わたしは瞬いた。

天上にぶら下がった翳ろいの垂らした腸が、玉散る血の粒を無造作に拡散させながらわたしの鼻にも触れかけるすれすれに泳いだ。

或は、わたしはその滑稽に聲を立てそうだった。

腸から伸びた無数の触手が互いにぶつかり溶けあいながら、ここにはない何をかを触れ取ろうとする。

そう見えた。

おそらくは私の錯誤に違いない。

テーブルに手を伸ばし、私は自分のスマホに触れた。

時に、彼女たちのそれに観光用Simを差し込んでやるのを忘れていたことに気付いた。それは脱ぎ捨てられたポケットの中に眠ってゐる。

此の時に、僕は君にLineから着信を入れた。

君は出なかった。

だからタオに振り返り、私はその上半身に添うてやった。

タオは腕を絡めた。

彼女の指先が私の髪をつかんだ。

散漫な愛撫を彼女にくれた。

タオは耳たぶの近くに息を吐いた。

午後三時に君からメッセージが入っていた事には気づかなかった。

その三十分後に、君から着信があった。

君がすでにわたしの日本にいることを驚くのに、わたしが何の謝罪もしなかったのは君も知るとおり。

いずれにせよ僕たちは今日の午後の六本木での待ち合わせを約束した。

時間は夜の9時。

君は多忙だった。

故に、僕らは(…タオ、そして蘭と撲という名の僕らは)指先と唇に時間を貪らせた。

あの日の僕らの大幅な遅刻、六本木の店で僕らを一人、殆ど飲み食いもなしで待った君がその理由を追及しなかったのは、あるいは僕のそもそもの気紛れに既になれていたからか?

乃至、新宿のアルタ前広場あたりでいきなり太陽を飲み込む発作でも起こしたのだろうと?

遅刻の理由はタオに逢った。

友達と食事をする、といった時に、タオはいまだに愛撫の恍惚の溶けない上気の眼差しに、——一緒に行く。

そう云った。

わたしは笑いながら言った。

——外に出るよ。

——いいよ。

——タオさん、大丈夫?

——大丈夫だよ。此処、日本だから、大丈夫だよ。

一人でタオは立ち上がることさえできなかった。…あるいは、それが發病の最初の兆候だったのかもしれない。

手を貸して立ち上がらせると、思わずにタオが叫んだ、——久しぶりだね。

理由もなく、彼女が錯乱したに違いなく思ったわたしは彼女を見詰めたままだった。

——久しぶりに、わたし、立ったね。…

タオは笑う。

——自分で、わたし、立ったね。

慥かに、そうだったかもしれない。

わたしはタオの額をなぜた。

汗にまみれている、と。そう厭うて収拾のつかないタオは、蘭を俱ってバスルームに消えた。それが八時過ぎだった。

ながいながい入浴があった。あるいは、入浴の中でタオはなんどか失神したのではないかと思う。

盛んに立つタオの声がぶつかる物音と共に何度か中断したから。

三十分ばかりしてタオたちが出て来た。

タオが先に、自分で早足に歩いて。

——時間はいつ?

タオが云った。

——時間?

——ともだち、いつ來る?

——待ち合わせ?…九時…

——遅いね…

言って、そしていきなり

——遅いね!

タオは叫んだ。

——わたしたち、遅いね。今、ね。八時四十分だよ。

わたしは笑ってやるしかなかった。

タオはあなたも見た例の少女じみたワンピースを着た。

蘭に服を着せ、わたしの爲に私のいくつもの紫のシャツから、彼女が一番の紫のシャツを選んだ。

——綺夜宇さんは、むらさきが、いちばん、似合う、ね。

タオは鼻水を鼻の奥に噛み千切る例の甘え聲に、わたしに秘密めかしてそう耳打ちした。

タオの健康は、九時を回ったあたりに部屋を出た、その瞬間には崩れた。

顏色が変わった。

青く、ひたすらに靑、ルノワールの肌の翳りにも似て。

ふらつくタオをわたしは支えた。

——どうする?

——なに?

と。吐き気を抑えるのか、タオは齒を咬み噛み云った。

——部屋にいる?

——お友達が舞ってるから、行くよ。

齧む齒のすきま隙間に、

——いそがないと、まってるから、行くよ。

ささやく。

下に降りようとエレベーターの中で一度白目を剝く一瞬を見た。。

エレベーターの密室に、5人ばかりの日本人がタオに目もくれずに立っていた。

ロビーをの儘、タオを支えながら步く。

待って、と、自動ドアの前でタオは立ち止まった。

——いる、よ。

タオがあわてて耳打ちした。

わたしは何を云っているのか判らなかった。

其の時にタオの目の前に蠅が一匹手を伸ばせばふれられるそこに停滞していたのが見えた。

——そうっと、ね。

タオがささやいた。

蚊を叩くように手を叩き合わせた時に、まさかにも殺されるなどとは思っていなかった蠅はタオの掌の中に姿を消す。

わたしは瞬き、須臾の遅れの後に改めて驚く。

狂気した蠅を見るような不穏をわたしは感じた。

更に遅れ、ようやくにタオが小さく叫んだ。

——いや!

と、目を剝きかけ、

——いや、手に、蠅、つぶれたよ。

わたしはタオの肩をだきロビー階の手洗いに連れて行った。

長い時間がたった。

おそらくは二十分近く。

かたわらに蘭が時にわたしを見上げ、嘲弄する笑みを隠さずに見せ付ける。

蘭はこのままタオを咒い殺してしまう気がした。

タオは吐きもしたにちがい無かった。

部屋で施した念入りのメイクは、度重なる洗顔にすでに跡かたも無かった。

ごめん、と。

鼻から水滴をしたたたらせながらタオは眼差しでのみそう云った。

タクシーで六本木のalligatorまで行った。

タクシーに乗せるまでに二度、タクシーの中で四度タオは白目を剝いた。

六本木通りに添うて路上駐車したタクシーを降りて、芋洗いを下りた。

日曜日、それでも人の影は疎らにも坂に散らばった。

エレベーターに乗って、七階にまで赤い文字が昇るまでにタオは一度吐きかけた。

慥かに密室の中には人の濡れた髪の毛の匂いが残っていた。

おそらくは日本人種の。

その個室ダイニングのレセプションに君の予約した名前を言った。…加藤、と。

レセプションの男は背後の密林を模したのか、かさなり燃え上がる綠の塗装線のこっちに笑んで、——洋一郎樣、千蔭樣、…と伺い見た。

——千蔭のほう。

——二名様じゃ?

——増えたの。

——お部屋…

——狹い?

——若干狹くなるかと思いますが、…それでしたらお部屋、今日空きございますから、別に、

——そこでいいよ。






Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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