多香鳥幸謌、附眞夜羽王轉生——小説76
以下、一部に暴力的な描写を含みます。ご了承の上、お読みすすめください。
部屋に戻る。すでにタオに吐き気はなかった。眼差しはあきらかな発熱に赤らんでいた。
体中の血が温度を以てその頭にあつまりつつあり、と。そんな妄想をわたしに喚起した。
——いい部屋、とまってるな。
君が云った。
おそらくそうした、なんでもない一言がすくなくとも君にはひつようだったのだ。
タオは自分で立って、そしてささやく、…あつい、…と。
言った。
——綺夜宇さん…あつい。燃えるよ。あついよ。燃えるよ。たぶん、火になるよ。
君も聞いた。
そして君も見た。
君も眼も気にせず、…正確にはその意識さえすでに無く、暴れ掻きなぐるようにタオは自分の衣服を剥ぐ。
素肌を曝した。
頭部の赤らみが嘘のように、肌は只管白いままだった。
ふらつきながらタオは自分でシャワールームに掛け込んだ。
閉めもしないドアの向こうに溢れる水流の千切れ飛ぶ飛沫の騒音が手元にまで響いた。
君は云った。
——なにやってるの?あいつ。
——あいつ?
——あの女…なんて、…そういう犯罪者なの?
——安心しろよ。たぶん初犯だよ…ちがってたりして。
——お前、知らないの?
——知らないね、…知ってたら、
——おい。
——なに?
君は云った。——やっぱり、するな…。
——なにが?
——いい匂い。…乳児の唇の周りの匂いの、それの思いっきり過剰な匂い…
——匂い…
たしかにそうだった。わたしもすでにそれを鼻に嗅ぎ続けていたことを思い出していた。
慥かに、…と、思う、わたしは、タクシーの中でも運転手が云ったことをこのときにはじめて思い出した。
——いい匂いされてますね?
寡黙な彼がそれだけ唐突に言ったのだった。
振り向きもせずに、
——なんですか?これ。そちらの香水なのかな?
外国人だと気付いた茫然のタオに、運転手は遠慮なくそう云った。
——匂うね。
わたしが独り言ちるようにそう言って、君が更に何か言いかけた時に、雪崩れるようにタオは濡れた全裸の儘飛び出して來、そのまま私たちの数メートル先に不用意に立ち止まった。
ないし、四肢の動きを停滞させた。
——綺夜宇さ、…綺夜、…きゃ、
と。
あるいはそれは最後の悲鳴のように聞こえた。
——わたし、ね。病気。たぶん、綺夜さ、綺、きゃ、…
と。
言い終わらないうちに彼女はそのまま驚愕と媚びを同居させたゆがんだ表情…あるいは笑うことに失敗したようなそれを固まらせたまま、胸のちかくに広げて擡げた腕の、その指先から肘にまでいたる皮膚を…筋肉を…骨格を?液体のように伸ばした。
右は水平に。左は垂直に。
私は見ていた。君は見ていた。
それを。
のびた液状の肉体はかべと天井に触れ、一度さらにはげしく乳児のいとおしい芳香を掻き立てて、そして壁に吸い込まれた。
ないし、壁をも吸い込んだ。
即ち、同化した?
純粋な質量を増加させた壁面は息ものの息遣いじみてやさしくふくらみ、さざめく。
停滞したタオの身体は頭の先から足元から、乳房から膝の先からなにからあらゆる隆起の先から雪崩れて崩壊し、最初にふれるものに匂い立ちながらどうかした。
——なにを見てる?
君が云った声を聴いた。
すでにタオは縦横無数の液体の線分の戯れに他ならなかった。
——何が、…
と、君が
——何を起こしてる?
言い終わる寸前に、タオは消滅した。霧が晴れたに似てそれら液状の線分が消失した時に、或は残ったこまかなになかが始めたのか、虛空に雫が玉散った。
それは慥かにわれわれにも触れたのだ。
温度さえあった。
かつ、雫の痕跡さえも無く。
君はつぶやく。
——こんなの、俺は知らないぞ。
時に、おそらくは恣意的に逆算するに三時前程度だったか。
ややあって君は言った。
——死んだってこと?消滅したってこと?
——違うと思う。
——なにが。
——いきてるよ。たぶん。
——あの子?
——壁が、いきてるじゃん。
私は云った。
わたしの眼差しの中に、壁も天井も彼女を吸いこんだものは、ないし、吸い込まれたものは、質量の増加を隠しけれずにさざなむままだった。
わたしはそれを見ていた。
だから、云った。
——たぶん…すくなとも細胞レベルで?それらは、同化して生きてるってこと?
問うように。
君はなにも云わなかった。
——極度に純粋な万能細胞?厥れ自身で生命を維持し、喰った物に擬態する?その分子構造さえ?…判らないな…けど、生きてる。…喰ってるんだよ。すくなくとも、壁に擬態はしてる。擬態するってことは、ばらばらになっても生きてるってことだろう?でもなんで、いきなり、タオに?…タオが?…なんで?
わたしはベッドに座った。君は立ったその現象を見ていた。身動きする気にはなれなかった。
わたしたちは何の考えがまとまるでもなく時間を過ごした。
背後に朝日が昇るのが分かった。
うしなわれていく室内のくらさのせいで。
壁はいつの間にかその質量過剰を解消したかに見えた。乃至、通り過ぎてどこかに行ってしまったに違いなかった。そうわたしは思った。すでにあの芳香はなかったから。
君は云った。
——どうする?お前。…これから、でも、ここ、あぶなくないか?
——ここ?
——あぶないぜ、きっと。
——出よう…
——何日おさえてるの、ここ。
——一週間。
——じゃ、
——そのまま出ればいいよ。放っとけ。
立ち上がって、わたしは私の手鞄一つの荷物だけ持った。
——荷物処分しないと。
君が云った。
——あの子たち?
——パスポート…
——彼女たちの?
——バレるだろ。
——関係ない…寫し、とってたよ。
——お前のは?
——駄目だね。奴ら、取り忘れてたね。でも、一緒に日本に来たからね。公的機関がその気になればおれの身柄は知れる…
——じゃ、
——放っとけ。
わたしたちは部屋を出た。時に、六時。
とりあえずは私たちは渋谷に言った。カフェで渋谷のホテルに連絡した。君は自宅に戻った…
香香美淸雅
文書8
〇久村優人から圓位あて
(2019.09.17.メール)
ご無沙汰しております。
急ですが、19日の木曜日にはそちらに香香美淸雅氏同伴でお伺いする予定です。
挨拶もなにもなく、ただ気にかかる儘にお伺いしますが、そちらはいかがでしょうか?
19日の午前中、住職には連絡できると思います。
久村優人
〇圓位から久村優人あて
(2019.09.17.メール)
こちらこそご無沙汰を。
ということは、明日あたり香香美氏は日本に帰られるということなのでしょうか?
前倒しになった計画、愚僧にとってはうれしいばかり。
さて、其の後のこちらの一連の動きでございますが、項目ごとに纏めたほうがよろしかろうと記。
・眉村家(和哉、一重、眞夜羽)
彼等はそれから小康状態を保っているようです。
眞夜羽の早朝の放浪は相変わらず二三日つづいたようですが、ここのところは何事も無し。
噂に聞いただけですが、なんでも和哉氏、寝る時に眞夜羽の体を縛り付けているとか。
或は、母上のある時には不可能な男親の措置ということか。
これは噂とはいえ不本意らしい一重さんが知り会いに相談して廻った、その先々のお婆樣お爺樣連中の、愚僧にかわるがわるにひとこと入れたという情報先の爲に、おそらくは間違いのない事実なのでしょう。
・眉村家(深雪)
こちら、そのまま祇樹古藤記念園に安樂を貪っておいでで。
それはそれでよろしいかと愚僧心をやや落ち着かせる此の頃。
あれから一度面会に行きました。變るところなく、すこし太られたようにも見え。
しだいしだいに癒されるのではないかと。
・佐伯騰毗
むしろ懸念はこちらのほうで。
神社には若い神官もいれば業務に差しさわりはなくとも、それでもあの若い当主の失踪、憚って騒ぎ立てないながらもすでに島をひっくり返しての大騒ぎ。
又かのお婆樣の容態も惡化の一途をたどるようで、このところ毎日祇樹古藤園から訪問介護のほうしてさしあげているようです。それとともに奥様の方の心のケアも。
0コメント