多香鳥幸謌、附眞夜羽王轉生——小説75
以下、一部に暴力的な描写を含みます。ご了承の上、お読みすすめください。
これ等のやり取りの間に、彼女を支える腕にタオの脂汗の温度があからさまに伝わった。タオが今や本当に発熱しているに違いなく思われた。或いは、あれからもしも裸のまま時間をすごしていたのなら、あるいは本当に風邪くらい引いていてもおかしくも無かった。
——こちらへ。
並び立つ金色に塗られたコクーン型の個室を通り抜け、君の個室迄案内された。
赤いビロードの垂れ膜を潜ると、スマホを弄る君を見た。
そこからの次第は君も知っているだろう。いずれにせよ、君が興味をいだき始めたらしい嚴島の眞夜羽と圓位の坊主の話を聞きなおしたのだ。
タオがまともに挨拶さえできなかったのは君も知っている、君は云った、…もう飲んできたの?
——ちょっとね。
タオはすでに顔中を上気させていた。
頭からアルコールのプールにでも使っていたかのように。
タオの掻いた汗のにおいが鼻に着いた。
君が今後について…大学を二三日休講にして嚴島に渡る云々のそれ、そんな話の途中にか、タオは云った、——綺夜宇さん、風邪、引いた。と。
君も聞いた。
——熱、あるよ。と。タオは他人の検診をしたかにも、そういった。君も聞いた。
なにやにやあって君はインターホンに別に、横に成れる個室を用意させようとした。
時はすでに十二時に近かった。店のピークはすでに過ぎていた。個室の中からさえ外の閑散は見て取れた。
——醉っぱらっちゃって。
いいわけをしながら君がタオをささえて用意された個室に連れて行った。蘭と共に。
君は一人で帰ってきた。
確認すれば、此の時、君も俺もタオの体には触れていたということになる。
君はふと、行った。
——匂うね…
——なに?
——きづかない?
わたしの馴れた鼻は気付いて居なかった。
——今気付いた。此の中、いいにおいする。
——匂い?…どんな?
——どんなって…
君は言い淀んだ。君は言葉をさがした。わたしは見ていた。君は自分のこととして覚えてゐるか?
君は云った。
——赤ちゃんの口元の甘い匂いに、さらに甘いみつやら砂糖やら練乳なら混ぜ込んで嫌になる迄甘く甘くしたような…
そして、つけたす。
——嫌じゃない…いい匂い。…彼女の?
君はそういった。わたしは聞いた。君がどうかは知らない。私は覚えてゐる。
それから何を話したのか?
嚴島の、茨のなにやかやに違いない。
あれから坊主は連絡を寄越さないと謂った。
私の處もそうだった。そもそも爰何日か、わたしはあの坊主のことなど忘れていた。
君が不意に時間を気にした。あるいは、私が気にしたのだ。だから、君まで時間を気にしたのだ。違うかもしれない。いずれにせよ君が云った。
——もう一時だね。
——そう、…まさか、これから予定があると?
——ない。けど、大丈夫?
——俺?
——彼女…
君はそういった。私はそれを聞いた。
——水浴の子。
わたしたちは彼女の個室の前に言った。
君は云った。八人用の個室の中に寐てる、と。
慥かにそれは葉の繁みをもしたペインティングの壁面に垂らされた赤いビロードの向こうに、内側の光さえ遮断して暗く、紅の昏いグラデーションを曝した。
中に私は湿気を感じた。
——開ける?
君は云った。
答えずに、わたしはビロードを引き開けた。
周囲には誰の眼も無かった。
店員は巡回する必要がなかった。私たちの外にはあと何組いたのか。数えるほどの客数を、数えるほどの店員で廻していたに違いない。だからさぼっていたに違いない。誰もが自分の時間に自分だけで夢中だった。
個室の座席に横たわっていたのは蘭だった。
私には最初タオの姿は見えなかった。
君の眼にどうだったかは知らない。
同じ風景の中で、いつものようにわたしたちは別々の風景を体験していたには違いない。
彼女は長テーブルの下に、そして膝間付くようにタオの向き出された腹部近くに顏を、そして唇を紅に染めていた。
照明のせいで、最初それは黑く見えた。
黑い吐瀉物をまき散らしたのだと。
シャツを引き裂かれたタオの半裸の体躯の上に。
向こうの壁にタオの足は投げ出されてた。
まるでそこでは水平に重力がかかっているように。そして壁に足をつけて今、彼女は自分を支えているかのように。
なら、タオは宙に浮いているに違いないと、笑うべき妄想が一瞬私を襲った。
タオの見開いた眼は、だから、見ればわたしたちの膝のすぐちかくにあった。
口さえも広げていた。
顔は驚愕していた。
そのままに停滞した。
タオは頸の皮膚と肉を喰いちぎられてそこに絶命していた。
湿気が鼻に匂った。
床が血に濡れていた。
コンセプト・バーの極度に暗い照明が、すべてを隠した。
——喰ってる。
君がささやいた。わしは慥かに効いた。
——お前の連れ、…喰ってるぞ。
茫然の色はなかった。タオは明らかに正気の眼で、ときにいかにも可愛い子めかして媚びの笑みの内に、私を見、そして咀嚼をやめなかった。
タオの腹、太もも、二の腕、膨らみかけの胸、見れば頬までも、人の強靭さを欠くはずの歯で無理やりはぎとって喰いちぎった傷が開いていた。
わたしの眼はようやくに事態を認識した。
——一体、…と。
君はささやく。
——なにが起こってる?
わたしは聞いた。その君の声をわたしは聞いた。
わたしは君が思うように茫然としていた譯ではなかった。
ただ、自分が「知らない」事件が目の前に起っているのに目を奪われた。
…それこそを茫然というなら、たしかにそういうことになるのか。
君はなんてことを、と、そんな言葉を独り言散てつぶやきながらにタオを引きずり出し、そしてテーブルに八人分用意されたままの放置のおしぼりを千切っては開け、開けてはタオの唇を拭った。
タオは抗わなかった。
あくまでも冷静に、彼女は恥じらいの眼差しで君に応えた。わたしは確実にそれを見ていた。
ビロードを占め、個室にタオをだけ連れ帰った。
——熱、ある、よ。
タオはささやいた。
壁に背を靠れ、急に虚ろなまなざしを曝して。
向い、わたしのとなりに座りかけた儘のその中途半端な姿勢をくずさない君は云う。
——どうする?
わたしにささやく。
タオが云う、——わたし、…ね?
と。
——綺夜宇さん、…ね。
と。
——熱、ある、よ。
いかにも息も絶え絶えに。
私は云った。
——ホテルに連れて帰ろう。
——ホテル?…いまから…もう時間が、…どこの?
——俺の。
——お前のか。…どうする?あの、喰われた方、どうやって外に…
——放っとけ。
——ほっとく?どうやって。
——とにかく行こう…どうせ偽名だろ…電話番号は?
——嘘の番号。
——足がつく前に…
私はタオを連れた。君の羽織った薄手のジャンパーに衣服の汚れは隠した。
レセプションで君が何か言いかけたので(…会計しようとしたんじゃない?)俺は云った、…下、タクシーいるよね?
レセプション・マンは興味ない、形だけのサービス顏に言う、——たぶん…
——六本木だったら、おそくても捉まるでしょ?
——でも、今日、日曜日ですから…お帰りですか?
——連れだけ…この子だけ先に、…僕らすぐ帰って來るけど…たぶん、外苑東まで車止めにいくから…
——そこまでいったら、たぶん、…
——ドンキーの前くらい、たぶんいるよね?
——たぶん。
——そのままにしといて。…ふたりとも出るけど、もうひとり、あれ、寝てるから
——結構ですよ。大変ですね…お手伝いしましょうか?
——できる?
——ちょっと、いま、スタッフあらかた帰らせちゃって
——じゃ、いいです。
——大丈夫ですか?
——呑ませたの、俺らだからね…
わたしは笑った。
外に出て外苑東通りでタクシーを止めるのに数分。これが、二時前か?
それから俺たちはタクシーで出た。
新宿に向かった。
中でタオは云った。
——これ、なんていう?
——日本語?
——熱、でました、からだ、さむいです、ふえるえます…
——寒気?
——さむけ…
君が聴いたかは知らない。
わたしは聞いた。
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