多香鳥幸謌、附眞夜羽王轉生——小説73


以下、一部に暴力的な描写を含みます。ご了承の上、お読みすすめください。



片岡比羽犁へ

(2019.09.18.メール)

(本文)

 おはよう。

 何日か前、あなたの言ったようにたぶん僕はもうあなたにも、僕自身にも飽きているのかも。

 思う。あなたはいつでも正しいと。

 ただ、心と心の触れ合いの爲に、…もはや肉の交わりになど意味を見出さない永遠の僕らの、心の爲にだけに。

 あくまでも醉いつぶれて見上げた空に幻見た詩のようなもの。

  淸雅

(ファイル)

一昨日の朝…15日の朝。わたしは花園神社の樹木の翳りの下に正気付いた。

その時に、初めてわたしはほんの数秒の…綺夜宇の發作に居たことの気付いた(あの、すでに棄てられたベトナムの姉妹が私を讀んだ呼び方は、訛どころか全く正しかった。それに気付いた。彼女は呼んだ、狂と)。

事実そうだった。まったくのところ私自身に他ならない古への阿憂迦の王はその在りもしなかった99人の兄弟殺しの、百に足りないあと一人の殺しの成されなかったことを悔いる熱い滂沱の淚の中に足元にさざめき立つ死者たちの崩壊した形の肉の飛散を見ていた。

ほんの、須臾とも言えない一瞬のうちに。

玖珠本も嘉鳥も居なかった。あとで合流した緋川も。

時間にして6時過ぎなのか。

樹木は長い影を絡ませて、ただ地表に形態の渾沌をだけさらした。

浩然に逢いに行くはずだった。

約束があった譯でもなく。私が波乎に逢うのは事実だった。

タクシーを止めた。

一番町に走らせた。運転手が何か話しかけているのは知っていた。それにわたしが受け答えしているのも。それは陽気な聲だった。それらの言葉の群れは結局はわたしに一度たりとも聞き止められなかったので、まるで一度も存在しなかったかのように已に忘れられてしまった儘だった。

まばたきするうちにも思われた。

未だに朝が朝にすぎない朝に、千鳥ヶ淵のかたわらのその古いマンションの前に立った。斜線制限の、斜めにギザ着く頭のカーブを見上げた。

運転手がわたしの傍らに来て、金を要求した。わたしは一銭も持って居なかったので、待って居ろ、といった。彼は素直に従った。場所とマンションのご威光に彼は從った。

13階の彼女の部屋の前に立つと、そもそも彼女が在宅なのかどうかもいぶかられた。ネームプレートはなかった。十年近くの昔の儘に、彼女がいまだに茲にいる必然もなかった。ノックする迄も無くドアが開かれた。

隙間に褐色の、せの低い少女が笑っていた。豐かすぎる髪をひっ詰めて、できそこないのしっぽの鬘を結いこんだようにも見え、そしてまるで昔からの顏見知りのように笑む。

本当に小柄で、150センチもないに違いなかった、その癖に顏には明らかに成熟しかけの少女の媚びがうざったいほどに散った。

とみこう見する迄も無くに少女はわたしが其の人だと確信したに違いなく、ドアを完全に開けるとそのドアの向こうに隠れ、顏だけ出した目に上目の眼差しをくれた。

わたしが彼女を見ると、少女はちいさな「き」音の笑い声を一度だけ喉に立てた。

私は目を逸らした。私を見つめ続けた儘の少女の過剰なはじらいがわたしの皮膚に棘をさした。

通路をまっすぐ行くと、開かれた居間の奥の波乎が立っていて、レース地のカーテンに煽られていた。あわい逆光に、当然のこととして彼女がその身の産毛の一本にだに十年の經年を刻んではいない事が知れた。広大な居間を狭く見せるほどの鉢植えの植物の群れは複雑な匂いを重ね、百いくつとしれない極楽鳥花の花がけばけばしい程の蜜まみれの百合の芳香を籠らせる。

振り返りもせずに波乎は云った。

——いくら?

わたしは応えなかった。波乎がなにをいっているのか判らなかったから。

——タクシー代、いくら?払ってないよね、お前…

——なんで、…

——下、見たら?

傍らに添うた時に、彼女の体臭が匂った。

——ほら。

言って笑い、波乎のそのかすかな頬の震えはいよいよに体臭を散らす。雨に濡れた獸の柔毛のような、その、容姿にいかにも不似合いな惡臭。

——いくら?…

波乎は

——どこから?

振り返って少女に下を指さした。少女はうなずいて、小走りに消えた。

——適当に、拂っとく。

波乎は謂うと、私を見上げ、しばらく見つめ、そして聲を立てて笑った。

私のシャツの腕を指先で刎ねた。

言った。

——気を付けて…

笑む。

——花の花粉。

頭一つ分以上も低い彼女は、至近に顎を上げ、そしてわたしの唇に触れた。

——來いよ。…僕に逢いに来たんだろ?

思っていた通りに、そしてそうでしかあり得ない必然の許に、彼女はあの十六、七歳の儘の貌ちを私の目の前に曝し、さまざまな記憶を喚起しながらも終には何らの狀ちをも結ばせない。

鉢植ゑをかいくぐるように、左手のルーフバルコニーに出た。

バルコニーにも夥しい鉢植えが緑とそれぞれの花の色を散らし、とりわけて抜けた空の下にも百にも近い極楽鳥花は匂いを籠らせた。

——ストレリチア?

わたしは白い鐵のテーブルセットの椅子を波乎の爲に引いてやった。

——あいかわらず。気が利くね。日本人の男じゃないね…彼等の気の利かなさはすさまじい。

波乎は笑う。

——あれ、なんで?女に甘やかされてんじゃない?

——そういう無能さが好きなんじゃない?

——そうでもない。…彼等のもとにゐるのは…なぜだろう?父の意思を繼いだ?

——父?黃鸎?…血のつながりも無いくせに。…そもそも、彼の意思なんて気に掛けたことさえないじゃない?

——あるよ。たまには。今だって、…

——嘘。

——ストレリチア・ドゥルガStrelitzia Durga …變種、というか。極楽鳥花って、アフリカの方の花じゃない?

これはインドの方の…たぶん、自生化した後なんかの拍子に自然交雑された變種…なのか、気候によって変態乃至進化したか…そんなに古い花じゃない。ここ数年…

——好きなの?

——だから、ドゥルガ。知ってる?ヒンドゥー敎の神樣の名前。…あっちの方の新種だからね…虎だっけな?獅子だっけな?…に乘った美貌の女性神。シヴァSiva神の妃で、戰の神…花の土台が黄色っぽいでしょ?黄色…そして赤を経ずいきなり紫に變り、遅れて跳ねあがる朱に至る…上に赤と青と白の翅をつき拡げて…その狀ちが虎に乘る女神ドゥルガに似る、とね?

——極楽の破壊神、と。

——笑うね、なんか。匂いがすごいでしょ?

——胸やけしそうだね。

——お前もね。ただ、此処にあるのはもうすぐ滅びるね。

——滅びる?

——冬は越せない。中のはともかく。バルコニーのはね。三度四度でもう駄目じゃない?たぶん、十二月あたりには死穢の群れってね。

——助けないの?

——中のはね。…ま、放っておいてもたすかる。阿虞邇が室内管理してるから…

——ここのは?

——それはそれで宿命じゃない?あるいはこれだけあったら冬の雪の中にも中にも咲くストレリチアが生まれるかもしれない。百近い花の一つからね…ひょっとしたら、雪に擬態した純白のストレリチアが。ただ、阿虞邇は悲しむ。

——阿虞邇?

——そう…此花を運び込ませ始めた比に、うちで拾った…

——誰?

波乎は右手に手招きした。

さっきの少女が窓際にゐて、そして見蕩れたまなざしを波乎に投げていた。雪崩れるように少女は駆け寄って、波乎の膝の上に乗った。

自分の胸をよせ波乎の頬を包もうとしながら、その反り返した背にその豐かにすぎる髪は見苦しい程に亂れた。

私を見詰めながら波乎はささやく。

——阿虞邇…此の子。…実名は…なんだっけ?忘れた。ネパールの人だよ…密航者…例の外国人実習生のあれで、何年か前に母親が日本に来たらしい。それが、日本で行方不明になったとか。逃げたのか、それとも何とかかんとかなって仕舞ったのか…海の藻屑か山の樹木と虫ども餌か。陸で日本の莫迦な男の慰み者かとね。…密航のルートは知らない。なんらかのネパール人コミュニティがあるんじゃない?SNSのご時世、ないわけがない。それでなんとか飢えもなにも凌いでたのかな?それで彼女、結局ある日本人に取っ捉まって、ある工場に売られた。

そこで違法労働やらされてたんでしょ。事の次第がどうなったのかは知らない。実際、これ等は推察でしかない。阿虞邇は何も語らない。僕が彼を知った時には阿虞邇、とある千葉の変態さんに軟禁されてたよ。文字通りなぐさみ物の性奴隷としてね。変態さん、ずっと布地ぐるぐるまきにして口枷してたみたい。…そのせいかもしれない。歯並びが歪んでる…脱いで、と。

波乎は阿虞邇に言った。

そして彼女を立たせると、もう一度、——脱いで。

わざと阿虞邇が判らないふりをしたことが分かった。彼女は小首をかしげ、——何?、と。無言のジェスチャーをする。

波乎はその頬をつねった。

——こら。

ふたりは笑う。

阿虞邇はあくまでも聲を立てない。ひらいた聲で無言に笑う。

——此の子…

わたしは言う。

——話せない?

——舌がない。…日本でされたのか、故国でされたのか、それまでは知らない。…件の変態君はしてないといい、まあ、そうなのかな?日本の工場主だってそんな必要性も無いはずなので…どうなんだろう?…判らないな…根もとちかくから引き抜かれている。先天性の畸形ではない。

——何歳なの?

——今、十二。

——そんな年で…

——ほら、と。波乎が阿虞邇の鼻をかるく押した時、阿虞邇はわたしに媚びをはじらいに擬態した眼差しを呉れて、そして上半身の肌を曝した。

シャツを脱ぎ捨てるの間にも、その皮膚のケロイドの赤らみを焔じみて這いあがらせる肌は目に痛んだ。

私が目を奪われるた隙に、少女は下のスパッツを下着ごと脱ぎ捨てた。

下半身にまで焰の虵は卷きついた。

——燒かれた?

つぶやいたわたしが自分の素肌を凝視しているのに、何を思ったのか阿虞邇は口を笑いのかたちに一瞬明け、息を吸い込む。

——燒かれた。たぶん、…オイルを塗って、火をつけたんじゃない?何度もね。懲罰だと変態君は云った。…らしい。緋川が、…逢った?

——彼と?

わたしの答えを待たずに波乎は云った。

——でも、嘘だよ。ライターでこんなふうには…ね?でしょ?

其の時にわたしは違和感と共に、気付いた。

——男の子?

阿虞邇はすでにもとの自分の居場所に自分を修正しようとしたかにも、少女は波乎に纏わりついて膝に、その首筋に額をつけて私を見た。

あきらかに少女は私を誘惑していた。

——女の子だと?

波乎はかすかに笑った。







Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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